「終わり」がくる、その日まで

流月るる

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第一章

第十八話

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「悪趣味なことをなさいますね」
  悠花が副社長室を出てしばらくして、桧垣は隣室から姿を現した。副社長はソファに背中を預けて力を抜いて座っていたが、顔だけを向けて視線で座るように促す。
 「なぜ私に話を聞かせたのか、その意図をお伺いしても?」
  名月悠花を呼び出したと聞いたから、部屋を出ていこうとした桧垣を留めたのは彼だ。隣室に控えてはいたものの、自分に聞かせても差し障りのない内容なのだろうと想像していたのに、予想を超えた話に正直、従ったことを後悔した。
  名月悠花を契約社員として、なおかつ秘書部の事務として雇い入れるにあたって、桧垣は経緯と理由を知らされていた。彼女の経歴と素性調査の内容を見せられて、桧垣はなぜ問題を起こしそうな女性をあえて招き入れるのか不思議だった。しかし上司に物申せる立場にないのだから従うしかない。
  「こういう事情を抱えているから配慮を怠らないように」という副社長の言葉を、桧垣は「余計なことを起こさないようにきちんと見張っていろ」と解釈していた。
  金目当て、御曹司目当て、男を漁るために会社に入って、男性関係でトラブルを起こしたあげく会社を辞めた女。
  最初に悠花と会ったとき、あまりにも地味で大人しい装いに一瞬調査書の内容を疑い、ほとぼりが冷めるまでおとなしくしているつもりなのかと考え、それさえも周囲を油断させる手段なのかと穿った見方さえした。
  女など外から見ただけではわからない。内面に何を隠し持っているかなど単純な男に見抜けるはずもない。表と裏、本音と建て前など女性でなくても人なら持っている。仕事にさえ影響しなければ、人間性などどうでもいいと思っていた。
  ずっと彼女を疑った目で見張ってきて、いつからだろう、そうする必要がないと判断したのは。
  飲み会や交流会はもちろん、合コンにも参加しない。社内で男を漁る様子など微塵もなければ、服装が派手になっていくこともない。人間関係はそつなくこなしているが、特に親しい友人も作らない。そして仕事はこちらが驚くほど優秀にこなす。
 「君に私の意図がわからないとは思えないが」
 「……では、特に意図はないものとして先ほどの件は私の記憶からは消去します」
 「意地悪だな、君は」
  唇をゆがめて面白そうに自分を見る男に、意地悪なのはあなたのほうだと心の中で詰った。害のなさそうなどこにでもいるおじさんのような風情でいて、その実鋭い爪を隠し持つ。のらりくらりと躱して、忘れていた、気づかなかった、知らなかったと言い訳しては、画策する。
  桧垣もそういうところに振り回されて、結果何が気に入られたのか、副社長秘書という貧乏くじをひかされた。周囲はうらやましがっても、この男の意図を読みながら動くのは精神的にきつい。いつでも誰かに引き継いでしまいたいぐらいだ。
 「智晃が手に入れた名月くんの調査書の内容は、君に見せたものと同じだよ。君はあれを読んでどう判断して、今はどう思っている?」
  むしろ世田智晃と名月悠花が個人的に知り合っていたことの方が驚きだったのに、そういったあたりの説明はないようだ。だが聞けば、いらぬことを言われる気がして質問にのみ答えることにする。
 「最初はあの通りの女性なのかと疑っていました。……今は、あの内容がほとんど捻じ曲げられたものだと考えています」
  そう、今はあれらは彼女を貶めるためのものだと思っている。だから、どうして副社長があえて悪印象を抱かせる内容を自分に見せたのか、最初からこれは嘘だから信じないようにと言わなかったのか、わからなかった。
  人を見る目を養えと言う課題だったのなら、なかなかシビアだし彼女もかわいそうだと思う。
  けれどあれだけの内容を羅列されて、あれは全部嘘だと言われても結局すぐには信じなかったかもしれない。たとえ嘘でもああいう噂を流されるような原因を彼女が持っている可能性の方を考えて、やはり関わりは避けたに違いない。
  時間をかけて彼女の人となりを見てきたから判断できるようになったにすぎない。
 「いい情報と悪い情報二つがあれば、人はどちらが真実か自分で判断しなければならない。私はあれを読んでも彼女を信じると断言できる男に彼女を委ねたいと思っていた。
だから彼女に興味を持って、深く調べようとする人間が出てきたら……あえてそれらの情報を隠さなかった。残念ながら実際出回ってしまっている噂だからね。その噂を信じるか、彼女を信じるか。見極められる人間でなければ彼女を任せられない、とね」
  桧垣は眉をしかめて、わずかに世田智晃に同情を覚えた。彼も容赦なく情報を与えられたのであれば、猜疑心と戦わざるを得ない状態なのだろう。仕事をしている姿からはそんな様子は微塵も見えないが。
 「名月くんは……溺愛されていてね。大学に入学してすぐに彼に捕まって……彼は一時も離そうとしなかった。大学の交換留学の制度を利用して留学先にも彼女を連れて行ったし、公の場にも連れ出した。彼女が就職したときは自分の傍においた。
 名月くんも……必死で彼についていこうと頑張っていた。公私ともに、彼の支えになれるように努力を惜しまなかったよ。二人でいるための努力をしてきた彼らを、私も見守っていた。
でも叶わなかった。どうしてもどうしようもない事情で二人は別れた。あの噂は彼らを別れさせるためにばらまかれたものだ。二人とも追い詰められて……名月くんが身をひいた。彼を守るために居場所をなくした彼女をどうしても放っておけなくてね、ここに来てもらった。事情を知っているのは私だけだ。そして今、君にも話したから君で二人目だな」
  だから、どうしてそんな話を自分にするのか、そう問いたかったのにできなかった。余計なことを聞けばもっと余計なことを聞かされる。桧垣にはこの男の思惑すべてを読み取ることができない。
 「智晃が出てこなければ私はね、君に名月くんを委ねたかった。
 君は最初彼女を疑って見張っていたようだが、そのおかげで余計な輩は近づかなかった。仕事優先の君は私情を挟まないし、真面目に仕事に取り組む人間は評価する。名月くんのことをきちんと見抜くだろうと期待していた。名月くんがすぐには彼を忘れないことはわかっていたが、予想外だったのは君もそういう感情に疎かったことだな」
  じっと真意をさぐる目を向けられて、桧垣は目をそらした。逃げれば読まれるとわかっていても、そうせざるを得ない。気づかずにいたことを指摘されて、なおかつそんな思惑を知らされて動揺しないほうがどうかしている。
 「ずっと不思議だったんだよ。智晃はうちのコンサルティングをすることを嫌がってはいたが、彼女がうちで働いていることにはなんの関心もないようだった。彼女も「世田智晃」が来ると知っていてもとくに変化はなかった。そこで気づいた。智晃は名月くんがうちで働いていることを知らない。名月くんは智晃の本名さえ知らない。理由はわからないが、素性を隠して二人が付き合っているのだと。
ここでもし会ったら……どうなるだろうとは思っていたんだがね」
  桧垣は独り言ともいえる副社長の言葉に、再度苦いものを感じる。この人は何をどこまで知っていてどこまで画策していたのか、仕事のためだけに彼を呼んだのではなかったのか。
  世田智晃の素性を知らなかったのだということは、悠花自身も言っていた。
  ここで会ったのだろうか?
  この場所で彼らの接点などあっただろうか。
  はっと表情を変えると、桧垣の変化を見逃すまいとしていた視線がとらえる。
 「君に、名月くんが吐くほど体調が悪かったようだと聞かされるまで、私はもう少し楽観的に見ていたんだがね。今日の様子を見ても……智晃の素性は、名月くんにとっては受け入れ難かったようだ」
  そうだ……彼女はいきなりうずくまって、食べたものをすべて嘔吐した。体調が悪い様子はなかったのに突然のことで、桧垣でさえ驚いたのを覚えている。あのときは副社長室に世田智晃が挨拶に来た。彼女はそこで初めて彼の素性を知ったのだろう。
  翌日も休み、その後は出勤していたが元気のなさはずっと続いている。そう、どこか最近和らいでいた雰囲気が、この会社に来た当初の彼女のように怯えて警戒して。
  そしてさっき彼女は副社長に即座に謝罪をしていた。
 「智晃で大丈夫であれば……それでよかった。だがうまくいくとは思えない。今日それは確信に変わった。智晃が彼女の不安も恐怖も取り除いてやれればいいと願ってはいるが、もしそれがだめだった場合、やはり君にもサポートを頼みたい」
 「私は、彼女に特別な感情は持っていません」
  言われることを覚悟していたから、あえて間をおかずに答えた。
  委ねたかったなど動揺するような言葉を吐いて揺さぶって、さらに与えられた止めの一撃をなんとか交わす。彼女の気持ちも自分の気持ちも棚にあげて勝手な期待をされても困る。悠花は自分に何の感情も抱いていない。抱くような関わりも、桧垣はしてこなかった。
 「今はね。でも君には私の持っているカードを見せた。気にかけてやってほしい。同じ職場で働く人間としても、一人の男としても」
  やはりこの人は暴君だと、改めて感じながら桧垣はふっと息を吐いた。
 「どうしてそこまで彼女を、気にかけるんですか?」
 「彼に頼まれたからだよ。私は個人的に彼には恩があってね。だから彼の唯一と言ってもいい願いぐらい叶えてやりたい。自分の手で幸せにできなかったから、他の誰かで構わないから幸せにしてやってほしいとね」
  その彼の名前を副社長はここでは一切出さずとも、彼女との会話では漏らしていた。桧垣はその名前に聞き覚えがある。
  神城穂高。
  身内で揉めたあげく、不祥事を起こした会社を……立て直した若き経営者。
  今になって一気に情報を与えてくる上司を、桧垣は無言で見ることでしか不満を露わにできなかった。
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