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第一章

第八話

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 彼に背後から抱きしめられる。まわされる腕の強さにも、その瞬間鼻腔をつく香りにも一瞬でからめとられて、悠花は素直に身を委ねる。
  バレンタインデーの翌週に早速、彼は会いたいと悠花に伝えてきた。3月は仕事が忙しく、海外出張の予定もあって会えない可能性が高いからと。
  戸惑ったのは一瞬で、バレンタインデーの日に彼への気持ちを素直に認めてから、悠花は自らを戒めるものを失った。工藤の接触で穂高を思い出して不安になったことも応じた一因にある。
  食事も一緒にと言われたから、バーから数本北に入った道沿いのイタリアンに連れて行ってもらった。高いものは困ると言った悠花の意図を組んで、こじんまりとした温かみのある雰囲気のカジュアルな店。できるだけ割り勘にしてほしいという悠花の願いはなかなか聞き届けられないため、悠花は前もっていくらかをかわいらしい封筒にいれて持ち歩いていた。
  店を出て渡そうとすると、彼は困ったように眉をひそめる。「この間のも本当は受け取る気はなかったんだよ」と言われた。受け取ってもらえないから、旅館から駅に送ってもらったとき助手席にわざと封筒を置いてきたのは正解だったようだ。食事代もホテル代も彼に負担してもらうのは、やはり気が引ける。「たくさんじゃないので」と言って押し付けて、そうでなければもう食事はしないとまで言ったら「意外に強情だね」と苦笑された。
  甘えてほしい、と彼は言う。
  もっと頼って、わがままになって、怖がらないで飛び込んでおいで、と。
  うなじに唇が触れて舌でなめられる。まわされた手は乱暴な手つきで体をまさぐり、服を剥いでいく。「シャワーは?」の声はキスで阻まれ、会うたびに性急に求められることが嫌じゃない。
  スカートの中に入った手は、ストッキング越しに悠花の中心をなぞる。緩やかに上下に動きながら悠花の形を確かめ、敏感な場所に的確に指先をあてる。その間にもう片方の手も、ブラを押し上げて出てきた胸をもみながら先を軽くこすりあわせた。
 「やんっ、アキっさん!あんっ」
  下着が湿っていくのは彼の指の動きが早まることからもわかる。いやらしいもので下着を汚してストッキングにも染み渡らせて、体の目覚めを彼に教える。胸に痺れがはしり、下からもたらされるものとつながって、徐々に波紋が広がっていく。ぽつんと水面に落ちた水滴がひとつならその輪はひとつですむけれど、ふたつなら重なってさらに広がる。普段ひっそりと静まり返っている水面に、彼は快楽という水滴をいくつも落として波紋を重ねていくのだ。
 「下着……濡れてきたね。このままどこまで汚れるか見せて」
 「――――!!」
  なんてことを言うのか。彼に似つかわしくない言葉に、けれど悠花は裏腹に、跳ねた水滴が周囲を濡らすように下着を湿らせた。
  上着とシャツを剥いでいきながら、背中に落ちる唇は肩甲骨をなで、背骨を伝っていく。ブラの跡がついた窪みを舌で嬲られ、見てほしくないものを見られている気がして羞恥が走った。
  立ったままがつらくて膝をおると、彼は悠花の体からスカートだけとりさってベッドに押し倒した。ストッキングと下着だけの姿で足を広げられ、明るい光の中にさらされる。
 「色が、変わっている。ああ染みてきた」
  メガネをかけたままの穏やかな表情。ぎらついたものなど消し去った淡々とした口調が逆に悠花の体を燃え上がらせた。
  彼はどこか冷静に、時折卑猥なことを要求する。そんなことを言いそうにない彼が、低く優しい声で懇願するから、悠花は拒むことが間違いな気がして応じてしまう。もともと穂高に愛されてきた体は素直で、セックスの快楽を知り素直に体を開いてきたために抵抗感はあまりない。彼はそれを見抜いているような気がした。
  「明かりを消してほしい」「シャワーを浴びたい」願いはたくさんあるのに、口から出ることはない。戒める強さなどない手が悠花の足を軽く抑えて、視線が中心を射抜く。メガネをはずさない彼に悠花のその場所はどんな風に見えるのだろうか。色が変わるだけでなくそれがストッキングにまで染みている。彼はそのまま指をゆっくりと溝にそらせて上下に動かす。ささやかすぎる動きが物足りなくて腰が動く。ねだる仕草が嫌で自分の手で腰骨をおさえた。
 「はっ、んんっ」
  ひっかかりもなく動く指、音が聞こえないだけが救いだけれど、脱がされれば溢れたそれは彼の目に形となって見える。糸をひく様を見せることになりそうで想像してまた自分を追い詰めた。
 「アキさんっ、もう脱ぎたいっ!」
  中心だけでなく、汗で太腿も膝の裏もストッキングが張り付いている。着替えをいつもバッグに忍ばせているからよかったけれど、そうでなければ冷たく湿った感触をまとわりつかせて帰宅する羽目になったかもしれない。
 「脱がせてあげるよ」
  どこまでも優しい声と口調で、彼はゆっくりと悠花のウエストをしめつける部分に手を差し入れた。脱がされながら無意識に膝をまげると、悠花は想像通りの状況であることがわかった。中から何かが引き出されていく。
 「引いている……ね」
  下着と中心をつなげる糸を彼はじっと見る。そして悠花の左手をとってその糸を断ち切らせた。指先に感じるのは濡れた感触。そのまま悠花自身の指を溢れ出る場所に押し当てた。
  彼の手で導かれたとはいえ目の前で自分で触れる様を見られて、泣きたいほど恥ずかしくなる。すくいあげた蜜をまとわりつかせた自分の指を彼の目の前にかかげられ、そして舐められた。
  ゆっくりとした動作、そして舐る舌の動き、ごくんと飲み込むのどぼとけ。
  目をそらすことができず悠花の指を口の中にいれる彼をただ見つめる。咄嗟に逃げ出そうとしたけれど彼は強く握って動きを阻んだ。熱い舌がからむ。蜜は彼の唾液にかわって、指を奥までくわえこんだかと思うと掌をなめまわし、ブレスレットがかかる手首に這う。
 「アキさん!!」
  指と指の隙間を順に舌がたどって再び二本の指が彼の口の奥に消えた。
  彼の手は離れて、中途半端に残っていた下着とストッキングを脱がせる。彼の口から自分の指を取り戻すことは可能だったのに、悠花は動かすことができなかった。彼は悠花の指をくわえてなめまわしながら、自分のネクタイをほどいてシャツを脱ぐ。上半身裸になるときだけ指が離されたけれど、すぐにまた熱い口内に放り込まれた。明かりを背中に受けて影をつくる彼の壮絶な色気にあてられる。指をなめる唾液の音が聞こえると、悠花は再び足を広げられ、中にすんなり彼の指が入ってきた。
 「…………っん」
  悠花の指は彼の口の中に。
  彼の指は悠花の中に。
  響き合う音はどちらのものかわからない。唾液でふやかされる悠花の指と、蜜でふやかされる彼の指。動きがゆっくりすぎて、もどかしい。どんどん溢れさせていることはわかるのに、欲しい場所をかすりもしない。
 「あっ、やっ……!アキさんっ、ああっ」
  喘いで訴える悠花の意図を汲んだかのように、シーツを掴んでいた悠花の右手をとるとぬかるんだ場所に運んだ。同時に左手も離され、胸に戻される。右手は中心に左手は胸に。彼が何を求めているか気づいてもすぐに行為は起こせない。自慰行為を彼の前で見せるなんて。
 「ナツ……気もちよくなってごらん」
  彼が悠花の体を覆ってゆるく抱きしめる。手の動きを妨げずに耳元でささやかれて、吹きかけられた息にびくりと震えると、唾液に濡れた指が触られもしないのにとがっていた胸の先をすべった。
 「やっ……で、きないっ」
  ぴくりと体が震える。言葉で拒否をするなら、指をはずせばいい。彼は拘束しているわけじゃない。
  中途半端な快感と羞恥で涙が目じりから小さくこぼれた。彼はそれをすぐに舌ですくいとる。
 「あなたは僕に壊して、と言った。あの日抱いたあなたはすごく僕に近づいてくれた気がした。何度抱いても見えない壁があったのに……あの日はそれが壊れた」
  彼の言葉の意味は悠花にはよくわかっていた。彼への気持ちを認めた日。壊してほしいと願ったのは悠花自身で、その言葉通り壊されて淫らに乱れた。
 「あの日から……前にもまして、僕はあなたが欲しくてたまらない。急かしちゃいけない、強引にしちゃいけない、待った方がいい、そう言い聞かせているのに、我慢できない。
あの日あなたと一緒に……僕も壊れたんだ。僕の前で……乱れるあなたを見たい」
  唇と唇が触れる。表面だけの優しい触れ合いは一瞬で、その後は獰猛な舌が悠花の口をふさぐ。彼がメガネをはずさないのは、ありのままの悠花を焼き付ける為なのか。
  キスに翻弄され、彼の目が見えない場所で、悠花は指先に力をいれた。彼の腕の中で胸の下で、自慰をする。胸の先を小刻みに動かし、膨れた場所に蜜をぬりたくる。大きく勃起したそこは触れば触るほど気持ちのいい場所。悠花はそれをよく知っている。
  だからキスが離れても、彼が上体を起こしても、わずかにずれたメガネをかけなおして、見下ろしても悠花が動きをとめることはなかった。




  欲しくてたまらないと思い始めた女が目の前で自慰をする。足を開き、明かりの下できらきらとひかる場所をさらし、白くて細い指が赤く膨らんだ小さな粒をいじっている。胸の先をとがらせ、かすかに開いた唇は切ない声をだし、閉じられた目の上の眉が寄せられる。
  智晃は身に着けていたものをすべて脱ぐと、彼女の自慰を見ながら己のものに手をそわせた。膨張した自身の先からは濡れたものが滲んでいる。このまま中に押し入るのは簡単だけれど、卑猥な姿をさらす彼女の邪魔をしたくなくて、いつまでも見つめて焼き付けたくて、手出しはしなかった。
  2週間に一度のペースで続いてきた逢瀬。彼女が少しずつ歩み寄ってくれていることはわかっていたし、イブに渡したブレスレットが手首にあるのを見れば、未来を夢見ることはできる。ゆっくり待つつもりだったし彼女のペースを大事にしたかった。
  けれどホワイトデーに時間をとることが叶わないと決まった時点で、智晃のスケジュールに空きがないこともわかった。年度末ということもあって、週末にも仕事を入れざるを得ない。わずかな隙間はできても、まとまった時間はとれない。これが普通の恋人であれば、空いた時間すべてで少しでも会おうとするだろうけれど、彼女とはまだそういう段階にない。
  だからメールを出すことを、智晃から会いたいと言うことを許されたから、そこに甘えた。
  バレンタインデーの日の彼女は今までと違っていた。昼間から会ったせいも、非日常の場所のせいもあっただろうけれど、終始甘えたような雰囲気が心を許した仕草がちらついていた。そして「壊して」と智晃に願い、素直に「気持ちいい」と「もっと」と求めてくれた。
  せっかく彼女の心が近づいてくれているのに、裏腹に現実の時間は確保できなくなっている。3月は海外出張も入り、週末がそれだけで二週間分つぶれる。帰国直後からは、気の進まない依頼のためにまた忙しくなる。
  今、彼女と会えない時間が続くことは避けたくて、少しでも会えるなら会いたくて誘い出した。
  会えば愛しいと思う。
  抱きたいと思う。
  彼女の不安をすこしでも取り除いて、飛び込んできてほしいと思う。
 「ああっ、ああんっ、はあっ……っんん!!」
  達するときの甘い声が心地よく耳に届く。びくびく腰を震わせて、胸を揺らし、卑猥な場所を無防備にさらけだして達する彼女を見つめながら、智晃もまたあわせて己をしごく。
  ぴくぴくはねる、白くて小さなおなかの上に、智晃は欲望の汁をまき散らした。




  自分がどこにいて何をしているかわからなかった。おなかの上に冷たいものがかかって、ベッドがぎしっと音をたてたあと、タオルで拭われる。彼の目の前で自慰をして見せつけ、なおかつ彼一人でイかせてしまった。勝手に一人でよがって、彼を放置したことも、いやらしい姿をさらしたことも恥ずかしくて涙がこぼれてくる。
 「……ご、めんなさ、い」
 「あやまらなくていい。僕がやらせたんだから。すごく綺麗でかわいかった。だから泣かないで」
  ひっくひっくと媚びるような嗚咽がでる。卑怯な気がして自分が嫌になるのに、体は熱をこもらせて足りないと泣いて、下からも涙をこぼす。
 「僕もごめん。あなたを見ていたら我慢できなくて汚してしまった。シャワー一緒に浴びよう」
  彼が優しく悠花を抱き寄せて、髪をなでる。その仕草に甘えてすりよると小さなキスが顔中にふり落ちた。
 「ナツはかわいい。本当にかわいくて、僕はもうあなたを離したくない……」
 「……私も、離れたくない」
 「でも来月は……ほとんど会えない。その間にあなたが離れるかもしれないと思うと、僕は怖くなる」
  3月の週末はほとんど時間がとれないことは食事中に聞かされた。彼がどんな仕事をしているかわからないけれど、悠花もそれは理解できる。彼が悠花の名前を知りたがっているのはもう何度となくわかっている。悠花も、もう言っていいのではないかと口にしそうになる。
  でも、もう少しだけ、もう少しだけと思うのだ。
  3月に穂高は結婚式を挙げる。彼の結婚式を悠花は最後の区切りにしようと思っていた。
  卑怯だけれど最後の最後まで心のどこか醜い部分で、悠花は穂高が迎えに来るのを待っているのかもしれない。覚悟ときっかけが、今の悠花にはどうしても必要だった。
 「離れない……私はブレスレットをはずさない。
 桜が咲いたら、お花見に行きませんか?お弁当つくります。その時はたくさんあなたの名前を呼びたい。私の名前も呼んでほしい」
  あと少しだけでいいから、そういう意味をこめて告げる。彼はまぶしそうに目を細めて悠花を見つめた。
  桜が咲くまで……その期限さえ来れば、もう不安にならなくていいからと。
 「じゃあ、花見の後は僕のマンションに来てもらう。そのまま泊まって……できるなら二度と帰ってほしくない」
 「…………」
 「あなたが名前を教えてくれたら……僕はそのままあなたを僕に縛り付ける。ブレスレットだけじゃなく、この指にも鎖をつなげたい。僕は本気だ」
  指輪を捨てよう。
  穂高にもらった永遠の証を捨てよう。
  彼の言葉に悠花は覚悟を決める。だからただ頷いた。彼がぎゅっと握りしめてくれた手に、悠花も力をこめてかえす。
  初めて会った夜に、ゆるやかに重なった手を、今は力強く握り合う。
  もうこの手を永遠に離さずにすみますように、と願いをこめて。
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