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第一章
第七話
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智晃はスーツの内ポケットにボールペンがあることを確かめた後、薄手のコートを羽織った。外出の準備をしていると受付辺りがかすかにざわめき、若い男性の明るい声が届く。
「ランチボックス回収にきましたー」
周囲が「今日もおいしかったよ」「今度また具だくさんの卵焼きが食べたい」など声をかけている。毎日ランチボックスを回収しに来る彼は、すっかりここに馴染んでいた。扉が開くと大学生の彼の隣に立つ女性がいて、回収だけにしては騒がしかった理由を知る。
「晴音ちゃん……」
「お仕事中なのにすみません。ソウくんにはお邪魔になるから車で待っているって言ったんですけど」
「いやいや晴音ちゃんならいつでもOKだよー」や「今日も差し入れありがとう」と言葉が行きかう。
結婚式まで伸ばしていた髪は、結局元の長さに戻ってしまった。結婚式前までは緊張で気が張っていたのだろう。式を終えた後、やはり体調を崩して入院した晴音は、潔く肩につかない長さに髪を切った。晴音の見かけは昔に戻ったけれど、表情はまったく違う。
陰りを帯び、どこか怯え、あきらめていた。それらを隠し笑顔を見せる晴音の姿は、彼女をよく知るようになってからは痛々しくてたまらなかった。今は霧が晴れて、道を見つけた少女のように名前のとおり晴れやかな表情をしている。
「今日は病院の定期検診だったの?」
「少し長引いて、ソウくんに迎えにきてもらったんです。そのままランチボックスの回収に付き合わされちゃいました」
晴音に会うと必ず智晃は彼女の体調が大丈夫か確認する癖がついている。病気慣れしている彼女は多少のきつさは表に出さない。本当にきつくなっても出さないこともあって、無理をしていないか、強がっていないか見抜くためにじっと見つめてしまう。晴音もそれをわかっていて、少し仕方なさそうにほほ笑んだ。どうやら本当に大丈夫なようで安心する。
2週間ほど前から始まったランチボックスの試食は、お弁当配達起ち上げの前段階として試験的に行われている。事業の中心は晴音の母親が行うが、彼女も献立開発や調理補助などで関わっている。
晴音が無事結婚し、実家から離れたこともあって、彼女の健康管理一色の生活だった母親が何かそれを活かした仕事がしたいと智晃に相談してきた。晴音の体調にあわせて試行錯誤しながら料理をしてきたため、農薬減の食材の選別から、無添加の調味料や栄養価の高い乾物の使用など、その料理には独特の個性がある。最初はマクロビや自然派の系統の飲食店の経営も考えたが、店舗をもつための初期費用やリスク、実際の経営などを考えると彼女たちの負担のほうが大きいと判断して断念した。結果、家庭のキッチンでできる範囲の料理を提供する、お弁当配達にしてはどうかと提案したのだ。
コンビニでも、レストランでもお弁当の提供はなされていて、新規参入は容易ではない。けれど、健康に気遣い、体調が悪くても食べやすく、少量でも食材を組み合わせることで、栄養価の高い献立を工夫してきた晴音の母親の料理はすでに個性的であり、隙間的なニーズはあると思えた。どうせ大量には作れないし、儲けるための仕事でもない。病弱なために社会に出て働くことのできない娘がわずかにでも社会に関われて、生活の彩となるような仕事にしたいというのが母親の第一の希望だ。
母親が調理をして晴音が手伝う。配達はバイトやパートのほか、大学生の弟たちが協力する。幸い、この近辺は智晃たちが入居しているオフィスビルをはじめ小さな事業所や商店も多いし、子育て世代が入居している新築マンションも昔ながらの住宅街も混在している。競争もそう厳しくはない。何よりこの地域に根差した仕事になる。今はいくつかのオフィスに試作として配達しながら、どのような形態でやっていくか検討している段階だ。
晴音が得意なお菓子作りを活かして、ランチボックスにはたまに日持ちのする「おやつ」がついている。昼食後のおやつや、残業中の腹ごしらえにもなると評判はいい。
晴音の弟であるソウはアンケート用紙を受け取りながら、いろいろアドバイスを聞いている。
「智くん!このあと外出するなら、姉さん送っていくこともできる?」
「ソウくん!お仕事中の人にお願いすることじゃないでしょう!」
ソウの言葉に晴音がすかさず反論する。智晃が「構わない」と了承する前に、周囲が「世田さんならいつでもつかってくださーい」と答えていた。智晃の会社のスタッフはみんな晴音の事情を知っているし、彼女たちをとてもかわいがっている。そういう空気が社内にあることが智晃には貴重な財産に思えてならない。
「いいよ。どうせ通り道だから晴音ちゃんを送るよ。ソウはまだ回収に行くんだろう?」
「智くん、助かる―。姉さんあまり連れまわしたくないからさ」
晴音はいまだ恐縮しているようだが、いい加減慣れればいいのにと思う。もっと図太くなればいい、甘えればいい、人は助け合うのがあたりまえだということを晴音は自分たちに教えてくれた人物なのだから。
「迷惑をかけてごめんなさい」
昔はそれが晴音の口癖だった。彼女の体のことを知れば仕方がないことだったけれど、智晃と理人は「ありがとう」のほうが嬉しいと晴音に教えてきた。
だから晴音は「ありがとうございます」と言って智晃の車の助手席に乗る。
「迷惑をかけてごめんなさい」倒れるたびに、入院するたびに、情緒不安定になるたびに晴音が言う言葉。言われるたびに「迷惑じゃない」「手助けするのはあたりまえだ」と反論してきた。「ありがとう」の一言で僕たちは満たされる、そう伝えてきた。
実際そうなのだ。
人は「他人に迷惑だけはかけないように」と親からも教師からも当然のように教えられることが多い。智晃も「他人に迷惑をかけないように」心がけてきた。
けれど晴音がそう言うたびに違和感が生まれる。「迷惑」とは具体的になんなのか、他者と関わっていく以上、誰かに負担をかけてしまうことはある。むしろ、助け合うというのはそういうことの積み重ねではないのか。
誰かに助けてもらったら、次は別の誰かを助ければいい。それはいずれ自分にまわって助けられる時が来る。頼ればいい、手伝ってもらえばいい、一人で完璧に何かをやり遂げることはできないのだ。
実際、晴音を智晃一人で支えることは不可能だった。それは理人も同じ思いのはずだ。彼女の家族はもちろん、病院の関係者にも助けてもらった。自分だけでも理人だけでも今の晴音にすることはできなかっただろう。
自分一人でできないなんて、誰かを頼るなんて甘えていると思っていた。
でも晴音と出会って、それがいかに身勝手で傲慢な考えだったか思い知らされた。
助けたいという手を拒まれること、一人苦しんでいるのに何もさせてもらえないこと、大切な女性一人支えられない無力さを実感する。
支えさせてほしい、甘えてほしい、頼ってほしい、そうされることで自分が必要だと思えることは、自分の価値を認めることにも繋がるのだと気付かされた。
だから智晃は経営コンサルタントとして独立した。智晃は大きなものの支えではなく小さなものの支えになりたいと思ったからだ。
就職した大手企業を辞めて独立するときは反対もあったけれど、応援してくれる人もいた。
独立するときは大いに甘えた。さすがに一等地のオフィスビルへの入居は遠慮したけれど、商業地からあえて離れて、昔から祖父が持っていた小さなオフィスビルを一棟、譲り受けた。そこの一室を自分たちのオフィスとして使用し、数年かけて他のテナントも入れ替え、適切な賃料収入を得て運用しはじめた。
晴音の自宅があり、彼女のかかりつけで理人の勤める総合病院にも近いこの場所に。
晴音が心地よく生きていける地域で、少しでも手助けになるように。
「ランチボックス評判いいみたいだね」
「はい。よかったです。売り上げも気になるけど、皆さんに喜んでもらえるのが一番嬉しいです」
こんな私でも生きている価値があるって思えるから……続く言葉を晴音は口にはしなかったけど、そう思っていることは晴音の横顔からもわかった。
「回収に付き合うのは迷惑かなって心配だったんですけど、実際食べてくださっている方の顔を見られて良かったです。でも、結局こんな風に智くんに、送ってもらうことになっちゃったけど……」
「どうだった?実際見て」
「直接いろいろお話が聞けてすごく参考になりました。アンケートも書いてもらっているけど、ふっと口にした意見のほうが本音に近いような気もして。使い捨ての容器にしたほうが負担がないんじゃないかと思っていたけど、容器を回収することで食べてくださる方の顔を見られるのはいいなあって。直接「おいしい」って言ってもらえるとやっぱり嬉しくて。そうそう、このランチボックスの容器を売ってほしいとも言われたんですよ」
晴音の声が高い。智晃を見る目はキラキラして、興奮で少し赤みの差した頬に、熱があるんじゃないかと手を伸ばしそうになる。
同時に、初めて隣に乗せた彼女も、景色がかわるたびにそんな空気を垣間見せていたなと思い出した。彼女は晴音のように無邪気にはしゃいだりはしないけれど、表情はとても読みやすい。仕事柄必要なスキルでもあるし、長年晴音の表情を読んできたこともあって、長けているほうだけれど、本当はもっとはしゃいだように笑う子なんじゃないかと思っている。
晴音に会うと、つきりと胸は痛む。
大事だと思うし、ずっとこんな笑顔を見せてほしいと願う。これからも支えていきたいと思う。それはもう刷り込みみたいなもので、消すことは無理な感情だ。けれど、そばにいる痛みはやわらいでいる。
晴音より大事にできるかわからない、ずっとそんな思いを抱えて彼女との逢瀬を繰り返した。
今は、晴音より大事にできたらいい、そう思っている。
だから、知りたい。
本当の名前を、まだ知らない姿を、彼女が抱えた愛も傷も苦しみも。
晴音だけしか見えなかった自分が、晴音を目の前にしても彼女を思い出す。その変化を受け入れられたことが救いになっている。
「そういえば、バレンタインデーのプレゼント、理人喜んでいた?」
「はい!あの時も、ソウくんのせいで智くんにつきあってもらって、なんか最近ソウくんそういうことが増えた気がします」
結婚して初めてのバレンタインデーに、晴音は理人へのプレゼントを本当はソウと選びに行く予定だった。クリスマスプレゼントを選ぶときはソウと双子のユウが付き添ったらしい。
晴音は基本的に一人で外出することはない。家の近所と病院だけは一人でも行動するが、病院でさえ一人の場合はタクシーを使う。何がきっかけで体調不良を起こすかわからないための制限だけれど、理人と付き合いだしてからは彼の過保護ぶりも拍車をかけた。
ソウから連絡があって、たまたま空いていたから晴音に付き合った。もし彼女の存在がなければ嘘をついてでも断ったと思う。いくら結婚したとはいえ、想いを残す晴音と二人きりは智晃には酷だ。応じたのは、もう大丈夫だという確信を得たかったから。
二人きりになっても晴音を傷つけるようなことはせずにいられるという確信。だからこうして車で送ることもできる。不意に、ソウはもしかして智晃の気持ちを確かめているのかもしれないなと思った。結婚しても晴音の味方でいられるかどうかを。
「ソウは就職活動中だろう?忙しいのは仕方がないよ。コネ入社にはまだ抵抗あるのかな?」
「ありがたいお話だとは思っているし、働きたい気持ちもあると思うんですけど、あがいているみたいです」
ソウなら普通に入社試験を受けても通る気はする。けれどいきなり選択肢が広がって、迷いが生じているのも見ていてわかった。
晴音の双子の弟たちは、兄であるユウは医師を目指して医学部に通っている。弟のソウは自宅で独立して仕事ができるようにとプログラマーとしての勉強をしていた。
病弱な姉の結婚の可能性は低いと考え、自分たちでずっと晴音を支えるつもりで、将来の道を決めていた。それは晴音の両親も同じだ。あの家族は晴音を中心に考えて生きてきた。智晃や理人が関わらなかったら、もしかしたらどこか壊れたんじゃないかと思うほど、ぎりぎりの状態で。
理人と晴音が付き合いだして支える手が増えたことで、彼らの世界も変化した。
ソウが優秀なことはずっと見てきたから知っている。就職がうまくいかないことなどないとは思うが、その場合は智晃の会社に来てもらってもいいと思っていた。そのまえに祖父が手をだしてきたせいで口にはできなくなったが。
コネ入社は昔からある割に、好意的には見られない。雇用主となった今、全く見知らぬ他人をいれるよりもよく知っている人間をいれるほうがリスクは低いと感じている。本人の能力も人間関係の築き方も見ていてわかるからだ。むしろ智晃の兄たちなどは、本人の希望であるにも関わらずコネ入社だと思われて、そのプレッシャーに苦労しているほどなのに。
智晃自身がコネを回避して就職したのでソウにアドバイスはしづらいが。
「インターンシップ利用して、いろんなところを見て決めればいい。ソウはよくやっているから大丈夫だよ」
「そうですね」
それから、晴音が最近はじめた治療についての話を聞いた。薬によっては副作用のほうがきつくて、使えないものもあったが、今回は今のところうまくいっているらしい。結婚そして小さな仕事、晴音の世界は少しずつ広がっている。
人と出会うということは世界が広がるということ。
智晃の世界にも新しい風が吹き始めた。
晴れの日も雨の日も雪の日もある。想像もつかないものに見舞われることもある。でも世界が広がるとはそういうことだ。
彼女との出会いで、広がる世界を智晃は想像した。
「ランチボックス回収にきましたー」
周囲が「今日もおいしかったよ」「今度また具だくさんの卵焼きが食べたい」など声をかけている。毎日ランチボックスを回収しに来る彼は、すっかりここに馴染んでいた。扉が開くと大学生の彼の隣に立つ女性がいて、回収だけにしては騒がしかった理由を知る。
「晴音ちゃん……」
「お仕事中なのにすみません。ソウくんにはお邪魔になるから車で待っているって言ったんですけど」
「いやいや晴音ちゃんならいつでもOKだよー」や「今日も差し入れありがとう」と言葉が行きかう。
結婚式まで伸ばしていた髪は、結局元の長さに戻ってしまった。結婚式前までは緊張で気が張っていたのだろう。式を終えた後、やはり体調を崩して入院した晴音は、潔く肩につかない長さに髪を切った。晴音の見かけは昔に戻ったけれど、表情はまったく違う。
陰りを帯び、どこか怯え、あきらめていた。それらを隠し笑顔を見せる晴音の姿は、彼女をよく知るようになってからは痛々しくてたまらなかった。今は霧が晴れて、道を見つけた少女のように名前のとおり晴れやかな表情をしている。
「今日は病院の定期検診だったの?」
「少し長引いて、ソウくんに迎えにきてもらったんです。そのままランチボックスの回収に付き合わされちゃいました」
晴音に会うと必ず智晃は彼女の体調が大丈夫か確認する癖がついている。病気慣れしている彼女は多少のきつさは表に出さない。本当にきつくなっても出さないこともあって、無理をしていないか、強がっていないか見抜くためにじっと見つめてしまう。晴音もそれをわかっていて、少し仕方なさそうにほほ笑んだ。どうやら本当に大丈夫なようで安心する。
2週間ほど前から始まったランチボックスの試食は、お弁当配達起ち上げの前段階として試験的に行われている。事業の中心は晴音の母親が行うが、彼女も献立開発や調理補助などで関わっている。
晴音が無事結婚し、実家から離れたこともあって、彼女の健康管理一色の生活だった母親が何かそれを活かした仕事がしたいと智晃に相談してきた。晴音の体調にあわせて試行錯誤しながら料理をしてきたため、農薬減の食材の選別から、無添加の調味料や栄養価の高い乾物の使用など、その料理には独特の個性がある。最初はマクロビや自然派の系統の飲食店の経営も考えたが、店舗をもつための初期費用やリスク、実際の経営などを考えると彼女たちの負担のほうが大きいと判断して断念した。結果、家庭のキッチンでできる範囲の料理を提供する、お弁当配達にしてはどうかと提案したのだ。
コンビニでも、レストランでもお弁当の提供はなされていて、新規参入は容易ではない。けれど、健康に気遣い、体調が悪くても食べやすく、少量でも食材を組み合わせることで、栄養価の高い献立を工夫してきた晴音の母親の料理はすでに個性的であり、隙間的なニーズはあると思えた。どうせ大量には作れないし、儲けるための仕事でもない。病弱なために社会に出て働くことのできない娘がわずかにでも社会に関われて、生活の彩となるような仕事にしたいというのが母親の第一の希望だ。
母親が調理をして晴音が手伝う。配達はバイトやパートのほか、大学生の弟たちが協力する。幸い、この近辺は智晃たちが入居しているオフィスビルをはじめ小さな事業所や商店も多いし、子育て世代が入居している新築マンションも昔ながらの住宅街も混在している。競争もそう厳しくはない。何よりこの地域に根差した仕事になる。今はいくつかのオフィスに試作として配達しながら、どのような形態でやっていくか検討している段階だ。
晴音が得意なお菓子作りを活かして、ランチボックスにはたまに日持ちのする「おやつ」がついている。昼食後のおやつや、残業中の腹ごしらえにもなると評判はいい。
晴音の弟であるソウはアンケート用紙を受け取りながら、いろいろアドバイスを聞いている。
「智くん!このあと外出するなら、姉さん送っていくこともできる?」
「ソウくん!お仕事中の人にお願いすることじゃないでしょう!」
ソウの言葉に晴音がすかさず反論する。智晃が「構わない」と了承する前に、周囲が「世田さんならいつでもつかってくださーい」と答えていた。智晃の会社のスタッフはみんな晴音の事情を知っているし、彼女たちをとてもかわいがっている。そういう空気が社内にあることが智晃には貴重な財産に思えてならない。
「いいよ。どうせ通り道だから晴音ちゃんを送るよ。ソウはまだ回収に行くんだろう?」
「智くん、助かる―。姉さんあまり連れまわしたくないからさ」
晴音はいまだ恐縮しているようだが、いい加減慣れればいいのにと思う。もっと図太くなればいい、甘えればいい、人は助け合うのがあたりまえだということを晴音は自分たちに教えてくれた人物なのだから。
「迷惑をかけてごめんなさい」
昔はそれが晴音の口癖だった。彼女の体のことを知れば仕方がないことだったけれど、智晃と理人は「ありがとう」のほうが嬉しいと晴音に教えてきた。
だから晴音は「ありがとうございます」と言って智晃の車の助手席に乗る。
「迷惑をかけてごめんなさい」倒れるたびに、入院するたびに、情緒不安定になるたびに晴音が言う言葉。言われるたびに「迷惑じゃない」「手助けするのはあたりまえだ」と反論してきた。「ありがとう」の一言で僕たちは満たされる、そう伝えてきた。
実際そうなのだ。
人は「他人に迷惑だけはかけないように」と親からも教師からも当然のように教えられることが多い。智晃も「他人に迷惑をかけないように」心がけてきた。
けれど晴音がそう言うたびに違和感が生まれる。「迷惑」とは具体的になんなのか、他者と関わっていく以上、誰かに負担をかけてしまうことはある。むしろ、助け合うというのはそういうことの積み重ねではないのか。
誰かに助けてもらったら、次は別の誰かを助ければいい。それはいずれ自分にまわって助けられる時が来る。頼ればいい、手伝ってもらえばいい、一人で完璧に何かをやり遂げることはできないのだ。
実際、晴音を智晃一人で支えることは不可能だった。それは理人も同じ思いのはずだ。彼女の家族はもちろん、病院の関係者にも助けてもらった。自分だけでも理人だけでも今の晴音にすることはできなかっただろう。
自分一人でできないなんて、誰かを頼るなんて甘えていると思っていた。
でも晴音と出会って、それがいかに身勝手で傲慢な考えだったか思い知らされた。
助けたいという手を拒まれること、一人苦しんでいるのに何もさせてもらえないこと、大切な女性一人支えられない無力さを実感する。
支えさせてほしい、甘えてほしい、頼ってほしい、そうされることで自分が必要だと思えることは、自分の価値を認めることにも繋がるのだと気付かされた。
だから智晃は経営コンサルタントとして独立した。智晃は大きなものの支えではなく小さなものの支えになりたいと思ったからだ。
就職した大手企業を辞めて独立するときは反対もあったけれど、応援してくれる人もいた。
独立するときは大いに甘えた。さすがに一等地のオフィスビルへの入居は遠慮したけれど、商業地からあえて離れて、昔から祖父が持っていた小さなオフィスビルを一棟、譲り受けた。そこの一室を自分たちのオフィスとして使用し、数年かけて他のテナントも入れ替え、適切な賃料収入を得て運用しはじめた。
晴音の自宅があり、彼女のかかりつけで理人の勤める総合病院にも近いこの場所に。
晴音が心地よく生きていける地域で、少しでも手助けになるように。
「ランチボックス評判いいみたいだね」
「はい。よかったです。売り上げも気になるけど、皆さんに喜んでもらえるのが一番嬉しいです」
こんな私でも生きている価値があるって思えるから……続く言葉を晴音は口にはしなかったけど、そう思っていることは晴音の横顔からもわかった。
「回収に付き合うのは迷惑かなって心配だったんですけど、実際食べてくださっている方の顔を見られて良かったです。でも、結局こんな風に智くんに、送ってもらうことになっちゃったけど……」
「どうだった?実際見て」
「直接いろいろお話が聞けてすごく参考になりました。アンケートも書いてもらっているけど、ふっと口にした意見のほうが本音に近いような気もして。使い捨ての容器にしたほうが負担がないんじゃないかと思っていたけど、容器を回収することで食べてくださる方の顔を見られるのはいいなあって。直接「おいしい」って言ってもらえるとやっぱり嬉しくて。そうそう、このランチボックスの容器を売ってほしいとも言われたんですよ」
晴音の声が高い。智晃を見る目はキラキラして、興奮で少し赤みの差した頬に、熱があるんじゃないかと手を伸ばしそうになる。
同時に、初めて隣に乗せた彼女も、景色がかわるたびにそんな空気を垣間見せていたなと思い出した。彼女は晴音のように無邪気にはしゃいだりはしないけれど、表情はとても読みやすい。仕事柄必要なスキルでもあるし、長年晴音の表情を読んできたこともあって、長けているほうだけれど、本当はもっとはしゃいだように笑う子なんじゃないかと思っている。
晴音に会うと、つきりと胸は痛む。
大事だと思うし、ずっとこんな笑顔を見せてほしいと願う。これからも支えていきたいと思う。それはもう刷り込みみたいなもので、消すことは無理な感情だ。けれど、そばにいる痛みはやわらいでいる。
晴音より大事にできるかわからない、ずっとそんな思いを抱えて彼女との逢瀬を繰り返した。
今は、晴音より大事にできたらいい、そう思っている。
だから、知りたい。
本当の名前を、まだ知らない姿を、彼女が抱えた愛も傷も苦しみも。
晴音だけしか見えなかった自分が、晴音を目の前にしても彼女を思い出す。その変化を受け入れられたことが救いになっている。
「そういえば、バレンタインデーのプレゼント、理人喜んでいた?」
「はい!あの時も、ソウくんのせいで智くんにつきあってもらって、なんか最近ソウくんそういうことが増えた気がします」
結婚して初めてのバレンタインデーに、晴音は理人へのプレゼントを本当はソウと選びに行く予定だった。クリスマスプレゼントを選ぶときはソウと双子のユウが付き添ったらしい。
晴音は基本的に一人で外出することはない。家の近所と病院だけは一人でも行動するが、病院でさえ一人の場合はタクシーを使う。何がきっかけで体調不良を起こすかわからないための制限だけれど、理人と付き合いだしてからは彼の過保護ぶりも拍車をかけた。
ソウから連絡があって、たまたま空いていたから晴音に付き合った。もし彼女の存在がなければ嘘をついてでも断ったと思う。いくら結婚したとはいえ、想いを残す晴音と二人きりは智晃には酷だ。応じたのは、もう大丈夫だという確信を得たかったから。
二人きりになっても晴音を傷つけるようなことはせずにいられるという確信。だからこうして車で送ることもできる。不意に、ソウはもしかして智晃の気持ちを確かめているのかもしれないなと思った。結婚しても晴音の味方でいられるかどうかを。
「ソウは就職活動中だろう?忙しいのは仕方がないよ。コネ入社にはまだ抵抗あるのかな?」
「ありがたいお話だとは思っているし、働きたい気持ちもあると思うんですけど、あがいているみたいです」
ソウなら普通に入社試験を受けても通る気はする。けれどいきなり選択肢が広がって、迷いが生じているのも見ていてわかった。
晴音の双子の弟たちは、兄であるユウは医師を目指して医学部に通っている。弟のソウは自宅で独立して仕事ができるようにとプログラマーとしての勉強をしていた。
病弱な姉の結婚の可能性は低いと考え、自分たちでずっと晴音を支えるつもりで、将来の道を決めていた。それは晴音の両親も同じだ。あの家族は晴音を中心に考えて生きてきた。智晃や理人が関わらなかったら、もしかしたらどこか壊れたんじゃないかと思うほど、ぎりぎりの状態で。
理人と晴音が付き合いだして支える手が増えたことで、彼らの世界も変化した。
ソウが優秀なことはずっと見てきたから知っている。就職がうまくいかないことなどないとは思うが、その場合は智晃の会社に来てもらってもいいと思っていた。そのまえに祖父が手をだしてきたせいで口にはできなくなったが。
コネ入社は昔からある割に、好意的には見られない。雇用主となった今、全く見知らぬ他人をいれるよりもよく知っている人間をいれるほうがリスクは低いと感じている。本人の能力も人間関係の築き方も見ていてわかるからだ。むしろ智晃の兄たちなどは、本人の希望であるにも関わらずコネ入社だと思われて、そのプレッシャーに苦労しているほどなのに。
智晃自身がコネを回避して就職したのでソウにアドバイスはしづらいが。
「インターンシップ利用して、いろんなところを見て決めればいい。ソウはよくやっているから大丈夫だよ」
「そうですね」
それから、晴音が最近はじめた治療についての話を聞いた。薬によっては副作用のほうがきつくて、使えないものもあったが、今回は今のところうまくいっているらしい。結婚そして小さな仕事、晴音の世界は少しずつ広がっている。
人と出会うということは世界が広がるということ。
智晃の世界にも新しい風が吹き始めた。
晴れの日も雨の日も雪の日もある。想像もつかないものに見舞われることもある。でも世界が広がるとはそういうことだ。
彼女との出会いで、広がる世界を智晃は想像した。
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