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第一章
第三話
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秘書部の男性は、部長と部長補佐である桧垣秋のみだ。以前は男性秘書も数人いたようで、いずれまた誰かが引き抜かれるだろうと噂になっている。
桧垣は副社長付の秘書のため、ここにいることはほとんどない。毎週月曜日のミーティング時にのみ顔を合わせる程度だ。彼は仕事を自分でこなしたいタイプらしく、コピーやお茶出しなどの雑用しか悠花たちに頼むことはなかった。
桧垣に指示されて悠花は隣室に入った。小さな部屋ながらも役員たちの話し合いに使われることもあるせいか、ソファーもテーブルも上質なものがどっしりと中央に配置されている。ここだけはブラインドではなく、刺繍が美しい生地の厚いカーテンで、窓にかかったレースが室内をさらに薄暗くしていた。
電気をつけなくていいのだろうかと思うけれど、ここを使用中だと知られたくないのかもしれない。桧垣は椅子に腰をおろすと、悠花にも向かいに座るよう促した。
「アキ」同様桧垣もメガネをかけているが、スクエアのフレームがますます桧垣をクールに見せていて印象がまったく違う。「アキ」は人に警戒心を与えない気さくな雰囲気を滲ませているが、桧垣は逆に誰にも近寄ってほしくないという空気をまとっている。
それだけでも悠花を緊張させるのに、桧垣は悠花がこの会社にきた事情を一番把握している人物だ。悠花が副社長のコネで中途採用されたうえ、事務とはいえ秘書部に配属されたことを快く思っていない。
何を言われるだろうかと身構えて浅く腰をおろした。
「昼休み中にすまない。だが私も時間がなくてね。単刀直入に聞くが、N社の工藤氏と君はどういう関係かな」
言葉通り単刀直入に聞かれて、悠花は桧垣の意図を考える間もなく答える。 「大学時代の知人です」
「では君は彼が「工藤」の御曹司だと知っているということだね」
「……存じています」
工藤は悠花にとってどう表現していいかわからない人物だ。彼は昔から穂高と仲が悪かったらしく、穂高に嫌がらせをするために悠花に近づいてきたようなところがあった。就職してすぐに工藤は海外勤務になったこともあって、以降この会社で再会するまで接点はなかった。
再会も最悪だった。
工藤は悠花が穂高と別れたことを知らなかった。だから、悠花を見かけてこの会社にいることを不思議に思いながらも「ようやくらしいな、結婚。おめでとうって言ってやるよ」と言ってきたのだ。会社の関係上工藤にも結婚式の招待状が届いていたらしく、悠花は知りたくもなかった穂高たちの結婚式の日取りを知らされた。
結婚すると知った日もショックだったけれど、結婚式の日を知らされて、もうどうしようもないのだと思わされたこともきつかった。いや、わかりきっていた現実を突きつけられてなお傷つく自分がショックだったのだ。
あの頃は「アキ」と会えない日が続いたこともあって、かなり情緒不安定になった。生理周期も狂い、精神的に不安定な姿を彼にさらしてしまった。「泣きそうな表情は最初と変わらない」と「アキ」に言われたとき、そんなことで過去の自分に戻ったことがやりきれなかった。
「私は、結婚はしません」と工藤には答えたけれど、彼は信じなかったようだ。招待状を詳しく見ていればわかることなのに、穂高の結婚相手は悠花だと思い込んでいたのだろう。あとで調べでもしたのか次に会ったときに、ものすごい剣幕で問いただされた。大学時代、工藤は会うたびに「神城とは別れろ」「おまえなんかつりあわない」と冗談交じりに言っていた。その通りになって喜べばいいのに、戸惑っていた彼がおかしかった。
「今でもプライベートで付き合いがあるのか?」
「ありません!!」
桧垣の問いにきっぱりと答える。桧垣が何を懸念しているかはわかっていた。悠花はおそらく桧垣には「男関係でトラぶった女」として見られている。勤めていた会社を辞めさせられて、この会社の副社長が同情して引き受けたお荷物だと。また男関係で問題を起こすのではないかと、桧垣はずっと悠花を監視していたようなところがある。
「だったら、身辺には注意するように。君の評判が落ちれば、君を引き受けた副社長の評判もおちる。そのことを君は自覚しているはずだ。工藤氏はそれでなくても目立つ。前の会社のように辞めさせられたくなければ、妙な噂がたたないよう気を付けてくれ」
悠花は小さく唇を噛みしめながらも見られたくなくて素直に頭をさげた。
「申し訳ありませんでした」
「では戻っていい」
悠花は辞めさせられたのではなく、自分で辞表を出した。でも周囲にはきっと辞めさせられたようにしか見えなかったのだろう。それぐらい辞める間際の悠花の評判は悪くなっていた。
穂高と付き合って得たものも大きかった、そして失ったものも。
もうどこかの御曹司といった人種とは関わりたくはない。それは穂高と別れて強く思ったことだ。
自分が貶められるのならいい、でも家族まで巻き込まれてはたまらない。
ただ恋しただけ、好きになっただけ、愛し合っただけ。
でも穂高との恋は周囲には認められなかった。
もし誰かを好きになることがあれば、普通の人がいい。悠花が願うのはそれだけだった。
***
「名月ちゃん」
「工藤さん!!」
会社帰り、桧垣に注意されたその日に工藤に遭遇して、悠花は咄嗟に周囲を見廻した。二人でいるところなど会社の人間にも、ましてや桧垣にも見られたくない。彼は目立つし、どうやら「工藤」の御曹司であることも知られているようだ。
「もう私に関わらないでください。今日、上司に注意を受けました」
「なんで?」
「なんで、って」
「名月ちゃんのプライベートな交友関係に会社が口出すことじゃないでしょう。それにしても仕事中も地味だったけど、終わってからも地味なんだね……制服のほうがまだ華やかに見えるよ」
工藤がまじまじと悠花のスーツ姿を見る。事務職員は基本的に制服なので通勤服の制約はない。常識的であればいいとされている。悠花は黒か紺かグレイのスーツが中心で「アキ」に会う金曜の夜だけコートの下に隠れる部分、ブラウスや襟元に華やかさを施す。今夜は平日なので工藤の指摘通り地味な格好だ。髪だって結んだままでほどきもしていない。
工藤は待ち伏せでもしていたのだろうか、穂高と別れた自分を面白がっているのか、声をかけてくる理由がわからない。もう穂高は隣にいないのだから、悠花など嫌がらせの道具にもなりはしないのに。
悠花は大通りからそれて、脇道に入った。できるだけ人目のつかない道を足早に歩いていく。立ち止まればおしまいな気がして、他人のふりをして足を動かした。
「名月ちゃん、ごはんでも食べようよ。オレおなかぺこぺこなんだけど」
工藤の言葉には答えない。振り向きもしない。速度を落とさないように歩きながら、お金がもったいないけれどタクシーでもつかまえて逃げたほうがいいだろうかと考える。
「名月ちゃん!」
ぐいっと腕がひかれて壁に押し付けられそうになる。幸いなのか工藤の腕がぶつかるのをふせいだけれど、逆に腕の中に囲まれた。穂高とも「アキ」とも違う男の腕は悠花に緊張と恐怖しか与えない。
「離して、ください!」
「どうして神城と別れたか教えてくれたら離す」
工藤の言葉に悠花はびっくりして顔をあげた。
「神城の結婚式の招待状が届いたとき、オレは神城の相手は君だと信じて疑わなかった。だから詳細も見ずに返事だけ出して……君に再会してびっくりした。
なんで君が神城のそばにいないのか。どうしてそこまで地味に装って、こんなところにいるのか。秘書としてならともかく、君は秘書事務のうえ契約社員……。
オレは君たちが、うざいくらい一緒にいたのを知っている。オレが海外に行っている間に何があった?調べようとしても、情報が閉ざされていて……調べようがない」
悠花の過去を知っている人間からは離れたはずだった。大学にも前の会社にもその周辺にも悠花は一切近づいていない。穂高と別れてからはこの会社とマンションの往復だけで、誰に見つかることもなくひっそりと生きてきた。休みの日でさえもよほどのことがなければ出かけない。
そうして時間とともに自分の記憶も、他人の記憶も風化していけばいいと願っていた。
「アキ」に会うまで、会ってからさえ、彼との逢瀬はバーとホテルという小さな世界だけ。
悠花は泣きそうになるのをこらえて、うつむいた。工藤の手も離れて、そっと距離をあけてくれる。「うざいぐらい一緒にいた」確かに彼は自分たちのことをよく知っている。疑問に思うのもわかる。日本にいなかった彼は悠花の噂も知らないのだろうし、調べてもわからなかったのならそれは神城側が制限しているのだろう。
どうして知りたがっているのか、穂高の弱みでも握りたいのか、工藤の意図などわかりたくもない。
「恋人同士が別れるなんてよくあることです。互いの気持ちが離れた。価値観が違った」
震えそうになる自分の声が嫌だった。でも言わなければいつまでも工藤は悠花につきまとうかもしれない。
「何より世界が違った……工藤さんもよく言っていたでしょう?私とあの人じゃ、世界が違うって」
泣いていないことを教えるために悠花は工藤を見上げる。驚きを隠さない工藤はけれどその目をめずらしく悲痛な様子で伏せる。
「あの人……か。神城は君を守れなかったんだな」
穂高は会社を守った。従業員を守った。彼が目指していたのは、会社の発展。そのためにしてきた努力を悠花はそばでずっと見てきた。どれだけの時間と情熱を費やして……跡を継ごうと目指したか。
「違います。私は会社を守ってってお願いしたんです。あの人はそれを受け入れてくれただけ」
別れを、最初に切り出したのは悠花だ。
穂高も切り出そうとして言えずにいたから、だから先に口にした。
彼はそれでも「あがいてみるから」と言ってくれた。別れに応じながら、わずかな可能性に望みをかけていた。結婚を条件に付きつけられた融資を、何とか回避するから待っていてほしいと。同時に、回避できなかったときは忘れてほしいと。
だめな可能性のほうが高いことを二人ともわかっていた。
それでも婚約が発表されるぎりぎりまで悠花は待った。そしてもう待つ必要はないと知らされた。
穂高はもうすぐ結婚する。
「だったら、オレのことも考えてほしい。あの頃は万に一つの可能性もないんだとあきらめた。でも神城と別れたのなら……オレと」
「工藤さん!!」
それ以上言われたくなくて名前を呼んだ。
「私、もう二度と御曹司と呼ばれる人とお付き合いはしないと決めたんです。会社か恋人か選ばないといけないような人とは関わりたくない。私を、これ以上、傷つけないで……」
桧垣は副社長付の秘書のため、ここにいることはほとんどない。毎週月曜日のミーティング時にのみ顔を合わせる程度だ。彼は仕事を自分でこなしたいタイプらしく、コピーやお茶出しなどの雑用しか悠花たちに頼むことはなかった。
桧垣に指示されて悠花は隣室に入った。小さな部屋ながらも役員たちの話し合いに使われることもあるせいか、ソファーもテーブルも上質なものがどっしりと中央に配置されている。ここだけはブラインドではなく、刺繍が美しい生地の厚いカーテンで、窓にかかったレースが室内をさらに薄暗くしていた。
電気をつけなくていいのだろうかと思うけれど、ここを使用中だと知られたくないのかもしれない。桧垣は椅子に腰をおろすと、悠花にも向かいに座るよう促した。
「アキ」同様桧垣もメガネをかけているが、スクエアのフレームがますます桧垣をクールに見せていて印象がまったく違う。「アキ」は人に警戒心を与えない気さくな雰囲気を滲ませているが、桧垣は逆に誰にも近寄ってほしくないという空気をまとっている。
それだけでも悠花を緊張させるのに、桧垣は悠花がこの会社にきた事情を一番把握している人物だ。悠花が副社長のコネで中途採用されたうえ、事務とはいえ秘書部に配属されたことを快く思っていない。
何を言われるだろうかと身構えて浅く腰をおろした。
「昼休み中にすまない。だが私も時間がなくてね。単刀直入に聞くが、N社の工藤氏と君はどういう関係かな」
言葉通り単刀直入に聞かれて、悠花は桧垣の意図を考える間もなく答える。 「大学時代の知人です」
「では君は彼が「工藤」の御曹司だと知っているということだね」
「……存じています」
工藤は悠花にとってどう表現していいかわからない人物だ。彼は昔から穂高と仲が悪かったらしく、穂高に嫌がらせをするために悠花に近づいてきたようなところがあった。就職してすぐに工藤は海外勤務になったこともあって、以降この会社で再会するまで接点はなかった。
再会も最悪だった。
工藤は悠花が穂高と別れたことを知らなかった。だから、悠花を見かけてこの会社にいることを不思議に思いながらも「ようやくらしいな、結婚。おめでとうって言ってやるよ」と言ってきたのだ。会社の関係上工藤にも結婚式の招待状が届いていたらしく、悠花は知りたくもなかった穂高たちの結婚式の日取りを知らされた。
結婚すると知った日もショックだったけれど、結婚式の日を知らされて、もうどうしようもないのだと思わされたこともきつかった。いや、わかりきっていた現実を突きつけられてなお傷つく自分がショックだったのだ。
あの頃は「アキ」と会えない日が続いたこともあって、かなり情緒不安定になった。生理周期も狂い、精神的に不安定な姿を彼にさらしてしまった。「泣きそうな表情は最初と変わらない」と「アキ」に言われたとき、そんなことで過去の自分に戻ったことがやりきれなかった。
「私は、結婚はしません」と工藤には答えたけれど、彼は信じなかったようだ。招待状を詳しく見ていればわかることなのに、穂高の結婚相手は悠花だと思い込んでいたのだろう。あとで調べでもしたのか次に会ったときに、ものすごい剣幕で問いただされた。大学時代、工藤は会うたびに「神城とは別れろ」「おまえなんかつりあわない」と冗談交じりに言っていた。その通りになって喜べばいいのに、戸惑っていた彼がおかしかった。
「今でもプライベートで付き合いがあるのか?」
「ありません!!」
桧垣の問いにきっぱりと答える。桧垣が何を懸念しているかはわかっていた。悠花はおそらく桧垣には「男関係でトラぶった女」として見られている。勤めていた会社を辞めさせられて、この会社の副社長が同情して引き受けたお荷物だと。また男関係で問題を起こすのではないかと、桧垣はずっと悠花を監視していたようなところがある。
「だったら、身辺には注意するように。君の評判が落ちれば、君を引き受けた副社長の評判もおちる。そのことを君は自覚しているはずだ。工藤氏はそれでなくても目立つ。前の会社のように辞めさせられたくなければ、妙な噂がたたないよう気を付けてくれ」
悠花は小さく唇を噛みしめながらも見られたくなくて素直に頭をさげた。
「申し訳ありませんでした」
「では戻っていい」
悠花は辞めさせられたのではなく、自分で辞表を出した。でも周囲にはきっと辞めさせられたようにしか見えなかったのだろう。それぐらい辞める間際の悠花の評判は悪くなっていた。
穂高と付き合って得たものも大きかった、そして失ったものも。
もうどこかの御曹司といった人種とは関わりたくはない。それは穂高と別れて強く思ったことだ。
自分が貶められるのならいい、でも家族まで巻き込まれてはたまらない。
ただ恋しただけ、好きになっただけ、愛し合っただけ。
でも穂高との恋は周囲には認められなかった。
もし誰かを好きになることがあれば、普通の人がいい。悠花が願うのはそれだけだった。
***
「名月ちゃん」
「工藤さん!!」
会社帰り、桧垣に注意されたその日に工藤に遭遇して、悠花は咄嗟に周囲を見廻した。二人でいるところなど会社の人間にも、ましてや桧垣にも見られたくない。彼は目立つし、どうやら「工藤」の御曹司であることも知られているようだ。
「もう私に関わらないでください。今日、上司に注意を受けました」
「なんで?」
「なんで、って」
「名月ちゃんのプライベートな交友関係に会社が口出すことじゃないでしょう。それにしても仕事中も地味だったけど、終わってからも地味なんだね……制服のほうがまだ華やかに見えるよ」
工藤がまじまじと悠花のスーツ姿を見る。事務職員は基本的に制服なので通勤服の制約はない。常識的であればいいとされている。悠花は黒か紺かグレイのスーツが中心で「アキ」に会う金曜の夜だけコートの下に隠れる部分、ブラウスや襟元に華やかさを施す。今夜は平日なので工藤の指摘通り地味な格好だ。髪だって結んだままでほどきもしていない。
工藤は待ち伏せでもしていたのだろうか、穂高と別れた自分を面白がっているのか、声をかけてくる理由がわからない。もう穂高は隣にいないのだから、悠花など嫌がらせの道具にもなりはしないのに。
悠花は大通りからそれて、脇道に入った。できるだけ人目のつかない道を足早に歩いていく。立ち止まればおしまいな気がして、他人のふりをして足を動かした。
「名月ちゃん、ごはんでも食べようよ。オレおなかぺこぺこなんだけど」
工藤の言葉には答えない。振り向きもしない。速度を落とさないように歩きながら、お金がもったいないけれどタクシーでもつかまえて逃げたほうがいいだろうかと考える。
「名月ちゃん!」
ぐいっと腕がひかれて壁に押し付けられそうになる。幸いなのか工藤の腕がぶつかるのをふせいだけれど、逆に腕の中に囲まれた。穂高とも「アキ」とも違う男の腕は悠花に緊張と恐怖しか与えない。
「離して、ください!」
「どうして神城と別れたか教えてくれたら離す」
工藤の言葉に悠花はびっくりして顔をあげた。
「神城の結婚式の招待状が届いたとき、オレは神城の相手は君だと信じて疑わなかった。だから詳細も見ずに返事だけ出して……君に再会してびっくりした。
なんで君が神城のそばにいないのか。どうしてそこまで地味に装って、こんなところにいるのか。秘書としてならともかく、君は秘書事務のうえ契約社員……。
オレは君たちが、うざいくらい一緒にいたのを知っている。オレが海外に行っている間に何があった?調べようとしても、情報が閉ざされていて……調べようがない」
悠花の過去を知っている人間からは離れたはずだった。大学にも前の会社にもその周辺にも悠花は一切近づいていない。穂高と別れてからはこの会社とマンションの往復だけで、誰に見つかることもなくひっそりと生きてきた。休みの日でさえもよほどのことがなければ出かけない。
そうして時間とともに自分の記憶も、他人の記憶も風化していけばいいと願っていた。
「アキ」に会うまで、会ってからさえ、彼との逢瀬はバーとホテルという小さな世界だけ。
悠花は泣きそうになるのをこらえて、うつむいた。工藤の手も離れて、そっと距離をあけてくれる。「うざいぐらい一緒にいた」確かに彼は自分たちのことをよく知っている。疑問に思うのもわかる。日本にいなかった彼は悠花の噂も知らないのだろうし、調べてもわからなかったのならそれは神城側が制限しているのだろう。
どうして知りたがっているのか、穂高の弱みでも握りたいのか、工藤の意図などわかりたくもない。
「恋人同士が別れるなんてよくあることです。互いの気持ちが離れた。価値観が違った」
震えそうになる自分の声が嫌だった。でも言わなければいつまでも工藤は悠花につきまとうかもしれない。
「何より世界が違った……工藤さんもよく言っていたでしょう?私とあの人じゃ、世界が違うって」
泣いていないことを教えるために悠花は工藤を見上げる。驚きを隠さない工藤はけれどその目をめずらしく悲痛な様子で伏せる。
「あの人……か。神城は君を守れなかったんだな」
穂高は会社を守った。従業員を守った。彼が目指していたのは、会社の発展。そのためにしてきた努力を悠花はそばでずっと見てきた。どれだけの時間と情熱を費やして……跡を継ごうと目指したか。
「違います。私は会社を守ってってお願いしたんです。あの人はそれを受け入れてくれただけ」
別れを、最初に切り出したのは悠花だ。
穂高も切り出そうとして言えずにいたから、だから先に口にした。
彼はそれでも「あがいてみるから」と言ってくれた。別れに応じながら、わずかな可能性に望みをかけていた。結婚を条件に付きつけられた融資を、何とか回避するから待っていてほしいと。同時に、回避できなかったときは忘れてほしいと。
だめな可能性のほうが高いことを二人ともわかっていた。
それでも婚約が発表されるぎりぎりまで悠花は待った。そしてもう待つ必要はないと知らされた。
穂高はもうすぐ結婚する。
「だったら、オレのことも考えてほしい。あの頃は万に一つの可能性もないんだとあきらめた。でも神城と別れたのなら……オレと」
「工藤さん!!」
それ以上言われたくなくて名前を呼んだ。
「私、もう二度と御曹司と呼ばれる人とお付き合いはしないと決めたんです。会社か恋人か選ばないといけないような人とは関わりたくない。私を、これ以上、傷つけないで……」
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