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第一章
第一話
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すっと支えられた左手、その薬指にサイズのぴったりした指輪がはめられる。
光に煌めくそれを眺めた後見上げると、彼はいつも以上に甘い目で悠花を見つめた。
「悠花……いつか結婚しよう。これはその約束のしるし。悠花はオレのもので、オレは悠花のものだ。ずっと、永遠に」
何か言いたいと思うのに、言葉より先に涙がこぼれた。悠花はひっくと泣きながら彼に返事をする。
「穂高……穂高、大好き。私は穂高のものよ、永遠に」
気持ちがどんなに真実でも、そこに嘘がなくても、叶えられない現実があることをこのときの悠花は知らなかった。
互いの気持ちさえ確かなら、約束が違えられることなどないと信じていた。
別れを選んだあの日でさえも。
心から愛した穂高が結婚する日、告白されて初めてキスをした同じ海で悠花はもらった指輪を捨てた。
穂高以外愛せない、そう信じていた悠花の心は、金曜日の夜にしか会わない、名前も知らない男と重ねた逢瀬によって救われた。
「名前を教え合ったとき、僕たちの恋をはじめよう」
指輪を海に捨てた日に、ようやくできたメール。
「あなたの名前を教えてください」
***
入力を依頼された資料にひと段落つくと、悠花はふっと背中を椅子にもたらせた。凝った肩をほぐすべく軽くまわす。
「名月さん、お客様にお茶をお願い!」
扉から顔だけをだした女性にそう頼まれて「わかりました」と返事をした。
悠花は契約社員として、この会社の秘書部に在籍している。ただし秘書としてではなく、秘書部の事務作業の補佐として。この会社は各部署に事務職専用の職員が配置されていて、様々な雑用を引き受けている。秘書は私服だが、事務職員には制服が支給されていて、秘書のつく部長職や役員の人たちと、顔を合わせることはほとんどない。あくまでも裏方だ。
実際のお茶出しも秘書の人たちがやるため、お茶の準備までが悠花の仕事になる。悠花は今いらしているお客様を確認して、好みにあった物を給湯室で準備した。人によってはカフェインを控えていたり、コーヒーは苦手だったり、冬でも冷たいものを好む人もいる。初めて来社した人の好みは把握しづらいが、何度か来ている人ならばその好みに合わせて出すのが心遣いだ。
準備した飲み物をワゴンに乗せて渡すと、そのまま休憩に入っていいと言われ、悠花は自分の荷物からお弁当を取り出した。
今年の冬は雪の降る日が多かったけれど、今月に入ってからは嘘のようにお天気のいい日が続いている。高層階の役員フロアの一部にある秘書部の部屋からは、青空が広がって見えて、屋上が解放されていればそこでお昼をとるのも気持ちがいいだろうなと思えた。
この会社には社員食堂もあるし、各フロアに休憩室もある。更衣室の中にもテーブルが設置されていて、どこで昼食をとってもいい。けれど社員食堂に行ったことは一度もないし、秘書部以外の場所でお弁当を広げたこともなかった。
いつも通りに、パーテーションで区切られた壁際のテーブルにお弁当を準備する。同じ事務職員の中には、休憩時ぐらい部屋から出たいと外に行く人が多いが、悠花にとってはここが一番安心できる場所だった。
目立たず、誰にも自分の存在を知られることなく、静かに仕事だけに集中する。
変化のない穏やかな日々を過ごすこと、それが悠花の願いだ。
わずらわしい噂話を聞くこともなければ、渦中に入ることもない。仕事の関係者以外と交流する必要もないし、関わりが少なければ、トラブルに巻き込まれることもない。ただ淡々と与えられた仕事をこなせばいい。契約社員としてここへきてから、悠花が頑なに守っていることだ。
悠花は再び給湯室に向かうと、今日はほうじ茶の気分だなと思って、個人で準備していた茶葉の缶をあけた。かりがねのほうじ茶は茎の部分を使用している茶葉のため、苦味がなくまろやかだ。急須に茶葉をいれて置くと、不意に肘がひっぱられて悠花は給湯室の奥にひきずられた。
驚いて顔をあげると、見知ったその顔に咄嗟に出かけた悲鳴をおさえるために手で口を覆う。
「く、どうさん、どうして」
「こんにちは、名月ちゃん。今からお昼かな?」
悪気なくにっこり笑う工藤を悠花は小さく睨みつけた。工藤の胸には来客用のIDカードがぶらさがっている。おそらく仕事の関係でこの会社に来たのだろうけれど、彼が用事があるのは営業部や企画部であって、このフロアではないはずだ。
「工藤さんはお仕事ですよね」
「今打合せが終わったところ。名月ちゃんもそろそろお昼の時間かなあと思ってランチを誘いにきたんだけど」
工藤はにっこりと笑って首を傾ける。こげ茶色のふわふわの髪が揺れ、切れ長の目が悠花の態度を面白がっていた。顔だちの整っている彼は自分が女にどう見られているか、どうすれば魅力的に見えるか計算して動いている。それは大学時代から変わらない。
「私はお弁当を持ってきています」
「家庭的だねえ……オレも名月ちゃんのお弁当食べたいなあ」
「残り物をつめているだけですし、工藤さんのお口には合わないと思います。それより手を離してください」
今、気づいたかのように「ああ、ごめん」と言って工藤は離れた。こんなところを他の社員に見られたら、何を言われるかわからない。彼が仕事の関係でこの会社にきはじめたのは年末からだ。それから、取引先に素敵な人がいるという噂が悠花の耳に入るまでは少し時間があった。噂を聞いたとしても悠花は興味がないし、関わろうとも思っていない。けれどそのときに名前ぐらいは把握しておくべきだったと後悔している。工藤がこの会社に来ていると知っていれば、避けることもできたはずだ。
「じゃあ、今度食事でもどう?」
「行きません」
「イタリアンがいいかなフレンチ?それとも和食」
「工藤さん……私が工藤さんとお食事に行くことはありません」
工藤との会話がまともに成立したことはない。彼は悠花をからかっているだけで、本気で誘いをかけているわけではないからだ。大学時代から、この男はただからかうためだけに声をかけてくる。
工藤に背中を向けて、悠花は急須にお湯を注いだ。いつもならこのいい香りに癒されるのに、今は楽しむ余裕もなく湯呑と急須をお盆にのせた。部屋に入ってしまえば工藤だって他社の部署の中にまではこないだろう。
「神城に義理立てする必要はないんだろう」
「もう関係ないです。だから……工藤さんが私をからかっても意味はないんですよ」
「名月ちゃん!」
給湯室を出て歩いていると、エレベーターから秘書の人たちが出てくる。彼女たちは工藤の存在に気が付くと「工藤さん、どうされたんですか?」と高めの声で聞いてきた。彼が、ちょっと用があってと誤魔化しているのが聞こえ、悠花はほっとして自分のテリトリーに入った。
悠花の世界は会社のこの場所とマンションの自分の小さな部屋だけだ。ずっとそこを行き来するだけで、何の変化も望まなかった。今でもこの世界が壊れなければいいと思っている。
でも、月に数回の金曜日だけこの日常を離れていく。
最初はおそるおそる飛び込んだそこにいつからか癒され、悠花はだんだんとその世界も守りたいと思い始めていた。少しだけ広がる世界に、導いてくれる手があれば、怖がらずについていける。
テーブルの上にお盆をおくと、悠花は左手首をぎゅっと握りしめて目を閉じた。
祈る。
私はあなたと繋がっている。この細いブレスレットだけが私を救う鎖。
***
六月、友人の結婚式の日に覆すことのできない現実を知った。
互いが望んだ別れではなかったからこそ余計に、別れた恋人がいつか迎えに来るかもしれないと、心のどこかでずっと期待していた。それが二度と叶うことのない妄想に成り下がった夜に、悠花は訪れたバーで男と出会った。
滅茶苦茶になって壊れてしまいたいと思いながら、低俗な誘いをかけることもできずに、バーを一人で出た。
一日中降りそうで、降らなかった雨。絹糸のように細いそれがようやく空から降り注ぐ。
泣きそうで泣けない自分と重なって、折りたたみ傘を持っていたにも関わらず、悠花は濡れたまま歩き始めた。そんな悠花に傘を差しだしてくれた人。バーで偶然一緒だっただけの初対面の男がしてくれたおせっかいに、悠花は縋りついた。
けれど彼は悠花の誘いにのることもなく、ただ一緒にいてくれた。
心細くて伸ばした手を、そっと包んでくれた。
出会ったバーに月に数回、金曜日の夜に定期的に通うことで、偶然と作為を繰り返し、悠花は名前も知らない男との逢瀬を重ねた。
そして一線を越えた。
眉をひそめられるきっかけで始まり、共感など得られない関係。
体だけの都合のいい相手にされているのだと、汚らわしい関係だと非難さえ受けるだろう。悠花自身でさえ、恋人とは言えない人とそんな関係を築くとは思っていなかった。
彼は「忘れられない大事な人がいる」と告げた。
悠花も「今でも愛している人がいる」と語った。
互いに誰よりも大事な人を心に抱きながら、相手との未来がないが故に、傷の舐めあいとも同情しあいともいえる曖昧さの中で少しずつ少しずつ歩み寄ってきたのだ。
梅雨の時期に出会った彼と重ねてきた逢瀬は、悠花の頑なな心を少しずつ解して、関係を変化させてきた。何も言わずとも伝わってくる愛情に縋り、言葉にできない気持ちの代償として物を託しあって。
互いの名前を教え合ったとき、二人の恋をはじめよう、そう約束して。
知っているのは仮の名前とメールアドレスだけ。
男は「アキ」、悠花は「ナツ」。
夏に出会い、秋を過ごし、冬を乗り越え、春を迎える。
春を迎える頃には……彼との恋をはじめたい。
バレンタインデーを境にはじまった、たわいのないメールのやりとり。悠花は無機質な文字の羅列が届ける気持ちに、笑みを浮かべた。
「今夜は残業になりそうです。年度末は忙しいね」
たったそれだけの文字を指でなぞる。仕方なさそうに首をすくめる彼の姿が思い浮かんで、早く仕事が終わりますようにと願って返事を出す。
大丈夫、今度こそ穂高を忘れる。
今度こそ素直に「アキ」の胸に飛び込んで、本当の名前を教えてもらう。
そして「私の名前は名月悠花です」と言うのだ。「ナツ」は名字からとった名前だと彼はすぐに気が付くだろうか。悠花と同じように彼の名前の中に「アキ」の文字は入っているだろうか。
もう一度恋をはじめる。
穂高を愛した以上に、「アキ」を愛していく。
光に煌めくそれを眺めた後見上げると、彼はいつも以上に甘い目で悠花を見つめた。
「悠花……いつか結婚しよう。これはその約束のしるし。悠花はオレのもので、オレは悠花のものだ。ずっと、永遠に」
何か言いたいと思うのに、言葉より先に涙がこぼれた。悠花はひっくと泣きながら彼に返事をする。
「穂高……穂高、大好き。私は穂高のものよ、永遠に」
気持ちがどんなに真実でも、そこに嘘がなくても、叶えられない現実があることをこのときの悠花は知らなかった。
互いの気持ちさえ確かなら、約束が違えられることなどないと信じていた。
別れを選んだあの日でさえも。
心から愛した穂高が結婚する日、告白されて初めてキスをした同じ海で悠花はもらった指輪を捨てた。
穂高以外愛せない、そう信じていた悠花の心は、金曜日の夜にしか会わない、名前も知らない男と重ねた逢瀬によって救われた。
「名前を教え合ったとき、僕たちの恋をはじめよう」
指輪を海に捨てた日に、ようやくできたメール。
「あなたの名前を教えてください」
***
入力を依頼された資料にひと段落つくと、悠花はふっと背中を椅子にもたらせた。凝った肩をほぐすべく軽くまわす。
「名月さん、お客様にお茶をお願い!」
扉から顔だけをだした女性にそう頼まれて「わかりました」と返事をした。
悠花は契約社員として、この会社の秘書部に在籍している。ただし秘書としてではなく、秘書部の事務作業の補佐として。この会社は各部署に事務職専用の職員が配置されていて、様々な雑用を引き受けている。秘書は私服だが、事務職員には制服が支給されていて、秘書のつく部長職や役員の人たちと、顔を合わせることはほとんどない。あくまでも裏方だ。
実際のお茶出しも秘書の人たちがやるため、お茶の準備までが悠花の仕事になる。悠花は今いらしているお客様を確認して、好みにあった物を給湯室で準備した。人によってはカフェインを控えていたり、コーヒーは苦手だったり、冬でも冷たいものを好む人もいる。初めて来社した人の好みは把握しづらいが、何度か来ている人ならばその好みに合わせて出すのが心遣いだ。
準備した飲み物をワゴンに乗せて渡すと、そのまま休憩に入っていいと言われ、悠花は自分の荷物からお弁当を取り出した。
今年の冬は雪の降る日が多かったけれど、今月に入ってからは嘘のようにお天気のいい日が続いている。高層階の役員フロアの一部にある秘書部の部屋からは、青空が広がって見えて、屋上が解放されていればそこでお昼をとるのも気持ちがいいだろうなと思えた。
この会社には社員食堂もあるし、各フロアに休憩室もある。更衣室の中にもテーブルが設置されていて、どこで昼食をとってもいい。けれど社員食堂に行ったことは一度もないし、秘書部以外の場所でお弁当を広げたこともなかった。
いつも通りに、パーテーションで区切られた壁際のテーブルにお弁当を準備する。同じ事務職員の中には、休憩時ぐらい部屋から出たいと外に行く人が多いが、悠花にとってはここが一番安心できる場所だった。
目立たず、誰にも自分の存在を知られることなく、静かに仕事だけに集中する。
変化のない穏やかな日々を過ごすこと、それが悠花の願いだ。
わずらわしい噂話を聞くこともなければ、渦中に入ることもない。仕事の関係者以外と交流する必要もないし、関わりが少なければ、トラブルに巻き込まれることもない。ただ淡々と与えられた仕事をこなせばいい。契約社員としてここへきてから、悠花が頑なに守っていることだ。
悠花は再び給湯室に向かうと、今日はほうじ茶の気分だなと思って、個人で準備していた茶葉の缶をあけた。かりがねのほうじ茶は茎の部分を使用している茶葉のため、苦味がなくまろやかだ。急須に茶葉をいれて置くと、不意に肘がひっぱられて悠花は給湯室の奥にひきずられた。
驚いて顔をあげると、見知ったその顔に咄嗟に出かけた悲鳴をおさえるために手で口を覆う。
「く、どうさん、どうして」
「こんにちは、名月ちゃん。今からお昼かな?」
悪気なくにっこり笑う工藤を悠花は小さく睨みつけた。工藤の胸には来客用のIDカードがぶらさがっている。おそらく仕事の関係でこの会社に来たのだろうけれど、彼が用事があるのは営業部や企画部であって、このフロアではないはずだ。
「工藤さんはお仕事ですよね」
「今打合せが終わったところ。名月ちゃんもそろそろお昼の時間かなあと思ってランチを誘いにきたんだけど」
工藤はにっこりと笑って首を傾ける。こげ茶色のふわふわの髪が揺れ、切れ長の目が悠花の態度を面白がっていた。顔だちの整っている彼は自分が女にどう見られているか、どうすれば魅力的に見えるか計算して動いている。それは大学時代から変わらない。
「私はお弁当を持ってきています」
「家庭的だねえ……オレも名月ちゃんのお弁当食べたいなあ」
「残り物をつめているだけですし、工藤さんのお口には合わないと思います。それより手を離してください」
今、気づいたかのように「ああ、ごめん」と言って工藤は離れた。こんなところを他の社員に見られたら、何を言われるかわからない。彼が仕事の関係でこの会社にきはじめたのは年末からだ。それから、取引先に素敵な人がいるという噂が悠花の耳に入るまでは少し時間があった。噂を聞いたとしても悠花は興味がないし、関わろうとも思っていない。けれどそのときに名前ぐらいは把握しておくべきだったと後悔している。工藤がこの会社に来ていると知っていれば、避けることもできたはずだ。
「じゃあ、今度食事でもどう?」
「行きません」
「イタリアンがいいかなフレンチ?それとも和食」
「工藤さん……私が工藤さんとお食事に行くことはありません」
工藤との会話がまともに成立したことはない。彼は悠花をからかっているだけで、本気で誘いをかけているわけではないからだ。大学時代から、この男はただからかうためだけに声をかけてくる。
工藤に背中を向けて、悠花は急須にお湯を注いだ。いつもならこのいい香りに癒されるのに、今は楽しむ余裕もなく湯呑と急須をお盆にのせた。部屋に入ってしまえば工藤だって他社の部署の中にまではこないだろう。
「神城に義理立てする必要はないんだろう」
「もう関係ないです。だから……工藤さんが私をからかっても意味はないんですよ」
「名月ちゃん!」
給湯室を出て歩いていると、エレベーターから秘書の人たちが出てくる。彼女たちは工藤の存在に気が付くと「工藤さん、どうされたんですか?」と高めの声で聞いてきた。彼が、ちょっと用があってと誤魔化しているのが聞こえ、悠花はほっとして自分のテリトリーに入った。
悠花の世界は会社のこの場所とマンションの自分の小さな部屋だけだ。ずっとそこを行き来するだけで、何の変化も望まなかった。今でもこの世界が壊れなければいいと思っている。
でも、月に数回の金曜日だけこの日常を離れていく。
最初はおそるおそる飛び込んだそこにいつからか癒され、悠花はだんだんとその世界も守りたいと思い始めていた。少しだけ広がる世界に、導いてくれる手があれば、怖がらずについていける。
テーブルの上にお盆をおくと、悠花は左手首をぎゅっと握りしめて目を閉じた。
祈る。
私はあなたと繋がっている。この細いブレスレットだけが私を救う鎖。
***
六月、友人の結婚式の日に覆すことのできない現実を知った。
互いが望んだ別れではなかったからこそ余計に、別れた恋人がいつか迎えに来るかもしれないと、心のどこかでずっと期待していた。それが二度と叶うことのない妄想に成り下がった夜に、悠花は訪れたバーで男と出会った。
滅茶苦茶になって壊れてしまいたいと思いながら、低俗な誘いをかけることもできずに、バーを一人で出た。
一日中降りそうで、降らなかった雨。絹糸のように細いそれがようやく空から降り注ぐ。
泣きそうで泣けない自分と重なって、折りたたみ傘を持っていたにも関わらず、悠花は濡れたまま歩き始めた。そんな悠花に傘を差しだしてくれた人。バーで偶然一緒だっただけの初対面の男がしてくれたおせっかいに、悠花は縋りついた。
けれど彼は悠花の誘いにのることもなく、ただ一緒にいてくれた。
心細くて伸ばした手を、そっと包んでくれた。
出会ったバーに月に数回、金曜日の夜に定期的に通うことで、偶然と作為を繰り返し、悠花は名前も知らない男との逢瀬を重ねた。
そして一線を越えた。
眉をひそめられるきっかけで始まり、共感など得られない関係。
体だけの都合のいい相手にされているのだと、汚らわしい関係だと非難さえ受けるだろう。悠花自身でさえ、恋人とは言えない人とそんな関係を築くとは思っていなかった。
彼は「忘れられない大事な人がいる」と告げた。
悠花も「今でも愛している人がいる」と語った。
互いに誰よりも大事な人を心に抱きながら、相手との未来がないが故に、傷の舐めあいとも同情しあいともいえる曖昧さの中で少しずつ少しずつ歩み寄ってきたのだ。
梅雨の時期に出会った彼と重ねてきた逢瀬は、悠花の頑なな心を少しずつ解して、関係を変化させてきた。何も言わずとも伝わってくる愛情に縋り、言葉にできない気持ちの代償として物を託しあって。
互いの名前を教え合ったとき、二人の恋をはじめよう、そう約束して。
知っているのは仮の名前とメールアドレスだけ。
男は「アキ」、悠花は「ナツ」。
夏に出会い、秋を過ごし、冬を乗り越え、春を迎える。
春を迎える頃には……彼との恋をはじめたい。
バレンタインデーを境にはじまった、たわいのないメールのやりとり。悠花は無機質な文字の羅列が届ける気持ちに、笑みを浮かべた。
「今夜は残業になりそうです。年度末は忙しいね」
たったそれだけの文字を指でなぞる。仕方なさそうに首をすくめる彼の姿が思い浮かんで、早く仕事が終わりますようにと願って返事を出す。
大丈夫、今度こそ穂高を忘れる。
今度こそ素直に「アキ」の胸に飛び込んで、本当の名前を教えてもらう。
そして「私の名前は名月悠花です」と言うのだ。「ナツ」は名字からとった名前だと彼はすぐに気が付くだろうか。悠花と同じように彼の名前の中に「アキ」の文字は入っているだろうか。
もう一度恋をはじめる。
穂高を愛した以上に、「アキ」を愛していく。
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