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深化2
アンフェールと薬学研究所の変な匂いと有能なベロニカ
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本日もアンフェールはヴィシュニア薬学研究所に出勤している。
ベロニカの研究室の扉。その隙間から良くない感じがにじみ出ている。
アンフェールは顔をしかめた。
(悪臭……? 何かガスでも発生したのではあるまいな?)
アンフェールは慌てて扉を開けた。ベロニカに何かあったのでは、と心配になったのだ。
バタンと大きな音をさせて扉を開けるアンフェール。
そこには蒸留装置を使い、何かを濃縮するベロニカの姿があった。軽いマスク一枚。特に問題無さそうにピンピンしている。
しかしアンフェールはだめだ。
まるで毒素を吸ったように神経がピクピクしてしまう。
慌てて扉を閉じ、飛ぶように駆けて下の階に逃げ出した。
窓を開け、外の空気をスーハーする。
(何なんだ、あれは。まるでアリウムを濃縮したような不快な匂いだ。なんでベロニカは大丈夫なんだ。臭いと思わないのか?)
アンフェールはぶちぶちと心の中で文句を言いながら、身体中の空気を入れ替える様に呼吸を繰り返した。
「アンフェール?」
ベロニカに声を掛けられた。
様子のおかしいアンフェールを追いかけてきてくれたらしい。
しかし近づいてくるベロニカから、あの部屋に籠っていた悪臭が漂ってくる。アンフェールは鼻をつまんだ。
「おばうへ、くしゃいのれ、はなれてくらさい」
「えっ、ひどい。心配したのに」
ベロニカは可愛い甥っ子から臭いと言われてショックを受けている。
アンフェールから離れ、白衣をクンクン嗅ぎながら「臭うかなぁ?」と呟き首をひねっている。
「何を蒸留していたんですか……有毒ガスか何かが発生したのかと思いましたよ」
「ええ、そんなに悪いもの蒸留してないよ。自然なやつだよ。蒸留作業はもう終わったから、大丈夫だよ」
しかしアンフェールは警戒する。
あの毒ガスレベルの悪臭だ。ちょっと換気したぐらいじゃ抜けないだろうと思うのだ。
「午後に兄上が来るとおっしゃってたので、それまでお茶してきます。しっかりじっくり換気しておいてくださいね」
「分かったよー。お掃除もしておくね」
ちゃんと片付けないベロニカは、よくグレンに説教されるらしい。
グレンが来ると言うだけで掃除をする気になるのだから凄い。番はベロニカの操縦が上手いに違いない。
何はともあれ、避難だ。
あの匂いはアンフェールを殺しに来ていると思うのだ。
◇◇◇
そして、午後。
研究室の扉をノックする音に「どうぞ」と返事をするとグレンが入ってきた。概ね時間通りだ。
ベロニカを呼ぶために彼女の部屋をノックする。
部屋から出てきた彼女はちゃんと髪を梳き、綺麗に結んでいた。ノーメークは相変わらずだが、日頃と比べれば人間レベルに身だしなみが上がっている。
凄い。ベロニカの操縦方法をグレンに聞きたい。
アンフェールは感心してしまった。
「お邪魔します、叔母上、アンフェール」
「いらっしゃい~、グレン」
「いらっしゃいませ、兄上」
アンフェールはグレンにソファーへの着座を勧め、お茶とお菓子を出した。
アンフェールはお客様を迎える立場としてベロニカの隣に座ろうとしたのだが、グレンに「こちらに」と声を掛けられてしまった。
なのでグレンの隣に座る。
ベロニカはなんか、こう、微妙な顔をしてグレンの方を見ている。その意味については深く考えないことにした。
「アンフェール、シタールの件について叔母上に話そうと思う。いいだろうか?」
「はい」
もし何かあった際には、王族だし、ベロニカにも関わる事だ。
証拠のある話でなくても、耳に入れていていいだろう。
グレンはベロニカにシタールが魔導兵器を作成している事。それが旧ヴィシュニア王朝時代の兵器の複製品であることを伝えた。
ベロニカはビックリしていたけれど、真剣な顔をして聞いてくれた。
「教えてくれてありがとう。わたし、魔導兵器は名前しか知らないわ」
ベロニカはううんと唸り、考え込むように口元に手を当てた。自分の出来る事を考えているのかもしれない。
グレンは鞄から一冊の本を出した。
それはとても古い本だった。
「書庫の生き字引に魔導兵器の資料が無いかと聞いた。それで貸してくれたのがこれだ」
ベロニカはそれを手に取りパラ見する。眉を寄せ、難しい顔をするので貸してもらった。
なるほど。文法が若干古い。読めなくはないが読みにくい本かもしれない。
「その本には魔導兵器による被害が描かれていた。炎が雨のように降り、周囲を燃やし尽くした、とある。炎は水を掛けても消えず、周囲はあたかも地獄の釜のようであったと」
事前に読んできたらしいグレンは内容をかいつまんで教えてくれた。
魔導兵器について、どれだけ恐ろしかったかが克明に描写されているものの、肝心な『兵器の正体』は書かれていないらしい。
グレンは何か言いたげにしていた。
彼は息を吐き、意を決したように口を開く。
「……これは、信じて貰うより他仕方ないのだが……。兵器の弾には油性物質と発火物が入っている。油が燃えるんだ。だから水を掛けても消えない。発火には魔鉱石が使われている」
グレンが言い出したのは、物凄く具体的な仕様だった。
アンフェールはビックリしてしまう。水を掛けても消えない炎の正体。なぜグレンはそんな事を知っているんだろう。
「魔鉱石……」
「魔鉱石はかなり高温で燃える。旧王朝時代、この兵器で燃やし尽くされた国もあった」
魔鉱石。
シタールは魔鉱石鉱山を開いていた。グレンの言う仕様が正しいのなら、それは砲弾を作る為の動きだ。
「ねー、グレン。油が燃えるの?」
「ああ」
「じゃあ、消火剤のすごいの作ればいい? あのね、女王になる前バザールで大っきい火災があったのよ。ご飯屋さんが揚げ油で火事起こしちゃって、それが広がっちゃったの。
私そのときに油用の消火剤作ったのよ。今は油使うお店には設置義務があるんだけど」
ベロニカは難しい事でもないように、いつも通りの口調でそう言った。
誰だ、これはとしか言いようがない。アンフェールの目の前にいるのは立派な学者だ。
キラキラ輝いて見える。
「凄い……叔母上が有能に見える」
「失礼しちゃうわ、アンフェール。私これくらいしか役に立たないんだから」
ベロニカは腰に手を当てて胸を張っている。薬学以外からっきしなのは自覚はあるらしい。
しかし、本当に助かる話だ。
一から物を考えるよりもベースになるたたき台がある方が、完成は格段に早い。
しかもそのたたき台自体、油用の消火剤なのだからこれ程素晴らしい話は無いだろう。
シタールの攻撃に備え消火剤を各地に配れるなら、火災被害を最小限に抑えられるかもしれない。
「グレン、どんな油かは分かんないの?」
「どんな……成分までは分からない。粘々した感じだった。ゲル状と言うのか。くっついて取れないんだ。
……ああ、そうだ。『浄化』は効かない。油に魔素かく乱物質が混ぜられているんだ」
「ふぅん、なるほど」
グレンは右肩を擦るような仕草をした。
何だか実際、その油がくっ付いた経験でもあるみたいな仕草だった。
ベロニカは「ふん」と気合を入れる様に両腕を曲げて引き、こぶしを握った。
「じゃ、叔母さん、その研究最優先で頑張っちゃうね。というか、緊急性高いもんね。集中するよ! アンフェールも手伝ってね?」
「はい!」
アンフェールは元気よく返事をした。
ベロニカ研究室が国の防衛活動メインにシフトするのだ。
グレングリーズが作った国を、グレンが治める国を守るのだ。これ程張り合いのある仕事はない。
(ああ、そうだ。ベロニカに聞きたい事があったのだ)
「叔母上、魔素防護服というものがあると噂で聞きました。本当にあるんですか?」
「うん、あるよ。見る?」
即答されて驚いてしまう。しかも実物があるのか。
ベロニカは一旦隣の部屋に戻り、何やらガタンゴトン音をさせて、再び応接室に戻ってきてくれた。
ガタンゴトンはとっ散らかった部屋で、何かをひっくり返した音だと思われる。
「これこれ。表面に塗布する薬剤の開発を頼まれたのよ。私は研究員に戻る前だから『ご意見』程度しか協力してないけど。それでも完成見本を貰ったの」
貸してくれたのは白色でつるりとした表面をした、全身を覆う服だった。
目の辺りは透明なグラス状になっている。そして口元に何か器具がついている。仕組みは分からないが問題なく呼吸出来るようにする為の器具だろう。
効果のほどは分からないが『魔素防護服』というアイテムが存在する事は分かった。
「これは一般で手に入りますか?」
「ううん、まだ試験段階よ。四か国共同開発で……ああ、そうだわ、シタールに試作品がたくさん行ったの。大規模に試験をするからって」
大規模試験。
それは魔鉱石の採掘場で行われたんじゃないだろうか。
だとしたら採掘はスムーズに進んでしまったかもしれない。
アンフェールは大して採掘量は確保できていないんじゃと予想していた。その見積もりは甘い可能性が出てきた。
(隣国の情報はさすがに拾えない。距離があり過ぎる……)
アンフェールと同じような答えに辿り着いたのか、隣にいるグレンも難しそうな顔をしていた。
◇◇◇
薬学研究所の廊下を並んで歩く。
城に戻るグレンを送る為だ。
視界に入る玄関口。そこにやってきたばかりと思われる白衣の男が立っていた。
アンフェールは身構える。
生身では初対面だが長年顔だけは拝んでいる『ヴィシュニア魔導研究所』所長、ザシャだった。
薬学研究所に用があるのか入館帳に記名している。
アンフェールはこの男が嫌いだ。しかし出口に向かっている以上すれ違ってしまう。
アンフェールはちょっとだけグレンの斜め後ろポジに移動し、彼の服の腰辺りをギュッと摘まむように握った。
それだけで、弟の感情の動きを察したのか、グレンは何も言わずそのままにさせてくれた。
そして、こちらに向かって歩いて来たザシャと行き当たる。
「これはこれは、陛下、殿下。ごきげんよう」
ザシャは形式上の挨拶を口にし、左腕を腹部に当て、右足を引き、測ったかのような正確な角度でお辞儀をしてきた。
それから顔を上げ、モノクルの位置を直した。
「ごきげんよう、ザシャ所長。薬学研究所には何の用件で?」
「ベロニカ様に発注していた物を受け取りに」
「そうか。叔母上は今、研究室にいる。早く向かうと良いだろう」
「はい」
何という事も無いやり取り。それでもアンフェールは手汗が酷い。
ザシャは廊下を歩きだす瞬間、アンフェールの方を見た。目が合ってしまった。彼はニヤニヤとした気味の悪い笑いを浮かべていた。
全身に鳥肌が立つ。
距離が開いて、ようやくほっと息をついた。
グレンはアンフェールの方を見てポンと頭に手を置き撫でてくれた。
「あの男が苦手なのか?」
「初対面ではあるのですが……ミセス・ガーベラの元によく出入りしていた方なので」
「そうか。……アンフェール、このまま離宮に戻ろう。送っていく」
「え」
「あの男は叔母上の所に行ったのだろう。アンフェールが研究室に戻ると鉢合わせしてしまう」
グレンは城に戻るんじゃなかったのか。仕事は良いんだろうか。
そんな事を思いつつも、その言葉に甘えてしまった。
アンフェールは生身で会ったザシャがとても嫌だったのだ。
飛竜にひどい事をするから元々嫌いだったけれど、こちらに向ける視線は粘ついていて生理的嫌悪以外の何ものでもなかった。
あのニヤニヤとした気持ち悪い笑いが、頭にこびりついて離れない。
グレンは震えるアンフェールをずっと気遣ってくれたし、離宮についてからは、たくさんキスをしてくれた。
それはもう、閨の様なキスだった。
アンフェールは城に戻るグレンを見送る。
番の優しさにキュンとなり、アンフェールの心にへばりついた、嫌な気持ちはちょっとだけ楽になったのだ。
ベロニカの研究室の扉。その隙間から良くない感じがにじみ出ている。
アンフェールは顔をしかめた。
(悪臭……? 何かガスでも発生したのではあるまいな?)
アンフェールは慌てて扉を開けた。ベロニカに何かあったのでは、と心配になったのだ。
バタンと大きな音をさせて扉を開けるアンフェール。
そこには蒸留装置を使い、何かを濃縮するベロニカの姿があった。軽いマスク一枚。特に問題無さそうにピンピンしている。
しかしアンフェールはだめだ。
まるで毒素を吸ったように神経がピクピクしてしまう。
慌てて扉を閉じ、飛ぶように駆けて下の階に逃げ出した。
窓を開け、外の空気をスーハーする。
(何なんだ、あれは。まるでアリウムを濃縮したような不快な匂いだ。なんでベロニカは大丈夫なんだ。臭いと思わないのか?)
アンフェールはぶちぶちと心の中で文句を言いながら、身体中の空気を入れ替える様に呼吸を繰り返した。
「アンフェール?」
ベロニカに声を掛けられた。
様子のおかしいアンフェールを追いかけてきてくれたらしい。
しかし近づいてくるベロニカから、あの部屋に籠っていた悪臭が漂ってくる。アンフェールは鼻をつまんだ。
「おばうへ、くしゃいのれ、はなれてくらさい」
「えっ、ひどい。心配したのに」
ベロニカは可愛い甥っ子から臭いと言われてショックを受けている。
アンフェールから離れ、白衣をクンクン嗅ぎながら「臭うかなぁ?」と呟き首をひねっている。
「何を蒸留していたんですか……有毒ガスか何かが発生したのかと思いましたよ」
「ええ、そんなに悪いもの蒸留してないよ。自然なやつだよ。蒸留作業はもう終わったから、大丈夫だよ」
しかしアンフェールは警戒する。
あの毒ガスレベルの悪臭だ。ちょっと換気したぐらいじゃ抜けないだろうと思うのだ。
「午後に兄上が来るとおっしゃってたので、それまでお茶してきます。しっかりじっくり換気しておいてくださいね」
「分かったよー。お掃除もしておくね」
ちゃんと片付けないベロニカは、よくグレンに説教されるらしい。
グレンが来ると言うだけで掃除をする気になるのだから凄い。番はベロニカの操縦が上手いに違いない。
何はともあれ、避難だ。
あの匂いはアンフェールを殺しに来ていると思うのだ。
◇◇◇
そして、午後。
研究室の扉をノックする音に「どうぞ」と返事をするとグレンが入ってきた。概ね時間通りだ。
ベロニカを呼ぶために彼女の部屋をノックする。
部屋から出てきた彼女はちゃんと髪を梳き、綺麗に結んでいた。ノーメークは相変わらずだが、日頃と比べれば人間レベルに身だしなみが上がっている。
凄い。ベロニカの操縦方法をグレンに聞きたい。
アンフェールは感心してしまった。
「お邪魔します、叔母上、アンフェール」
「いらっしゃい~、グレン」
「いらっしゃいませ、兄上」
アンフェールはグレンにソファーへの着座を勧め、お茶とお菓子を出した。
アンフェールはお客様を迎える立場としてベロニカの隣に座ろうとしたのだが、グレンに「こちらに」と声を掛けられてしまった。
なのでグレンの隣に座る。
ベロニカはなんか、こう、微妙な顔をしてグレンの方を見ている。その意味については深く考えないことにした。
「アンフェール、シタールの件について叔母上に話そうと思う。いいだろうか?」
「はい」
もし何かあった際には、王族だし、ベロニカにも関わる事だ。
証拠のある話でなくても、耳に入れていていいだろう。
グレンはベロニカにシタールが魔導兵器を作成している事。それが旧ヴィシュニア王朝時代の兵器の複製品であることを伝えた。
ベロニカはビックリしていたけれど、真剣な顔をして聞いてくれた。
「教えてくれてありがとう。わたし、魔導兵器は名前しか知らないわ」
ベロニカはううんと唸り、考え込むように口元に手を当てた。自分の出来る事を考えているのかもしれない。
グレンは鞄から一冊の本を出した。
それはとても古い本だった。
「書庫の生き字引に魔導兵器の資料が無いかと聞いた。それで貸してくれたのがこれだ」
ベロニカはそれを手に取りパラ見する。眉を寄せ、難しい顔をするので貸してもらった。
なるほど。文法が若干古い。読めなくはないが読みにくい本かもしれない。
「その本には魔導兵器による被害が描かれていた。炎が雨のように降り、周囲を燃やし尽くした、とある。炎は水を掛けても消えず、周囲はあたかも地獄の釜のようであったと」
事前に読んできたらしいグレンは内容をかいつまんで教えてくれた。
魔導兵器について、どれだけ恐ろしかったかが克明に描写されているものの、肝心な『兵器の正体』は書かれていないらしい。
グレンは何か言いたげにしていた。
彼は息を吐き、意を決したように口を開く。
「……これは、信じて貰うより他仕方ないのだが……。兵器の弾には油性物質と発火物が入っている。油が燃えるんだ。だから水を掛けても消えない。発火には魔鉱石が使われている」
グレンが言い出したのは、物凄く具体的な仕様だった。
アンフェールはビックリしてしまう。水を掛けても消えない炎の正体。なぜグレンはそんな事を知っているんだろう。
「魔鉱石……」
「魔鉱石はかなり高温で燃える。旧王朝時代、この兵器で燃やし尽くされた国もあった」
魔鉱石。
シタールは魔鉱石鉱山を開いていた。グレンの言う仕様が正しいのなら、それは砲弾を作る為の動きだ。
「ねー、グレン。油が燃えるの?」
「ああ」
「じゃあ、消火剤のすごいの作ればいい? あのね、女王になる前バザールで大っきい火災があったのよ。ご飯屋さんが揚げ油で火事起こしちゃって、それが広がっちゃったの。
私そのときに油用の消火剤作ったのよ。今は油使うお店には設置義務があるんだけど」
ベロニカは難しい事でもないように、いつも通りの口調でそう言った。
誰だ、これはとしか言いようがない。アンフェールの目の前にいるのは立派な学者だ。
キラキラ輝いて見える。
「凄い……叔母上が有能に見える」
「失礼しちゃうわ、アンフェール。私これくらいしか役に立たないんだから」
ベロニカは腰に手を当てて胸を張っている。薬学以外からっきしなのは自覚はあるらしい。
しかし、本当に助かる話だ。
一から物を考えるよりもベースになるたたき台がある方が、完成は格段に早い。
しかもそのたたき台自体、油用の消火剤なのだからこれ程素晴らしい話は無いだろう。
シタールの攻撃に備え消火剤を各地に配れるなら、火災被害を最小限に抑えられるかもしれない。
「グレン、どんな油かは分かんないの?」
「どんな……成分までは分からない。粘々した感じだった。ゲル状と言うのか。くっついて取れないんだ。
……ああ、そうだ。『浄化』は効かない。油に魔素かく乱物質が混ぜられているんだ」
「ふぅん、なるほど」
グレンは右肩を擦るような仕草をした。
何だか実際、その油がくっ付いた経験でもあるみたいな仕草だった。
ベロニカは「ふん」と気合を入れる様に両腕を曲げて引き、こぶしを握った。
「じゃ、叔母さん、その研究最優先で頑張っちゃうね。というか、緊急性高いもんね。集中するよ! アンフェールも手伝ってね?」
「はい!」
アンフェールは元気よく返事をした。
ベロニカ研究室が国の防衛活動メインにシフトするのだ。
グレングリーズが作った国を、グレンが治める国を守るのだ。これ程張り合いのある仕事はない。
(ああ、そうだ。ベロニカに聞きたい事があったのだ)
「叔母上、魔素防護服というものがあると噂で聞きました。本当にあるんですか?」
「うん、あるよ。見る?」
即答されて驚いてしまう。しかも実物があるのか。
ベロニカは一旦隣の部屋に戻り、何やらガタンゴトン音をさせて、再び応接室に戻ってきてくれた。
ガタンゴトンはとっ散らかった部屋で、何かをひっくり返した音だと思われる。
「これこれ。表面に塗布する薬剤の開発を頼まれたのよ。私は研究員に戻る前だから『ご意見』程度しか協力してないけど。それでも完成見本を貰ったの」
貸してくれたのは白色でつるりとした表面をした、全身を覆う服だった。
目の辺りは透明なグラス状になっている。そして口元に何か器具がついている。仕組みは分からないが問題なく呼吸出来るようにする為の器具だろう。
効果のほどは分からないが『魔素防護服』というアイテムが存在する事は分かった。
「これは一般で手に入りますか?」
「ううん、まだ試験段階よ。四か国共同開発で……ああ、そうだわ、シタールに試作品がたくさん行ったの。大規模に試験をするからって」
大規模試験。
それは魔鉱石の採掘場で行われたんじゃないだろうか。
だとしたら採掘はスムーズに進んでしまったかもしれない。
アンフェールは大して採掘量は確保できていないんじゃと予想していた。その見積もりは甘い可能性が出てきた。
(隣国の情報はさすがに拾えない。距離があり過ぎる……)
アンフェールと同じような答えに辿り着いたのか、隣にいるグレンも難しそうな顔をしていた。
◇◇◇
薬学研究所の廊下を並んで歩く。
城に戻るグレンを送る為だ。
視界に入る玄関口。そこにやってきたばかりと思われる白衣の男が立っていた。
アンフェールは身構える。
生身では初対面だが長年顔だけは拝んでいる『ヴィシュニア魔導研究所』所長、ザシャだった。
薬学研究所に用があるのか入館帳に記名している。
アンフェールはこの男が嫌いだ。しかし出口に向かっている以上すれ違ってしまう。
アンフェールはちょっとだけグレンの斜め後ろポジに移動し、彼の服の腰辺りをギュッと摘まむように握った。
それだけで、弟の感情の動きを察したのか、グレンは何も言わずそのままにさせてくれた。
そして、こちらに向かって歩いて来たザシャと行き当たる。
「これはこれは、陛下、殿下。ごきげんよう」
ザシャは形式上の挨拶を口にし、左腕を腹部に当て、右足を引き、測ったかのような正確な角度でお辞儀をしてきた。
それから顔を上げ、モノクルの位置を直した。
「ごきげんよう、ザシャ所長。薬学研究所には何の用件で?」
「ベロニカ様に発注していた物を受け取りに」
「そうか。叔母上は今、研究室にいる。早く向かうと良いだろう」
「はい」
何という事も無いやり取り。それでもアンフェールは手汗が酷い。
ザシャは廊下を歩きだす瞬間、アンフェールの方を見た。目が合ってしまった。彼はニヤニヤとした気味の悪い笑いを浮かべていた。
全身に鳥肌が立つ。
距離が開いて、ようやくほっと息をついた。
グレンはアンフェールの方を見てポンと頭に手を置き撫でてくれた。
「あの男が苦手なのか?」
「初対面ではあるのですが……ミセス・ガーベラの元によく出入りしていた方なので」
「そうか。……アンフェール、このまま離宮に戻ろう。送っていく」
「え」
「あの男は叔母上の所に行ったのだろう。アンフェールが研究室に戻ると鉢合わせしてしまう」
グレンは城に戻るんじゃなかったのか。仕事は良いんだろうか。
そんな事を思いつつも、その言葉に甘えてしまった。
アンフェールは生身で会ったザシャがとても嫌だったのだ。
飛竜にひどい事をするから元々嫌いだったけれど、こちらに向ける視線は粘ついていて生理的嫌悪以外の何ものでもなかった。
あのニヤニヤとした気持ち悪い笑いが、頭にこびりついて離れない。
グレンは震えるアンフェールをずっと気遣ってくれたし、離宮についてからは、たくさんキスをしてくれた。
それはもう、閨の様なキスだった。
アンフェールは城に戻るグレンを見送る。
番の優しさにキュンとなり、アンフェールの心にへばりついた、嫌な気持ちはちょっとだけ楽になったのだ。
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