64 / 70
恋は秋菊の香り
将くは其の来たりて施施たれ、ねえお願いよ、わたしのもとへいらしてね。
しおりを挟む
「巫覡さまは朝に出た不祥の女官を捨てるために、外に出られたままお戻りではございませぬ」
一人の女官がやってきて、深々と拝礼し、震える声で言った。その女官は趙武を迎えに来たうちの一人、浅黒い肌の女であった。寺人は士匄が苛ついていたことを察しており、この女官に押しつけたのである。
「あっあの。明日にはお戻りになると仰って出られたそうです。お待たせしている間、御酒でも召されませぬか」
若い大夫たちが何か思い通りにならず苛ついている、という雰囲気は察していたらしい。女官は、酒と少々の肴を用意していた。士匄はいらぬと追い払おうとしたが、
「わざわざお気をつかっていただき、感謝にたえません。君公のお世話をする方々の手をわずらわせ不徳の限りでございます、その心遣い受けましょう」
と趙武が言ってしまったために、接待を受けるはめになってしまった。
女官が、少し安堵した顔をして、二人の前に膳を用意し、酒を注いだ。彼女は勝手に持ってきた酒席が不興を買わなかったということもさながら、自分なりの気遣いをを受け入れてもらったことに胸をなでおろしたのだ。
朝に衛女が死に、巫覡がそれを祓って不祥として外に出す。その判断は間違っていない。が、その次に狄女が惨殺され、士匄たちは出られなくなった。
「……趙孟。お前は巫覡に祓われていないのか」
士匄の問いに、趙武が頷く。杯が空になれば女官に注がれ、そのたびに飲んでいるが全く酔いの様子が無い。かなり強いらしい。
「はい。巫覡は現れず、水などで清められました。思ったより不浄が無く、驚いたものです」
死体という不祥をまともにひっかぶったわりには、趙武に穢れは少ない。ゆえに、巫覡が祓ったと士匄は思い込んでいた。
が、巫覡はとっくに宮中を出ていたのだ。つまり、体を洗っただけらしかった。
ここが、君主のいる宮中の奥だからだろうか。
君主の住む場所、そして政堂は清浄である。ゆえに、趙武の不祥はすぐさま祓われたのか。
実際、日に二つも死体が出たわりには、場の瘴気は少なかった。
「大変でしたでしょう、大夫さま。あの子が職分を越えて連れだしたばかりに。おそろしいことです」
女官が、趙武に訴えるように言った。
黒々とした髪は少々癖が強かったが、豊かで見事に結いあげられている。袖から見える肌は健康的であった。腰のくびれがはっきりとし、形の良い尻や腿が衣の上からもわかるほどである。
彼女は趙武が膳の上に置いた杯に酒をそそぐと、そっと持って手で渡す。僭越と言って良い仕草であったが、趙武が気負いなく――何も考えず受け取る。
青年の手を女の指がなぞった。
「ねえ、大夫さま。あの子の体はどうなるのでしょう。やはり、捨てられるのでしょうか。埋葬されず祀られもせずに、捨てられてしまうのでしょうか。私はおそろしいのです。ここに売られ、君主さまに仕えて一生を終えようと覚悟しておりました。しかし、あんな終わりかたをするために売られたのかと思うと、本当におそろしい。大夫さまは君主さまをお支えになるのでしょう。私たち下々のことをお救いください」
少し厚ぼったい唇が蠱惑的に動き、大きな黒い眼が趙武を捕まえるように見て来る。
この女官は、鋭そうな士匄より、物腰柔らかそうな趙武をターゲットとした。まあ、それは、消去法として間違っていないが、と士匄はつまらなさそうにそのやりとりを見ていた。
女官が哀れなほど、趙武はそういったことに疎かった。
「私は君公に仕える身、そして国と民を支える柱になるよう、研鑽しております。あなたは君公の財産ですが、それは国の財でもあります。あなたがたが憂いなく職を全うできるよう、私も務めましょう」
趙武が、指を手を愛撫のようになぞられながら、誠実な笑みを見せた。女官の顔がこわばる。そうして、士匄に視線を向けた。あちらが良かったのでは、という目である。
が、士匄はそれを弾くように、し、し、と手を振った。犬を追い払うような仕草であった。
「大夫、さま。酷い目にあって心も重いでしょう、私、私が気張らしに侍りましょう。私、とてもお役に立てるのです。どこに行っても、お役に立ちますから!」
趙武の指をなぞっていた女官の手が、今度は腕を掴んだ。趙武はあっけにとられて杯を落とす。床に酒が飛び散った。女官は、文字通り趙武に縋っていた。
「え、どうしたのです、落ち着いて、落ち着い――」
まるで襲いかからんばかりの女官を、趙武は必死に制止し、落ち着かせようと声をかける。
日に二人も同僚が惨死しているのである。怯えるのはわかる。しかし、これは異常だ、と趙武もさすがに思った。
どんどん、体重がかかってきて、肌や熱さが近くなる。しかし、その肩は細い。
オンナノコを突き飛ばすわけにはいかないと、趙武は本能的に思い、ただ身をよじらせた。仕方無く、士匄は立ち上がった。
「侍る意味もわからんやつだ、諦めろ」
女の首飾りを手で掴み、そのまま引き倒す。ぽかんとしている趙武の前で、嫌がる女を押さえつけると、首飾りを引きちぎった。思いきり女の胸をわしづかみにしているが、士匄は尻派なので、胸の柔らかさ含めてどうでもいい。奪った首飾りをかざすように掲げ見る。
「洛午庚辰、か。お前、狄の女と同じ日に来たのか」
押さえつけられていた女官は、恐怖を通り越し、茫然とした顔で見上げて頷く。
「はい、あの子と同じ、庚辰の、ものです。えっ、あの子は狄だったの、やだこわい」
震えながら差別発言をする女官を嘲笑う。
「洛午。周都より南。わざわざ南とされるは河をはるかに越えた南蛮を強調したかったのだろうな、楚人か。お前も我らからすれば狄と変わらん」
首飾りをひらひらと回したあと、士匄は立ち上がり女を解放した。女官、楚女はあほうのような顔で寝転がったままである。まるで陵辱を受けたあとのようでもあった。
助けられたはずの趙武といえば、士匄の狼藉に混乱しながら、女官に憐れみを感じていた。女子をあのように扱うものではない、という少年の本能であった。
「おい、女。お前は無聊をかこつ我らに酒席を用意した。まあ、そこまでは気の利いた女官と褒めてやろう。しかし、勝手に侍り、そして憐れみと慰めを乞い願った。僭越どころではない。本来であれば斬って晒すところだが、お前は君公の財だ、我らには手が出せん」
嬲るような士匄の声に、楚女がみるみる顔を赤らめ、一瞬顔を手で覆った。ゆらりと起き上がると、歪んだ髪型そのままに、彼女は駆け出し去っていった。
一人の女官がやってきて、深々と拝礼し、震える声で言った。その女官は趙武を迎えに来たうちの一人、浅黒い肌の女であった。寺人は士匄が苛ついていたことを察しており、この女官に押しつけたのである。
「あっあの。明日にはお戻りになると仰って出られたそうです。お待たせしている間、御酒でも召されませぬか」
若い大夫たちが何か思い通りにならず苛ついている、という雰囲気は察していたらしい。女官は、酒と少々の肴を用意していた。士匄はいらぬと追い払おうとしたが、
「わざわざお気をつかっていただき、感謝にたえません。君公のお世話をする方々の手をわずらわせ不徳の限りでございます、その心遣い受けましょう」
と趙武が言ってしまったために、接待を受けるはめになってしまった。
女官が、少し安堵した顔をして、二人の前に膳を用意し、酒を注いだ。彼女は勝手に持ってきた酒席が不興を買わなかったということもさながら、自分なりの気遣いをを受け入れてもらったことに胸をなでおろしたのだ。
朝に衛女が死に、巫覡がそれを祓って不祥として外に出す。その判断は間違っていない。が、その次に狄女が惨殺され、士匄たちは出られなくなった。
「……趙孟。お前は巫覡に祓われていないのか」
士匄の問いに、趙武が頷く。杯が空になれば女官に注がれ、そのたびに飲んでいるが全く酔いの様子が無い。かなり強いらしい。
「はい。巫覡は現れず、水などで清められました。思ったより不浄が無く、驚いたものです」
死体という不祥をまともにひっかぶったわりには、趙武に穢れは少ない。ゆえに、巫覡が祓ったと士匄は思い込んでいた。
が、巫覡はとっくに宮中を出ていたのだ。つまり、体を洗っただけらしかった。
ここが、君主のいる宮中の奥だからだろうか。
君主の住む場所、そして政堂は清浄である。ゆえに、趙武の不祥はすぐさま祓われたのか。
実際、日に二つも死体が出たわりには、場の瘴気は少なかった。
「大変でしたでしょう、大夫さま。あの子が職分を越えて連れだしたばかりに。おそろしいことです」
女官が、趙武に訴えるように言った。
黒々とした髪は少々癖が強かったが、豊かで見事に結いあげられている。袖から見える肌は健康的であった。腰のくびれがはっきりとし、形の良い尻や腿が衣の上からもわかるほどである。
彼女は趙武が膳の上に置いた杯に酒をそそぐと、そっと持って手で渡す。僭越と言って良い仕草であったが、趙武が気負いなく――何も考えず受け取る。
青年の手を女の指がなぞった。
「ねえ、大夫さま。あの子の体はどうなるのでしょう。やはり、捨てられるのでしょうか。埋葬されず祀られもせずに、捨てられてしまうのでしょうか。私はおそろしいのです。ここに売られ、君主さまに仕えて一生を終えようと覚悟しておりました。しかし、あんな終わりかたをするために売られたのかと思うと、本当におそろしい。大夫さまは君主さまをお支えになるのでしょう。私たち下々のことをお救いください」
少し厚ぼったい唇が蠱惑的に動き、大きな黒い眼が趙武を捕まえるように見て来る。
この女官は、鋭そうな士匄より、物腰柔らかそうな趙武をターゲットとした。まあ、それは、消去法として間違っていないが、と士匄はつまらなさそうにそのやりとりを見ていた。
女官が哀れなほど、趙武はそういったことに疎かった。
「私は君公に仕える身、そして国と民を支える柱になるよう、研鑽しております。あなたは君公の財産ですが、それは国の財でもあります。あなたがたが憂いなく職を全うできるよう、私も務めましょう」
趙武が、指を手を愛撫のようになぞられながら、誠実な笑みを見せた。女官の顔がこわばる。そうして、士匄に視線を向けた。あちらが良かったのでは、という目である。
が、士匄はそれを弾くように、し、し、と手を振った。犬を追い払うような仕草であった。
「大夫、さま。酷い目にあって心も重いでしょう、私、私が気張らしに侍りましょう。私、とてもお役に立てるのです。どこに行っても、お役に立ちますから!」
趙武の指をなぞっていた女官の手が、今度は腕を掴んだ。趙武はあっけにとられて杯を落とす。床に酒が飛び散った。女官は、文字通り趙武に縋っていた。
「え、どうしたのです、落ち着いて、落ち着い――」
まるで襲いかからんばかりの女官を、趙武は必死に制止し、落ち着かせようと声をかける。
日に二人も同僚が惨死しているのである。怯えるのはわかる。しかし、これは異常だ、と趙武もさすがに思った。
どんどん、体重がかかってきて、肌や熱さが近くなる。しかし、その肩は細い。
オンナノコを突き飛ばすわけにはいかないと、趙武は本能的に思い、ただ身をよじらせた。仕方無く、士匄は立ち上がった。
「侍る意味もわからんやつだ、諦めろ」
女の首飾りを手で掴み、そのまま引き倒す。ぽかんとしている趙武の前で、嫌がる女を押さえつけると、首飾りを引きちぎった。思いきり女の胸をわしづかみにしているが、士匄は尻派なので、胸の柔らかさ含めてどうでもいい。奪った首飾りをかざすように掲げ見る。
「洛午庚辰、か。お前、狄の女と同じ日に来たのか」
押さえつけられていた女官は、恐怖を通り越し、茫然とした顔で見上げて頷く。
「はい、あの子と同じ、庚辰の、ものです。えっ、あの子は狄だったの、やだこわい」
震えながら差別発言をする女官を嘲笑う。
「洛午。周都より南。わざわざ南とされるは河をはるかに越えた南蛮を強調したかったのだろうな、楚人か。お前も我らからすれば狄と変わらん」
首飾りをひらひらと回したあと、士匄は立ち上がり女を解放した。女官、楚女はあほうのような顔で寝転がったままである。まるで陵辱を受けたあとのようでもあった。
助けられたはずの趙武といえば、士匄の狼藉に混乱しながら、女官に憐れみを感じていた。女子をあのように扱うものではない、という少年の本能であった。
「おい、女。お前は無聊をかこつ我らに酒席を用意した。まあ、そこまでは気の利いた女官と褒めてやろう。しかし、勝手に侍り、そして憐れみと慰めを乞い願った。僭越どころではない。本来であれば斬って晒すところだが、お前は君公の財だ、我らには手が出せん」
嬲るような士匄の声に、楚女がみるみる顔を赤らめ、一瞬顔を手で覆った。ゆらりと起き上がると、歪んだ髪型そのままに、彼女は駆け出し去っていった。
10
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香
冬樹 まさ
歴史・時代
米村誠三郎は鳥取藩お抱え絵師、小畑稲升の弟子である。
文久三年(一八六三年)八月に京で起きて鳥取の地に激震が走った本圀寺事件の後、御用絵師を目指す誠三郎は画技が伸び悩んだままで心を乱していた。大事件を起こした尊攘派の一人で、藩屈指の剣士である詫間樊六は竹馬の友であった。
幕末の鳥取藩政下、水戸出身の藩主の下で若手尊皇派が庇護される形となっていた。また鳥取では、家筋を限定せず実力のある優れた画工が御用絵師として藩に召しだされる伝統があった。
ーーその因幡の地で激動する時勢のうねりに翻弄されながら、歩むべき新たな道を模索して生きる侍たちの魂の交流を描いた幕末時代小説!
作中に出てくる因幡二十士事件周辺の出来事、鳥取藩御用絵師については史実に基づいています。
1人でも多くの読者に、幕末の鳥取藩有志たちの躍動を体感していただきたいです。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。


野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。


通史日本史
DENNY喜多川
歴史・時代
本作品は、シナリオ完成まで行きながら没になった、児童向け歴史マンガ『通史日本史』(全十巻予定、原作は全七巻)の原作です。旧石器時代から平成までの日本史全てを扱います。
マンガ原作(シナリオ)をそのままUPしていますので、読みにくい箇所もあるとは思いますが、ご容赦ください。
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる