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恋は秋菊の香り
予が子の憎むなからんことを庶う、あなたのことを思って言っているんだから嫌わないで
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「来春、汝の元に嫁が来られる。他国から縁づいてこられると聞いております。故郷を離れたその人は、不安でしょう。そういったことです」
趙武は二、三度目をしばたかせたあと、ぐっと頷いて拝礼した。
「背を向けることなく、頑なに撥ねのけることなく……その、柔らかく受け入れるよう、……あの、あ、相手が何も言えぬなどさせません」
少々たどたどしい趙武の言葉であったが、誠実さはあった。
もっと言えば、誠実さしかなかった。色味めいたものは無い。士匄はやはりオボコだと思ったが、他のものも童貞以下だと思った。
士匄は韓無忌を睨め付けながら、
「……なるほど。趙孟への心遣いをなされて、韓伯を我らは見習わねばならぬ。わたしは非才、趙孟を教導せよとわざわざのお言葉あったにも関わらず、議の本質が分からぬ鈍さだ。公事と閨は陰陽で対のものであった、気づかぬ未熟さに恥じ入り消え入りたいばかり、あーバカバカしい」
と、投げやりに言った。
極めて深い見識を見せつけながら、オチは『お嫁さんに優しくしなさい』である。
この、大仰な議題を放り投げて、それか、とバカバカしくもなる。
そのまま、場の空気がわかっていない趙武を見た。趙武は己に訓戒があるのだと身構えているようであった。士匄は、静かにすっと口を開いた。
「まあ、先達として教導せよとのお達しだ、さて趙孟」
投げやりな態度を一気におさめ、威儀正しく士匄は趙武を見つめる。きちんとやれば、きちんとするのが士匄である。
「わたしは五子が後から訓戒を歌ったことを好いてはいないが、確かに認めねばならぬときがある。理屈無く、後から言ってくるものあり、そしてその言葉に逆らってはならず、我らは謝るしかない。はっきり言うが、嫁だ。妻妾というものどもは、なんの権限を持っておらず、父か夫に付き従うものであるが、しかし最も強きもの。太康の如く逸楽を求め聞く耳持たんのも嫁、こちらが進んでも河を渡らずに見てくるだけも嫁、我らの行いを怨み訓戒たれるのも嫁。ついでに言うが、嫁どもは諍いを好んでいるが仲裁は憎んでいる。お前は嫁に背を向けぬ、撥ねのけぬ、受け入れると誓いを立てた。わたしはその勇気を嘉しよう」
趙武がぽかんとした。バカにしてきているのか、とも彼は思った。
しかし、士匄は至極真面目な顔をしており、声音も真剣であった。欒黶が深く頷く。軽薄な彼さえも頷く真理であった。
一応記すが、趙武以外は妻帯者である。
「えっと……。妻や妾は、嫁ぎ先で夫を常に考えますが、その……情深いため、気持ちのまま動く事もございまして……」
荀偃のあやふやな説明に、趙武が合点がいった、という顔をした。
「妻というものは気持ちのままに動く。善きお言葉ありがとうございます、中行伯。それはよく知っております。己の心の充足のためなら人を平気で誹るのが妻というものだと、私はよく知っております。勝手に怨み放言するもの、確かにそのとおりです、范叔。そういったことがないよう、背を向けてはならぬと、強い戒めといたします」
しずしずと拝礼する趙武に、場が一気に冷えた。
童貞以下の女性観に、極めてわかりやすい母親への嫌悪感をブレンドして無自覚に放出である。
士匄は韓無忌に、どうするんだコレ、という顔を向けた。韓無忌もさすがに想定外だったらしく、わざとらしく咳払いをした。
欒黶が揶揄するわけでもなく、
「……趙孟。お前、勃つのか? 嫁がきてきちんと勃起するのか?」
と本気で言った。趙武が即座に立ち上がり、その頭にかかと落としをした。
誰も止めなかったし、とがめなかった。皆の思いを代弁した生け贄の羊など、ご自由に、である。
「妻妾は家の支えとなります。私たちは国を守るがごとく家を守り、民の声に耳を傾けるがごとく妻妾の声に耳を傾けなければならぬ。そのような夫婦になるよう、趙孟もお励みを。今日も善き学びでした。みなさま、お父上である卿のお迎えを。趙孟は私と共に」
韓無忌が、まくし立てるように話を締めた。彼は初めて、場をごまかした。
逃避ではなく、処世である。後輩が黒歴史を打ち立てたことを、ほじくり返してはいけないと思ったのである。
真面目堅物が洒脱なことをしようとして失敗した。士匄はそう断じた。
少々気落ちしている韓無忌と、大人ぶった顔をした趙武が去っていく。士匄はそれを見ながら軽く肩を動かし、コキコキと鳴らした。
横合いから欒黶が
「韓伯もあれだ、墓穴を掘ることがあるんだなあ」
と話しかけてきた。
「くそまじめな男も時には浮かれることもあるのだろうよ。女官の移り香そのままに来られるあたりから墓穴を掘っていたのだ。やましいことなど無いなどと仰っていたが、どうだか」
士匄は底意地悪さそのままの笑みを浮かべた。欒黶が肩を揺らして笑う。二人とも大貴族の令息のくせに、品がよろしくない顔をした。
「そうそう、女官と言えば、だ、范叔。君公が新しい女官をご披露なされたいとのことだ。我が父にはお許しをいただいている。ここだけの話、無礼講の酒宴というわけだ」
君公、つまり現・晋の君主は士匄や欒黶と同世代の若者である。景気の良いことが好きな、政治的見識は極めて低い青年でもある。
欒黶の弟をかわいがっており、自然欒黶とも仲が良い。類友というものである。
「我が君のご自慢となれば、興味ある。よくまあ、女官など増やせたな。お前のお父上など、嫌がったろう」
正卿たちは浮薄な行いを厭うている。よくまあ、お許しをいただけたものだ、という意味である。
「もうすぐ秋の祀りだ。それに合わせて増やしたいとねじ込まれたそうな」
いたずらめいた笑みを浮かべると、欒黶が歩きだした。士匄は、渋面あらわにした六卿を想像して、くつくつ笑いながら後に続く。
いつの時代も、若者というものは、気難しい大人がしてやられるのを楽しんでしまうものだった。
趙武は二、三度目をしばたかせたあと、ぐっと頷いて拝礼した。
「背を向けることなく、頑なに撥ねのけることなく……その、柔らかく受け入れるよう、……あの、あ、相手が何も言えぬなどさせません」
少々たどたどしい趙武の言葉であったが、誠実さはあった。
もっと言えば、誠実さしかなかった。色味めいたものは無い。士匄はやはりオボコだと思ったが、他のものも童貞以下だと思った。
士匄は韓無忌を睨め付けながら、
「……なるほど。趙孟への心遣いをなされて、韓伯を我らは見習わねばならぬ。わたしは非才、趙孟を教導せよとわざわざのお言葉あったにも関わらず、議の本質が分からぬ鈍さだ。公事と閨は陰陽で対のものであった、気づかぬ未熟さに恥じ入り消え入りたいばかり、あーバカバカしい」
と、投げやりに言った。
極めて深い見識を見せつけながら、オチは『お嫁さんに優しくしなさい』である。
この、大仰な議題を放り投げて、それか、とバカバカしくもなる。
そのまま、場の空気がわかっていない趙武を見た。趙武は己に訓戒があるのだと身構えているようであった。士匄は、静かにすっと口を開いた。
「まあ、先達として教導せよとのお達しだ、さて趙孟」
投げやりな態度を一気におさめ、威儀正しく士匄は趙武を見つめる。きちんとやれば、きちんとするのが士匄である。
「わたしは五子が後から訓戒を歌ったことを好いてはいないが、確かに認めねばならぬときがある。理屈無く、後から言ってくるものあり、そしてその言葉に逆らってはならず、我らは謝るしかない。はっきり言うが、嫁だ。妻妾というものどもは、なんの権限を持っておらず、父か夫に付き従うものであるが、しかし最も強きもの。太康の如く逸楽を求め聞く耳持たんのも嫁、こちらが進んでも河を渡らずに見てくるだけも嫁、我らの行いを怨み訓戒たれるのも嫁。ついでに言うが、嫁どもは諍いを好んでいるが仲裁は憎んでいる。お前は嫁に背を向けぬ、撥ねのけぬ、受け入れると誓いを立てた。わたしはその勇気を嘉しよう」
趙武がぽかんとした。バカにしてきているのか、とも彼は思った。
しかし、士匄は至極真面目な顔をしており、声音も真剣であった。欒黶が深く頷く。軽薄な彼さえも頷く真理であった。
一応記すが、趙武以外は妻帯者である。
「えっと……。妻や妾は、嫁ぎ先で夫を常に考えますが、その……情深いため、気持ちのまま動く事もございまして……」
荀偃のあやふやな説明に、趙武が合点がいった、という顔をした。
「妻というものは気持ちのままに動く。善きお言葉ありがとうございます、中行伯。それはよく知っております。己の心の充足のためなら人を平気で誹るのが妻というものだと、私はよく知っております。勝手に怨み放言するもの、確かにそのとおりです、范叔。そういったことがないよう、背を向けてはならぬと、強い戒めといたします」
しずしずと拝礼する趙武に、場が一気に冷えた。
童貞以下の女性観に、極めてわかりやすい母親への嫌悪感をブレンドして無自覚に放出である。
士匄は韓無忌に、どうするんだコレ、という顔を向けた。韓無忌もさすがに想定外だったらしく、わざとらしく咳払いをした。
欒黶が揶揄するわけでもなく、
「……趙孟。お前、勃つのか? 嫁がきてきちんと勃起するのか?」
と本気で言った。趙武が即座に立ち上がり、その頭にかかと落としをした。
誰も止めなかったし、とがめなかった。皆の思いを代弁した生け贄の羊など、ご自由に、である。
「妻妾は家の支えとなります。私たちは国を守るがごとく家を守り、民の声に耳を傾けるがごとく妻妾の声に耳を傾けなければならぬ。そのような夫婦になるよう、趙孟もお励みを。今日も善き学びでした。みなさま、お父上である卿のお迎えを。趙孟は私と共に」
韓無忌が、まくし立てるように話を締めた。彼は初めて、場をごまかした。
逃避ではなく、処世である。後輩が黒歴史を打ち立てたことを、ほじくり返してはいけないと思ったのである。
真面目堅物が洒脱なことをしようとして失敗した。士匄はそう断じた。
少々気落ちしている韓無忌と、大人ぶった顔をした趙武が去っていく。士匄はそれを見ながら軽く肩を動かし、コキコキと鳴らした。
横合いから欒黶が
「韓伯もあれだ、墓穴を掘ることがあるんだなあ」
と話しかけてきた。
「くそまじめな男も時には浮かれることもあるのだろうよ。女官の移り香そのままに来られるあたりから墓穴を掘っていたのだ。やましいことなど無いなどと仰っていたが、どうだか」
士匄は底意地悪さそのままの笑みを浮かべた。欒黶が肩を揺らして笑う。二人とも大貴族の令息のくせに、品がよろしくない顔をした。
「そうそう、女官と言えば、だ、范叔。君公が新しい女官をご披露なされたいとのことだ。我が父にはお許しをいただいている。ここだけの話、無礼講の酒宴というわけだ」
君公、つまり現・晋の君主は士匄や欒黶と同世代の若者である。景気の良いことが好きな、政治的見識は極めて低い青年でもある。
欒黶の弟をかわいがっており、自然欒黶とも仲が良い。類友というものである。
「我が君のご自慢となれば、興味ある。よくまあ、女官など増やせたな。お前のお父上など、嫌がったろう」
正卿たちは浮薄な行いを厭うている。よくまあ、お許しをいただけたものだ、という意味である。
「もうすぐ秋の祀りだ。それに合わせて増やしたいとねじ込まれたそうな」
いたずらめいた笑みを浮かべると、欒黶が歩きだした。士匄は、渋面あらわにした六卿を想像して、くつくつ笑いながら後に続く。
いつの時代も、若者というものは、気難しい大人がしてやられるのを楽しんでしまうものだった。
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