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夏は星狩りの季節
慮らずんば胡ぞ獲ん、たくさん考えないと成功しないのよ
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巫覡がどのような構成、手順、様式、技術を使ったかなど、士匄にはわからぬし、どうでもよい。眼前で様々行われたが、要は荀偃を助けられれば良い。巫覡の言うとおり、獣化の進行は食いとめられ、士匄から見ても人間に戻った。骨と皮と筋であるのは仕方がないが、幾つも埋められていた石は取り払われ、清潔な布が巻かれている。その布の隙間からは、朱墨による文字が見えるが、何を意味するのか士匄にはわからない。
一晩、巫覡は荀偃にかかりきりとなった。士匄は眠らずに見続けた。趙武もつきあっていたが、うとうとし、寝入ってしまった。士匄は寝具を用意することもなく、放置した。まあ夏であるため、風邪は引かなかったであろうが、不人情極まりない。
――太陽のぼりて万物照らせば、君子の時を得、明君に会えるが如し。百鬼闇夜、佞人闇主 それ妖は徳に勝たずと言えり――。つまり、夜が明けた。趙武が体内時間通りに起きて恥じ入り、
「若輩の身でありながら不作法、怠慢をお許し下さい」
と謝った。士匄は、ああうん、と生返事である。後輩が疲れて寝たのだから勝手に眠ればよい。温情ではなく、趙武が起きようが寝ようが役に立たぬと、放置してたのである。それは趙武もわかっているため、余計に情けなかった。
寝不足で目がぎらついた士匄に巫覡が伏して言う。巫覡は徹夜も何もなかったようにケロリとしていた。
「我が主の子よ、嗣子に申し上げる。命に従い、荀氏の嗣子をとりあえずは浄めましてございます。しかし、狍鴞が祓えたわけではございません。こちらの裡に潜伏しております。魂はいまだ侵されず、魄は侵されかかったところを押しとどめたにすぎず。魄が侵されれば魂がそのままでも戻りませぬ。あなたがこの方に人の道をお与えになるなら時間がない。あわれみをお与えになるなら、『金』をお使いすることお薦めする、一時の感情で動いているのなら害あって一利ございません」
魂は精神、魄は肉体をつかさどるたましいである。肉体が獣になれば人の心を持っていても元に戻らない、時間は無い。そのように言上した上で
勢いで動いた考えなし、迷惑、同情しているなら銅剣で殺してやれ
と巫覡は士匄に言ったのである。もちろん、士匄はおおいに気を悪くし、唾を床に吐いた。巫覡に対して吐かなかったのは、ギリギリの節度らしい。
共に座している趙武が厳しい顔を巫覡に向けた。これら、祖と天の声を聞く者どもは、卜占、史官と同じくシステムの信奉者である。卜占が占い、史官が記録を至上とするように、巫覡は祀りというシステムを至上としており、そのためには主筋にも厳しい物言いをする。それはわかるが、あまりに社会の理と人の情に対して鈍感すぎた。こういったものは、時に人を蒙昧にする、とさえ趙武は思った。
「范叔。中行伯はひとまず息をついた様子。医者に診せ、お食事の件もご相談すること、いかがでしょうか。そして問題の巫女です。その淫祠が善意か悪意かは存じ上げませぬが、放置しておけば中行伯の身は再び危なくなるのは必定。止めねばなりません。……止めます、よね?」
巫女の呪術か何か。それをやめさせるのかと念押しする趙武に、士匄は頷き声を上げた。
「あったりまえだろうが。他に選択の余地などない。巫女を押さえつけ、何がなんでもやめさせる。そのクソ女の処置はそのあとすれば良い」
「それでは、荀氏の邸に伺ってお取り次ぎいただくということで、よろしいでしょうか?」
趙武が言葉を継いで、話を続けた。士匄は、即答しなかった。
それは不可能である、という理がまず出る。
荀偃を連れて通すならともかく、たかが士氏の小せがれと、ほとんど縁の無い趙氏の長がそろって訪ね、
『そちらで食客になっている巫女を引き渡せ』
などと言っても、取り次ぎどころか、門の中にも入れてもらえぬであろう。無理押しすれば、士匄たちこそ礼と法を破ることとなる。手順を踏み、儀礼を以て理由を言わば、許されるであろうが、まごまごしていれば荀偃は取り返しのつかない域へ達するにちがいない。
「おい。中行伯を祓ったこと、くだんの巫女には伝わっているのか?」
士匄は趙武の問いに答えず、巫覡へ向かった。巫覡はもちろんでしょう、と答える。士匄はなおも問う。
「……改めて聞くが、この邸の護りは強いと言っていいな? 我が邸中央には祖を祀る楠があり、お前は常に祖を祀り、我らも毎朝ご挨拶している。東西南北の棟、儀によって滞りなく建てている。我が士氏范家の本拠である范邑ほどでなくとも堅牢であると」
巫覡のいらえは、当然です、であった。彼の自信がみてとれる態度であった。怪訝な顔を浮かべる趙武に向き直ると、士匄は口を開いた。
「我ら卿になるものが、たかが淫祠の巫女を訪ねるなど、軽重が疑われる。その巫女を呼びつけるが本式。そいつにはここに来てもらう」
は!? と趙武と巫覡が同時に言った。
一晩、巫覡は荀偃にかかりきりとなった。士匄は眠らずに見続けた。趙武もつきあっていたが、うとうとし、寝入ってしまった。士匄は寝具を用意することもなく、放置した。まあ夏であるため、風邪は引かなかったであろうが、不人情極まりない。
――太陽のぼりて万物照らせば、君子の時を得、明君に会えるが如し。百鬼闇夜、佞人闇主 それ妖は徳に勝たずと言えり――。つまり、夜が明けた。趙武が体内時間通りに起きて恥じ入り、
「若輩の身でありながら不作法、怠慢をお許し下さい」
と謝った。士匄は、ああうん、と生返事である。後輩が疲れて寝たのだから勝手に眠ればよい。温情ではなく、趙武が起きようが寝ようが役に立たぬと、放置してたのである。それは趙武もわかっているため、余計に情けなかった。
寝不足で目がぎらついた士匄に巫覡が伏して言う。巫覡は徹夜も何もなかったようにケロリとしていた。
「我が主の子よ、嗣子に申し上げる。命に従い、荀氏の嗣子をとりあえずは浄めましてございます。しかし、狍鴞が祓えたわけではございません。こちらの裡に潜伏しております。魂はいまだ侵されず、魄は侵されかかったところを押しとどめたにすぎず。魄が侵されれば魂がそのままでも戻りませぬ。あなたがこの方に人の道をお与えになるなら時間がない。あわれみをお与えになるなら、『金』をお使いすることお薦めする、一時の感情で動いているのなら害あって一利ございません」
魂は精神、魄は肉体をつかさどるたましいである。肉体が獣になれば人の心を持っていても元に戻らない、時間は無い。そのように言上した上で
勢いで動いた考えなし、迷惑、同情しているなら銅剣で殺してやれ
と巫覡は士匄に言ったのである。もちろん、士匄はおおいに気を悪くし、唾を床に吐いた。巫覡に対して吐かなかったのは、ギリギリの節度らしい。
共に座している趙武が厳しい顔を巫覡に向けた。これら、祖と天の声を聞く者どもは、卜占、史官と同じくシステムの信奉者である。卜占が占い、史官が記録を至上とするように、巫覡は祀りというシステムを至上としており、そのためには主筋にも厳しい物言いをする。それはわかるが、あまりに社会の理と人の情に対して鈍感すぎた。こういったものは、時に人を蒙昧にする、とさえ趙武は思った。
「范叔。中行伯はひとまず息をついた様子。医者に診せ、お食事の件もご相談すること、いかがでしょうか。そして問題の巫女です。その淫祠が善意か悪意かは存じ上げませぬが、放置しておけば中行伯の身は再び危なくなるのは必定。止めねばなりません。……止めます、よね?」
巫女の呪術か何か。それをやめさせるのかと念押しする趙武に、士匄は頷き声を上げた。
「あったりまえだろうが。他に選択の余地などない。巫女を押さえつけ、何がなんでもやめさせる。そのクソ女の処置はそのあとすれば良い」
「それでは、荀氏の邸に伺ってお取り次ぎいただくということで、よろしいでしょうか?」
趙武が言葉を継いで、話を続けた。士匄は、即答しなかった。
それは不可能である、という理がまず出る。
荀偃を連れて通すならともかく、たかが士氏の小せがれと、ほとんど縁の無い趙氏の長がそろって訪ね、
『そちらで食客になっている巫女を引き渡せ』
などと言っても、取り次ぎどころか、門の中にも入れてもらえぬであろう。無理押しすれば、士匄たちこそ礼と法を破ることとなる。手順を踏み、儀礼を以て理由を言わば、許されるであろうが、まごまごしていれば荀偃は取り返しのつかない域へ達するにちがいない。
「おい。中行伯を祓ったこと、くだんの巫女には伝わっているのか?」
士匄は趙武の問いに答えず、巫覡へ向かった。巫覡はもちろんでしょう、と答える。士匄はなおも問う。
「……改めて聞くが、この邸の護りは強いと言っていいな? 我が邸中央には祖を祀る楠があり、お前は常に祖を祀り、我らも毎朝ご挨拶している。東西南北の棟、儀によって滞りなく建てている。我が士氏范家の本拠である范邑ほどでなくとも堅牢であると」
巫覡のいらえは、当然です、であった。彼の自信がみてとれる態度であった。怪訝な顔を浮かべる趙武に向き直ると、士匄は口を開いた。
「我ら卿になるものが、たかが淫祠の巫女を訪ねるなど、軽重が疑われる。その巫女を呼びつけるが本式。そいつにはここに来てもらう」
は!? と趙武と巫覡が同時に言った。
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