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夏は星狩りの季節

敬して五教を敷きて寛に在り、学問は徐々に教わるものですね。

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 場は氏の邸である。范武子はんぶしの整えた儀礼を教えてやる、という士匄しかいの言葉に、趙武ちょうぶは即答してついてきたのである。

 士匄の祖父、范武子という万能の天才で人格者であり数々の偉業をなしとげた宰相を趙武は尊敬し、いっそリスペクトしたいくらいなのである。もっといえば強火のファンであった。ゆえに、餌にされればほいほいついていく。そうして、最初にぶっこまれたのは、友だちに放置され拗ねている愚痴であった。

「なんだその目は。愚痴などわたしが言うか。ただ、中行伯ちゅうこうはくは徳があるというほど腰のすわっておらぬ、篤敬とっけいというほど人に信用されぬ、好人物というには出来のよろしくないのんびりとしたお人好しだ。研鑽しようとするがすぐにへばるため、お前のように努力家であるとも言えぬ。頭はお悪くないため、言われたことをきちんと理解なされるが、噛み砕くまでお時間かかる、才が鋭いとは言えぬ鈍いお方。決めごとも苦手なので、即断もせず、断言もなされず、お話しすることもあいまいである。思考のキャパが少ないのかすぐパニックを起こし下手を打つ。そういった性質のかたが、女ひとりに浮かれて、ペラペラの自信を背負い、己の能を越えた動きをなさり責を越えた発言をするは、墓穴へダイビングするようなもの、いや、紐無しバンジーでもしてるのか? まあ、ああいうのは危ないし、終わりがよくない。わたしは心配しているだけだ」

 士匄の言葉は荀偃じゅんえんへの罵倒に満ちていたが、友愛と憂慮だけはきちんとあった。趙武は、困惑し、肩をすくめる。士匄の言葉には諸々、複雑な思考と感情が入り交じっている。その全てにいちいち対応していては、本当に愚痴につき合うことになってしまう。趙武は注意深く口を開いた。

「ペラペラの自信、とはどういったことでしょうか。己の力を過信し、謙譲の心無く言葉を発し物事を行うということでしょうか」

 愚痴を議とし、問いと変えた趙武に、士匄は少し目の光を変えた。

 すっと背筋に力が入り、威儀正しい姿勢となる。なんとなく座っていた先ほどとは比べものにならなかった。

「まず、謙譲の心なく議を語りことを行うは、驕りというもの。驕慢と自信をはき違えるバカはいる。わかりやすく例えると欒伯らんぱくだ」

 士匄は欒黶らんえんを出す。友人に厳しすぎる言葉であったが、他に言いようがないのも事実である。趙武もおとなしく頷いた。

「自信は、己の積み重ねてきたもの、行い、経験、言葉、研鑽、全てを寄り集めそれをおのがものとしてうちに溶かしてようやく生まれるものだ。はっきり言えば男の強さは自信が土台だ。わたしは祖父の姿、父の行いでそれを学んでいる。己が見えておらぬものに自信は生まれぬ、それはまやかしというものなのだ。わたしは己の才を知り、他者に負けぬと知っている。中行伯の言動にそれはない。なのに、今、自信ありげにふるまっているのは愚人の行いに等しいから、わたしは危惧を抱いている。わたしがおらねば左右もわからぬ御仁だ。さて趙孟ちょうもう。お前は、己にその意味の自信が無いことを分かっている。ゆえに、努力し研鑽しているのだろう。自分を見きわめれば過信など無い。正しい謙譲は自信あってこそと過去の賢人も示している。強い大夫たいふになりたければ、自信を知ることだ」

 趙武は善き言葉ありがたく、と拝礼した。実際、士匄の言う言葉は含蓄深いと言ってよい。驕慢、過信と自信は違う。自分を客観視できてこそ、本当の自信が生まれ、物事にあたれる、ということであった。

 しかし、それを言う士匄は軽々しく重み無く、自信はあっても慎み深さはほとんど無い。言うことはまっとうであったが、本人は褒められた人間ではなかった。まあ、理想通りの言葉を実行できている人間はなかなかにいない。

「そのような自信をつけるためにも、我が家で整えた儀礼をお前に教えよう、というのが今日だ。ち、妙な話になったな」

 士匄の愚痴のせいであったが、慎ましい趙武は黙っていた。その後、儀の作法とそれに内包する礼に関して、士匄はきっちりと指南した。趙武は儀はわかっていても、その内側までは知らぬ、というものがいくつかあり、時には戸惑い、時には真面目に問うた。が、勘は良く理解も早い。儀礼の先には法があり、政治がある。いつのまにか、政治的な議題を交わすこととなった。

范叔はんしゅくは、己の才と行いがちぐはぐであれば、危ういとおっしゃった。中行伯への愚痴はそういったことですよね。私もそれは思います。我が曾祖父に見いだされた陽処父ようしょほという男は伝え聞くに、行いと言葉大きいながらも才は少なく、結果、暗殺されました。私には己の言動で身を滅ぼしたと思えました。ここからはあなたの知見を伺いたいのです。我がちょう氏は、父が滅ぼされ、その後、大叔父たちも滅び、もうすこしで私も廃嫡となって消えるところでした。范叔は伝聞でしかご存じではないかと思いますが、だからこそ問いたい。あなたから見て、自信というものを勘違いしたものどもの末路だったのでしょうか」

 趙武の顔は、淡く感情が読み取れぬ薄さであった。士匄は器用に片眉をあげ、その腹を探るように見る。どうも、士匄の軽重を計ろうとしたわけでも、己の屈折を吐露したわけでもなく、純粋に意見を聞きたいだけのようであった。士匄はさっと考えをまとめると、口を開いた。
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