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因果応報、春の祟り
知を致すは物に格るに在り、ものを知るのは実地が一番
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そろそろ山の領域に近いとなったあたりで、士匄の人相は最高潮に悪くなった。表情はどす黒くなり、目の下に隈が何重にもできているようにも見える。飢えた痩せ犬のような目つきで、時々周囲を見渡す。
「……薬湯はまだございます、用意させましょうか」
「いらん。もはや無駄だ」
趙武が不安を隠さぬ顔で、問うたが、士匄は拒んだ。趙武の手には柏の枝がある。士匄は邑をあとにするとき、真っ先に趙武に渡した。欒黶でもないかぎり、この不祥に当てられる、と思ったのである。が、士匄は柏を手にしていない。それも含めて趙武は不安らしい。士匄は自己利益優先の男であるが、趙武は己だけが良い目を見るのは落ち着かぬ、という人間であった。
「それでは、もう一度伺います。いえ、同じことを問うというのはあなたにとって不快かもしれませんが、私は改めて問いただしたいのです。山に入るはあなただけと言う議、承諾できません。事情分からぬものを連れて行けぬという理はわかりますが、私を置いていく理由にはならない。ここまで来たのです、共に参ります。私はこの柏がございますので、ご面倒はおかけしません。あなたは才あり格あり、いずれ家を継がれてこの国の差配をされるお方。私は非才ながら下役としてその差配を承るものです。おおよそ国を動かすに『信』が必要です。あなたを一人難事に向かわせてしまえば、私はこれから何を信として生きていけばよいのでしょうか。私から信を奪わないでください、お願いします」
拝礼し顔を窺う趙武に、士匄は軽蔑をあらわにした目を向ける。
「お前を連れて行く連れて行かぬは先達であるわたしが決めたこと。二度も問うは非礼且つ厚顔、不遜であるが、それは許そう。しかし、お前は連れて行かん。いや、今、いらぬと判じた。趙孟。わたしは未熟は大目に見る。才無きバカも許す、それは天が決めたことだ。しかし、卑しく愚鈍であることは許しがたい。お前は、本当は信など分かっておらぬ。分かっておらぬのに上っ面だけ使って媚びる道具にした。それは恥ずべきことだ。お前は我が晋の害だ、国を出ろ。『信』とは個人間の約定ではない。常に国を思いおのが職分を越えずまつりごとを行う大夫としての基礎だ。日々国難を考え積み重ね怠らず、危機があっても必ず好機とする備えの心構えでもある。お前がわたしに心をくだき難事を共に分かち合いたいという気持ちはわかるが、気持ちだけで国が支えられるか。おおよそ古来より、下役が上役を訪ねるときは贄を差し出す。上役は気持ちをとり贄を返す。お前という贄は返す、慮る気持ちだけは受け取っておく」
士匄は、趙武が力になりたいと心底思っている、すっかり思うようになったことを受けた上で、容赦無く払いのけた。この、傲岸不遜で身勝手な若者は、しかし法制の人間であり理の男でもある。趙武が勢いと気分で国の根幹に関わる言葉を曲解し上っ面の言葉を投げてきたことに静かに怒り、先達として釘をさした。
趙武は傷ついた顔をして俯いた。本気で誠意のつもりで言ったのだが、信が分かっていないと言われれば、そうでしたと応じるしかない。無知だと決めつけているわけではなく、学んだことが理解できていない、分かった気になった考えなしと指摘され恥じ入った。その上で、気持ちだけは貰っておくと汲み取られたわけであるから、惨めでもあった。己がただ導かれる民であるなら、これで良いが、国政を担う貴族としては失格である。趙武は、は、と息を吐いて、丁寧にゆっくりと拝礼する。
「……ご教示ありがとうございます。范叔の訓戒、常に思い戒めとし研鑽いたします。……私はおっしゃるとおり未熟な愚かもの、本来であれば先達の叱責を受け引くが道理ですが、もう一度だけ申し上げたいことがございます。……わ、私は韓伯に范叔のご教導受けるよう命じられ、今回は知伯に范叔を支え……問い……いえ、えっと」
頭にある考えが言葉にできず、趙武はもどかしく悔しかった。それでも必死に口を開く。
「まだあなたの行いの理がわかっておりません。私自身が見届けねば、その……たぶんわからないままです。知伯は私に正しい解を学べとおっしゃってました。この命をたがえるのは、若輩としてできかねます。お願いです、連れて行ってください」
趙武はなんとか言い切って、士匄を見た。士匄が苦々しい顔をしたあと、小さく舌打ちする。
「理あり、礼ある。そう言われれば連れて行くしかない」
正直なところ、連れて行きたくはない。士匄は山に近づくにつれ、この祟るストーカーな山神を見くびっていたことに気づいた。その力ではなく、はしゃぎようである。士匄が祀りに来てくれたのだと浮かれ、我を忘れているような重圧が襲い続けている。こんな鈍くさい後輩を供にしては、足を取られかねぬ。はっきり言って迷惑である。が、趙武が荀罃の教えを違えることは、同時に士匄も違えることとなる。それは己の中の筋が通らない。
「お前はわたしの力になりたいのかもしれんが、はっきり言うと足手まといだ。しかし、わたしは礼を外した卑怯者になりたくはない、連れて行こう。その柏を絶対に離すな。お前は面倒をかけぬと言った。その言葉、違えるなよ」
「ありがとうございます。あの、それなら……知伯に対してごまかそうとしたのは、卑怯だったのでは?」
士匄の言葉に、趙武が素でつっこんだ。嫌味のつもりでもなく、違いを聞きたいだけであった。士匄は一瞬口ごもったあと、
「それはそれ、これはこれだ!」
と人類史最強の言葉で怒鳴った。
「……薬湯はまだございます、用意させましょうか」
「いらん。もはや無駄だ」
趙武が不安を隠さぬ顔で、問うたが、士匄は拒んだ。趙武の手には柏の枝がある。士匄は邑をあとにするとき、真っ先に趙武に渡した。欒黶でもないかぎり、この不祥に当てられる、と思ったのである。が、士匄は柏を手にしていない。それも含めて趙武は不安らしい。士匄は自己利益優先の男であるが、趙武は己だけが良い目を見るのは落ち着かぬ、という人間であった。
「それでは、もう一度伺います。いえ、同じことを問うというのはあなたにとって不快かもしれませんが、私は改めて問いただしたいのです。山に入るはあなただけと言う議、承諾できません。事情分からぬものを連れて行けぬという理はわかりますが、私を置いていく理由にはならない。ここまで来たのです、共に参ります。私はこの柏がございますので、ご面倒はおかけしません。あなたは才あり格あり、いずれ家を継がれてこの国の差配をされるお方。私は非才ながら下役としてその差配を承るものです。おおよそ国を動かすに『信』が必要です。あなたを一人難事に向かわせてしまえば、私はこれから何を信として生きていけばよいのでしょうか。私から信を奪わないでください、お願いします」
拝礼し顔を窺う趙武に、士匄は軽蔑をあらわにした目を向ける。
「お前を連れて行く連れて行かぬは先達であるわたしが決めたこと。二度も問うは非礼且つ厚顔、不遜であるが、それは許そう。しかし、お前は連れて行かん。いや、今、いらぬと判じた。趙孟。わたしは未熟は大目に見る。才無きバカも許す、それは天が決めたことだ。しかし、卑しく愚鈍であることは許しがたい。お前は、本当は信など分かっておらぬ。分かっておらぬのに上っ面だけ使って媚びる道具にした。それは恥ずべきことだ。お前は我が晋の害だ、国を出ろ。『信』とは個人間の約定ではない。常に国を思いおのが職分を越えずまつりごとを行う大夫としての基礎だ。日々国難を考え積み重ね怠らず、危機があっても必ず好機とする備えの心構えでもある。お前がわたしに心をくだき難事を共に分かち合いたいという気持ちはわかるが、気持ちだけで国が支えられるか。おおよそ古来より、下役が上役を訪ねるときは贄を差し出す。上役は気持ちをとり贄を返す。お前という贄は返す、慮る気持ちだけは受け取っておく」
士匄は、趙武が力になりたいと心底思っている、すっかり思うようになったことを受けた上で、容赦無く払いのけた。この、傲岸不遜で身勝手な若者は、しかし法制の人間であり理の男でもある。趙武が勢いと気分で国の根幹に関わる言葉を曲解し上っ面の言葉を投げてきたことに静かに怒り、先達として釘をさした。
趙武は傷ついた顔をして俯いた。本気で誠意のつもりで言ったのだが、信が分かっていないと言われれば、そうでしたと応じるしかない。無知だと決めつけているわけではなく、学んだことが理解できていない、分かった気になった考えなしと指摘され恥じ入った。その上で、気持ちだけは貰っておくと汲み取られたわけであるから、惨めでもあった。己がただ導かれる民であるなら、これで良いが、国政を担う貴族としては失格である。趙武は、は、と息を吐いて、丁寧にゆっくりと拝礼する。
「……ご教示ありがとうございます。范叔の訓戒、常に思い戒めとし研鑽いたします。……私はおっしゃるとおり未熟な愚かもの、本来であれば先達の叱責を受け引くが道理ですが、もう一度だけ申し上げたいことがございます。……わ、私は韓伯に范叔のご教導受けるよう命じられ、今回は知伯に范叔を支え……問い……いえ、えっと」
頭にある考えが言葉にできず、趙武はもどかしく悔しかった。それでも必死に口を開く。
「まだあなたの行いの理がわかっておりません。私自身が見届けねば、その……たぶんわからないままです。知伯は私に正しい解を学べとおっしゃってました。この命をたがえるのは、若輩としてできかねます。お願いです、連れて行ってください」
趙武はなんとか言い切って、士匄を見た。士匄が苦々しい顔をしたあと、小さく舌打ちする。
「理あり、礼ある。そう言われれば連れて行くしかない」
正直なところ、連れて行きたくはない。士匄は山に近づくにつれ、この祟るストーカーな山神を見くびっていたことに気づいた。その力ではなく、はしゃぎようである。士匄が祀りに来てくれたのだと浮かれ、我を忘れているような重圧が襲い続けている。こんな鈍くさい後輩を供にしては、足を取られかねぬ。はっきり言って迷惑である。が、趙武が荀罃の教えを違えることは、同時に士匄も違えることとなる。それは己の中の筋が通らない。
「お前はわたしの力になりたいのかもしれんが、はっきり言うと足手まといだ。しかし、わたしは礼を外した卑怯者になりたくはない、連れて行こう。その柏を絶対に離すな。お前は面倒をかけぬと言った。その言葉、違えるなよ」
「ありがとうございます。あの、それなら……知伯に対してごまかそうとしたのは、卑怯だったのでは?」
士匄の言葉に、趙武が素でつっこんだ。嫌味のつもりでもなく、違いを聞きたいだけであった。士匄は一瞬口ごもったあと、
「それはそれ、これはこれだ!」
と人類史最強の言葉で怒鳴った。
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