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君は誰かのもの

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 ――お前が男に抱かれているのはわかっている。

 言ってしまえばこれである。

 欒黶らんえんが上目遣いに士匄しかいの顔を覗きながら、その顎に指を添わせ、幾人かの名を言った。まあ、それは、趙武ちょうぶ以外の、共通の友人知人、先達であったが、そんなことはクソどうでもいい。士匄は脇腹からうなじに向かって一瞬で鳥肌を立たせた。怖気と吐き気が一気に襲い、体を軋ませたあと、反射的に肩に回された腕を取って捻る。そのまま、担ぎ上げて床に背中から叩きつけてやる。欒黶はぎゃあ、と吠え、激痛に転げ回った。士匄は立ち上がってのたうち回る欒黶のみぞおちを思い切り蹴った。見事、欒黶が嘔吐し、士匄の衣は汚れる。

「ゲロ吐きやがって、汚かろうが!」

 士匄は正当な怒りはもちろん、理不尽な憤りも含めて、吐き捨てた。気持ち悪い、という嫌悪が強かったが、得てして人間、怒りでかられると口に出るものは反射的なセリフとなるものである。

 欒黶といえば、こちらも怒りに顔を歪ませ起き上がり、どかっと座り直す。痛みのためか、半泣きであり目が充血していた。

「腹を蹴れば、出るわ! バカかなんじは!」

 バカにバカと言われ、士匄はカッと頭に血が上ったあと感情が一回転し、一気に冷めた。怒りそのままに、冷静さを取り戻したのである。大きくため息をついたあと、その場に座した。

「……気持ち悪い。見ろ、まだ鳥肌が立っている」

 士匄は苦々しさを隠さず、腕を見せた。そういったところを、脇が甘いと趙武が指摘するのだが、自覚はない。その甘さを示すように、欒黶がにじり寄り、プツプツと鳥肌が浮いた腕を掴んだ。浅はかな士匄は、ヒッと小さく悲鳴を上げた。その悲鳴を助長させるように欒黶が指で鳥肌をなぞる。

「俺のこういった勘は当たる。当たらなかったこともあるが、まあ当たったにちがいない。汝は誰か知らぬが身を任せて潤ってる。そのくせ、俺がその意味で迫ったら気持ち悪いだと。俺の何が不満だ、なんと言っても俺だぞ!」

「お前の何もかもだ! この! バカ! ……え、嫌だ、何お前、わたしを、そんな目で見ていたのか」

 少々色を乗せた欒黶の態度に、士匄は本気で怯えた。男という拒絶感と、友人にそう見られていたという嫌悪感がそのまま恐怖に直結する。蒼白となる士匄に、欒黶があざ笑った。

「そんなわけなかろう。范叔はんしゅくはなんだアレだ自意識過剰というものだ。しかし、他人が育てて熟したものを食うのは趣がある。汝もそれは愉快と何度か女を譲ったではないか。俺は美しい女もたくましい男も好む、汝は顔がけっこうキレイだから、食いがいがあろうよ」

 欒黶が腕をつかんだまま身をさらに寄せ乗り出し、あ、と士匄の顔を食うように口を開く。その顔を無造作に掴むと、士匄は力を込めた。いわゆるアイアンクロー、もしくはブレーン・クロー、脳天締めである。欒黶が痛みに士匄の腕を思い切り引っ掻き爪で掴んだため、すぐさま投げるように解放してやる。

「……誰が、他人が育てて、熟した、だ。自分で育てて食え、わたしに触るな」

 なんとかそれだけを言うと、士匄は立ち上がり、帰る、と冷たく言った。これ以上、一緒にいれば首を絞め、殺してしまいそうだった。

 欒黶がぽかんと、あほうのように口を開けて眺めたあと、

「じゃあ、汝の娘をくれ」

 と言った。士匄は片眉を上げて見下ろす。欒黶が、表情の無い顔で見上げる。

「わたしにはまだ子はおらん」

「娘ができたら寄越せ。汝は欲張りのくせに俺が欲しいと言えば、笑って自分のものを寄越していた。なのに、今回はやらんという。汝が、その誰か知らん男のものだからだ。青天の霹靂だ、汝の頭がおかしくなったと思ったし、今日、汝の顔がけっこう好きだと思ったから、娘をくれ、汝に似て美人だろ」

 士匄は欒黶の言っていることのほとんどが理解できず、床に唾を吐いた。とにかく、情けなくなり欒黶をもう一度蹴ったあと、士匄は帰った。

 趙武が一連の出来事を見ていれば、頭を抱えて悲鳴を上げていたであろう。欒黶は士匄に恋情無く、かといって劣情も無く、ただの好奇心と友人への甘えで迫り、下手すれば強姦しようとしたのである。士匄は生理的に嫌悪し怒り、侮蔑して返り討ちをしたが、それだけであり友情はそのままである。距離感がおかしい、どういうことだと、趙武は叫んだに違いない。

 士匄は己の矜持に素直であり、有能さを自負していたが、不快すぎてしばらく出仕をサボった。そうなれば趙武に会えぬ苦しさがあったが、それ以上に欒黶というバカを目に入れたくなかった。

 何も知らぬ趙武が心配し、不安を覚えて書を送ってきたが、その文面に心わきたつものの、返信する気力もない。趙武に会いたいと強く思ってるくせに、士匄らしくなく腰が重かった。

 ところで、士匄の娘は欒黶に嫁ぎ、あざな欒祁らんきとして史書に残っている。
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