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1章 魔法少女とは出逢わない
1章78 弥堂 優輝 ⑱
しおりを挟む異世界で過ごした俺の時間はなんだったのだろう。
答えは考えるまでもなく、何でもないだ。
いつも後になってから自分の愚かさに気付く。
あっちの世界に召喚された当初は、何度も「元の世界に帰してくれ」とセラスフィリアに懇願し、そして「無理だ」と言われていた。
その後しばらくして特に帰りたいとも思わなくなってからも、あの女への嫌味のつもりで「帰せ、人攫いめ」と文句をつけていた。
その時の彼女からの答えが、いつの頃からか「無理だ」から「ダメよ」に変わっていたことに今更気が付く。
いくら全ての記憶を記録しておけるとしても、それを閲覧する人間が記憶の内容の違和感に気が付けないのではまるで意味がない。
やはり俺は無能なままだった。
こうして俺は、剣と魔法のファンタジー世界から、元々生まれ育った日本があるこの世界へと帰ってきたわけだが――
しかしそれで全てが元通りとなるわけではない。
いや、そういう言い方をすると、まるでいくつかは元には戻せたかのような意味になってしまうか。
だから、より正確に言うと、何一つ元には戻らなかった。
イカレ女の外道魔法によって世界を渡らされた俺が倒れていたのは、生まれ育った東京都江東区にある自宅の前だ。
ジルクフリードに殺され過ぎたせいで俺は満身創痍の傷を負っていて、魔力切れを起こした為にそれ以上はもう自殺して治すことすら出来ずにいた。
そんな状態でこっちの世界に還された重傷の俺は、降り積もる雪の中で気を失ってしまった。
時間は夜頃だったようだがそこまで遅い時間帯でもなかったため、通りがかった誰かが、真っ赤に染まった雪の中に倒れる俺を発見した。
血塗れの男というだけでも十二分に不審だが、さらに着ている服がこの日本では一般的な物ではなく、さらに手には大きなナイフまで握っている。そんな怪しさ満点の行き倒れに近所は騒然となった。
その騒ぎに気が付いた俺の父が家から出てきて、すぐに救急車を呼んだらしい。
そして運ばれた先の病院で俺は目を醒まし、そこで約6年だか7年ぶりに感動の親子の再会を――
――と、そうはならなかった。
俺は身元不明の重傷患者として扱われていた。
身分を証明する物は一切所持しておらず、武器の類まで所持していて、さらに全身には今回の怪我以外の古傷も多くある。その傷は日本で暮らす中で一般的な事故などで負うような類の傷ではない。
どう見ても誰かに斬られたり刺されて利して出来る傷にしか見えない。
つまり、どう考えても真っ当で一般的な日本人には見えないのだ。
だから俺は警察の監視下に置かれた。
意識を取り戻した俺に警官が聴取をしてくる。
久しぶりに使う日本語での会話に少し苦戦しながら、俺は適当に受け答えをして何も核心的なことを言わない――いつも通りの対応の仕方をした。
異世界から帰ってきたという事実が突拍子もなさ過ぎるので、どうせ言っても信じてもらえないから――という理由ももちろんある。
だがそれよりも、異世界での経験した多くの出来事のせいで、俺は官憲というものに本能的に警戒心と敵愾心を抱くようになっていたからだった。
警察に本当のことを言っても、何一つ得をすることはない。
そんな根性や習性が染みついてしまっていた。
そもそも、実の父が俺を救急車に引き渡したというのに、何故こんな風に身元不明の不審者扱いを受けることになっているのかというと――
それは、父が俺を見ても誰だかわからなかったからだ。
これだけを聞くと、父親のくせになんて薄情なことだと思う人もいるかもしれない。
だが、これは仕方のないことなのだ。
父の記憶にある最後に見た俺の姿と、この時の俺の姿はまるで違う。もしも昔の写真とこの俺とを並べて比較すれば、きっと多くの者は完全に別人だと言うことだろう。
だからDNA鑑定の結果を受けて呼び出された父が、病室で俺を見た時に浮かべた最初の感情は喜びよりも困惑だった。
俺にはそう視えた。
身長が150㎝あるかないかのチビで、痩せ細っていて女みたいな顔をしていたクソガキが――
180㎝前後まで身長が伸びて、それなりに鍛えられた身体つきをした人殺しに変わっていたのだ。
父の反応は無理もない。
だけど、しかし、それだけのことで? と疑問に思うかもしれない。
なにせ6年も7年も経てばガキなんて大体別人のように成長をする。
だが、ここでもう一つ齟齬があったのだ。
俺は異世界で6年以上は過ごしてから日本に帰ってきたと思う。
だが、この日本では2年と少ししか時間が流れていなかったのだ。
中学一年生の夏に失踪をし、帰還したこの時はそれから二年後の冬。
なのに父の目の前にいるのは、中学三年生の子供ではなく、人間味を失った大人の男だった。
だから、これは擁護しているわけでも自虐をしているわけでもなく、俺は本当に、父は何も悪くないと――神に誓ってそう思っている。
そして、反応に困ったのは父だけでなく、俺も同じだった。
大切に育ててもらっていたのに家出同然にこんなことになってしまって、おまけに人殺しだ。
合わせる顔がないとは以前から思ってはいたが、実際に会ってみてもっと困ったのは、父を目の前にしても、俺は特に何も思わなかったからだ。
父から見た俺は別人だったとしても、俺から見た父は記憶と相違ない。少しやつれているくらいの違いだ。
その父と再会したことの感動が全く無く、だからといって父に対して何か負の感情があるわけでもない。
知っている他人が知っているとおりの姿でそこに居て、ただそれだけのことで、何を思えばいいかわからなかった。
実際どう接していいかもわからずに少し困ってしまう。
思えば異世界での俺から他人へのコミュニケーションといえば、それは専ら騙すか殺すかで――逆に他人から俺への騙しや殺しも常に疑い続けてきた。
だけどここは平穏な日本で、目の前の人物は実の父親だ。
騙す必要も殺す必要もない相手に、どういう態度をとればいいのかがわからなくて困ってしまった。
それでもこの身にはもうそれが習慣づいてしまっていて、部屋のドアを開けて父が姿を見せた瞬間に魔眼でその姿を視てしまい――
全身に眼を遣って武器を隠していないかを探ってしまい――
近づいてくる彼との間合いを測ってしまい――
殺せるか殺せないか――
殺すのならどうやって殺すか――
それをやった後の死体の処理――
逃走方法――
――そういった思考が勝手に奔る。
そして困惑気味に俺の名を呼んで話しかけてくる彼の表情や眼球の動き、重心の変化、手の仕草、呼吸の癖などを監視し、相手の知性や感情を測り、騙せる相手かどうかを見積もる。
いつ襲い掛かられても対応できるように、表には出さずに備えた。
「優輝……なのか……?」
「……?」
一瞬知らない言葉を聞かされたような気がして眉を顰めそうになるが、すぐにおかしいのは自分だということに気が付く。
そういえば『弥堂 優輝』というのが俺の名前だったと思い出した。
「一体、どうしていたんだ……?」
「…………」
当然の質問をされるが、さてどう答えたものかと困る。
治療されているということは俺の身体は医者に調べられているはずだ。
それなら当然刃物でついた傷が多く残っていることもバレている。
まさか異世界で戦争をしてきたなどと、バカ正直に答えるわけにもいかない。
海外で戦争をしていたと言うか?
それも無理があるか。
まさか自分が日本に帰ってくることになるとは考えてもいなかったし、もしも帰れることがあったらなどと思うこともなかった。
だから何も長期的な家出の言い訳を準備していない。
そうして言い澱んでいる俺に気を遣ってか、「今は何も言わなくてもいい」と、父は追及を打ち切った。
なにか言い表し難い辛い体験を俺が抱えているかのように受け取られたようで、それは否定しておこうかとも思ったが、あながち間違いでもないことに気付いて結局俺は口を噤んだ。
俺自身は特に辛いとも思ってはいないが、実際に俺のしてきたことを話したら、穏やかで真っ当な社会人である父は卒倒してしまうかもしれない。
なら、やはり結局のところ、家族に事実を語るべきではないんだろうなと思った。
数日入院して、家に行くことになる。
面倒だから便所で自殺でもして傷を治そうかと思いついたが、そんな回復の仕方をすれば余計に怪しまれることになるので非効率を我慢する。
それよりもあっさりと解放されることに驚いた。
こんな怪しい人間、何か情報を吐くまで警察で監禁して拷問にかけるべきだというのが俺の常識で、早くもこの世界との間にズレを感じた。
少し揉めたのがエルフィーネのナイフを返せと俺がごねたことだ。
多分通常なら返してもらえないのだろうが公務員の父の信用のおかげか、渋々ではあるが返却してもらえることになった。
厳重に封をされて決してこれを解かないことを約束して。もちろん知ったことではないが。
それよりも、もしも返してもらえなかったら、夜中に警察署に火をつけて襲撃することになるので、面倒なことにならなくて助かったと安堵した。
父の運転する車に乗せてもらい、病院から警察署を経由し、それから自宅へ向かう。
道中あまり父との会話はなかった。
父は俺に気を遣っているようでもあり、どこか恐れているようにも視えた。
それよりも、車の中に居るのは俺にとって大変なストレスだった。
密室に閉じ込められたまま、自分の意の外で動かされるのは非常に落ち着かない。
もしも襲われたら、走行中の車からは簡単に脱出することが出来ない。昔はよくこんなものに乗って燥いでいたものだとクソガキを軽蔑する。
やがて父の家に到着する。
俺が失踪する前と変わらぬ場所にある変わらぬ建物。
息子の捜索願を出してからも、家族はずっとここに住み続けていたそうだ。
記憶に記録されたものと何も相違がない。
だが、懐かしさは感じなかった。異物感が強い。
ここまでの道中で見た街の風景も馴染めなかった。
こっちの世界ではたった2年しか経っていないのだ。大きく街が発展したり変わったりはしていない。
だけどどうにも落ち着かない。
まるで異世界にでも迷い込んだような気分がして、俺という存在に強い異物感を自分で感じた。
車から降りて家の前に立って、身に着けた服に触れる。
少しサイズが小さい、記憶にある服。
昔、一緒にボール遊びをしてくれた時に父が着ていたジャージだ。
隣に立つ父は俺よりも小さくなっていた。
ここ数年着ていた物よりも遥かに上等な質感が指先から伝わる。
だけど、どうにも着心地が悪い気がした。
過去と見た目は変わっていないドアを開けて、玄関の中に入る。
家の中は――母や妹も変わりないだろうか。
そんなわけはない。
家の中に入ってすぐに空気の違いを感じた。
感覚は記憶の映像には記録されない。
何となく肌でそれを感じた。
結論から言うと、家は――弥堂家は家庭崩壊していた。
その最たる原因がクソガキにあることは前提として、まず母がノイローゼになっていた。
彼女がバリキャリだということを既に言ったが、それに気が付いたのがこの時だ。
大事に育てていた息子の失踪という事件は、彼女のキャリアに致命的な傷をつけたようだ。少なくとも完璧主義者の彼女は致命的だと感じたのだ。
特にその事実だけを以てして、彼女がキャリアを続けることを不可能にしたわけではない。ただ、彼女の心がこの挫折に耐えられなかっただけのことだ。
クソガキの捜索に疲れ仕事を休みがちになり、母は段々と気性が荒くなっていったらしい。日に日に様子がおかしくなるので病院に連れて行ったら、母はうつ病だと診断された。
そして、その診断結果がさらに彼女に強い挫折感を齎し、それが彼女の心を壊した。
挫折感にうちひしがれ、息子の無事をひたすら祈りながら部屋に引き籠るようになり、母は段々と無気力になってしまって遂には家事も出来なくなった。
父はその母を介助しながら自分は働き、家事もした。
しかし母と妹の世話で勤怠が安定しなくなり、公務員なのでクビにはならなかったものの、厄介払いのように父は左遷されてしまった。
彼の出世の道も閉ざされてしまっていた。
それでも元来の責任感の強さから、父は一人で家を支えていた。
尊敬に値すると思う。
だが、父は優秀な人間ではあるが超人ではない。
仕事と家事と病んだ母の世話にクソガキの捜索。
それらの作業に追われてしまい、妹のことに関して、他の家の子供と同等にそん色の無いようには手が回らなかった。
妹はグレてしまっていた。
周りによくない友人でもいるのか、あの大人しく内気で優しかった妹は、まるで希咲のような見た目になっていた。いや、希咲というよりは同じクラスの結音や寝室の方が近いか。
中学生になった彼女は髪を染めてピアスを開けタトゥーを入れ、わかりやすく不良の姿に為っていて言葉遣いも悪くなっていた。
見た目の変化については俺も人のことは言えない。
だから妹の方も変わり果てた俺を見て驚いていた。
目を見開き硬直して、どこか絶望的な表情を見せた。
きっと記憶にある兄と、目の前の俺が同一人物であるということが、妹には受け入れられなかったのだろう。
そんな彼女へ聞かせる言い訳が思いつかず、だから言うことがないので俺も俺で口を閉ざす。
言葉を失う妹と言葉が無い俺に、顔色を失くした父がリビングへ行くよう促した。
俺を追い抜きざまに父は自身の胸の下あたりを押さえた。恐らく胃を病んでいる。
ソファに座らされ、お茶を用意しに行った父を待つ。
少し離れた位置に立ったままの妹が遠慮がちに話しかけてくる。
昔の口調を意識して。
「お兄ちゃん……、なの……?」
「…………」
身勝手なものだなと自嘲する。
プァナにそう呼ばれた時は妹を連想するからやめて欲しいと思ったのに、今はプァナをイメージしてしまうから、目の前の妹にそう呼んで欲しくないと感じた。
「あの……?」
「ん? あぁ、そうだ」
記憶の再生を切って彼女に答える。
「……今まで何してたの?」
「…………」
そしてすぐに答えることがなくなる。
本当のことを言っても信じてもらうことは難しいだろうし、下手をしたらまた病院に戻されてしまう。
だが、これからも色んな人間に何度も聞かれる質問だろう。何かしらの答えを用意しておかなければならない。
とはいえ、突然中学生が失踪をして、たったの2年で身体が急成長し顔つきや性格が別人のように変わること――この現象を論理的に説明する方法がわからない。
なかなかに難儀だ。
「なんか……、変わったね……」
「そうだな。お前も随分変わったな」
「っ! そ、それは……っ、そうだけど……っ。なんか、喋り方も全然違うし、信じらんなくて……」
「信じる信じないはキミの問題だ。俺の責任ではない」
「は……? なにそれ? 意味わかんねー」
「あぁ。その口調の方が見た目に合ってるぞ。ほら、お前も昔と随分違うだろ。お互いそんなものだ」
「な……っ⁉」
「あ」
「……?」
不快げに眉を歪める妹の顔を見て、俺の口から思わず間抜けな声が漏れた。
やってしまったと、自分の失敗を認める。
俺という人間の、基本的な他人とのコミュニケーションは殺すか殺されるか、それか騙すか騙されるかだ。
騙しあう必要のある相手の場合は割と注意深く相手の話を聞いて、俺もそれなりに言葉を選ぶ。だが、騙し合う必要のない相手にはそれをする必要がない。
そのため騙すつもりのない相手の話を聞く意味はなく、だからどうしても適当に会話を済ませてしまう癖が俺にはついてしまっていた。
彼女は俺の実の妹なので基本的には殺す必要がない。
殺す必要のない相手もまた二つに別れる。
半永久的に殺さない相手と、まだ殺さない相手だ。
それには敵か敵じゃないかという要素が深く関わってくる。
だから、よく知らない相手はとりあえず怒らせてみれば効率がいい。
敵だったら怒れば襲いかかってくる可能性が高いし、敵でなくても怒ればそのまま敵になる可能性が高い。
関係性を確定させる為には、相手を怒らせてみることが非常に手っ取り早い。
そんな非人間的な行いがもう癖になってしまっていて、適当に会話をすると勝手に相手を煽るような物言いになってしまう。
案の定、妹の目にも不信感や敵対心が浮かんだ。
だけど、それが向けられていて一番楽な感情だと――
俺という人間がそう感じることもまた事実だ。
しかし、そうは言っても、6年だか7年ぶりに会った――彼女にとっては2年か――妹に敵意を返すわけにもいかない。
俺の感覚では最後に見た彼女はまだ小学生だったので、こちらとしても少々戸惑いはある。
そうしていると、二階からこちらへ向かっている誰かの気配が床を踏み鳴らす音が近づいてくる。
いつの間にか父の姿がない。
おそらく母を呼びに行ったのだろう。
母に会うのは少し緊張を感じた。
母は優しいが厳しい人だった。こんな風に落ちぶれた俺を許してはくれないだろう。きっと叱られてしまう。
だけど、さっき妹にしたような口の利き方を母にもするのは流石に気が引ける。
かといって『今までどうしていた』という質問を、父や妹と同じようには母は逸らかされてはくれないだろう。どうしたものかと迷う。
その答えの準備を終える前に、俺たちの居るリビングに人影が飛び込んできた。
勢いよく入ってきたその人物は、俺と目が合ってその動きを止める。
母の目が驚きに見開かれ、身体を硬直させた。
きっと変わり果てた俺の姿に驚いたのだろう。
そして――
――俺も多分彼女と同じような顔をした。
俺の眼に映る母の姿も変わり果てていた。
息子の俺が言うのも気持ち悪いが、母は綺麗な人だった。
顔やスタイルだけでなく身嗜みや所作も、いつも身綺麗にしていた。
他人にだけでなく自分にも厳しく、少々神経質なくらいに母は乱れを許さなかった。
それが――
伸ばしっぱなしの髪はぐちゃぐちゃに乱れ、前髪なのか横髪なのかわからない髪の毛の隙間から見える顔には吹き出物が目立つ。化粧などもちろんしていない。
身体は見る影もないほど――逆か、見る影が在り過ぎるほどに太ってしまっていた。
着ている服も、何日着っぱなしかわからないような皺くちゃで汚れたスウェットだ。
母のその姿を見た瞬間に、クソガキが居なくなったことでどれだけのストレスを彼女に与えたのか――それが俺にも一瞬で想像出来てしまった。
思わず魔眼を発動させる。
別人なんじゃないかと――
或いは別人であって欲しいという願いかもしれない。
母の魂のカタチを確かめようとした。
しかし、彼女の“魂の設計図”を視るのはこれが初めてなので、過去との比較のしようもなかった。
「――だ、だれ……?」
やがて母の口からそんな言葉が漏れる。
父がギョッと目を剥いた。
俺は母の言葉よりも、彼女の声が以前と変わったように聴こえて、そちらの方が気にかかってしまった。
体型が変わったせいだろうか。
父が慌てて母を宥めながら説明をしているのを、俺は他人事のように視ていた。
「――ちがう……っ! ちがうわ……っ!」
父は懸命に対応をしているが母はどんどんと興奮していく。
あー、これは駄目だなと、やはり俺は他人事の感想を浮かべた。
「――あなたは優輝じゃない……! 私の息子じゃない!」
そしてついに父と妹が呑み込んでいた、決定的なその一言を母が発してしまう。
「やめなさい! 彼は優輝だ……!」
母の反応に父も動揺をしていた。
だが妹の方が強く動揺していたかもしれない。
妹が俺の方へフラフラと近づいてくる。
多分俺が傷ついたのではと気遣ってくれたのだろう。なんだ、優しいところは変わっていないじゃないかと思った。
だが俺は手を伸ばして妹の肩に雑に触れて彼女を押し返す。
こうなった人間が次にどんな行動に出るかは何度も見てきたから知っている。
俺に近づくと危険だ。
「――かえして! 私の息子をかえして……!」
俺が息子じゃないとして、じゃあ一体何なのか。
母の中で整合性をとるために認知が歪んでいく。
その辺にある物を次々に俺に投げつけてきた。
巻き込まれないように妹をソファに突き飛ばす。
すると運悪く、母が投げた花瓶が俺の頭に当たった。
額で花瓶を受け止めると床に落ちたそれが音を立てて割れる。
破片と一緒に散らばった花は枯れていた。
「お兄ちゃ――っ⁉」
反射的に俺の名を呼ぼうとした妹の声が止まる。
俺の顔を見て妹は息を呑み、それから怯えたような表情を浮かべた。
特に痛みもないし怒りも感じていないから、俺の表情には何も表れていないはずだ。彼女は一体何に怯えたのだろうか。
リビングには母の絶叫が響いていた。
その母の様子を視て、これは俺にとって都合がいいことなのかもしれないと思った。
なにせ両親や妹から見ても、以前のクソガキと今の俺は全く違う人間に見えるのだ。
これなら昔の知り合いにうっかり出くわしたとしても、俺だと気付かれる心配が少ない。
彼らの反応は非常に有用なサンプルだった。
泣き喚いて崩れ落ちる母を視下ろしながら、そんな感想を持った。
この後に、母が心を病んでしまっていたことを聞いた。
仕事を辞めて家事も育児も放棄して部屋に引き籠り、だがそれでも毎日クソガキの無事を祈ってくれていたらしい。
きっといつか自分の息子が帰ってくることを希望に、千切れかけの精神の糸をギリギリ繋ぎ止めていたのだろう。
俺は胸元にある逆さ十字のペンダントの存在を意識する。
今日ここで、母は俺の姿にその目で触れてしまったことで、彼女が繋ぎ止めていた糸は切れてしまった。
母は壊れた。
この時から少しして彼女は日常生活が困難になり、隔離病棟に閉じ込められることになる。
そして、母だけでなく、父や妹も似たようなものだったのだろう。
精神病と診断されるほどではないが、おかしくなってしまった母を家の中に抱えて生活するのは、父と妹にとっても事実重荷だった。
それでも、いつかクソガキが戻ってくればこの地獄も終わると、だからその時までは――そんな風に自分に言い聞かせながら今日までの生活を耐えてきたに違いない。
彼らのそんな緊張の糸も、母が壊れた瞬間にプツリと断ち切られてしまった。
戻ってきたのがこの俺だったせいで、この家はこの時を以て完全に駄目になってしまったのだ。
ここはもう俺が居ていい場所ではなかった。
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