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1章 魔法少女とは出逢わない

1章64 這い寄る悪意 ⑥

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「――こ、殺すなんて……、そんな……」


 上擦ったメロの声に、弥堂は変わらぬ眼で見返すだけだ。


「そんな? 突拍子のない話だと思うか? 俺は俺なら絶対にそうすると確信しているぞ」

「…………」


 メロは反論できない。

 彼女から見ても、この弥堂 優輝という男はそうすることの方が自然だと思えたからだ。


「だから無理だと言ったんだ。ギリギリまでチャレンジをしたいと言うのなら別に構わんが、その結果がどうなっても知らんぞ」

「ジ、ジブンは……っ」

「だから、自立をする必要があると言ったんだ。それも手段を厭わないほど早急に。そうしない理由が俺には思いつかない。あるなら聞いてやるから言え。俺を納得させてみろ」

「…………っ」


 悔しげに、しかし諦めたように、メロは目線を下げる。

 それは消極的な同意と同義だ。


 弥堂は一度失望の眼でメロを視てから、水無瀬へ目線を遣る。


「そういうわけだ。何の準備もなく突然社会に放り出されてお前も大変だとは思うが、世の中そんなもんだ。死にたくなければ自分のことは自分で――」

「――やだっ!」

「あ?」


 弥堂は急に大きな声を出した彼女を訝しむ。


「やだじゃねえだろ。駄々を捏ねたってどうにも――」

「――やだもんっ!」

「あのな……」

「弥堂くんは――」


 呆れながらも諭そうとしたが、言おうとした言葉は彼女の瞳に吸い込まれ、先が続かなかった。


「――弥堂くんも……、忘れちゃうの……?」

「お前……」


 彼女はまた泣いていた。


「みんな、みたいに……っ、弥堂くんも、わたしのこと……っ」


 ここに来てからのグズッたような泣き方ではなく、ここに来る前の両親に忘れられた時のような悲壮感がその顔にはあった。


「やだよ……っ」


 水無瀬は覚束ない足取りで立ち上がり、フラフラと弥堂へ近寄っていく。

 緩慢な動作で目の前まで来て、両手を伸ばしてくる。


「そんなの、やだよ……っ!」


 首に腕を回され彼女に抱きつかれる。


 弥堂はただ彼女の姿を眼に映すだけで、それを受け入れてしまった。


「やだ……、やなの……っ、忘れちゃやだ……っ!」

「…………」


 彼女にしがみつかれたまま、半ば意味を為さないその悲痛な叫びをただ聴く。


(そうか……、こいつ……)


 どこか得心がいった。


 この部屋に連れてきた彼女は確かに何度も泣いてはいたが、だがそれでも弥堂が予想していたよりは落ち着いているように感じていた。


 甘ったれな子供――水無瀬 愛苗に関して弥堂はそういう印象を持ち、そのままそういう評価を下していた。

 だから、両親も友人も失った彼女はもっと取り乱し続け、もっと深い絶望に囚われてしまうと、そんな風に考えていた。

 そのため、この部屋での彼女の様子には少し違和感を持っていたほどである。


 しかし、そうではなかったようだ。


 弥堂は彼女を抱え上げて膝の上に乗せた。

 するとすぐに水無瀬は強く身体を押し付けてくる。


 それは自分はここに居るという心の叫びだ。


「そんなこと言ったって仕方ないだろう。忘れようと思って忘れるわけじゃないんだ」
「弥堂くんは忘れてないもん……っ」

「まだ、忘れてないだけだ。俺だけは例外だという根拠はない」
「じゃあなんで忘れてないの……?」

「さぁな」
「じゃあ忘れないもん……っ!」

「お前が決めるのかよ」
「決めていいって、弥堂くん言ったもん……! 許されてるって言ったもん……!」

「それは別の話だろうが。大体許されてたら現状こうはなってねえだろ」
「やだぁぁぁぁっ! やだやだやだ……っ、忘れちゃやだぁぁぁぁ……っ!」


 ついには癇癪を起したように泣き喚きだしてしまった。

 これでは言葉を聞かせて諭すのは到底無理だと弥堂は溜め息を吐く。


 チラリと目玉を動かし、床に座ってオロオロするメロを視た。


(今のこいつにとっては俺とクソネコが最後の防波堤のようなものか……)


 それが壊れてしまえばきっと彼女も――


「参ったな……」


 この惨状では、今夜中に全て伝えてしまうつもりだったことを完遂出来ようもない。


 先程の水無瀬の証言――アスとの会話のことを聞いた際に思ったこと。

 魔法少女とはなんなのか。

 そのことについて彼女に話をしておこうと思っていたが、諦めるしかないかと予定を修正する。

 恐らく今の彼女には耐えられないだろう。


 だが、きっと次の機会はない。


 だから伝えず仕舞いになってしまうが、しかし知ったところでどうにもならないことだ。

 だったら別にいいかと、弥堂は考えを変えた。


 その代わりに――


「――いいだろう」

「えっ……?」


 彼女の肩を掴んで少し身体を離させ、そして正面から眼を合わせる。


「わかった」

「なに、が……?」


 今度は両手を彼女の顏へ回し、包み込むように頬に触れる。

 グスグスと鼻を鳴らす彼女の涙を親指を使って拭った。


「俺に忘れて欲しくないんだろう?」
「うん……っ」

「だから、わかったと言ったんだ」
「わかってくれたら、だいじょうぶなの……?」

「そうだ」
「でも、わすれちゃうかもって……」

「俺は記憶力が人よりもいいんだ。だから忘れない」
「やくそく……?」


 内心で僅かに躊躇をし、しかし応える。


「あぁ、約束だ」
「ほんとに……?」

「本当に」
「ぜったい……?」

「絶対だ」
「…………」

「約束する。俺はお前のことを何があっても忘れない。違えたらこの首を落としてやる」
「それはダメだよぅ……」


 ふにゃっと眉を下げた水無瀬は少し何かを考え、それからオズオズと右手を伸ばしてくる。


「ゆびきり、してくれる……?」
「…………」


 その幼い願いに、今度は弥堂が言葉を失くす。

 とても嫌そうな顔になっている自覚があった。


 だが、弥堂も彼女の頬から右手を離し、その手へ近づけた。


「えへへ……」


 すると、涙を溢しながら彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。


 こんな何の保証にもならない約束で安心が出来るのなら、別にいいかと小指を差し出す。

 水無瀬も手を動かして、お互いの小指と小指を絡めた。


「ゆーびきりげーんまん……」


 歌いながら繋いだ手を振る。


(何故俺がこんなガキみたいなマネを……)


 そう思いつつ――


 もしも約束を履行出来なくても、指を切って針を飲むだけでいいと――

 ただ、死ぬだけでいいと――


(――死ねば赦される程度のものなら、実質リスクなどない)


 そう考えて、受け入れた。



「――ゆーびきった!」


 やがて水無瀬が満足げにそう宣言する。


 弥堂は彼女へジト目を向けた。


「切ってねえだろ」

「え?」


 何故か彼女には不思議そうな顔をされてしまい、弥堂は目線を手へ移す。

 小指と小指はまだ繋がれたままだった。


「切らなきゃ終わんねえだろ」
「やだぁ……!」

「やだじゃねえんだよ。離せ」
「だって離すと弥堂くんすぐどこか行っちゃうもん……」

「行かねえよ。ここが家だぞ。どこに行くんだよ」
「でもでもっ、離さないんだもんっだからねっ!」

「解像度の低い希咲の真似をするな……」


 呆れた声を出しながら、これでは指を落として無かったことにするのは無理だなと諦めた。


「えへへ、わかってくれた? ななみちゃんのマネっこしたら、弥堂くん言うこと聞いてくれるかなって」
「なんでだよ。むしろ聞きたくなくなるぞ」

「えー? でもでも――あ、そうだ! 弥堂くんとななみちゃんがお話したら、またみんな私のこと思い出してくれたりしないかな?」
「お前……、気付いてたのか?」


 意外そうな目を向けると、彼女は少しだけ得意げな顔をした。


「うん。弥堂くんとななみちゃんがお電話したら、みんな仲良くしてくれるようになったから……」
「……あれは何故だとお前は考えた?」

「えっとね……、たぶん二人の仲良しパワーかなって」
「そんなものはない」

「でもでも、私とななみちゃんはお友達じゃない? それで私と弥堂くんもお友達じゃない? それで、弥堂くんとななみちゃんもお友達だし、ななみちゃんは皆とお友達だから、みんな仲良しになれるんだと思ったの」
「……悪いが意味が全くわからなかった」


 嫌味でもなんでもなく、弥堂は正直に心中を吐露した。

 このまま彼女に自由に喋らせていると、頭がおかしくされそうだったので、自分から話を聞くことにした。


「あいつはお前のことを……?」


 水無瀬の顔は一瞬で曇った。


「たぶん、もう……」
「そうか」

「ななみちゃんいつもはいっぱいメッセくれるんだけど、今日はひとつも……」
「お前からは送ったのか?」


 水無瀬は黙って首を横に振る。


「こわくてムリ……、もしもななみちゃんに『あんたなんて知らない』って言われちゃったら……、多分、わたし、もう……」
「まぁ、そうだろうな」


 彼女はまた涙を溢し始める。

 十分に納得のいく話だったので、弥堂もそれ以上は聞かなかった。


 彼女の背中に手を回して抱き寄せる。


「お前に言っておくことがある」

「やだっ!」


 すると彼女は反射的に拒否の言葉を出す。


「勘違いするな。離れろとか出ていけと言うつもりじゃない」

「……そうなの?」

「では言い換えよう。お前に教えておくことがある」

「……なぁに?」


 頭と背中を撫で、子供をあやすようにしながら静かに話す。


「夕方、駅前でオッサンに着いていこうとしてただろ」
「えっと、うん……、でも、ななみちゃんにダメって言われてたからブザーしたの」

「恐らくだが、知らない人間が近寄ってきたら話も聞くなと言われてないか?」
「言われました……」

「多分母親にも似たようなことを言われてただろ。何故相手をした?」
「えっと……、オジさん優しそうだし、親切だったし、“いい人”だったから……」


 弥堂は溜息をひとつ置いて、また彼女の身体を離して目を合わせられる位置に動かす。


「いいか? 重要なことだ」

「うん……」

「この世に、この『世界』に――“いい人”なんてモノは存在しない。唯の一人すら存在しない」

「えっ……?」


 真剣な眼で伝えられる弥堂の言葉に水無瀬は目を見開いた。


「正確に憶えて理解をしろ。この世には“いい人”も“わるい人”も存在しない。ヒトが“いいこと”をしたり、“わるいこと”をしたりするんだ」

「いいことと、わるいこと……」

「その違いがわかるか?」

「…………」


 一度言葉を切って彼女の理解を待つ。

 すると水無瀬が控えめに反論をした。


「で、でも、私が知ってる人、みんないい人だし……」

「お前は“いい人”のハードルが低すぎる」

「え?」

「まぁいい。お前がそいつらを“いい人”だと感じる・思うのは何故だか考えたことはあるか?」

「なんで……いい人か……」

「その理由は、そいつらが“わるいこと”をしないからじゃないか?」

「あっ……、そうかも」


 言われて初めて気づいたようなその反応に、『こいつ特に何も考えていなかったな』と思ったが、話が逸れるので弥堂はスルーした。


「何故“わるいこと”をしないと思う?」

「……しちゃいけないから?」

「そうだな。そういうことになっているな。だが、してはいけないから“わるいこと”をしないわけではない」

「え? で、でも……」

「そもそも何故“わるいこと”をしてはいけないんだ?」

「え? えっ……? だって、そんなの……」


 小さな頃から当たり前のように教わり、当たり前のように信じ、当たり前のことのように守ってきたこと。

 それが何故かなど考えたこともなく、当然そんな当たり前のことを聞かれたこともない。

 困惑しつつ水無瀬は答えた。


「みんなが、迷惑しちゃうから……?」

「そうだな。では、その“みんな”とは誰だ?」

「周りの人……?」

「違う。“みんな”とは人じゃない。集団だ」

「ひとじゃ……ない……?」


 まさか間違いだと言われるとは思っていなかった水無瀬はより困惑を深める。


「“みんな”とは、多くの場合は国家、社会のことだ。狭めれば地域、俺たちのような高校生だとクラスだな。逆に最大まで拡大すると人類社会全体になる。どういう意味かわかるか?」

「わかんない……、だって人が……」


 水無瀬は首を横に振る。


「例えば、俺が今家の外に出て、最初に見かけた奴を殴ったとする。それは“わるいこと”か?」

「うん……」

「そうだ。何故だ?」

「だって、ぶたれた人が可哀想……」

「だが、一億人以上もいるこの国で、たったの一人がちょっと殴られただけでなんだというんだ?」

「だって……、そんなの……、ダメだもん……」

「あぁ。お前の言うとおりだ。許してはいけない行為だ」

「え?」


 今度は否定されるとばかり思っていたことが逆に肯定され、水無瀬は混乱してしまう。


「何故許してはいけないか。暴力を罰しないと収まりがつかないからだ。やられた奴は当然怒る。そしてやっても罰せられないのなら当然やり返す。するとどうなる?」

「もっとケンカになっちゃう?」

「そうだ。そして行き着く先は殺し合いだ。さらに、そんなことが自分の生活範囲で起きていたら他の者たちはどう感じる?」

「みんな、怒っちゃう……?」

「そうだ。人心が荒れ疑心暗鬼に陥り、そこかしこで暴動が起きる。まともに表を歩けなくなり、商取引が正常に行われなくなれ、流通も滞る。つまり社会が壊れるということだ。わかるか?」

「……うん」

「たった一人が殴られただけで終わるならどうでもいいことだが、そういうことになるから“やってはいけない”“わるいこと”だとして、法で規制するんだ。その一人の為じゃない。人類、日本人、俺たち全体が存続するためだ。納得が出来なくても、これをまず理解しろ。異論は認めない」

「わかった……」


 当然納得はしていないようだが、素直な彼女はとりあえず聞き入れてくれた。ここで噛みつかれると面倒だと考えていたので弥堂は内心で満足する。


「話が戻るぞ。では、お前の言う“いい人”とやらが、今言った“わるいこと”をしない理由。それはやってはいけないからではなく、やると損をするから、それとやる必要がないからだ」

「損……?」

「あぁ。今話したばかりだが、“わるいこと”をするとどうなる?」

「つかまっちゃう?」

「そうだ。何故なら野放しにしておくと全体みんなに迷惑だからだ。つまり、“わるいこと”をすると周囲から排除をされ、社会に居場所がなくなる。そうするとあらゆる面で生き辛くなる。犯罪者が出所後にどうなるか聞いたことないか?」

「働けなくなっちゃう……?」

「その通りだ。正確には普通の人間に比べて就職が困難になる。一度信用を失くしているのだから当然だな。もしも報道などされてツラが割れてたら周囲に避けられたりもする。友人も恋人も作りづらい」

「ひとりぼっちになっちゃう……」

「それは損だと思わないか?」

「思う……かわいそう……」


 誰とも指定していない犯罪者に自分のことのように心を痛める水無瀬に、暢気なものだなと呆れつつ先を続ける。


「損をする。だから、やらない。次に、やる必要がない。これはどういう意味かわかるか?」

「やっちゃいけない……、じゃないんだよね……?」

「そうだ。これはお前自身の問題でもあるぞ」

「え?」


 まだわかっていない様子の彼女へ説明してやる。


「この国で、一般的な家庭に生まれた場合、貧困国に生まれるよりは基本的に裕福だ。お前の両親も色々苦労したようだが、それでも食うに困ることはなかっただろう?」

「うん……」

「昨日までのお前はそんなことをしなくてもメシは食えたし、屋根も壁もある暖かい部屋で安心して眠ることが出来た。わざわざ他人の物に手を出す必要がない。それなのに、そんな生活を失うリスクを抱えてわざわざ他人を殴って何かを奪う意味などないだろう? ワリに合わなすぎる。そう思わないか?」

「おもう……」

「つまり、多くの者が“わるいこと”をしないのは、そうする必要がなく、やると大損こくからだ。そういうことになる」

「…………」


 彼女の表情は暗いが反論をする様子がないので、弥堂は一度言葉を止めてテーブルの上のペットボトルに手を伸ばし、キャップを外してから水無瀬の口にそれを突っ込む。

 ボトルを傾けて水を飲ましてやった。


「んく、んく」と喉を鳴らす水無瀬をメロがギョッとした顔で見ていた。


「では逆に、“わるいこと”をする連中は何故すると思う?」

「なんで……?」

「しないと生きられないからだ」


 話を続けながらペットボトルをテーブルに置き直す。


「もちろん魔が差すということもあるが、それは例外として、日常的に犯罪に手を染める連中の話だ。そいつらは、大抵の場合、そうしないと生きられないからだ」

「損しちゃうのに……?」

「明日の損得を考える余裕すらない。今日のメシと今日の寝床を毎日心配しないといけないほど追い詰められると、人間は犯罪を犯すしかなくなる」

「そんな……っ⁉」


 驚きを浮かべる水無瀬に弥堂は冷たい眼を向けた。


「なにを驚く」

「え?」

「メシがない。寝る場所がない。金がない。まともに仕事にも就けない。聞き覚えがないか?」

「え……? あっ――」

「――そうだ。今日からお前もそっち側の人間だ」


 水無瀬は言葉を失う。


「しょ、少年……? もうちょっと手加減というか、やさしくというか……」

「誤魔化してもどうにもならんだろう。現実を知るのが遅れれば遅れるほど死ぬ確率が上がるぞ。身体が清潔で心が元気な内に生活基盤を手に入れないと、あっという間に最底辺に転落だ」

「…………」


 顔色を窺いながら手心を求めるメロを切り捨てると、彼女も俯いてしまった。


「自分の身に置き換えると実感がわかないか? もしも今日俺と会わなかったら。その時のお前はどうにもならないと、自分でそう思わないか?」

「思う……」

「腹が減って、寒くて、金もない。もう盗むか奪うかしか出来ない。何日我慢できる?」

「でも……、そんなこと絶対……」

「そうだな。お前はそう思うかもしれないな。じゃあ、他の人間にも同じことが言えるか?」

「え?」


 何を言われるか想像がついたのだろう。怯える彼女を容赦なく問い詰める。


「スラムってわかるか?」

「あぶないとこ……?」

「そうだ。そこには10歳になる頃には父親も母親もぶっ殺されちまってどうにもならなくなったガキがいくらでもいる。当然金もないし、仕事もない」

「そんな……」

「そんなガキがもう3日も何も食ってない。だから食い物を盗んだ。お前はそのガキにそんなことしちゃダメって言うのか? お前自身そいつにくれてやる物を何も持っていないのに。盗むな飢えてろと、そう言うのか? その盗みは“わるいこと”か?」

「わる、い……、けど、でも……っ、しょうがないから……」

「そうだな。その“しょうがない”が毎日繰り返されていくと、段々麻痺していくんだ。他人の物を盗んでも何も感じなくなる」

「慣れちゃう……」

「おまけにスラムなんてそんな奴ばかりだ。奪い合うことが当然で、やらなきゃ一方的に奪われるだけだ。そしてそれがある程度許されている。スラムから出てこない限りは」

「どうして……?」

「勝手にやりあっていろということだ。俺たちが今いるこことは隔離されている無いことになっている場所なんだよ。そこを見ないようにして、みんな平和だと言っているんだ」

「ひどい……」

「だが一度こちらへ出てきて犯罪を犯せば、その時には絶対に許されない。迷惑だからだ。生まれからして運の悪い寸詰まったクズなど足手まといだからな。ブタ箱にぶちこんでまた隔離するのさ」

「そんなのってないよ」

「お前ももう他人事じゃない」


 あまりの残酷さに水無瀬は眩暈を感じた。

 そして、ふと疑問を感じる。


「どうして……?」

「それが世の中の仕組みだからだ」

「ううん、そうじゃなくって。弥堂くんはどうしてそんなこと知ってるの? 私そんなのちゃんと考えたことなくって、全然知らなかった……」

「別に知る必要もないからな。今までの生活の中でなら」

「弥堂くんはどうして?」

「少し調べればわかる」

「でも、なんか……、すごい実感があるように思ったの……」


 チッと舌を打つ。

 一瞬嘘を吐くかと考えたが、そのまま答えることにした。


「……そういう場所で暮らしていた時期がある。お前の言うとおり、俺自身が見て経験してきたことだ」

「そんな……っ⁉」


 水無瀬は目に涙を浮かべて口を押さえた。

 弥堂はそんな彼女へ不可解そうな眼を向ける。


「お前はアホか」

「だって……」

「目の前に俺がいるのに、昔の俺に同情してどうする。ある程度解決したから今お前と同じ場所にいるんだろうが」

「それはそう、だけど……、でも、かわいそう……」

「ナメるなクソガキ」

「ぁぃたぁーっ⁉」


 彼女の鼻を摘まんで強引に意識を切り替えさせる。


「お前が考えるのは昔の可哀想な俺じゃなくて、今可哀想な自分自身だ。その他人を優先する思考を矯正しろ。早死にするぞ」

「ぅぅ……、ごめんなさぁい……」


 鼻を押さえる彼女へ嘆息する。


「それよりも、“わるいこと”をする奴とそうでない奴の違いはなんだと思う?」

「ちがい……? えっと、お金……?」

「まぁ、そうなんだが。その金を得るために正当な手段をとれる奴と、そうでない奴の差だ」

「えっと、余裕?」

「大体正解だ。環境の差だ。今身を置く環境が余裕のあるものか、そうでないか。余裕があれば犯罪をする必要がない。余裕がなければやるしかない。“わるいこと”をしないのは決して“いい人”だからではない。いい環境にいるからだ」

「でも……」


 反論をしようとして水無瀬は口を閉ざす。

 理解はしていても、今まで信じてきた価値観のせいですぐには受け入れられないのだろう。


「では逆に、“いい人”は何故“いいこと”をする?」

「え?」

「手っ取り早く答えを言うが、そうすると得をするからだ」

「…………」


 やはり彼女は辛そうな顔をした。

 それを無視して弥堂は言葉を重ねる。


「例えば、寄付。困ってる奴に金をくれてやる。なんて素晴らしい善行だ。お前もそう思うだろ?」

「うん……」

「大抵は金持ちがやることだ。何故やる?」

「得……? でも、お金あげちゃうのに……?」

「一例にすぎないが、寄付をするとその分支払う税金を減らすことが出来るものもある。それに善行を働くことで名声を得ることも出来る。ちゃんと自分に得になるからするんだ」

「そんな風に思うの、かなしいよ……」

「何故だ?」


 問われた水無瀬は顔を上げて弥堂を見る。


「思惑はあれど、その金で助かる人間がいるのも事実だ。それは悪いことか?」

「ううん……」

「何の得もなく、下心すら浮かべずに、黙って金だけ寄こせ。その方が傲慢だろう。そう思わないか?」

「おもう……」

「まぁ、寄付金を掠めとるようなクズに金を渡してしまうこともあるし、寄付の仕組みを利用して金を洗うカスもいるから、寄付イコール善だとは言わない」

「…………」


 黙る水無瀬にさらに必要なことを伝える。


「だが、その“いい人”であるはずの者がそうではなくなることもある。どんな時だ?」

「え?」

「金が、余裕があるから“いいこと”をすると言っただろ。もしもそれらが無くなれば? 昨日まで富豪だった者が今日突然全財産を失ったとしたら?」

「よゆうが、ない……」

「そうすれば昨日まで聖人のように崇められていた奴も、盗みをしなければパン一つ口に入れることも出来なくなる。そんなこともある。そうしたら“いい人”は“わるい人”に変わってしまう」

「そんなの……」

「だが逆もある。10年前まで強盗をしていた者が、運よく事業に成功して犯罪をする必要がなくなり、今度は逆に金を配って飢える人々を救うようになる。そいつに金を奪われた被害者よりも遥かに多くの人を救った。そんなこともある。さて、そいつは“いい人”か? それとも“わるい人”か?」

「…………」


 すっかり消沈してしまった彼女に結論を告げる。


「もう一度言うぞ。この『世界』には“いい人”も“わるい人”も、一人たりとも存在しない。人間が“いいこと”をしたり“わるいこと”をしたりする。その時々の自分の都合で」

「でも……」

「俺がいい例だろ? 俺は今日お前を助けた。“いいこと”をした。でも昨日はモっちゃんを殴った。“わるいこと”をした。俺は俺の得になることをして、損になることをしない。ただそれだけだ」

「そんなこと、ないもん……っ」

「ある」

「じゃあ、弥堂くんは私を助けてくれて、何か得したの……?」

「当然だ」


 弥堂は聞き分けの悪いガキと眼を合わせて、はっきりと言ってやる。


「それは……」

「…………」

「…………」

「……?」


 言ってやるつもりだったが、言葉が何も出てこなかった。


「どうしたの?」

「……なにも得がないな」


 弥堂自身、聞かれてみて初めて気が付いた。


「ほらっ。ね? なんにも得がないのに私のこと助けてくれて。やっぱり弥堂くんはいい人なんだよ!」

「うるせぇ!」

「ぴっ⁉」


 ゴンっと音が鳴るほどの強さで、弥堂は水無瀬のおでこに頭突きを入れた。

 すると彼女はノータイムでピーピー泣き始める。


「あっ⁉ テメッ、この野郎! なにやってんッスか⁉」

「黙れ! なんの得にもならねえのに俺にこんなことさせやがって、てめえらふざけんなよ」

「なんだこの野郎! 論破されたら女の子に暴力奮いやがって! なんて悪いヤツなんッスか!」

「だからそう言ってんだろうが!」


 水無瀬を膝に乗せたまま、弥堂の振る舞いに憤ったメロと口論になる。


「オマエ覚悟しとけよッス! マナが泣き止んだらナナミの話もすっからな!」

「あ?」

「ナナミがなんの下心があってマナに優しくしてくれてるって言うんッスか! マナだってなんの得があって魔法少女なんてクソみたいな仕事してるって言うんッスか! 二人ともいいヤツだからに決まってんだろうが!」

「お前がクソみたいなとか言ってんじゃねえよ」

「フン! 今のうちにレスバの準備をしとくといいッス! ナナミは強カードだかんな? 負けねえかんな?」

「クソが」


 水無瀬に関する記憶を失ってまで、ここでもあの女が自分の前に立ち塞がるのかと弥堂は怒りを感じる。

 だが、これも自分のミスが招いたことだ。

 受け入れるしかないと諦めた。


 せっかく泣き止んでいたのに、またギャーピーと泣き喚く水無瀬の背中を撫でて彼女の様子を観察する。


 もう少しだけ、追い詰めても大丈夫かどうかを。
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