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1章 魔法少女とは出逢わない

1章51 死線上で揺蕩う窮余の一択 ⑬

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 薄汚れた雑居ビルの壁に囲まれた狭い夜空を見上げる。

 日付もとっくに変わった深い時間帯、都心に割と近いこの空には薄い靄がかかったようで星はあまり見えない。


 車から降りてそんな空を見上げた女は陰鬱そうに溜息を漏らした。


「――406号室、新規・優待・写真指名。通常60分、オプションなしです」


 運転席に座る男から声をかけられ、女は目線を戻す。


「……わかりました」

「今夜はこの客の次でラストです。あっちのコンビニの先のいつもの場所で待機してますので、終わったら連絡お願いします」

「はい」

「それじゃ、よろしくお願いします。何かあったらすぐ電話して下さい」

「ありがとう」


 短い事務的な会話を終えるとミニバンは発進し、女はその場に残された。


 通知など何もきていないとわかっているスマホの画面を一度確認し、バッグの中に戻す。それから気怠げな顏で、緩慢な動作で、目的のビルへ向かう。

 向かう先は安いラブホテルだ。


 この女は新美景駅周辺を主な活動範囲とする風俗店で働いている。

 本日は正午から出勤していて次の客でちょうど10人目を数えた。


 疲労感から身体が重く、必然的に足取りも重くなる。


 肉体的な疲労も勿論ある。

 しかしそれよりも、こんな時刻に条例に背いてまで深夜営業をさせられること。
 なによりもそんな営業をしなければやっていけないような“格”の低い店に自分が所属していること。
 その店は熟女専門店と謳っていること。

 そんな現実が殊更に精神的な疲弊として女の心身を苛んだ。


 足を止めてかぶりを振る。

 また他責思考になっていることを自覚して切り替えを試みた。


 女は今年で32歳となる。

 この業界で第一戦で働くにはもうピークは過ぎている。

 そんな自分のような女がこういったジャンルの店に在籍することは何もおかしなことではないと、心中で自身に言い聞かせた。


 生活をしていくには金が必要で、だから自分から多く客をとることを選んで店からも客を優先して回してもらっている。決してやらされているわけではない。


 熟女専門という建前と看板はピークを過ぎたキャストを使って金を作るのにとても便利な謳い文句だ。もちろん、中にはその性癖を持った者のために最高級のサービスを提供する店もあるのかもしれないが、大抵はそうではない。

 大体は女が現在在籍している店のように、熟女と呼ぶには若く、だが一般的なジャンルの人気店で働くには年嵩となるキャストを安く使い、また安めの料金で客に宛がうようなスタイルのものが多い。

 その建前のおかげで、店を選べなくなった女たちからは賃金や待遇の文句が出づらく、また要求が多いわりに単価の低い客からも“店側へは”文句が少なくなる。


 そんな店でも自分は待遇がいい方ではあるし、仕事を貰っているだけ感謝しなければならない立場――それが自分なのだ。


 歩道の真ん中で立ち止まり思案に耽る女の前を一組の男女が怪訝そうな顏で通り過ぎ、建物の中へ入っていく。

 女が入り口を塞ぐような形で立ち止まっていたのは、“バリ風”をやたら強調した高級ラブホテルだった。


 そこへ入って行ったのは20代半ばほどの同業の“ニオイ”のする若い女と、30半ばから後半くらいの身なりのいい男。

 自分も同じくらいの年齢の時は最盛期で、同じくらいかそれ以上に金のある男を相手にしていた。


 当時の自分の展望どおりに人生が進んでいたら今頃はそういった男たちの誰かをパトロンにして、個室のエステサロンでも経営しながら何不自由なくのんびりと毎日を過ごせていたはずである。


 それが『もうワンランク上の男を捕まえられるはずだ』と選り好みしている内に、一人また一人と客が減り質も下がっていき、その憂さを晴らすようにホスト遊びにのめり込んだ結果が現在の自分だ。

 風俗を上がるどころか、開業をするどころか、月々の支払いにも四苦八苦し、こうして風営法も守らず、出勤すれば二桁の客の相手をしなければならないような生活に堕ちてしまっている。


 あの時はこんな店で働く質の低い女を見下し、こんな店に通う質の低い男を見下していた。

 今では自分がそっち側だ。


 再度頭を振って、後悔とコンプレックスを振り払う。


 確かに最低に近い現状だが、10年以上この業界に身を置く自分はよく知っている。

 ここはまだ最悪ではないし底辺でもない。


 しかし、ここで踏ん張らずに折れてしまい自暴自棄になってしまえば、次はもうその底辺しかない。毎日毎日その日の生活資金を工面しなければならない所まで追い込まれることになる。


 今はまだ、自分はまだ、マシだ。


 女は足を動かし隣の黴臭い小さな雑居ビルへ入っていった。


 フロントの窓ガラスに空いた小さな穴に所属店の名前と部屋番号を伝えてからエレベーターに乗りボタンを押す。4階に上がるまでの間に店のスタッフへ到着のメッセージを送る。

 エレベーターが開き指定された番号の部屋の前に着くとちょうどスタッフから『OK』と返事が届く。

 バッグから取り出した手鏡の前で申し訳程度に前髪を直しインターホンを押した。


 すると、目の前の扉はすぐに開かれた。


「――っ⁉」


 まるで待ち受けていたかのような対応の速さに驚きの声が出そうになる。

 どうにかそれを我慢し、女は慣れた仕草で笑顔を造った。


「こんばんは。初めまして。今日は呼んでくれてありがとうございます。よろしくお願いしますね」

「……入ってくれ」


 完璧な抑揚で流暢に語られた営業文句に対し、返ってきたのはぶっきらぼうな低い声だ。

 客の男はそれだけを言うと顔を一瞥しただけで部屋の中へ戻っていく。


「……お邪魔しま~す」


 女は少し慌てながら閉まる扉の中へ滑り込みヒールを脱ぐ。そして僅かに警戒心を抱いた。

 男が背を向けた瞬間に眉根を寄せる。


 こんな待ちきれないといった風に出てくる男はガッツいてくる可能性が高い。10本目にこれは少々キツイものがある。

 だが、それ以上に女が眉を顰めることになったのは男の身なりだ。


 念のためにドアにカギは掛けないままにしておき、男の後を追って然程短い通路を進み部屋に入る。


 既に部屋の中央に着いていた男がこちらへ振り返る。女は彼がこちらを向く前に表情を改めた。

 そして廊下よりも明るい場所で客の出で立ちを改めて目に写し、心中で辟易とした。


(まさかホームレス……? これだから無店舗型は……)


 男の身なりはボロボロだった。

 身に着けている服のあちこちが破れ、また土埃などで汚れている。


(あー……、どーしよ。NG出そっかな……)


 肩から提げたバッグへ意識を向けようとすると――


「――座るといい」

「へ? あ、はい……」


 男からベッドの方を指され、言い出す機会を潰される。


 “その為”だけの連れ込み宿のような部屋の中には、ベッドとTVと小型の冷蔵庫くらいしか物がなくソファも椅子も置かれていない。あるのはせいぜいローテーブルくらいで、座るとなったらベッドしかない。

 女は何のために置かれているのかわからない、狭い部屋のスペースを無駄に圧迫しているパチスロ台を恨みがましい目で一瞬だけ睨み、それから諦めてベッドの縁へ浅く尻をのせた。


「好きな物を飲み食いしてくれてかまわない」

「あ、はい……」


 そう言って渡されたのはコンビニのビニール袋だ。

 中にはいくつかの飲み物と小さめのスイーツが入っている。


「ここに入る前にそこの店で買ってきた物だ」

「……あ、ありがとうございます……」


 袋の中で品物の上に乗せられているレシートに記された時間は確かに今から20分ほど前の時間になっている。


(う~ん、言いそびれた。変なニオイはしなかったけど……)


 男の服には血も付いていた。

 喧嘩帰りだとしたら気が立っている可能性が高い。


(下手に断ってキレられてもなぁ――)


 袋の中身に目を落として飲み物を選ぶフリをし思案に耽っていると、ガチャンとカギを掛ける音がした。


(――しまった……っ⁉)


 いつの間にか出口玄関へ移動していた男がカギを掛けてしまった。


(ホームレスとヤるのは初めてじゃないし、乱暴なことしてこない限りはちょっと様子見るか……)


 仕方ないと諦め、そのように線引きをした。


 しかし、女の見立ては間違っている。


 この男はホームレスなどではなかった。



 そして喧嘩帰りでもない。


 この男が帰ってきたのは戦場からだ。

 ケンカではなく、殺し合いから生きて帰ってきた。



 誰もが寝静まった深い夜の最中、人知れず人知を超えた人外と殺し合い――


 己の生命力を消費し尽くす程に殺意に全てを注ぎ込み――


 満身創痍となる傷を負いながらもその戦場を脱してきた。


 身を案じてくれるクラスメイトの女子を適当に言い包めて家に帰し、その生命を儚んで涙する女児を突き放して置き去りにし、たまに会うとお金をくれるお姉さんからの『今日は家に来なさい』という言いつけを無視して、全てを振り切って男は此処へと辿り着いた。


 死線を潜り死の淵から這い上がり、血反吐を吐きながらここまで来た。


 全ては予約していた熟女専門デリヘルのために。


 己へ差し伸べられる全ての手を振り払って汚いラブホの部屋までやってきたその男は――


――弥堂 優輝である。
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