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1章 魔法少女とは出逢わない

1章10 Shoot the breeze ③

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「…………もういいか?」


 うんざりとした気持ちで弥堂が声をかけると二人はハッとしてこちらの世界へ帰ってくる。


「ご、ごめんね弥堂くん。ほったらかしにしちゃって……」
「なに? あんたかまってほしいわけ? うざいんだけど」

「むしろ続けてていいから俺をもう放っといてくれないか」


 もう解放してくれという意味合いで言ったのだが、違う意味で受け取られ弥堂は苛立つ。

 そしてそんな彼に追い打ちが入っていく。


「じゃあ今度は弥堂くんの番だねっ」

「…………あ?」

「あんたそれやめろっつったでしょ。女の子に『あ?』っつーな」


 水無瀬の発言の意図が気に掛かるが、先にイチャモンをつけてきた希咲を黙らせようと無言で彼女の顏に手を伸ばす。

 その手はあっけなく抑えられ逆に爪をたてられる。


「弥堂くんもななみちゃんにゴメンなさいしよーね」

「…………なんだと?」


 希咲と押し合いをしている間に告げられた水無瀬の言葉に、弥堂は不可解さから眉根を寄せ、希咲はその瞳を輝かせた。


「ななみちゃんがゴメンなさいしてくれたでしょ? だから弥堂くんもゴメンなさいしてあげようね?」

「そうよ。謝んなさいよ。ほら。早く」

「何故俺が謝らねばならない」


 水無瀬の脇で調子づいたように煽ってくる希咲に苛つきながら問う。


「ななみちゃんの髪ぐちゃぐちゃにしちゃったの謝ろ?」

「そうよ。あたしとっても傷ついたわ。あーつらい」

「それはお前が悪かったとさっき自分で言ってただろうが」


 別に謝ってやってもよかったのだが、希咲の態度が癇に障るので弥堂はとりあえず屁理屈をこねて抵抗を試みる。


「うん。私が悪かった。ゴメンね? でもね昨日、なでなでする時は髪型崩さないように優しくしようねって言ったよね? それは謝ってあげよう?」

「あーあ。これセットするために早起きしてるのにー。こんな目にあうなんてー。かなしーよー。あたし泣いちゃうー」

「ななみちゃんも私もゴメンなさいしたから、今度は弥堂くんの番だよ? みんなでゴメンなさいして、おあいこにしよ? ね?」

「びとーくんひどいよー、えーん」


 水無瀬に両手をやんわりと握られ、見た目が幼げな彼女にまるで幼児を諭すようなことを言われ弥堂は強い屈辱を感じた。

 隣で雑な泣き真似をする希咲の半笑いの勝ち誇った顏もその苛立ちに拍車をかける。


 弥堂は瞑目し眉間を揉み解しながら天を仰ぐ。

 そして記憶の中の記録を探る。


 現在のこの屈辱的な状況を乗り切るために、過去に起こったより屈辱的な出来事を思い出すためだ。


 今回の屈辱コレクションはこれだ。


 以前にエルフィーネと組んで仕事をしていた時に、彼女の所属する宗教団体から異端認定を受けた時のことだ。

 指名手配をされ街中が敵になった。

 当然そうなっては表を出歩くことは出来ない。


 しかし弥堂には他にやることがある為あまり長々と足止めをされるわけにはいかなかった。

 強行突破で街を脱出しようとする弥堂をエルフィーネは止めた。


「危険です。外に出てはいけません」と言う彼女の制止を振り払って外出しようとした結果、あの頭のおかしいクソメイドに両手両足を圧し折られて地下室の壁に磔にされた。


 疑う余地もない程の監禁であった。


 当然そのような状態では自分で用を足すことも出来ない。

 便所へ行くついでに逃げようと彼女へ便意を訴えたが、残念ながらエルフィーネは弥堂の言葉を一切信用していない。


 いつもならそれでも気を遣って適度に騙されてくれるのだが、この時の彼女は強硬だった。

 自身の所属する宗教組織の苛烈さを彼女が誰よりもわかっていたからだろう。


「私があなたを守ります」などと意味のわからないことを口走る女は手ずから弥堂におしめを穿かせた。

 そしてそのおしめを換え、餌を与え、またおしめを換え、彼女は甲斐甲斐しく弥堂を飼育した。


 相手が年上だからとはいえ、自分よりも小柄で童顔な女に手も足もでない状態で力づくで抑え込まれながらおしめを交換されるというのは、ロクでもない記憶ばかりを積み重ねてきた弥堂の人生の中でもトップクラスに鮮烈な出来事であった。

 もう少しで脳が破壊され、この状況に適合する為に人として行ってはいけない方向へ進化を遂げるところであった。


 しかし、弥堂とてやられっぱなしではなかった。

 手も足も出なくとも口は出る。


 おしめを換えられながらエルフィーネの人格を崩壊させるつもりで徹底的に彼女を詰め倒したが、その結果出来上がったのは、手足が折れている以外は至って健康な青年のおしめを号泣しながら交換するメイド女という地獄だった。

 彼女のメンタルはなかなかに強靭だった。


 あの時の経験に比べれば、こんなJKなどという者どもに少々ナメた口をきかれる程度、どうという程のことでもないと、弥堂は精神の安定を取り戻した。


 弥堂は目を開き、とるに足らない小娘二人を見下ろして「フッ」と鼻で嘲笑った。



 まるで見下してバカにするような弥堂の態度に希咲はムッとなり、水無瀬は首を傾げる。


 弥堂はそんな彼女らの眼前に左右の腕をそれぞれ差し出してやった。


 水無瀬は不思議そうにしながらもその手をとりギュッと握る。

 対して希咲は自身の前に出された弥堂の手をぺちんと叩き落としてから、続いて水無瀬が握る方の手もバチンっと叩き落とした。


 叩き戻された自身の手の甲を擦りながら弥堂は心中で嘲笑う。


 折れるものなら折ってみろというつもりで腕を差しだしてやったが、所詮小娘どもなどこの程度だ。エルフィーネとは違う。彼女は容赦のない女だった。


 弥堂はクラスメイトの女子と昔の女との頭のおかしさを比較して、自身の師の優位性を確信する。

 そして希咲は超常的な女の勘でなにかを察知し不快感を露わにした。


「なんっかムカつくわね。またロクでもないこと考えてんでしょ?」

「そんなことはない。キミの勘違いだ」


 あらぬ疑いをかけられるが最早平静は揺らがない。


 地獄のような経験だったがそこから得られるものもあった。


「ホントかしら? まぁいいわ。それよりさっさと謝ってよ」

「ん? あぁ、そういえばそんな話だったな」


 惚けるようなことを言う彼に食って掛かろうとした希咲だったが、それよりも先に弥堂が口を開く。


「二人とも悪かったな。俺の配慮が足りなかった。どうか許してくれ」


 まさか素直に謝るとは思っていなかったので希咲は虚を突かれぽかーんと口を開き、水無瀬は瞳を輝かせた。


「えへへー。いいよー? 私もゴメンねー」

「ふ、ふんっ。わかればいいのよ! もうしないでよねっ」

「あぁ、気を付けよう」


 赤ちゃんでいることを強いられる日々に比べれば、この場で小娘どもに口先だけの謝罪をすることなど何の痛痒にもならない。

 現状以上の地獄を知っていれば、脳を麻痺させることによってどんな苦境も乗り切れるのだ。


 そしてあの地獄から抜け出すために、メンタル的なものだけでなく新たな『技術』を習得することも出来た。

 その時の『技術』が今日のこの場まで自分の生命を繋ぐほどの重要なものになるとは人生とはわからないものである。


 弥堂は目の前の少女たちをほったらかして郷愁の念にも似た感傷を抱きそうになり、自嘲気味に鼻から息を漏らすと自制をするために記録を切る。


 なにはともあれ、弥堂が謝罪をしたことで手打ちとなり、上手くみんなで仲直りが出来たと満足した水無瀬はむふーと鼻息を漏らし、弥堂に謝らせたことで何故か満足感を得た希咲もむふーと鼻息を漏らす。


 しかし希咲はすぐにハッとなった。


 このクズ男がこんなに素直に非を認めるなどありえない、と。


 昨日もそうだった。


 こうやって油断させておいて突然またわけのわからないことをぶっこんでくるのだ。


 対面の男に対して警戒感を募らせるが、彼女は失念をしていた。


 この場には弥堂以外にも突然わけのわからないことをぶっこんでくる人物がいることを。


「じゃあ、仲直りのナデナデしようね!」

「へ?」
「あ?」


 水無瀬は疑問符を浮かべる友人二人にニッコリと笑顔を向けた。


「今度は優しくナデナデしてあげてねっ」

「何言ってんだお前」

「え? やり直しだよ? ちゃんとナデナデしてなかよしになろうね」

「ちょ、ちょっと待って! あたしヤなんだけど!」

「えっ⁉」


 こんな男にもう二度と触られたくないと希咲が当然の要求をすると、水無瀬はまるでそんな可能性があることを1ミリも考慮していなかったとばかりに目を見開く。


「なんでビックリしてんのよ。ヤに決まってるでしょ!」

「え、あっ…………そうだったんだ……ごめんね……」

「ゔっ……⁉」


 希咲としては正当な訴えなのだが、表情を曇らせた彼女の顔を見て罪悪感が湧く。


「私よかれと思ったんだけど……気付かなくて……ごめんなさい……」

「くっ……!」


 シュンと落ち込む水無瀬の姿に希咲は苦し気に呻く。


 そしてしばし逡巡すると苦渋の決断を下し弥堂の方へグッと頭を突き出した。


「――よし、こい……っ!」

「こいって……お前な……」

「よしこい!」


 勢いで何かを乗り切ろうとする彼女に弥堂は白んだ眼を向ける。


「一体なにがお前をそうまでさせるんだ?」

「うっさいわねっ! あたしだってあんたなんかに触られるのイヤなんだからさっさと済ませてよ!」

「甘やかしすぎじゃないのか?」

「カンケーないでしょ! はやくしなさいよ!」


 本意ではないという彼女の言葉通り、弥堂へ向けられる希咲の目は殺る目だ。

 どうしたものかと視線を巡らせると期待で瞳を輝かせてこちらを見守る水無瀬がいる。


 弥堂はもう面倒になり彼女らの気の済むようにしてやろうと決め、希咲の頭に手を置く。


 そして、以前にルビアに『女の髪の撫で方』なるものを教わったなと思い出しそれを実行しようとしたところで、希咲の頭にグッと手を押し戻される。


 彼女を見れば下から睨めつけながら全身の力でこちらの手を押し返してきていた。


 せめてもの逆襲のつもりなのかは知れないが、弥堂は何故か彼女の態度にカチンときた。


 こちらも腕にグッと力を入れ彼女の頭を抑え付ける。


 すると希咲はさらに力をこめて弥堂の顏へ自身の顏を近づけるように押していく。

 弥堂はそんな彼女の頭を指に力を入れて掴んだ。


「あによ? ちゃんと撫でなさいよ。やり方わかんないの? このヘッタくそ」
「お前の髪がベッタベタだからな。ちょっとでも動かしたら髪がグチャグチャになりそうだ。気を遣ってやっているんだ。ありがたく思え」

「はぁ?」
「あぁ?」


 厭味のつもりでそうは言ったが、一応は言葉通りまた彼女の髪型を崩しては何を言われるかわからないと、その部分に気を遣って手加減しているので状況は希咲が有利だ。


 彼女が徐々に弥堂の手を押し返していき、現在は至近距離で睨み合う不良同士のような図になっている。


 その光景を周囲は面白げに鑑賞している。


「なにこの面白コンテンツ。ののか的には捗るから全然アリなんだけどー」
「……今朝まではこのピリつき具合が恐かったけど、今は一周まわって面白い、かも……?」
「そうね。ただの異物かと思っていたけれど、これはこれでアリかもしれないわ。まだ議論の余地はあるけれど……」
「どんな意見があがればその議論に決着がつくのよ」


 どう見ても険悪な二人を水無瀬が楽し気にニコニコと見守る光景を、さらに周囲の者が見守る不思議空間が展開されていた。


 しかし、そんな時間の終わりを告げるチャイムの音がスピーカーから流れる。


 その音にハッとなった少女たちはイソイソと自分の荷物を片付けて自席へと戻っていく。


 まだいがみ合っている希咲と弥堂を置いて。


 二人を見守る水無瀬さんの表情がハラハラとしだした。


「ちょっと! 乱暴に髪つかまないでっ! せっかく愛苗がなおしてくれたのに乱れるでしょ!」
「嫌ならとっとと離れろ。なんで頭押し付けてくんだよ、鬱陶しい」

「うっさい! あたしから止めたらなんか負けた気がしてムカつくのよ! あんたがそこどけ!」
「お前自分がなに言ってるかわかってんのか」

「そんなのわかってるわけねーだろ、ぼけぇー!」


 段々とヒートアップし、ついには臨界まで怒りが高まった希咲は自分も手を伸ばして弥堂の顔面に掴みかかった。


「いてーな。おい、顏に爪をたてるな」
「うるさいっ! イヤなら離れればいいでしょ! このクソやろー!」

「お前がどけ。あまりナメた真似をするなよ、クソガキが」
「ガキはあんただっつってんだろ! ばかばかばーーっかっ!」

「やっぱガキじゃねーか。わけのわからんことばかり言って暴れるな」
「あんたが悪いんでしょ! 大体なんでこんなわけわかんないことになるわけ⁉ 絶対あんたのせい!」

「言いがかりをつけるな。お前が悪いんだろうが」
「あんたが絡むとわけわかんないことになるんでしょ! 昨日だってそうじゃん! あやまって!」

「しつこいぞ。大体それはこっちの台詞だ。お前と関わるまでこんなクソッタレな状況にはなったことがない。お前のせいだ、謝れ」
「誰があやまるかー! 変態っ! むっつり! 痴漢やろー!」

「うるせーんだよ、このメンヘラが」
「誰がメンヘラだぁっ⁉ このっ――もがぁっ⁉」


 キャンキャンと喧しい希咲を黙らせるために、弥堂は彼女のおさげを掴んでその口に突っ込むという暴挙にでた。

 そのせいでより一層熱くなった希咲は言葉にならない声をあげながら弥堂の顔面をぺちぺちしたり引っ掻いたりする。

 そのまま二人でグイグイ身体を押し付け合いながら争っていると――


「――またやってるのかお前ら。実は仲良かったのか?」


 横合いからそんな声が挟まれる。


 それに気を取られたせいか弥堂の力が緩んだので、その隙に希咲は口内に突っ込まれていた自身のおさげを引き抜き、「ぷはぁっ」と喘ぐ。

 そしてすかさず食ってかかった。


「誰がこんなヤツとなかよしかーーっ! 目ん玉腐ってんじゃないの⁉ ぶっとばされたいわけっ⁉」


 威勢よく罵りながら首を回すが、その闖入者の姿を目に写した途端に勢いを失う。


 そこに在ったのは肉塊だ。


 肉の巨魁。


 しかしそれは肥え太った肉ではなく鉄のように鍛え上げられた肉。


 まるで大きさの違ういくつかの鉄球を繋ぎ合わせて人体を模ったかのような頑強な出で立ちから生じる圧迫感に、所詮はか弱いJKでしかない希咲は怯えた。

 サァーっと顔を青褪めさせ同時にドッと冷や汗を流す。


 この場に現れたのは、2年B組のこの後の授業である数学を担当する権藤先生だった。


「ぶっとばされたくはないな」


 権藤はその並みの数学教師では至れない屈強な肉体をのそりと動かし二人に近づこうとしたが、女生徒である希咲が怯えていることに気が付きコンプライアンスの観点から立ち止まった。


 権藤先生はプロフェッショナルな教師だ。

 いかなる時も自身のキャリアに傷をつける可能性のある事柄には近づかない。


 だが、そうとはいえ――


 権藤はチラリと希咲の手を見る。


 弥堂のような男子生徒の胸倉を掴みあげて怒鳴りつけるような威勢のいいギャルが、自分の姿を見ただけでこのように怯えた態度に変わるのは少々心にクルものがあった。


 あらゆる負荷にも耐え抜きどれだけ筋線維を太く束ねようともメンタルは傷つくのだ。

 権藤はその現実に己の鍛錬不足を自覚し、日課のトレーニングのメニューを増やすことを密かに決める。


「あっ……あのっ……その、あたし…………」


 怯え混乱する女子生徒に対して、権藤は無言で、しかし彼女を刺激しないようにゆっくりと教室内の壁掛け時計を指差す。


 教師の導く先に視線を動かした希咲は現在時刻を認識する。


 午後の授業はとっくに始まっていた。


 ようやく自分が授業開始のチャイムにも気付かないほどに熱くなっていたことを自覚した希咲はハッとなり周囲を見回す。


 ついさっきまでそこらへんで茶化すようなことを言っていた女子4人組はいつの間にか居なくなっていた。

 すぐ背後で自分へ向けて片方のお手てを力なく伸ばし、もう片方のお手てを口元に添えてあわあわしている親友の姿に気が付いた。


 彼女を見て七海ちゃんはふにゃっと眉を下げた。


 彼女を見て愛苗ちゃんもふにゃっと眉を下げる。


 教室内をよく見れば自分たち3人以外の生徒は全員着席をしている。


 希咲の記憶では教室内の生徒は疎らだったはずだが、クズ男といがみ合っているうちにいつの間にか全員戻ってきていたようだ。

 当然その中にはさっきまでここに居た女子4人組もいる。


 あれだけ自分たちの諍いを面白がっていたくせに、彼女らはあっさりとこちらを見捨てて自席へと戻っていた。


 しかし彼女たちは責められない。


 女子とはそういうものだし、そもそも授業が開始する時には席に着いているのがルールだ。これは明らかに希咲の過失だ。


 そして、ここまで気が付かないようにしていたが、そろそろ限界だ。


 教室内を見渡すと全ての目が自分たちへ向いている。


 その目玉のほとんどに宿る好奇の色に希咲は身を縮こまらせた。


 そうすると無意識に今まで身を寄せていたものに、より強く身体を密着させてしまう。

 自身の肌に伝わる違う温度と骨ばった感触に、内心ではもう気付いてはいるけれど、ワンチャンに賭けてその正体を見る。


 無表情ヅラに貼り付いた湿度ゼロの瞳が自分を冷酷に見下ろしていた。


 希咲の羞恥メーターが一瞬でレッドゾーンへ振り切る。


 再びハッとなった希咲は慌てて弥堂をドンッと突き飛ばす。


 その細い肢体の見かけによらず割と力の強い彼女に強く押された弥堂はよろけ、すぐ近くにある自席の天板の角が腿の筋線維の隙間に突き刺さり激しく苛ついた。


「希咲」


 権藤が彼女の名を呼んだのは咎めるためではなく、弥堂が希咲へ何か報復行動に出るのを牽制するためだ。


 しかし、教師の心知らず、生徒である希咲はビクっと身体を震わせるとその形のよいアーモンド型の瞼を歪め、じわっと涙を浮かべる。


「――ご……」

「…………ご?」


「――ごめんなさいぃぃぃぃっ‼‼」


 もう授業が開始されている他の教室にまで響き渡るほどの音量で、希咲は心からの謝罪の言葉を絶叫すると、両手で顔を覆いワッと泣き出した。


 権藤先生と弥堂は白目になった。



 やがて、水無瀬に一頻りよしよしされて泣き止んだ彼女は自席へ戻っていく。


 弥堂は自席に座り、痛む腿を擦りながら数学の教材を机に並べる。


 その作業をしながら、遠くの出来事のように聴こえる彼女らの会話が耳から微かに這入ってきて、勝手に記憶に記録される。


 野崎さんの号令がかかり、授業が開始された。


 権藤の野太い声で読み上げられる魔法の呪文のような数式を聞き流しながら、それから意識を逸らすための無自覚の逃避なのか、希咲と水無瀬の会話を視る。


 なんでもないような会話。


 二人の少女がただ約束を確認するだけのやりとり。


「旅行終わったら」「ちゃんとお話しようね」「お泊り」「来月の」「いつかね」


 次の日が。次の週が。次の月が。


 いつかが来ることが当たり前の者たちの会話。


 自分にはそのいつかが訪れることが当然だと思いもしていない。


 そうでない可能性を考えもしないほどの、今の日常の先にある未来への信仰。


 平和に惚けているし、暢気なことだとも思う。


 しかし、そんな彼女たちが普通であり、そうであることが当たり前の生活を送っていることが正しいのだ。


 そうは考えられない自分が普通でなく、それが当たり前だと感じられない自分の方こそが間違っているのだ。





 教室内に響く権藤教師の声に少し疲労が滲んでいるような気がする。


 気のせいだ。
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