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序章 俺は普通の高校生なので。

序章28 終リ裁キ ①

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 安楽を求め喘ぎ、意図はなくとも生の欲求の為に勝手に開いてしまう上と下の唇――

 その隙間の中、洞の奥の道からは、取り入れたいはずなのに細く細かく排出されていくばかりで――


 どのくらいの時間が経ったのか、経っていないのか。それが長いのか短いのかすらも定かではなく、気怠さの海の中で自分が浮かんでいるのか沈んでいっているのかもわからないまま漂っていた。

 そんな錯覚の霞で曇った意識上ではなにもかもがあやふやなはずなのに、ただ一つ、断続的な一つの音だけをやたらと鮮明に認識させられている。

 頭の中で自分を支配するように響くその音が、自分自身の荒い息遣いであることは理性ではわかっているはずなのに、それがどこか遠くの出来事で、まるで他人事のように希咲 七海きさき ななみには感じられていた。


 もっと欲しい。足りない、まだ足りないと、息も絶え絶えに喘いでいると俄かに口元を覆われる。

(なんで……どうして…………まだ、なのに……)

 自分の欲求を満たさせてくれない、口元を覆ったその自分とは違う温度の何かに手を掛ける。手で触れたことで、口元を覆うそれが誰かの手なのだと気付くことが出来た。しかし力をこめる以前に身体の操作が覚束なく、吸息を邪魔するそれを退けることが出来ない。

 今も意思とは裏腹に排出され続ける吐息はその手に阻まれ、口周りに拡がり渇きかけた唇に不快な湿り気を齎した。

 自らが吐き出した息を体内に押し戻されながら、このまま海の中もっと深く、光も届かぬ暗い場所へと沈んでいくのだろうかと、諦観に似た錯覚を抱いていたら実際はそんなことはなく、徐々に思考と身体各部にラインが繋がり正常へと回帰していく実感を得た。


 感覚と思考が明晰になっていく中でまず、あーでもない・こーでもないと何かを語らう複数人の男たちの声を認知する。それは本当に他人事なので特に気に留まらず視界の方に意識を繋いだ。


 朦朧とした目を向けた先にはロックウールの天井板があるはずだが、その天井との間にある何かに阻まれ空が低い。呼吸が整っていくに連れてぼやけていた視界が晴れていくと、それが誰かの顏なのだと解った。


 男の顏。


 無機質な貌。


 自分をこんな目に合わせておいてこっちを見向きもしない酷い男の顏に、胸の奥から熱が沸き上がる。

 皮肉にもその怒りの熱量を以て思考に明瞭さが戻った。億劫さと戦いながらも努めて表情を歪めてその酷い男――弥堂 優輝びとう ゆうきの顏をどうにか睨みつけてやると、彼は目玉だけをこちらに動かし希咲の目を何ら感慨もなく見つめ返してくる。そして彼は希咲の口元を覆う手を外し、目線も彼女の顏から外した。


「……あっ、んた……っ………マジっ……で………ざけん、な……っ…………」


 本当は視線の先の――とは謂っても誠に遺憾ながら割とすぐ近くにある――腹ただしい無表情顏を思い切りぶん殴ってやりたいのだが、現在は背後から自分を拘束する彼に甚だ不本意ながら完全に体重を預け寄りかかる形になっており、業腹しいことに未だ身体に充分な活力が戻らずそれに甘んじていなければならないので、せめてもと怨嗟の意を息も絶え絶えに唱えた。

 すると彼はまた顏は外方に向けたまま眼球だけを動かしてこちらに視線を遣ると――それが何故か無性に腹立だしい――平坦な声を発した。


「ほう、まだ足りないか? 随分頑張るな。もう一度同じ目に遭いたいか」

「それ、は……やめ、て……謝るから…………で、も…………あたし、絶対……悪く、ない、から…………」

「何を言ってるかわからんが、過呼吸寸前までいっておいて中々のガッツだな。それは評価してやろう」

「あん、たね………こん、なんなる、まで……女の子、擽る、とか……小学生だって、しない、わよ…………あとで、殴らせ、なさいよね」


 その言葉には彼は応えず、彼の肩に乗せる恰好になってしまっている自分の頭が軽く持ち上げられたことで、肩を竦めるジェスチャーをして流されたのだと認知した。


 盛大に口汚く罵りながら引っ叩きまわしてやりたい衝動に駆られるが、今のコンディションではそれは難しい。少なくともその判断が出来るだけの理性は回復した。怒りの熱で煮え滾り精神は活力に満ちているのに、身体は気怠くて動けないし動きたがらなくて動かせないという、この心と身体のアンバランスさが不愉快で堪らない。

 今は雌伏の時だと希咲は目を閉じて憎き男の顔を無理矢理視界から消す。

 後でこいつを引っ叩くのは確定事項だとしても今はまず、こんな男に寄りかかっていないと立ってもいられないという情けない状態から脱却することが先決だ。それには安静にして状態を安定させる必要がある。

 こんな男に触れられたくないし触れたくもないが、身体を離して床にへたり込むのは現状よりも屈辱的なことだと何故か感じられた。自分でも物事の優先順位を間違えているような気がしたが深く考えないようにする。


 希咲は意識して弥堂のことを意識から外した。


 すると今度は、目を閉ざし視界を塞いだことで、先程無視をした複数人の男達の話し声が耳を通って自然と意識上に上がってくる。彼らは――間違いなく法廷院たちだが――何やら『入っていたのか入っていなかったのか』ということについて熱く議論を交わしているようだ。

 ちょっと目を離した隙に何の話をしているのか訳が解らなかったが、意味を知ったところで間違いなくロクでもない話題であろうことは容易に予想がついたので、言語は認知せずに音だけで聴き流した。

 そうやって体力の回復に努めているとやがて女の震え声が環境音に追加される。強く関心を惹かれたわけではなかったが、ほぼ反射で薄目を開けてしまう。開けてしまったのならば仕方ないと様子を確認することにした。


「……こんなの、おかしいわ…………」

 先程の物議を醸した弥堂と希咲の接触プレーのシーンに関して、厳正なる審議に及んでいるとそんなか細い声が被せられる。
 法廷院は議論に熱くなっている仲間たちを制し、その声の主の方へと目を向けた。

 彼のその目は優しくも、ただただ痛ましさを携えていた。

「白井さん……」

 視線の先の彼女――白井 雅は跪き拳をも床に着け打ちひしがれていた。こちらに切実な想いを伝えてきてはいても彼女は顔を上げてはおらず、もしかしたら泣いているのかもしれない。
 彼女の表情を窺うことは出来ないが、しかしその心情は痛い程に理解出来てしまう。

 敗北者の気持ちを。

 だから、彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。

「…………納得が、いかないの…………出来ないのよ……だって、そうでしょう……?」

「……もういいんだよ、白井さん…………もう、やめよう……」

「何がいいというの⁉ いい訳がないでしょう! こんなの認められないわ!」

「…………」

 悲痛に荒らぐ声が吐露するその心情は、あるいは無様で、あるいは醜悪で見苦しいものだったかもしれない。だが、法廷院はただ憐れだと感じた。


「……だってこんなのおかしいもの…………不公平……そうよ、不公平だわ、こんな判定……!」

「……なんだって?」

 黙って白井の心情の吐露を聞いていた法廷院だったが、その言葉だけは聞き咎めた。


 無理もない。出した答えに因って、誰か幸せになれない人ができてしまうのならば、いっそ全員等しく不幸にしてしまえという主義の下に活動をする彼にとって、それだけは受け入れられないのだ。

 公平さを保つ為ならば答えを間違うことも厭わない。彼はそういう男であった。


「一体何が不公平だって言うんだい? 結果に異議を唱えるのはいいさ。でも過程に嫌疑をかけられるのはボクだって納得がいかないよぉ。だってそうだろぉ? ボクが公明正大な男であるという前提を覆すということは、ボクに死ねって言っているのと同義だからねぇ」

 不正を疑われた法廷院が、一見筋が通ってそうなだけでただそれっぽいだけの反論をすると、そこでようやく俯いていた白井が顔をあげ、ギロッとした眼を向けてくる。

 法廷院は怯んだ。

「不正よっ! 不条理で不平等よ‼ 今回の審査員はメンバー構成に不審点があるわ!」

「不審だって? ボクや同志たちに何の不満があるっていうんだよぉ?」

「大ありよ‼ だってそうでしょう⁉ 審査員のメンバー全員が同じ陣営から選出されているだなんて不正以外の何ものでもないわ‼‼」

 白井はその凶眼をグルっと回し、法廷院同様に審査員を務めた西野や本田にも疑惑をぶつける。

 西野くんと本田くんは怯んだ。


「い、いや……同じ陣営って…………あのね、白井さん? そのボクらとはキミも同じ陣営なんだけれども……」

「言い訳なんて訊きたくないわ!」

「いっ、言い訳っていうか……その理屈でいくとむしろ不利になるのは希咲さんの方なんじゃ――」

「うるさいっ‼‼ なによその目は! 上辺だけの薄っぺらい同情なんていらないわ! 私を哀れむのなら私の味方をしなさいよおぉぉぉっ‼‼」

 物理的なナニカさえ口から吐き出しそうなほどの憎悪の絶叫に、根は大人しい男子生徒たちは怯えた。特に気の弱い本田くんなどはつい『ごめんなさい』などと、謝罪の言葉を口にしてしまっていた。

 怪物は言葉が通じないからこそ怪物なのだ。


「――弥堂くんっっ‼‼」


 怪物は突如矛先を変える。途中で会話を打ち切られた形になる法廷院は、それに憤るでもなくむしろ安堵した。

 怪物を無理に説得しようとしても、このようにダメ論破をされるだけだからだ。


 白井から呼びかけられた弥堂は特にどこを見るともなしに見ていて何も返さない。またも大騒ぎを始めた彼らの様子を先程から見ていたので、確実に顏はそちらに向けているのにも関わらず、一切の反応をしなかった。


「…………ねぇ」

「なんだ?」


 弥堂が反応しないせいで奇妙な静寂が形成された場の空気に耐えられず、先程まで満身創痍に近い状態であった希咲が気を遣って、未だ彼の肩に頭を乗せて寄りかかったままで割とすぐ近くにある彼の顔を気怠げに見上げて話しかけると、彼は普通に言葉を返してきた。

 希咲はイラっとした。


 しかし彼女はプロのJKだ。例えこうなるとわかってはいても、場に妙な無言の時間が蔓延るのは許せないのである。


「……呼んでるわよ?」

「呼ばれてなどいない」

「呼ばれてるってば。めっちゃこっち見てるし」

「気のせいだろう」

「や、あんたね。いくらなんでもそんなパワープレー通らないって」

「問題な――「――弥堂くんっ‼‼」――…………」

「ほら」

「…………」

 希咲にジト目でそう促されると、弥堂は無言で小さく舌を打った。こうなっては仕方ないと白井の呼びかけに応じる。


「簡潔に言え」

 弥堂は簡潔に伝えた。

 本人にそのがあるのかは不明だが、およそ人間が人間に向けるべきではない侮蔑の混じった冷酷な眼差しに、明確にそののある白井はブルリと一度その背筋を震わせると努めて自制し、己が要望を発言する。


「判定を……訊かせて欲しいの……」

「判定だと? 何の話だ? きちんと理解出来るように発言をしろ、無能が」

 簡潔にと言われたから簡潔に言ったのに今度は言葉の足りない無能だと罵られる。これぞパワハラと謂わんばかりの余りに理不尽な弥堂の物言いにしかし、白井は鼻息を荒くした。


「……もちろん、下着の話よ。私の下着と希咲の下着、一体どちらが優れているのか忌憚のない意見を訊かせて欲しいの」

「はぁっ⁉」
「ほう……」


 白井のその言葉に嫌悪の声をあげたのが希咲で、感嘆の意を漏らしたのが法廷院だった。弥堂は眉を顰めた。


「それを俺に訊くことに何の意味がある? 特殊な嗜好でもなければ、男の俺やそいつらに女性用品の機能の優劣などつけようがないだろう。違うか?」

「違うわ。機能の話をしているんじゃないの――いえ、ある意味、機能ね。つまり私のパンツと希咲のパンツ、どちらがより煽情的で男性の情欲を煽るか。どちらが弥堂くん――貴方の仰角をより急斜にする性能に優れた機能を保有しているのか。貴方はそれをはっきりと口にする責任があると思うの」

『お前は頭がおかしいのか?』


 そう声にしかけて弥堂は口を閉ざした。代わりに眼を細めて白井を視定めようとする。

 高確率で気が狂っていると思われる人間に対してその真偽を問いかけることに意味はないからだ。


 すると弥堂が黙したことで出来た会話の間隙に希咲が割り込んだ。

「ちょっと! 白井、あんたいい加減に――」
「――黙りなさいよおおぉぉぉっ‼‼」

 割り込もうとしたが、即座に爆炎の如き強烈な怒りを叩き返された。


 地に這ったままの姿勢で憎悪の眼差しを希咲へと向けてくる。昏い情念とは裏腹に色鮮やかな毛細血管が眼球を彩る。

「余裕ぶって見下してんじゃないわよっ! あれで勝っただなんて思わないでちょうだい!」

「別にあんたの勝ちでいいわよ。結果がどうとかじゃなくって、どっちがどうとかって話されるのがイヤだっつってんの!」

「真面目に勝負する価値すらないって言いたいの⁉ どこまで私をバカにすれば気が済むのよ‼‼」

「うぅ……もぉやだよぅ……」

 七海ちゃんはヘタれた。


 あまりの会話の成立の成功率の低さに憔悴したのだが、白井はそれすらも言葉を返す価値すら感じていないほどに見下されていると受け取る。

 白井さん視点で現状の弥堂に寄りかかる希咲を見ると、自分をマットに沈めた歴戦のチャンピオンがロープに腕をかけニュートラルコーナーで優雅に佇みながら、『BOY、キミにタイトルマッチのリングはまだ早いぜ。出直してきな』と言わんばかりの眼で見下ろしてきているように映っている。


 実際は嫌いな男を支えにしなければ立ってもいられないほどに消耗し、尚も蒸し返されようとしているセクハラにもう勘弁してくださいと懇願をしているのだが、ヒトは自分の目を通してでしか『世界』を見ることは出来ず、そして見たものも自分の性能でしか情報処理をすることが出来ないのだ。

 人の世の複雑さを嘆いて、七海ちゃんは室内シューズの爪先で床をグリグリしたかったが、そんな元気はなかった。


 そんな彼女へのこれ以上の追い打ちを防ぐ為――な心づもりは当然欠片もないが、希咲が会話を諦めたので、その空いたスペースに今度は弥堂が顔を出す。


「何故俺にそんな責任があるのかはわからんが、そもそも、さっきそいつらがお前が言ったようなことを長々と喋っていただろう。それで足りんのか?」

「不足ね。何故なら、彼らは謂わば身内同士よ。審査員全員が同じ団体から選出されるなんてそんなのとっても不公平だと思わない?」

「その上で、その審査員どもと同じ団体に所属するお前が負けたのならば、これ以上の公平性はないのではないのか?」

「綺麗事で誤魔化さないでっ‼‼ 私はそんな言葉が訊きたいんじゃないの!」

「何言ってんだこいつ」

 あまりの破綻ぶりに然しもの弥堂も返す言葉を失くす。すると、

「ねぇ」

 懐にいる希咲からジロリと視線を向けられる。


「なんだ」

「わかってると思うけど、余計なこと言ってこれ以上拗らせないでよね」

「わかっている」

「……ホントかしら」

 弥堂がクラスメイトの女の子からのお願いに快く応じていると、会話に法廷院が参入してきた。


「なるほどね。白井さんの言うことにも一理あるね」

「「ねーよ」」

 弥堂と希咲から異口同音で即座に全否定をくらったが、その程度のことでは彼は怯まなかった。

「さっきも言ったとおり、審査するにあたってどちらかに肩入れをして結果を捻じ曲げただなんてことは絶対にないよ。ボクらの誰一人としてね。それは間違いなく神にも誓える。だけどね――」

「なに勝手に語りだしてんのよ。訊いてねぇっ――「――だけどっ!」」

 無作法な妨害が入りそうになったが法廷院は勢いで乗り切る。

「――だけど、嗜好に偏りがなかったかと問われれば確かにその可能性は否めない。というのも、事実ボクたちはもともと同志であり同士――つまり同行の士だ。気の合う気のいい愉快な仲間たちさ。趣味嗜好という点において共通し共有しているということは紛れもなく事実さ。だってそうだろぉ?」

「代表……それじゃあ……?」

 光明を得たような表情で期待を含ませた眼差しを送る白井に対して、法廷院は安心させるように微笑んでみせた。


 そして続ける。


「つまり白井さんの指摘どおりの事実がある以上、彼女の提案どおり外部の審査員を招聘してその見解を伺う必要があるとボクは判断した。よって‼‼」

 一度言葉を切りつつ言葉尻で声を荒げ、余計な口を挟まれないように、さらに大袈裟なジェスチャーを入れて周囲を牽制した。
 片腕を振り上げたままの姿勢で間接視野にて仲間たちの表情を確認する。


 今行っているこれはパフォーマンスである。


 法廷院は同志たちに対して、自分は批判を受けたとしても貴重なご意見として真摯に受け止め、それに寄り添った形で解決案を出すことの出来るタイプのリーダーなのだとアピールしたのだ。

 見ると『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』の面々は一様に満足気な様子だ。法廷院もそれに一定の満足感を得た。バッと勢いよく掲げた腕を振り下ろす。

「よって! ここに延長戦の開始を宣言する‼‼」

 わっと歓声が湧きあがった。
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