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序章 俺は普通の高校生なので。

序章16 公正なる執行者 ②

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 もちろん敵はこの車椅子に座った男だけではない。彼の周囲を固める彼の仲間たちからも強い敵意が視線にのせて弥堂に向けられる。そして弥堂の左後方からも視線が向けられているのが首筋の肌で感じ取れた。しかしそれに載せられている意は敵意ではないものの、どこか居心地の悪さを感じさせられ、弥堂は目線だけを回し自身の左後方――希咲 七海きさき  ななみの方へと向けた。


 希咲は、普段は美しく弧を描く切れ長で涼やかなイメージを持たせるその猫目を、弥堂の持っていた彼女の印象としては珍しく、まん丸に開いてきょとんとした表情でこちらをじーっと見ていた。その意外さから弥堂はつい彼女へ問いかけてしまう。

「なんだ?」

「や。ちょっとびっくりしちゃって……あんたがそんなに喋ってるとこ初めて見たわ」

 弥堂は希咲から目線を外し、「あ、こら。なんであたしは無視すんのよっ」と喚く彼女を尻目に再び法廷院たちへと視線を向けた。

 というのも、希咲としては、弥堂 優輝という男の子は口下手で不器用な子という印象を持っており、先程自分が体験したように、言っていることは無茶苦茶でもペラペラとよく口が回る法廷院と口論をするのは彼には荷が勝つのではと、弥堂を心配し慮り忠告をしようとしたのだが、なかなかどうして対等以上に法廷院と舌戦を繰り広げている様子に虚を突かれたのだ。発言内容としてはもちろん弥堂の方も最悪なのだが。


「ふん、そうやってこまめに男に媚びて持ち上げてやって取入るのね。さっきはさりげなくボディタッチしてたし、なんていやらしいメス猫なのかしら……勉強になるわ」

「今のやりとりをどう見たらそうなるのよ、目ん玉腐ってんじゃないの……てか、顔くらい出せ」

 白井さんが余計な口を挟んだことにより、希咲はきょとんとした幼げな表情からいつもの不機嫌そうな顔に戻り発言主へと半眼を向ける。しかし、白井さんは弥堂が勧告という名の脅迫をし始めたあたりから、完全に高杉の背後へ隠れ、今では顏すら出していない。
 そのため、彼女の身代わりに希咲から半眼を向けられ、これまでずっと無言・無表情で静止していた高杉は、少々居心地が悪そうに身動ぎした。

 そして若干この場が弛緩したことを好機と見たか、すかさず法廷院が口を挟む。

「クフフ……それではこの機に名乗らせてもらおうか。意地でも名乗らせてもらおうか。ボクの名前は法廷院 擁護だよぉ、狂犬クン。『擁護ようご』と書いて『まもる』。『弱者』を『弱さ』を擁護する者さぁ」

 流暢に口を回し名乗りを挙げる車椅子に乗った法廷院を、弥堂はつまらなさそうに見下ろす。

「そしてここにいる彼らはね、ボクが組織した団体の仲間さ。おっと、組織したと言ってもボクの部下というわけじゃあない。『平等』がボクの信条だからね。ボクはただの代表者さ」

「組織だと?」

「おやぁ? おやおやおやぁどうしたんだい? やぁっとボクたちに興味を持ってくれたのかなぁ? フフフ、いいだろう、意地悪しないで親切にも教えて差し上げようじゃないかぁ! ボクたちはね、キミのような『強者』から、『持つ者』から取り上げて、全ての『弱者』に配当し、この世界を均して全ての『弱さ』を救ってあげるために集まったのさぁ! そう! ボクたちは『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』だ!――ハハハハハっ、こんにちは、初めまして、会いたかったぜぇ『強敵』‼」

「『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』……」

 それは弥堂としても記憶に新しい名であった。今日の昼休み、自身の所属するサバイバル部の情報統制担当である『Y'sワイズ』から送られてきた、今後粛清対象となる可能性の高い新興勢力であると。

「そう読んでくれて構わないぜ。なんなら頭文字をとって『N・N』と呼んでくれてもいいけれど、だけど『弱剣』と略すのは勘弁してくれたまえ。だってそうだろぉ? 『弱い人』は許されるべきだけど、『人の弱さ』を補うために作られた剣が『弱い』だなんてそんなのは許されないからねぇ。物には『人権』はないから、それはさすがにこのボクを以てしても擁護しきれないよぉ」

「……貴様らがここ最近放課後に孤立した生徒を取り囲んで、迷惑行為を働いているという団体か」
「は? あんたら、あたしにだけじゃなくて普段からこんなことばっかしてるわけ?」

「ハハハッ! うれしいねぇ! かの有名な『風紀の狂犬』の耳にまでボクらの高尚な活動と名がすでに届いているとはっ!」

「なにが高尚よっ! ふざけんじゃないわよっ! ただの迷惑な私刑行為じゃないっ!」


 何やら調子をとりもどした希咲と法廷院の言い争いを背景に、弥堂は思考する。


弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』。

 Y'sからの申告では対応レベルは3。可能な限り早急に対応する必要があるとのことであったが、弥堂としては部活動でもないこいつらを潰したところで自身が正式に身を置くサバイバル部には何の益もないと評価をした。そのため、風紀委員会所属とはいってもあくまでスパイである弥堂としては、風紀委員の通常業務以上のコストをかけてまで、こいつらを相手にする必要などないと昼休みに判断をしたばかりであった。
 
 しかし、風紀委員会の方から弥堂に対応にあたるようにとの命令が下されるか、それとも――

「――こうして業務中に遭遇してしまったのならば仕方がない。これはもう俺の仕事だ」


 そう結論付けた弥堂の声に希咲と法廷院も言い争いをやめて彼へと視線を戻す。

「こいつらって有名なの? あたし初めて聞いたんだけど」
「…………」
「おいこらっ、だからなんであんたはあたしだけ無視するわけ⁉」
「お前には知る資格がない」
「あんだとこらー!」

 ぎゃーぎゃーと言い募る希咲に対して、弥堂は職務に忠実に守秘義務を遵守した。

「いいだろう、気が変わった」
「ほう? ボクらの話を聞く気に――「貴様らの選択肢はなくなった」――なんだって?」


「貴様らは誰一人帰らせん。全員打ちのめして風紀の拷問部屋に連行してやる。簡単に解放されると思うなよ。他の関係者、他の協力団体、背後関係から資金の提供元まで洗いざらい吐き出すまで日の当たる場所に戻れると思うな」

「おいおい拷問だって? 乱暴だなぁ。大体それは『人権の侵害』だぜ? だってそうだ――ん? 拷問? 今拷問って言った?」

 先程より圧を強めて身柄の拘束を要求する弥堂に、基本的には臆病な『弱者の剣』の面々は急速に不安に駆られた。

「だっ、代表。なんですか拷問部屋って? この学園そんなものあるんですか?」
「い、いやだなぁ、本田君。そんなもの置いてる学校なんてあるわけないじゃない。そうだろぉ?」
「で、でもっ、この学園ちょっとおかしいですし」
「ハハハ……そんなまさ――」
「――それに見てくださいよ、あいつの目っ! マジすぎてやばいですよ! 白井さんよりやばいです! 」
「そうですよ! 人権どころか人の生命すらゴミだと思ってるに決まってますって。あいつにとって拷問なんてデイリークエ感覚なんですよ!」
「おいおい西野君、白井さんを引き合いに出すのは彼女に失礼だよ。ねぇ、白井さん?」
「あの、どなたですか? 気安く話しかけないでもらえます? 関係者だと誤解されたくないので」
「ちょっと白井さん⁉ 嘘でしょ⁉⁉」

 白井さんは光にも迫る速さで裏切り、自分は偶然通りがかっただけの無関係な一般人なのであると主張した。だが――

「安心しろ。一人も逃がさん。お前らの言うように男も女も関係なく公平で平等に同じ扱いをしてやる」

 無慈悲にも、当委員会は男女の性差の存在しない完全なる世界を目指す団体であると、弥堂から告げられ青褪める。

「ちょっと冗談でしょう⁉ 私は女の子なのよ! 私だけは丁重に扱いなさいよ!」
「よかったじゃない。お望み通り、平等に拷問を受ける機会がもらえて」
「黙れ淫乱っ! 私はあなたと違って凌辱されて悦ぶ趣味はないの!」
「あたしだってそんなのないわよ! いっぺん痛い目みてこい、ダブスタ女っ!」

 キャンキャンと吠えあう女どもは無視して、弥堂は男子生徒たちに最終勧告を告げる。

「両手を頭の後ろに組んで壁際に並べ。抵抗しても別に構わんが、その時は両腕をへし折って首に括り付けてやる」

 その感情を覗かせることはなくとも、確かな強い圧力を発する瞳に彼らは慄くが――

「くっ、こうなったら仕方ない――白井さん、西野君、本田君、『トライアングル・フォーメーション』だ‼‼」
「は? とらいあんぐる? なにそれだっさ」

 何言ってんの? と胡乱な瞳を向ける希咲を置き去りに、法廷院の号令で自分だけは助かりたいと喚いていた同志3名は、訓練されたような俊敏な動作でバババッと弥堂を取り囲んだ。正確に描かれた三角形の中央に彼を閉じ込める。

「フフフ……油断したね、狂犬クン。キミはもう終わりだよ」
「なんだと?」
「おっと、下手に問答にのって逆転のチャンスなんて与えないよ――さぁ、同志たちよ、撃ち方よーい!」

 法廷院のその言葉に弥堂を囲んだ同志たちはジリッジリっと僅かに間合いを詰める。
 弥堂はその彼らを見回しながら重心を下げ、どんな攻撃にも対応できるよう油断なく備える。

「いまだ‼」

 法廷院の号令がかかるや否や弥堂を囲んだ3名は口々に言葉を発する。彼らはそれぞれに自分はどれだけ辛い体験をし、いかにかわいそうな存在であるかを情感たっぷりに弥堂へと語る。

「フフフ……いいぞぅ」
「……ねぇ、何してるわけ? あれ?」

 希咲は胡散臭そうに法廷院に問いかけた。

「ククク……希咲さん。さっき自分の身に起きたことを忘れたのかい?」
「はぁ?」
「単体の戦力としては上回るはずのキミが何故ボクらに圧倒されたかわかるかい?」
「それはっ……あんたたちが、わけわかんないことばっか……」
「クハハッ――ねぇ、希咲さん? キミは所謂カーストTOPってやつだよね? クラスでも友人間でもキミの発言や意向は常に優先されやすい――違うかい?」
「……否定はしないわ」
「そうだろぉ?」

 法廷院は粘着いた視線を希咲へと絡み付ける。

「カーストってやつはねどこのクラスにもコミュニティにも存在する。もちろんそれぞれそのトップに立つ者が存在するわけだけれども。でもさぁ、結局は同じ人間で、ボクらに限って言えば同じ高校生さぁ。優劣は勿論あれども、そこに階級となるほどの、天と地ほどの人間性の差や能力の差があるわけじゃあない」
「…………」

 勿論例外中の例外は居るだろうがね。と続ける法廷院に希咲は返す言葉が見つからない。

「じゃあ、何故そんな階級が自然に出来上がるのかというと、なぁに、難しい話じゃあない。ただの『多数決』さぁ」
「多数決?」
「あぁ、多数決。人間ってのはねぇ孤立したくないもんだから基本的には『多数派』に所属していたいものさ。例えばだ、数人の目端の利く者が一人の少しだけ優れた人間を見つける。こいつにくっついてれば得が出来そうだって人間をね。それでその人間の発言にその数人が同調してみせると、やはりそれを見た孤立を恐れる者たち――特に自分の意見なんてものがない奴は簡単にね、安易にね、追従してしまうのさ。それを数回繰り返してごらん? 学級・学校なんて閉鎖された空間じゃあっという間に、その特定の個人の意見に同調することが民意・総意になってしまうのさ。まるでそれと異なる意見を持つことが『異端』であるかのようにね。内心はどうであれその『正しさ』に皆従ってしまうのさ。少なくとも表向きはね。キミにならわかるだろぉ?」
「……わかるけど、それとこれがどう関係あるってのよ」

 期待どおりの返答をくれる希咲に法廷院がクフフと満足気に笑うと核心に迫る。

「ボクたちはね基本的には異端側さ。クラスでもどこでも。孤立してしまった『弱者』さ。だけどね、この場に於いてはどうだい? ボクたちの方が『多数派』さ。ここではいくら言ってることが無茶苦茶でもボクたちの意見が民意であり総意となる。『正しさ』なんてものは簡単に揺るがせるし、簡単に作り出せるのさ。だってそうだろぉ? さっき経験したばかりなんだ。キミにならわかるよねぇ?」
「…………無茶苦茶言ってるって自覚はあったのね、驚きだわ」

 ニタァと粘着いた哂いを見せる法廷院に、希咲は先程の屈辱を想起しまた身が囚われそうになるが、かろうじてそれだけ言い返した。

「いやぁ、惜しかったねぇ。狂犬クンがあと少しだけ来るのが遅かったらキミを完全に折れたのにさぁ。もうちょっとだったのに……あ、でも、パンツ見せろは完全に行き過ぎた行いでした。白井さんが怖かったんです。これだけは未遂に終わって本当によかったです。申し訳ありませんでした」

 そう言って頭を下げ謝罪をする法廷院に、やっぱり見られてなかったと大きく安堵するとともに、同時に希咲はそんな自分を恥じた。

「さぁ、かの悪名高い風紀の狂犬が折れる瞬間が見れるぜぇ。どうか邪魔しないでそこで大人しくしていてくれよう」

 法廷院と話している間に弥堂を囲んだスリーマンセルは「謝れ」コールへと移行していた。
 希咲はさっきの自分も傍から見たらこんな絵面だったのかと別の意味で恥ずかしくなる。

「うーん、でもさぁ。あれってそんな上手くいくかしら」
「へぇ。キミは狂犬クンは折れない、と?」
「だってさぁ、あれって。あたしには血に飢えた狂犬の前で美味しそうなチワワが3匹キャンキャン吠えてるだけにしか見えないんだけど。あんたたちも大分『アレ』だけど、あいつも話が通じないじゃない?」
「負け惜しみだねぇ。吠え面かくのはキミたちの方さ!」

 法廷院が自信満々に言い放ったその時に弥堂に動きが見えた。


「――おい」

 弥堂は自分を囲む3名の内の1人、謝罪しろコールの合間に狂ったように腕に抱えたポテチョを喰らい続ける本田へと近づき見下ろした。本田は答えず血走った目でスナック菓子を口に放り込み続ける。

「聞いてるのかデブ野郎。貴様、特別な許可がない限りは校内では菓子類の飲食は禁止されていることを知らんのか? 俺の前でそれを食うとはいい度胸だな、今すぐ全て床に置け」

「おいおい、狂犬クン。彼の話を訊いてなかったのかい? 彼は過食症なんだ。キミが強いストレスを与えたせいで彼はこうして菓子を食べているんだよ。心の平穏を保つためにね。これは仕方ないんだ。強いて言うならキミが悪いよ。だってそうだろぉ? 彼にそうさせる程のストレスを与えたのはキミなんだか――」

 弥堂は本田を擁護する法廷院の言葉には耳を貸さず、本田が指示に従う様子がないことを確認すると彼の胸倉を掴んだ。

「ぶひぃっ」

 本田はそれに怯え豚のような鳴き声をあげて口から菓子を溢すが、弥堂はそれに構わず胸倉を掴んだまま彼を窓際まで引き摺っていくと空いてる方の右手でガラっと窓を開け放った。そしてそのまま目算で100㎏はあるかと思わせるような本田の肥満体を、胸倉を掴んだまま片腕で持ち上げる。

「うぐぇっ」

 身体を吊り上げられ、弥堂の掴む制服に喉を締め付けられた本田が喉の閉塞感から解放された次に感じたのは浮遊感だった。持ち上げられた時に反射的に瞑っていた目を恐る恐る開けて頼りなくなった自身の足元を見ると、その下にあったのは屋外の地面だった。ただし、その地面は足元から5・6m程下にある。
 本田はパニックに陥る中でしかし、正確に自分の状況を理解した。自分は現在、学園内文化講堂の二階連絡通路の窓から弥堂によって片腕で屋外に吊るし上げられている。

「ひぃっ、ぶひぃっ」

「貴様程度が暴れたところで俺の拘束を解くことは出来ないが、誰にだってミスはある。もしかしたら手元が狂ってしまうことも……なぁ、そうだろう?」

 恐怖により口から食べかけの菓子をボトボト階下に溢しながら身を捩った本田だが、自身の生殺与奪を握る男から告げられたその言葉に彼を見て――その冷たい瞳を覗いてしまい、身体から力が抜ける。もはや彼には震えることしか出来ない。

「ちょっ、ちょっと弥堂っ」

 屋内から響く希咲の焦りを含んだ制止の声も本田にはどこか遠い世界の言葉に聞こえた。

「俺は風紀委員だ。その責務により、校内で菓子類の飲食を禁ずるという規則があれば、校内から菓子類とそれを持つ人間を放り出さなければならない。それはわかるか?」

 本田はすぐに勢いよく頷いた。頷いたつもりだったが、恐怖に縛られた身体が果たしてしっかり頷いてくれたのか、彼にはもうそれすら定かではなかった。

「選ばせてやる。今すぐ自分でその菓子を手放すか。それとも、それがそんなに大事ならそのまま抱えているかだ。俺はどっちでもいいぞ。ただし、後者を選ぶのなら――その時は俺がどうするか……もうわかるな? ゆっくり慎重に選択をしろ。このまま10分でも1時間でも考えさせてやる。なに、気にするな。腕力には少しばかり自信があるんだ……だが、ミスは誰にでもある。そうだろ?」

 普段の彼からは考えられないようなその長い台詞を、弥堂が言い切るよりも前だったか後だったか、選択肢を考慮するまでもなく本田は全ての菓子を手放した。階下へとスナック菓子がその袋から撒き散らされながら落ちていく。

「ふん」

 弥堂はそれをつまらなさそうに見て本田を窓の中へと運び床へと放り捨てた。


 床に打ち付けられた本田はハッハッ――と過呼吸寸前のように短く早く息を吐き出しながら、恐怖に染まり切った目で弥堂を見上げた。

「よかったな。学園が指定制服の素材をもう少しケチって安物にしていたら、お前の体重に耐えられずに破れてお前は地面の染みになっていたかもな。偉大なる理事長と生徒会長閣下に感謝をしろよ」

 彼なりのジョークなのか、無表情のままその口の片側の端だけ持ち上げて見せる弥堂に、本田は涙でぐしゃぐしゃになった顏で卑屈にへらっと笑い返した。

「笑ってんじゃねえよ、クズが」

 すぐに表情を落とした弥堂は本田の腹を爪先で蹴り入れた。

「うぼえぇっ」と無様に嘔吐いた本田は口から胃液と逆流したスナック菓子の成れの果てを戻しながら、腰が抜けたのだろうガクガクと痙攣する下半身を引きずり這いつくばって弥堂から逃げようとする。彼の向かう先には同じく腰を抜かした西野がみっともなく尻もちをつきながら震えていた。

「ちょっと弥堂っ、やめなさいっ!」

 弥堂のあまりの所業に茫然としていた希咲であったが、本田が蹴られた様子を見てハッと我に返り、彼らと弥堂の間に入るようにして止める。

「なんてことすんのよっ」

 言葉とともに弥堂へ鋭い視線を向けるが、彼に追撃の意志がないことを見て取るとすぐに振り返り、涙と鼻水と吐しゃ物に塗れて震える本田へと駆け寄ってその傍らにしゃがみ込む。

「ちょっとあんた大丈夫? ほら、顔拭きなさい」

 そう言って彼の肉厚な背中を擦りながら、カーディガンのポケットから取り出したハンカチを渡してやる。

 ハンカチを受け取った本田は先程自分が彼女に対して行った所業を心の底から悔やみながら、ハンカチで顔を拭うことなくその手でハンカチを強く握りしめ、さらに多くの涙を流すと彼女へと必死に頭を下げた。気が動転して声が出せないのだろう、そんな本田の様子を見て取った傍らの西野が代わりに「ありがとうございます、ごめんなさい」と何度も繰り返した。

 男二人身を寄せ合いながら涙を流し怯え切ったその様子に若干引いて頬を引きつらせるが、すぐに弥堂へと向き直る。

「弥堂、あんたやりすぎよ」

 弥堂は何の感情の揺らぎもないまま、そんな希咲を目に映す。希咲は「何であたしがこいつら守ってんの?」と自身の立ち位置に激しく疑問を感じたが退くわけにもいかなかった。

「やり過ぎか……そうだな、やり過ぎだ」
「へ?」

 まさか話が通じるとは思っていなかったので、あっさりと聞き入れた弥堂へと訝し気な視線を送る。

「だが、これは必要なことだ。口頭で言ってやって従わないのであれば、こちらとしてもやり過ぎるしかない。で? ――お前にはどこまでする必要があるんだ?」
「ちょっ、ちょっと」

 弥堂は振り返りながら、その問いは希咲にではなく背後にいた白井へと向けた。

「ひっひぃぃぃぃっ、犯されるぅぅぅぅっ」

 振り返る弥堂と目が合った白井はすぐに踵を返し逃げ出そうとするが、先に触れ本人が申告した通りに運動神経が鈍いのか、それとも恐怖に身体の操作が覚束無くなったのか、振り返ると同時に足をもつれさせ転倒した。

「誰がお前程度の女をわざわざ犯すか、ブスが」

 彼女が語った過去話の再現のように弥堂へと尻を突き出し床に顔を打ち付けた白井に弥堂は歩み寄り、スカートが捲れ剥き出しになった彼女の尻肉に室内シューズの踵を食い込ませると床へと押し付けた。そのまま「ぶもぅっ」と豚のような呻き声を上げる彼女の尻をぐりぐりと踏み躙る。

「あっ、あんた女の子になんてことすんのよっ! やめなさいっ!」

 さすがにこれは看過できないと希咲が割って入り、白井の尻を蹂躙する弥堂の足を両腕で抱えて持ち上げようとする。

「こんのっ、やめろって言ってん――んん?」

 持ち上げようとしたが、その時に無様に天へと突きあげる白井の尻を包んだ下着が目に入る。

 スッと表情を落とした希咲は弥堂の足を放し、白井の頭の脇へとしゃがみ込むと彼女の髪をガっと掴んで顏を上げさせた。

「おい」

 自分でもちょっとびっくりするくらい低い声が出た。

「なっ何よ⁉ 今新しい世界の扉が開きそうなの! 邪魔をしないで!」

 白井さんはもうダメだった。だが、希咲はそんな彼女にも怯むことなく訊く。

「あんたさ、下着は白しか穿かないんじゃなかったっけ?」

 ジト目を向けて尋問をする希咲から白井さんはそっと目を逸らした。


 現在何も隠すものなく堂々と白日の下に晒される白井さんの下着は、その造形について詳細に表現するのは倫理的に憚れるようなセンシティブな代物であった。男に媚びるどころか、一度男に食らいついたら貪り尽くすまで決して離さないといった、断固とした決意の見て取れる攻撃的なデザインであった。

「ねぇ? 毎朝甲斐甲斐しくも純白パンツ見せて清楚アピールしてんじゃなかったっけ? ねぇ? どうなのよ? あぁん?」
「しょうがないでしょおおお‼ 私だって女なのよおおおお‼‼」

 白井さんの筆舌に尽くしがたい程に不謹慎な下着に包まれた尻をぺちぺちと叩いてその真意を問うと、白井さんは自身の下着が名状しがたいほどに性的であるのは仕方のないことなのだと涙ながらに訴えた。

「こんなもん朝から見せられても、誘う気まんまんすぎてどん引きされるでしょうが」

 希咲は呆れたようにそう言うと、「はぁ」と溜め息を吐き弥堂の足の下から彼女を引っ張り出して立ち上がらせ、はしたなく乱れたスカートを払って直してやった。しかし、白井は希咲が手を離すと脱力し床へと座り込んで「ワンチャン、ワンチャンあると思ったのよおおお、一発ヤってしまえばイケると思ったのおおおお」と、その心の内を余すことなく赤裸々に言語化し、完全に泣き出してしまった。

 その様子にどん引いて、希咲はススッと彼女から距離をとると弥堂の横へと並んだ。白井さんはもう誰にも救うことは出来ないのだ。


「なんかもう色々と怒涛すぎて頭がおいつかないんだけど?」

 希咲は不満いっぱいの顏で弥堂をジト目で見遣るが、この混沌の中でも一切表情を変えない彼のことを、常軌を逸した行動をしたとんでもない奴と思えばいいのか、やり方はどうあれこの厄介極まりない連中をあっという間に半数無力化した手際を称賛していいのか判断できずに、「あたし今日バイト行けるのかしら」と、トホホと心中で泣いた。

 すぐに何かしらの動きを見せる様子のない弥堂に「このバカには期待できない」と、こちらも望み薄だがとりあえず法廷院の方へと目を向けた。この一連の弥堂の暴挙の中で彼が何も動きを見せなかったのも気にかかる。


 法廷院は静かにそこにいた。
 静かに、だが車椅子の肘掛にのせた腕を怒りを堪えるように震わせ、静かな怒りを漲らせていた。

「やってくれたじゃあないか。狂犬クン……あぁ、確かに狂犬だ。思っていた以上に狂っていたよ。これはボクのミスだ。ボクの想定が甘かった。認めようじゃないか 」
「代表」
「いいんだ、高杉君。これは受け止めなければならないボクの失態だよ。大切な同志たちに新たな心の傷を植え付けてしまった」

 自分のミスを認める――しかし、その言葉とは裏腹に、その声には確かな怒りが滲んでいた。

「すまないね、高杉君。結局キミに頼ることになりそうだよ」
「承知」

 その男は――高杉と呼ばれる、これまでほとんど口を開くことのなかったその男は、法廷院に短く了承の意を伝えると、彼の座る車椅子の背後からヌッとその巨体を前に出し立ちはだかった。

 前に立つと、法廷院の背後に居た時よりもさらにその体躯の威容が増したように感じられる。

 弥堂よりもわずかに背が高いだろうか、制服の上からでもわかるほどにその筋肉の鎧の強固さが見て取れる。それなりに鍛えていそうな弥堂よりも一回り以上も大きく視覚からは感じられた。そして、その佇まいも完全な素人ではない、『何か』を習得している気配を希咲は察して――

「弥堂こいつ――」
「――あぁ、わかっている」

 弥堂に伝えようとするが、彼もまた同様の見解のようだった。


 女だからといって自分は安全だとは考えない。むしろさっきのような奴らを相手にするよりは、こちらの方が自分としてもずっと『やりやすい』。希咲は弥堂の横で半身を彼らに向けて立ち、やるなら自分が受けて立つと戦意を顕わにする。先程彼らにやり込められた借りを返してやろうと、左手で髪を後ろに払い嘲るように挑発をする。

「はんっ――なによ。あれだけ暴力はーとかほざいといて結局そいつ頼りってわけ? 上等よ、あたしが――「――俺はホモだ」――はぇ?」

 しかし、希咲の口上は最後まで切られることなく耳を疑うようなことを高杉が発した。

 聞き間違いかと希咲がぽかーんと口を開けていると、高杉は鋭い眼差しで弥堂と希咲を貫き再度口を開く。


「俺はホモだ」

 満を持して登場したその男が放った、昨今の世情的に究極的にセンシティブな唐突で脈絡のないカミングアウトに場に緊張が張り詰める。
 混迷極まる戦場に最大の激震が走った。

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