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序章 俺は普通の高校生なので。

序章11 眼窩の窓

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 経緯はどうあれ、弥堂 優輝びとう ゆうきが無事に地上へと降り立ったことで、一応は水無瀬 愛苗みなせ まなによる『びとーくんきゅうしゅつさくせん』は成功を遂げた。

 周囲に集まっていた人々も安堵し、その場に漂っていた緊張感も霧散した――と思いきや、多くの者が微妙な表情で気味が悪そうに弥堂を見ていた。


「なぁ……見たかよ? なんだよあの気持ち悪い動き……」
「あの着地のやつだろ? なんかめっちゃ足動いてたぞ……」
「あたし夢に見そうなんだけど……」
「マジきもいわ……」


 どうやら高所から無傷で着地をキメた際に弥堂が見せた動作に関して、みなさんお気に召さなかったようだ。

 というのも、ぴょんっと飛んで普通にスタっと二本の足で着地をしたわけではなく、身体にダメージを負わぬよう接地の際の衝撃を殺す為に、少々特殊な着地の仕方を――例によって彼の師である女性に教わった技法を弥堂は使用していた。


――『五点接地』という技術がある。

 高所からの着地時に、衝撃が一か所に集中しないよう、足からの着地後地面を転がりながら順に接地場所を移して衝撃を分散させる技術である。
 両足を揃え膝を柔らかく力を抜いて、つま先から着地をしながら転がる。足の側面、尻、背中、肩と転がりながら接地面をズラしていく、謂わば『受け身』の延長線上にあるような技術だ。十分に熟達をすれば地上から5~6m程度の高さならば、危なげなく着地を成功させられるとも謂われている。

 もちろん、特殊な訓練が必要であるので、よいこや良識のある大人は安易に真似をしようなどとは思ってはいけない。そしてわるいこや良識の備わっていない大人は好きにやって、せめて他人の迷惑にならない場所で勝手に死ねばいい。


 しかし、これを弥堂の師に謂わせれば、着地するだけでいいのならばそれでもいいが、もしもそこが敵地の真っ只中だった場合、悠長に地面を転がっていては格好の的になる、と。実戦では、戦時下では使えない技である、と。そう仰っていた。
 故に彼女は弥堂に『手ほどき』をした。敵の集団のど真ん中に着地をしても速やかに戦闘に移行出来る業を。


 その技法とはこうだ。

 まず片足、どっちでもいいので仮に左足からとしよう。左足のつま先から地面に接する。次に踵を着けてから膝を曲げ衝撃を抜く。そして左の膝を抜くと同時に右足のつま先を着け同様の工程を熟す。そのままではそれで終わりなのだが、右足の踵が着くと同時に、先に接地していた左足を上げ地面から離し、右足の膝を曲げて衝撃を抜いたと同時に再度左足のつま先を設置させて同じ工程を行い、そして右足もまた一回上げてまた下すことで何度でも再利用できるのだ。
 五点接地では身体の各部分で順に衝撃を受け止めていくわけだが、このように高速で足踏みをすることで、なんと足だけで全ての衝撃をいなすことが可能となるのだ!

 初めて彼女からこれを聞かされた弥堂はちょっと何を言ってるのかよくわからなかったので、率直に忌憚なく「ちょっと何を言ってるのかよくわからない」と彼女に伝えたところ、首根っこを掴まれ「死にたくなければ死ぬ前に出来るようになるのです」と画期的なコツを教わり、建物三階ほどの高さから出来るようになるまで突き落とされ続けた。

 骨が折れようが皮膚が破れようが彼女は許してくれなかったので、必死に頑張った結果、弥堂は自分でも何がどうなっているのかよくわからないが、なんとなく出来ようになった。今回は校舎二階の床面より少し高い程度、約5m程の高さであったが、これくらいなら特に意識しなくとも着地を成功させられるようになっていた。

 普通の人からしてみればここまででも十分にビックリ芸であったが、この業にはさらに続きがあった。

 師は云った。

「――いいですかユウキ。聞いているのですか? まずは着地を無事に済ませるところまでで初歩です。あなたはまだ入り口に立っただけに過ぎません。今は地面と人体が衝突した際に生まれた衝撃を抜いて身体の外へ徹して流していますよね? この衝撃を攻撃に転用するのです。今回は修練の為に特別に許されていますが、本来それが生物ではないとはいえ、生まれたものをそのまま消失させるなどということは罪深いことなのです。神はそのような無駄をお許しにはなりません。ですので試練は次の段階です。足を接地することで生じたエネルギーを人体の中で流し周回させ一点に集約させます。その集めた力を敵の身体の内部に直接徹すのです。これが出来るようになれば――ユウキ? 人の話はきちんと目を見て聞きなさい。目線を隠すのは敵に対してだけです。私はあなたの敵ではありません。――いいですか? これは理論上は飛び降りる場所が高所であれば高所であるほど、その高度に比例して得られる衝撃は上がり、つまり比例して打撃の威力も天井なしに上がっていくわけです。ということは、とても高い所から飛び降りればとても強い力になるのでどんな敵であろうと一撃で……ユウキ? どこに行くのです? 話はまだ終わっていません。待ちなさいユウ――おねがいまって、おいてかないで……無視するのやだぁ――」
 
 記録を切る。


 普通の人から見たらビックリ芸な着地を習得した弥堂ではあるが、これは本当に何を言ってるかわからなかったので、習得は固辞させてもらった。彼女の言う“試練”とやらに付き合っていると流血は免れないので、これ以降弥堂は何かと屁理屈を捏ねて逃げた。

 だが、実際に弥堂の目の前で彼女はこれをやって見せ、小柄な彼女が自身の倍はあろうかという大男を10mほどぶっ飛ばしていたのを目撃したことはある。確かに彼女の言うとおり『りろんじょう』は可能なのであろう。

 実際にこの着地までの技法はとても便利で、弥堂はこの学園に編入してからもよく、校舎の二階窓を突き破って逃走する時などに運用していた。

 しかし、どんなに便利な技術にも欠点はある。

 この技法に限って言えば、その欠点は絵面がひどい、という点だ。

 簡単に言えば高速足踏みで着地をするのでバタバタ動かす足の動きがとても無様で見栄えが悪いということである。弥堂は他人の目を気にしないので問題はないといえばないのだが、それを見た人々はこうしてみな気味悪がるのである。

 弥堂の師である彼女はいつもメイド服を着用していて、ロングスカートにより足の動きが見えづらい為その動作の優雅さは然程損なわれないのだが、男性である弥堂は基本的にはズボン――今も学園指定制服のスラックスを着用しているので、傍から見れば高速タップダンスで着地をキメる変態にしか見えないのである。

 故にこうして今も人々は遠巻きにどん引きしていた。人間は自分の理解の及ばないものを畏れるのだ。
  



 不特定多数の野次馬のことなどどうでもいい。弥堂は思考を切り替える。


 思考を切り替えて、視点を変えて、水無瀬 愛苗みなせ まなへと目を向ける。

 ちょっとよくわからない――自身の理解の及ばないものを視る。その畏れの根源を覗き視ようとする。


 目を細め、水無瀬 愛苗の瞳を、その瞳の輝きを視る。

 澱みなく濁りなく。一分の不純物の混在も視止められないその強く真っ直ぐな輝きは、彼女の――水無瀬 愛苗というモノの、その存在の強さそのものを、水無瀬 愛苗という存在のカタチをそのまま顕しているようであった。『世界』の総てを、『人間』の統べてを信じ切ったような瞳。まるで悪などというモノはこの世界に存在しないとでも信じ切っていそうなその瞳の色。醜いモノ、汚いモノ、悪いモノ。それらを一度足りとてその眼球の水晶体に映したことなどないのだろうか。


 ヒトとは己の外の情報を得るのにその殆どを視界に頼る。目が見えるのであれば、その依存度は80%であったか90%であったか。細かい数字はどうでもよく、だがその多くを目に映るもの映すものに依存しているのであれば――


――眼窩とは『世界』を覗く窓である。
 
 骨の周りを肉で固め、その肉の塊に与えられた生命という必ず喪われる燃料をなるべく長く維持する為、効率よく消費する為に、様々な内蔵器官という肉を肉体という肉の中に埋め込み血を流し込み、漏れ出ぬように皮で包んだヒトという生き物。その肉の塊の中に己という、人格という、自我という、当て嵌める言葉は何でもいいのかもしれない。そのよくわからないあやふやで遷ろう何だかわからない不確かな自分というものを臆病にも卑怯にも内に隠し、眼窩という肉の塊にぽっかりと空いたくぼみに嵌め込まれた、眼球という器官に取り付けられた水晶体というレンズで、己の外の『世界』を映し、己以外を、自分ではない総てのモノをその中に映像情報として撮り込む。

 水晶体が触れた情報は神経を伝達し脳に因って処理をされ映像として再生される。それをこの肉体の中で自分という誰かが認識をし、鑑賞をし、感動をし、感情が生産される。感じるという動作で感動する。自分でもどうやって何を動かしているのかもわからない作業で作用で所作で反射・反応で、感情という何かわからないものが生産され、そしてそれは何にどう消費されているのかもわからずに、わからないままで必ず消えて喪われる。いつどこで何を亡くしたのだろうか。わからない。


 ――肉体とは自我の牢獄である。

 全ての生き物はこの『世界』の中に生まれながら、それぞれの牢獄に囚われ『世界』から隔離される。唯一『眼窩の窓』から、収監されたその部屋の天井付近に小さく空いたその窓から、『世界』を覗くことだけが許される。視力がないのなら代わりに聴覚・触覚・嗅覚などいずれかの手段で以てしかし、同様に覗き見ることしか出来ない。

 己という誰かは死ぬまでその刑期を終えることはなく、『世界』を覗き見て撮り込んだ情報から己を何かに定義付けることは出来たとしても、窓から出て『世界』に入り込むことは出来ない。
 故に、誰にも、己にも『世界』を変えることなどは出来ない。

『世界』の中に生まれ存在しながら、『世界』には入れず『世界』には為れず、己以外の何物にも為れないまま死んでいく。
『世界』は変えられない。英雄にも勇者にも魔王にも為れずに、天使にも悪魔にも為れず、もちろん神にも為れず。何者にも為れないまま、不確かな己のままで死んでいく。

 生まれたことは罪で、産まれ落ちたことは過失で、死んでいないことは悪徳で、誰もがこの牢獄の中で一生を懸けて償い、後悔しながら贖い続ける。

 そしてやがて生命の総てを消費し尽くし死んだ時にだけ、己という自我が消失して初めて釈放され、『世界』へと還ることが許され、『世界』の中に為れる。


 ――設計図がある。

 魂という、知覚することは出来ない、あらゆる存在の根幹となるそれを生命体として物質化するにあたって必要な『魂の設計図』。それに総てそう書き込まれている。決められ、定められ、規定され、定義され、デザインされ、許可を能えられたその『魂の設計図』が描かれ完成して、そこで初めて生まれて存在することが許され、それに描かれた通りの中で仕様の中でのみ生きることが許される。

 他人より、他の囚人よりも少しだけ優れた才能という先天的だと思った何かがあったとしても、血の滲むような努力をして自分に元々備わったモノとは違う新しい何かを勝ち得た気になったとしても、それは全て仕様の内で、当然設計図に予め書き込まれていたそれは『世界』を変えることなどは出来ない、取るに足らない『加護』だ。取るに足らないからこそ許され能えられる。要件定義などしてくれはしない。

 例えば、『魂の設計図』を視覚することが出来たとして、その中身を読み取ることが出来たとしても、それを書き換えることは出来ない。

 設計図を切り刻み、破り捨て、燃やし尽くし、破壊することは出来たとしても、その中身を――魂のデザインを己の望むように書き換えることなどは決して誰にも出来ないのだ。『世界』はそれを許したりは、それを可能とする許可証ライセンスを与えたりは決して、しない。『世界』が、『世界』自身がその存続を維持し続ける為に。

 どこまでもいつまでも己は己という誰でもないままで何者にも為れはしない。


 それが弥堂 優輝びとう ゆうきという誰でもない何者にも為れない罪人が、その眼窩の窓からその眼で視て知った牢獄の外の『世界』であった。


 では、水無瀬 愛苗みなせ まなからはこの『世界』はどう見えているのだろうか。


 彼女の瞳を覗き込む。その眼窩から彼女の――水無瀬 愛苗というカタチをした肉の詰まった皮袋のその奥底を、その洞の中に隠れているはずの、その牢獄の中に囚われているはずの誰かナニカを覗き視ようと試みる。


 弥堂 優輝と水無瀬 愛苗が、例えば同じ時間に同じ場所で同じモノをそれぞれの目に映したとしても、きっと全く違うモノを感じ取り、全く違う認識をするのだろう。

 それは何故だ。


 首から提げた借り物のカメラのそれなりに値の張りそうな、それなりに性能の高そうなレンズの縁をそっと右手の人差し指でなぞる。


 同じものを見ているはずなのに、その前提は間違いがないと仮定したとして、その結果に差異が生じるのであれば、その原因は何処にある?


 弥堂は左手をゆっくりと上げると、その手をまたゆっくりと水無瀬の顏へと近付ける。

 どんなに反射神経の鈍い者でも、頭の回転の遅い者でも反応が出来るように、わざとゆっくりとよく見えるようにその手を少女の頬へと近付けていく。

 水無瀬は動かない。自分に近づいてくるその手を、その指先を少しだけ不思議そうに見つめている。


 年頃の少女や女性が異性に触れられる時に抱くような、緊張も忌避も期待も嫌悪も何もない。疑念も危機も抱くことなく、近づいてくるままに、こちらのするがままを許し、されるがままを受け入れて、その身にその肌に触れさせる。

 彼女の髪と右の頬の間に左手の人差し指と中指を挿し入れて肌に触れる。水無瀬 愛苗に触れた。水無瀬は身体を強張らせることもしなかった。

 そのまま二本の指で頬に触れながら薬指で顎の骨に触れ、そのラインをなぞり、カタチを確かめるようにしながら頬を撫で奥へと挿し進む。指先が耳にまで届き耳朶に触れた時に、水無瀬は少しだけ擽ったそうに身動ぎをした。しかし嫌がることも拒絶することもなく笑みを浮かべながら見つめ返してくる。

 小指を折り曲げ、その指で彼女の顎を持ち上げる。彼女のその顔が、その瞳がよく見えるように上を向かせる。そして彼女の顔を、まだ幼さを多く残すものの出来がよくカタチ作られたその相貌を見下ろす。彼女の右目をその瞳をよく視る。


 もしも、同じものを見てその結果に差異が生じるのならば、それはこの目玉に備わった『世界』を映す為のレンズである水晶体の性能に差異が、優劣があるのだろうか。

 彼女の頬に触れ顎を上げさせたまま親指の腹で、彼女の右の下眼瞼を撫でる。水無瀬の頭蓋骨にぽっかりと空いた眼窩の窪みのその淵をなぞりながら、目玉を視る。それは同時に彼女に――水無瀬 愛苗に弥堂 優輝というカタチをしたモノを見させることにもなる。彼女は今、『世界』を挟んで弥堂を見て、眼窩の窓からこの光景を覗き見て、何をどう認識しているのだろう。


 眼球の性能の差で認識に相違が生じるのであれば――

(――こいつのこの右目と俺のこの忌々しい役立たずの右眼を抉り出し、交換してお互いの眼窩に嵌め直したのならば、俺はこいつと同じものを見て、こいつは俺と同じモノを視ることが可能なのだろうか)

 そんなはずはない。そんな程度のことでは『世界』は変わらない。


 であるのならば、眼球の性能が起因でないのだとすれば、水晶体に映した情報を神経を通して送る時の情報の劣化に個人差があるのか。もしくは送られた情報を映像として再生する脳の処理方法か能力か、そこに差異があるのか。
 わからない。わからない。わからない。わかったところで意味がない。

 学者や科学者ならばこれを明確に解き明かし理路整然と説明をしてくれるのだろうか。それを聞いたところで意味はない。だが、誰かに決めて欲しかった。仕組みを、成り立ちを、その理由わけを。『世界』を知ることの出来ない己には理解の出来ない、操ることの出来ない理を。
 理不尽でも、不公平でも何でもいいからこの不満足を解消して欲しかった。

 だが、『世界』は誰しもに平等に触れられないモノであるので、結局のところは誰も解き明かすことなどは出来ないのであろう。許されていないのだろう。

 
 肉体に、その器官に差異がないのであれば、それならばその起因はやはり、それぞれの牢獄の中に収監されたそれぞれの自我に差異があるのだろう。自分は自分というモノでしかなく、自分以外の他のナニカではなくて、他のナニカ以外のモノが自分で、他の何物にもなれないから、それはやはり違うのだろう。

 弥堂 優輝は弥堂 優輝でしかなく、水無瀬 愛苗は水無瀬 愛苗でしかない。それでしかなく、それ以外ではない。為れない。


 弥堂 優輝は『世界』の中に存在しながら生きながら、しかし『世界』の中に自分はいない、視えない。眼窩の窓から覗く『世界』に見えるのは、自分ではない総てのモノで、その自分でない総てのモノが『世界』だ。

 そしてそれは水無瀬 愛苗も同じだ。

 同じ、はずだ。


 彼女に近づく。
 もっとよく視えるように屈んで顔を近づける。

 水無瀬 愛苗という善意の塊のその眼窩からその洞の中を覗く。
 その中にいるはずの何者かを、弥堂 優輝ではないナニカを覗き視る為に。

 もっと近くで――もっとよく――

(――視せろ――)

 至近で暫し視る。見せ合う。見つめ合う。
 

 もしも、例えば、この水無瀬 愛苗の眼窩の窓から、彼女の入り口からその奥底へと――

――弥堂 優輝という器の中に納まった、弥堂 優輝が弥堂 優輝としてこの『世界』を視て、この身の奥に在るモノを弥堂 優輝とした総てを――

――水無瀬 愛苗のナカへと流し込むことが出来たとしたら。

 そうしたら一体どうなるのだろうか。
 彼女は一体ナニに為るのだろうか。彼女は彼女のままなのか、弥堂 優輝と為るのか。

 それともお互いの情報が溶け合って混ざり合って、弥堂 優輝でもなく水無瀬 愛苗でもない、もっと他のナニカに為ってしまうのか。存在が裏返って、生まれ変わって、産まれ直して、別の何者かに成り果てるのだろうか。


 暫し視詰めて覗き視て、そんなことはありえないと視線を緩めた。


 改めて彼女を見る。

 先程からずっと変わらず、楽しそうに笑みを浮かべたまま自分の頬に触れる弥堂をニコニコと見つめている。何をされているのかもわからないだろうに。

 何かを、危害を加えられるなどとは微塵も思っていないのだろう。弥堂を信じているから――ではなく、そもそも危害を加えられるなどという可能性すら考慮していない。そんな発想すら持ち合わせてはいないのだろう。

 彼女が見る『世界』は――彼女から見た彼女が生きる『世界』には、そんな悪意は存在しないのだろう。

(――だが)

 彼女の顎を持ち上げていた小指を外す。

(だが、水無瀬。今お前の目の前にいる者は、お前が知らない悪いモノだ)

 礼代わりというわけでもないが、親指で軽く彼女の頬を2・3度擽ってやると、手を放し顔を離し彼女を解放してやった。
 水無瀬は擽ったそうにして、だが嬉しそうに笑った。一連の総てが何だったのか知らないまま、わからないまま。だがそれでも彼女は笑った。彼女は笑うのだ。


 お互いのことは知らない。わからない。
 知らないまま出会い、わからないままで別れる。
 誰もが、誰とも。

 この『世界』はそういう風に出来ている。

(俺たちはそういう風にデザインされている)


 いくら知ろうとしても、どんなに覗き視て解き明かそうとしたとしても。

 だが、当然そんなものは視えはしない。

『魂の設計図』が視えたとしても、それを読み解き思うままに書き換えることはどうせ出来はしないのだから。


 わかりあうことが、他者を思い知ることが大切だと多くの者が言う。
 誰もが自分以外の誰一人をすら、知らないくせに、わからないくせに。
 
 賢しげに人の好さそうな顔で、知った風な耳障りの好い言葉で、まるで自分はわかっているかのように振舞い、そんな嘘を吐く。

 この世界は――人間の社会は嘘だらけだ。


 だが、そんな嘘は必要で、それによって人間の暮らしの多くの部分は守られている。


 そんな嘘で守ったものの成功例の最大値がこの水無瀬 愛苗なのだろうか。


 しかし、遅かれ早かれ。いつかは誰もが、社会に守られていた者達が社会を維持する側に立たされた時にそんな嘘に気付き、他者の悪意に悪徳に気付き、そしてそれを自分も同様に行うことが許されているのだと気付く。やがて自分も嘘を吐く側になる。或いは得る為に、或いは守る為に。誰かに何かを騙って聞かせる。

 そんな嘘を吐き続けることが――他人を理解し思いやれるそんなフリが――出来なくなってしまったのなら、やり通すことが出来なくなってしまったのなら、人間の世界は戦場と為り、人と人はもう殺し奪い合うことしか出来なくなるのだから。
 ヒトが人間の皮を被ることをやめてしまえば、その時は必ずその中に詰められた血が流れ、肉が零れ出す。自分のモノも他人のモノも。

 だから――ヒトが人間として在り続ける為に、その種の集合体の存続を請うた為に、『世界』は誰しもに『嘘』という『加護ライセンス』を許し能えた。

 そんな『加護』に因って、そのおかげで、弥堂もまた人間として人間の社会に迎え入れられその恩恵を受けて、嘘に因ってかろうじて人間として振舞うことが出来ている。もしも人間のフリが出来なくなってしまったのなら、その時は自分はまた――

 
 きっと、自分と彼女の――弥堂 優輝と水無瀬 愛苗との差異が気にかかったのは、気に障るのは、彼女が嘘に守られながらしかし彼女自身はそれを行使せずに、それでも人間として成り立っているから。それに、その事実にきっと――


――弥堂 優輝は劣等感を感じているのだろう。



 彼女のことはわからない。自分以外の他のモノのことは何一つわからない。

 だけど、それでも。

 彼女は、弥堂 優輝とも、ここに居る他の総ての者とも、ここに居ない総ての誰かとも、水無瀬 愛苗は違うモノだと。それだけは弥堂 優輝にはわかった。



 その頃、散々巻き込まれ掻き回された挙句に置き去りにされた他の方々は、二人の様子を固唾を飲んで見守っていた。

「びっ……びっくりしたぁ……キスするのかと思ったぁ」
「また突然何か始まったと思ったら完全に二人の世界だもんねー……」
「でもちょっとあこがれるー……けど弥堂かぁ……」
「弥堂ねぇ……顏は悪くないんだけど、せめてなんというかもうちょっとだけ人間味が備われば……」
「てかさぁ、あの流れるような変形顎クイ見たぁ? あいつ結構慣れてるのかな?」
「抜かずに3発ってマジなのかなー?」
「ねーねーてかさー、あの二人ってやっぱ付き合ってんの?」
「いやーそりゃないっしょー。そういう感じじゃなくない?」
「えーでも水無瀬ちゃん全然抵抗しないっていうか、なんかもうどうぞ召し上がれ体勢じゃなかったぁ?」
「でも弥堂よー?」
「でもでも、こうして見るとちょっと犯罪臭いけど意外とアリっていうかー?」
「でもでもでも! なんか今朝教室で七海とキスしてたとか聞いたよー?」
「えーー! 何その三角関係! 滾るわ」
「紅月くんも混ぜたらもう何角かわからない超絶泥沼劇よ! 燃えるわ!」

 見守っていたと思ったらそこはやはりプロフェッショナルなJK集団。傍から見たらそういう光景に見えなくもない先程の二人のやりとりにありもしない色恋の匂いを敏感に嗅ぎ取り、きゃーきゃーと所感を垂れ流す。

 しかし男子生徒たちは、幾人かはかわいい女の子のほっぺをなでなでする行為に嫉妬をし、そうでない者達はまた違った印象を抱いていた。

「そ、そうか? そんなラブちっくな光景だったかあれ?」
「ちげぇだろあれ……弥堂の眼ぇ見たか? 薬品ぶっかけたリトマス紙観察するみてぇな眼ぇしてたぞ……サイコパスかよ……」
「水無瀬さんも水無瀬さんでよくわかんねえよなぁ? …… 俺も頼めばほっぺ触らしてくれんのかな?」
「バッカお前今のご時世考えろよ。普通にセクハラだろ……てか、希咲にバレたらぶっ殺されるぞ?」

 其処彼処で思い思いの雑談が繰り広げられる。

 この私立美景台学園では、放課後は部活動や委員会の活動がない者は速やかに帰宅をすることが推奨されている。意味もなく校内に居残りをすることは罰則はないにしろ望ましくはないのだ。
 それらを正す責務を負う風紀委員である弥堂は、意味もなく校門前で立ち止まり雑談に興じる彼らを見咎めたので、注意をしようと思い立った。

「び、弥堂君……あ、あの……」

 弥堂が生徒たちに声をかけるその前に、遠慮がちに弥堂に話しかける者があった。それは水無瀬ではなく、一人の男子生徒だった。

「む?」
「カ、カメラ……そろそろ、いいですか?」
「あぁ、助かったぞ山下君。協力感謝する」

 それは捜査協力の為だと弥堂によって私物のカメラを徴収されていた写真部の山下君であった。

 高校生の彼にしてみればとても高価で大切な物であるので、心配性な彼は弥堂の捜査に同行してきていたのだ。先程危うくそのカメラが投擲武器としての使用を検討されていたことなど彼は知る由もないが、それを考慮すると彼の懸念は杞憂ではなかったと云える。

 そもそも捜査の為とは言え、風紀委員に一般生徒の私物を徴収する権限もなければ、当然一般生徒にもそれに応じる義務もない。しかしアーティストである山下君は日頃、自身の芸術の探求の為に女生徒のパンチラ写真を秘密裏に撮影することをライフワークにしており、以前その犯行の現場を弥堂に抑えられたことがあって以降、それを弱みとして握られ事あるごとに脅迫され、彼の子飼いとして便利に使われていた。

 弥堂はこの『希咲 七海おぱんつ撮影事件』を捜査するにあたって、放課後になるとまずパンチラ写真のアーティストを自称する山下君の元を訪れ、尋問という形で専門家である彼の忌憚のない意見を伺っていた。
 どうやら今回のこれは彼の作品ではないようだったので、こうしてカメラを奪い検証の為に現場に訪れた。大事なカメラを壊されてはかなわないと山下君は弥堂に同行をし、そしてそこに水無瀬が現れ先程の騒ぎに発展をしたという流れである。
 ちなみに弥堂に対して敬語を使っているが、彼は弥堂や水無瀬の上級生、つまり今年大学受験を控えた高校三年生となる。


「そ、それじゃあ僕はこれで……失礼します」

 弥堂からカメラを受け取った山下君はサッと彼から隠すようにそのカメラを腹に抱くとこの場を辞そうとするが、一歩踏み出そうとしたところで弥堂の隣に居る水無瀬と目が合う。

「み、水無瀬さん、どうもありがとうございました」
「え? どういたしまし……え? 何でお礼?」

 水無瀬の方へと姿勢を正しカメラを持ち直すと両の手を身体の脇に伸ばし、先言後礼で首と背筋は真っ直ぐ伸ばしたまま頭を下げ、45度腰を折り曲げた姿勢で山下君は感謝の意を示した。最敬礼だ。自身に表せる最大限の敬意を彼は水無瀬へと示した。

「あ、あの、持ち合わせがなくて、少ないですけどこれ……」

 続けて彼は何やら懐を探ると、決して自分の手が水無瀬の手には直接触れることがないように留意しながら慎重に、その取り出したものを戸惑う彼女へと手渡した。

「な、なんですかこれ……って! 二千円⁉ お金⁉ なんでぇ⁉」

 自身の手に握らされた物の正体を確認して、チャームポイントの両のおさげをぴょこんと跳ねさせながら愛苗ちゃんはびっくり仰天した。

 ちなみに山下君はパンチラ撮影の専門家だが、先程の催眠状態の水無瀬に「お兄ちゃんごめんなさい」と言わせていた人物でもあり、どうやら妹というものに対しても彼は芸術的に深い探求心があるようだった。そして、安易に卑猥な言葉を言わせたり、大好きなどと言わせるでもなく、過失もないのに謝罪の言葉を要求するあたりに彼の芸術性に業の深さが伺い知れた。

 水無瀬は突然渡されたくしゃくしゃに丸められた日本銀行券をどうしていいかわからずに自分の手の中のそれと、それを渡してきた山下君と、そして何故か弥堂の方にもと忙しなく視線を周す。

「気にするな」

 弥堂は決して彼女と視線は合わせずに短くそう伝えた。

 そうは言われても、極めて一般的な価値観を持ったご両親に育てられたよいこの愛苗ちゃんとしてはそんなわけにもいかず、「では……」と足早にこの場を去ろうとする山下君にお金を返すべく取り縋る。

「あ、あの!  困ります! こんなのもらえないです!」
「い、いえ、そんなわけにはいきません。困ります。お納めください」
「だからなんでぇ⁉ で、でも、そんなのお母さんに怒られちゃいますっ」
「そ、そんな、まさか……無料でいいとおっしゃるのですか⁉」
「無料ってなにがぁっ⁉」

 お互い譲らず金を押し付け合う。やがて困り果てた水無瀬は弥堂へと懇願するように視線を向けた。

 本心では無視したかったが、このまま何故金を渡されたかを彼女に知らされるわけにもいかない弥堂は、短く息を吐くと二人の方へと踏み出した。


 水無瀬の手からサッと金を掠め、山下君の顎の下からガっと親指と人差し指で頬を挟んで口を開けさせ、その口の中にゴっと金を捻じ込んだ。

「おい」

 そのまま彼の目を見下ろす。

「今日お前は俺と水無瀬には会わなかった。ここには来なかった。何も見なかった。――そうだな?」

 秒でビビりあがった山下君は金を捻じ込まれた口の端から唾液を漏らしながら必死に首をガクガクと縦に振った。

「よし、行け」

 弥堂に放り捨てられるように解放された山下君は転倒しそうになるが、どうにか不格好にバランスを持ち直し、弥堂と水無瀬にヘコヘコと卑屈に頭を下げると走り出した。

 しかし、あることを思い出した弥堂は彼の背中へ声をかけた。

「おい、帰り道には気を付けることだな」

「なっ、なんでですか⁉ 僕は誰にも会わなかった、ここに居なかった、何も見てません! あのことだって誰にも言いませんし言ってません‼ 本当だ! 信じてくれ‼」

 急ブレーキをかけた山下君は反転し涙ながらに助命を嘆願した。

 今週の風紀委員会では『下校時の声かけ週間』のキャンペーンが行われている。生徒達に下校時の安全を意識させる為に、「気を付けて帰ってね」と声をかける行事だ。
 当然風紀委員の弥堂としてはそれに従って山下君の無事な帰宅を願い、そして彼自身にも安全に留意するよう促しただけであった。

「黙れ。さっさと失せろ」
「ヒィっ」

 風紀委員の弥堂は生徒を速やかに安全な帰路に着かせるべく、山下君の尻をガっと蹴り上げた。暴力によって安全な帰宅を促された生徒は「殺さないで……殺さないで……」と呟きながらしかし決して振り返らずに下校を開始した。

 職務上の善意と責任から言葉をかけたのだが、何故か彼は殺害予告と受け取ったようだった。弥堂は己の職務の難しさと己の未熟さを憂い、しかし、より徹底して真剣に意識高く仕事に取り組むことで自身の成長に繋げることを誓った。

「おい、見たかよ。今の流れるような変形顎クイからの脅迫。野郎、完全に手馴れてやがるぜ」
「そろそろ風紀のあいつを取り締まるための風紀委員会が必要だろ。てか何でクビになんねぇんだよ」

 公権によって管理されることで生かされている愚かな民衆は愚かであり、当然その愚かな口から出る言葉も例外なく愚かで聞く価値がないので弥堂は耳を閉ざした。


 ふと、横に目を遣ると水無瀬がじぃーっとこちらを見ていた。

「……気にするな」

 弥堂は決して彼女と目は合わせずに、短くそう言った。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

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小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
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「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

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フルーツパフェ
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