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序章 俺は普通の高校生なので。

序章10 善意の洞

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「――やはり角度が合わないか」

 弥堂 優輝びとう  ゆうきは学園正門前から伸びる並木道の、桜の木の上で望遠カメラを構えていた。


 放課後の時間を利用して『希咲 七海きさき ななみおぱんつ撮影事件』の現場検証を行っている。

 本日の放課後は風紀委員会の見廻り当番のシフトに組み込まれているのだが、この『希咲 七海おぱんつ撮影事件』はまだ同委員会には報告をしていないのであくまで弥堂個人での非公式の調査となる。

 そのため正門付近の見廻りという名目でこの場に来ていた。


 正門付近から2年B組の教室内を撮影できるポイントはないかという検証で、高さを合わせるために木に登り、写真部から捜査の為にと強制的に徴収してきた望遠カメラを校舎二階相当の高さの何ヶ所かの枝から構えてみたのだが、Y'sワイズから送られてきた画像のようなアングルの再現は出来ないでいた。

 どうやら敷地内の高所からでは不可能なようだ。


(敷地の外でもそれは同じように思える……やはりドローンか、それとも――)

 遠距離狙撃か。

 狙撃銃とやらの有効射程距離というものがどの程度のものなのか弥堂は寡聞にして知らないが、もしも数㎞ほど先の距離からでも狙うことが可能なのであれば敷地外も捜査するべきなのかもしれない。

 頭の中で捜査の順序を組み立てていく。ドローンの線と外部からの狙撃の線、この二つを同時に調べていく必要がある。

 ドローンの方は警備部に乗り込んで撮影データの開示を要求したい所だが、今の所は風紀委員として公式に行っている捜査ではないのでそれは難しい。
 それに警備部の中の誰かが、もしくは警備部自体がクロだった場合はこちらの身が危険になる。まずは警備員を何人か攫って尋問をしてみるべきか……どちらにせよこれは今日すぐには行動に移すのは厳しいだろう。準備が要る。

 次に狙撃の線だが、これについては専門知識がないのでとられる手段が大分限られてくる。
 せいぜいが帰り道でついでに狙撃が可能だと思われる地点を捜す程度か。それと問題になるのが、『一体誰を狙ったものなのか』という点だ。
 クラスメイト達の中で生命を狙われる覚えがある者がいるか調べる必要がある。

 自身にも後ろ暗い事情がたっぷりとある弥堂には、大人や警察に相談をするという方針は選択肢に浮かび上がることすらなかった。

 現在はもう放課後だ。今からすぐに全員を調べることは難しいだろう。
 今日これから出来ることがあるとすれば、風紀委員の見廻り業務を行いつつ、見かけたクラスメイトがいれば都度聞き取りをしていく程度か。


「びっ、弥堂くんっ‼ 何してるの⁉」

「む?」

 ちょうど自らの行動プランがまとまったところで声がかかる。


 現在は桜の木の枝の上だ。眼下の正門から昇降口へと伸びる並木道へと目を向けてみれば、木上の自分を見上げる形で幾人かの生徒達が騒ついていた。

 無理もない。本人には一切の自覚がないが、木に登りやたらとごつい望遠レンズなどをとりつけた物々しいカメラを構え、校舎へと鋭い視線を向けているその姿は、客観的に見れば言い訳のしようもなくただの盗撮犯であった。

 声をかけてきたのは水無瀬 愛苗みなせ まなだった。木の下で騒ついている生徒達に紛れやたらと血相を変えた様子で声を張り上げてくる。

「あ、あぶないよ弥堂くんっ! そんなところ登っちゃだめなんだよ!」

「ちぃっ」

 弥堂は舌打ちをした。

 下に数人集まっていることには気が付いていたが、わざわざ自分に声をかけてくる者などいないだろうと決めつけ、特に気にせず無視をしていた為に最も厄介な者の接近を許してしまった。

「舌打ちされた⁉」と、心配して声をかけたのにも関わらず、その相手にあんまりにもあんまりなリアクションをされ、まるで頭上にでっかく『が~ん』とでも文字が浮かび上がった様が幻視できそうなほどショックを受ける水無瀬を尻目に、弥堂は周囲の状況を確認した。

 自分が現在登っている桜の木の周辺だけではなく、校舎と正門をつなぐ並木道にも全体的に下校のために通行をする生徒たちが増えてきていた。どうやら大分時間が経過して下校のピーク時間となっているようだった。

「――潮時か」

 これ以上注目を集めて騒ぎになるわけにもいかない。
 満足するような情報は何も得られなかったが、騒ぎを聞きつけられて他の風紀委員や警備部に見つかっても面倒だ。
 弥堂は調査を打ち切ることにした。


「弥堂くんっ、弥堂くんってば!」

 眼下からはまた水無瀬の喧しい声が呼びかけてくる。

「なんだ、水無瀬」

 下手に無視をして騒がれても面白くない為、弥堂は簡潔に返事をかえした。

「は、早く降りなきゃ危ないよ! このままじゃ落ちちゃうかも…………え⁉ 落ちちゃう? 落ちちゃうのっ⁉ あわわわわ、大変だぁ――」

「おい、落ち着け」

 自分で自分の言葉にパニックになっていく水無瀬の様子に弥堂は一抹の不安を覚えた。

「もっもももももしかして降りられなくなっちゃったの⁉ 公園とかにいる猫さんみたいに!」

「馬鹿にしてんのかお前」

 一度この少女には自分のことを何だと思っているのか厳しく問い詰めたい、弥堂はそういった衝動に駆られた。

「どっどどどどうしよう! どうしよう? …………はしご? ……はしごとか――ダメ。どこにあるかわかんない‼ ……あっ、そうだ! 体操マット! 体操マットなら――」

「待て水無瀬。おかしなことは考えるな」

「あのっ! この中で誰か手伝ってくれる人はいませんか⁉ 体操マットをここまで運ぶのを手伝って欲しいんです!」

「水無瀬よせっ! 余計なことはするな!」

 もはや弥堂の声など聞こえていない様子で、即断即決し周囲の野次馬から協力者を募りだす水無瀬に思わずこちらの語気も上がる。弥堂はここに至り、突如として自分が窮地に追いやられようとしていることを察した。
 静観して状況が好転することは決してないであろう。水無瀬を説得するべく慎重に声をかける。

「いいか、水無瀬。聞いてくれ。俺はだいじょう――」
「――大丈夫だからね弥堂くんっ! 私に任せて。落ち着いてじっとしててね! 絶対に助けてあげるからねっ」
「聞けよてめぇ」

 弥堂を不安にさせないようにとの配慮なのだろう。彼女も慌てているだろうにも関わらず、健気にも優しい笑顔を向けてくれる。しかしそれが弥堂を激しく苛立たせた。


 ちなみに今この時が、二人が出会って一年ほどであるが、常は受動的に言葉を返すだけであった弥堂から水無瀬へと、正真正銘初めて自発的に話しかけた瞬間であった。
 しかし弥堂 優輝の声も言葉も真意も彼女へと届くことはなく、無情にもその事実に水無瀬 愛苗が気付くことはなかった。


「あの、あなたC組の金子さんだよね? えへへ……私、B組の水無瀬 愛苗です。あのね? これから私、体育館に行ってマットをとってくるからその間ね? 弥堂くんが落ちちゃわないように見ててあげてほしいの」
「は? え?……あ、はい」

 周囲の野次馬の中から目敏く名前を知っている顔を見つけた水無瀬はその女生徒の手をやんわりと取り、彼女の顔を見上げるとその目を見つめて真摯に懇願した。

 C組の金子さんは下校の通りすがりに人が集まっているのを見つけ、何の騒ぎだろうと軽い気持ちで覗いてみただけであったのだが、この場の状況には全くついていけていないにも関わらず、人のいい彼女は思わず流れで承諾してしまった。

「いきなりごめんね、ありがとう……あとねあとね? 弥堂くんが怖くて泣いちゃわないように励ましててあげてほしいの。お願いできる?」
「えっ⁉」

 了承した途端に重ねられた無茶ぶりに激しく動揺しながら、金子さんは「はげ……ま……す……?」と木の上の要救助者へと目を向けた。

 すると人の生命など塵芥にも等しいとでも思っているに違いない、血も涙もない殺し屋のような冷酷な眼と視線が合い、通りすがりに巻き込まれてしまった憐れな女生徒は「ひっ」と短く悲鳴をあげた。
 
 元から鋭く無機質な眼をしている弥堂ではあるが、着実に悪くなっていくこの場の状況に普段よりも何割か増しで視線を険しくさせていた。
 
 要救助者が怖くて泣いちゃわないように励ます係の金子さんが怖くて泣いちゃったのだが、既に他の野次馬に助力を求めて声をかけている水無瀬さんがそれに気付くことはなかった。

「それじゃあ、私は急いで体育館に向います! もしも手伝ってくれるって人がいたらどうか追いかけて来てくださいっ! 大したお礼はできないけど、私にできることならなんでもしますから、どうか弥堂くんを助けてあげてくださいっ」

「ん?」
「いま?」
「なんでもって?」

 集まった野次馬たちの前に立ち丁寧にペコリとおじぎをしてお願いしつつ、元気いっぱいに声を張り上げる水無瀬の勢いにか、彼女が振りまくお花畑な雰囲気につられたのか、何人かは彼女の手伝いを申し出そうな勢いだ。若干数名は邪な思惑を抱いていそうだが。

 ご両親の教育がよかったのだろう、『良いこと』、『正しいこと』をしようと無責任に声をあげるだけではなく、自ら率先して行動を起こし、自身はその行動の結果なんの報酬も得られないであろうにも関わらず、自分の身を切ってまで協力者には報いようと、そこまでして『人助け』をしようと、水無瀬さん家の愛苗ちゃんはやさしくりっぱなお子さんに育っていた。

 そしてその善意が確実に弥堂を追い詰めていく。


(――なんなんだこいつは)

 理解不能な存在と状況への苛立ちに弥堂 優輝びとう ゆうきは、ぐしゃっと自身の前髪を掴む。

 
 普段はどんくさく、何事ももたもたとしてはドジを踏み、へらへらしている水無瀬 愛苗みなせ まなが。
 この緊急時――とは彼女が勝手に思い込んでいるだけだが――に於いては、その普段の姿が嘘だったかのように状況をまとめあげていく。

 擬態だったのか?――違う。
 それともわざとこちらを追い込んでいるのか?――違う。

 そのようには見えない。視えない。

 これは善意なのだ。
 100%、他の何一つをすら混入することのない、純血で純潔なる善たる意志を以て水無瀬 愛苗は行動しているのだ。
 そうとしか見えない。

 見えない。見えない。視ているのに視えない。
 

 これまで数多の悪意と戦ってきた。
 数多の悪意の中で生き抜いてきた。

 そんな道を歩んできた弥堂 優輝を以てしても、純粋なる善意により窮地に追いやられるなどという状況は完全に想像の埒外だった。


 このまま水無瀬を体育館に辿りつかせたらどうなる?

 体操マットが収容されている体育倉庫は通常施錠されている。その鍵の管理をしているのは体育教師の箕輪という男性教員だ。奴はサバイバル部と風紀委員会を、その中でも特に弥堂を目の敵にしている。当然だ。彼が顧問をしていた空手部を潰してやったのは弥堂だからだ。

 水無瀬が箕輪の元へ行き、倉庫の鍵を借りる為に事情を説明すれば、あの男は嬉々として水無瀬を手伝いこの現場にまで着いてくるであろう。
 そうなってしまえば弥堂が今週中に提出しなければならない反省文が一つ増えるであろうことは考えるまでもないことだ。

 そしてそれだけならばまだしも、弥堂個人だけでなくサバイバル部や風紀委員会への追及をする機会を与える口実にもなりかねない。さらにはもっと最悪、木の上で校舎へとカメラを向けていた弥堂の所持品を検められ、万が一スマホの中の『希咲 七海きさき ななみおぱんつ画像』が発見されれば――

 当然それは許容を出来ることではない。


 弥堂は手に持った望遠カメラの重さと感触を確かめた。

 この色々と立派なカメラを、あそこにいる“前頭前野お花満開娘”の後頭部に直撃させれば奴を仕留めることが出来るであろうか。

(――NOだ。目撃者が多すぎる)

 こうしている間にも、愛苗ちゃんの一所懸命ながんばりにより続々と野次馬が増えている。いくらなんでもこの人数の口を短時間で全て封じるのは不可能だ。

 状況は予断を許さず刻一刻と着実に弥堂を破滅へと向かわせている。

 弥堂は軽く両の瞼を閉じると天を仰いだ。


 久しぶりの感覚であった。

 久方振りの窮地。久方振りの絶望。

 圧倒的に不利な状況下で孤立無援。

 しかしそんな戦況の中に於いて、むしろそんな環境の中でこそ弥堂の心の置き場所は定まる。
 例え生存までの道筋が一筋たりとて見えなかろうとも、思考を止めることも、行動を止めることもありえない。
 弥堂 優輝というモノはそのようには出来てはいない。

 弥堂 優輝は目を開ける。


 目標を見定める。

 下腹に威を籠め、今にも体育館へ向けて『よ~いどん』しそうな水無瀬の背に向けて発する。


「――水無瀬っっっ‼」

「ひゃいぃぃぃっ‼」

 元気いっぱいに走り出そうとしていた水無瀬はピシっと気を付けをして直立不動の姿勢となる。周囲の野次馬たちの騒めきも止んで、まるで大型獣に吠えられた獲物のように誰もが硬直していた。

 低い音、低い声音。
 怒鳴りたてるわけではなくただ適確に空間を振動させ対象に威を徹す。

 やったことと謂えば単純に大声で驚かせただけだ。少しだけ特殊な呼吸の仕方と発声の仕方が必要とはなるが、相手を所謂『気に当てられる』という状態にする技法だ。

 弥堂に『これ』を仕込んだ女は戦闘中に於いても相手を硬直させ崩しに使うほどの“業”にまで昇華させていたが、弥堂にはそこまでの習得は出来なかった。しかし、何かしらの訓練を受けているわけでもない一般人を短時間無力化する程度の芸当は彼にも出来た。気の弱い金子さんなどは腰を抜かしてしまっている。

 弥堂 優輝にとっては師とも云えるような存在でもあったその女に云わせれば、弥堂には決定的に才能が足りなく、一つとして業を極めることは出来ないであろうが、しかし長年修練を積めば彼女に近いレベルに達することも或いは可能ではあるかもしれないとのことであった。
 つまり見込みなしという意味なのだが、ついぞ弥堂を見限ることが出来なかった彼女は、はっきりそうとは言ってくれなかった。

 だが、いつ実用に足るようになるかわからないようなものに注力する気概は弥堂にはなく、もしも現在の弥堂が彼女と同じようなことがしたいと考えたのならば、気の遠くなる訓練をするよりもスタングレネードの入手ルートを捜すだろう。その方がはるかに効率がいい。

『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できる戦力以外には弥堂は価値を見出さない。以前にそれを伝えた時の彼女の大きく失望した顔が頭に過った。それでも弥堂を見限れなかったことが彼女の数少ない欠点であり、そして最大の過ちであったように今では思えた。

 弥堂は意識して女のことを頭から振り払った。

 続けてこれもまた彼女に教わった技術を行使するべく、いまだ硬直したままの水無瀬の背に声をかける。


「水無瀬」

「は、はいっ!」

 萎縮し、硬直したままの彼女に努めて穏やかにゆっくりと話しかける。

「ゆっくりでいい。俺の言葉を落ち着いて聞け。まずは何も考えずにゆっくりと浅く息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出すんだ。それを3回繰り返せ。ゆっくりだぞ?」

「すぅーはぁー、すぅーはぁー、すぅーはぁー」

 素直なよいこの愛苗ちゃんはとりあえず言う通りにした。


「よし。よく出来たな。えらいぞ。そうしたら今度は深く息を吸って吐きながらこっちを向け。これもゆっくりだぞ。できるな?」

「――えらい……わたし、えらい……すぅーーーー」

 弥堂らしからぬ丁寧な口調で褒められてよくわからないけど嬉しくなった愛苗ちゃんは追従する。

「――よーし、上手に振り向けたな、いいぞ。呼吸も上手にできていい子だ。そのまま呼吸を繰り返しながら次は俺の手を見るんだ。左手だ。そう。見えたな。えらいぞ。指が何本見える?……そう5本だ。よくわかったじゃないか。キミはすごいな」
「……すぅーーはぁーー、すぅーーはぁーー……」

 弥堂は目を細め、注意深く被験者の様子を見定めながら工程を進めた。

「水無瀬。そのまま俺の手を見ていろ。おっと、呼吸を忘れるな? うむ、えらいぞ。では指を減らしていくぞ……今俺の指は何本立っている?……すごいぞ、正解だ。1本だ。キミは賢いな。よし、この1本の指の先端から目を離すなよ。水無瀬はいい子だな。とても上手だ」
「……えらい……わたし……すごい……わたし……かしこい……わたし……いいこ……わたし……じょうず……」

 順調に受け答えがおかしくなっていく水無瀬の様子に、弥堂によって硬直させられてから多少正常を取り戻してきた野次馬たちが騒めく。

「お、おい……なんだ? これ、なんだ? 俺たちは何を見せられてるんだ?」
「なぁ……俺こんな胡散臭いもの初めて見たんだけど……え? まさか催眠術とかじゃないよな? そんなわけないよな?」

「ね、ねぇ……あの子なんか目がとろんってなってきてない? 大丈夫なのこれ?」
「絶対やばいよ……警備員さんか風紀委員呼んできた方がよくない?」

 今まさに木の上に登りながら怪しげな儀式を学園の玄関口たる正門前で行っているこの者こそが、残念ながらこの美景台学園の風紀を守るべく活動を行う風紀委員なのだが、目の前のやばすぎる絵面が彼ら彼女らにその事実を失念させた。

「いい調子だ。卓越したパフォーマンスだぞ。次は上下だ……いいぞ水無瀬、キミはスーパーだ」
「……みぎぃ~ひだりぃ~……すぅ~はぁ~……わたし~すぅ~ぱぁ~……うえぇ~したぁ~……すぅ~ぱぁ~……」

 左右に上下にとゆっくり動かされる弥堂の指先を見つめ、彼に言われた通りに深呼吸を繰り返しながらその動きに合わせて首を動かす。そんな水無瀬の様子に頃合いと診て弥堂は段階を進めた。


「よし、いいぞ。では呼吸は続けたまま今度は俺の言葉を復唱するんだ。復唱とは確認のために言われた内容を自分も繰り返して唱えることだ。わかるか?……そうか、わかるのか。キミは天才なんじゃないのか」
「……てんさい……すぅ~ぱぁ~……わたし……すぅ~ぱぁ~てんさい……」

 どうやら愛苗ちゃんは『スーパー』がお気に召したようで、息を吸って吐く動作とともに発せられるスーパー天才・水無瀬 愛苗の呼吸音がスーパーになった。
 虚ろな目で『すぅ~ぱぁ~』『すぅ~ぱぁ~』している水無瀬に弥堂は続けた。

「私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「わたしはみなせまなです。ななみちゃんではありません」
「復唱は正確に行え。私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「ふくしょうはせいかくに……わたしはみなせまなです。きさきななみではありません」
「よしいい子だ」

 虚ろな目で棒読み口調で自分の言葉を反芻するクラスメイトの女子の様子に弥堂は満足げに頷いた。


「どうすんだよこれ。一気に犯罪臭さが加速したぞ」
「え? さすがにネタでしょ?……こんなことってある?」
「ねぇ、大人のひと呼んで来ようよ……」
「いや待て。この後どうなるのか若干興味がある。もう少し様子見ようぜ」

 周囲の皆さんの戸惑いを他所に状況は進んでいく。

「よしいいこだ」
「おい、それは復唱しなくていい」
「おい、それはふくしょーしなくていい」 
「聞けよてめぇ」
「きけよてめー」
「どういうことだ」
「どーいうことだ」

 想定していたものとは違う挙動を見せる実験動物を弥堂は訝しんだ。


「おい! 本当に大丈夫か!? このまま様子見てていいのかこれ」
「私いやよ! 犯罪発生の現場に立ち会うとか!」
「でもよ……へへっ、なんかいいな……あの水無瀬さんの口から汚い言葉が聞けるなんて……」
「は? きもいんだけど」

 騒然となっていく周囲の様子を鑑みて、多少想定とは違うものの、時間がないと判断し弥堂はこのまま進めることを選んだ。


「私、水無瀬  愛苗は放課後に弥堂  優輝には会いませんでした」
「わたし、みなせまなはほーかごにびとーゆーきにはあいませんでした」
「よし」
「よし」

 概ね目論み通りに暗示がかかっていると判断して弥堂は手応えを感じた。

 元々は特殊な環境で特殊な薬品の使用を伴って行うものであったが、これを教えてくれた“彼女”曰く、『通常では考えられないくらい単純で思い込みが激しい者ならば条件不充分でも掛かるかもしれない』とのことであったが、どうやら今回は対象がちょっと考えられないくらいの者であったようで、期待通りに事が進みそうだ。多少思っていたのとは違う挙動も見せてはいるが弥堂はそれには目を瞑った。


「私、水無瀬 愛苗は体育館には行きません」

 こちらにとって最も致命傷と成り得る行動を止めるべく進める。――が、しかし


「わたし、みなせまなはたいいく……かん……いき…………」

「む?」

 少なくともここまで、余計なものまで含めて言葉を繰り返すことだけは完璧であった水無瀬の様子が変わる。

「……たい、いく……かん……いきま……いく……かん……いきまかん……」
「おい、水無瀬?」

「……いく……いく……いくかんいく……いきまなんみないくかんいくかん……」
「違う、行きませんだ。ちゃんと復唱しろ。私は体育館に行かない」

 不穏を感じて弥堂は語気を強めた。

「……た、いいく、かん……いかな、いく……いくいくかんいく……いきたい……」
「ダメだ、行くな。それは許可出来ない。行かないと言え」
「たいいく、だめ……いく、だめ……いかない……やだ、だめ……いく……だめ、いくいくいく……」
「くっ……なんてことだ……」

 虚ろな目で「いくいく」を連呼するマシーンと化した水無瀬を制御することが出来ずに弥堂は己の未熟を恥じた。当然周囲のみなさんはどん引きだ。

「おいこら弥堂‼ 水無瀬さんになんてこと言わせてんだてめぇっありがとうございますっ‼」
「このクソ野郎、公共の場所で突然特殊なプレイおっぱじめやがってどうもありがとうございますねェェっ⁉」
「おいこら男子ども、本音出てるぞ」

 義憤に燃える男子生徒達は激昂し、女子生徒達からの見る目は冷たい。周囲の状況は混沌となってきた。

「ふむ」

 しかし、そんな状況でも弥堂は特に気にした様子もなく、落ち着いて顎に手を当てしばし思考すると

「どうやら失敗のようだな」

 別段、固執することもなく即座に作戦の失敗を認めた。弥堂は『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できるものにしか価値を見出さないのだ。
 しかし世間様は彼ほど切り替えが早くはない。

「失敗のようだなじゃないでしょ! 弥堂あんたこれどうすんのよ!」
「お前これ弥堂これ、もとに戻せるんだろうな? 水無瀬さん完全にバグってんじゃねえか」

 極めて常識的な倫理観をお持ちの方々からご尤もなお怒りのメッセージが届けられる。この間も水無瀬は棒読みで同じ単語を連呼し続けている。そして中には――

「水無瀬ちゃん水無瀬ちゃんこっち向いて?……お姉ちゃんだいすきっ!」
「……おねーちゃんだいすき……」
「きゃーかわいいーーー!」

「水無瀬さん自分もいっすか……んんっ、くせぇんだよこの豚野郎!」
「……くせーんだよこのぶたやろー……」
「ああああありがとうございますっ‼」

「あ、あの水無瀬さん……お兄ちゃんごめんなさい」
「……おにーちゃんごめんなさい…… 」
「ありがとうございます! ありがとうございます‼」

――中には早速悪用する者たちが居て、この私立美景台学園は一般生徒と謂えどもその民度は割と最悪であった。

 野次馬たちは続々と我も我もと水無瀬の周りに集まり、思い思いの台詞を彼女に復唱させる。感極まって涙を流す者までおり、会場は大盛り上がりだ。場には異様な熱気と人々の情念が渦巻き、そしてそこにあるのは圧倒的な感謝だった。

「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」

 もはや水無瀬が復唱しているのか、水無瀬の言葉を周囲が復唱しているのかわからない状態へと陥り、感謝を伝える言葉は怒号となり学園の敷地中に響き渡りそうな勢いだ。もちろんこの場の全員が感謝の合唱に参加しているわけではなく、極めて常識的な者達にとっては侮蔑の対象なのだが、しかし世間一般的には常識的でマジョリティであってもこの場に於いてはマイノリティ側に立たされ、この差異の感覚はその者達にとってはただただ恐怖でしかなかった。

「え? ちょっとマジで怖ぇんだけど……なにこれ? カルト?」
「……私これ知ってる……うちのパパが昔勤めてた会社でさ、入社してすぐ合宿だとか言って携帯奪われて山奥の収容所に入れられて、わけわかんないセミナー受けさせられたらしいのよ。んで、自分でもよくわかんないけど最終日はこんな感じでみんなで泣きながら叫んでたって聞いたわ……えぇ、もちろんブラック企業よ」


 場は混迷を極めた。もはやこの場を収拾することはたとえ教師や警備部であっても難しいかもしれない。だが、そうであったとしてもこれを見過ごすことは出来ない者もいる。
 弥堂 優輝は風紀委員だ。校内の風紀の乱れを正す職務を担っている以上、このような学園敷地内での騒乱を認めるわけにはいかない。

 なので、速やかにこの場を鎮圧することに決めた弥堂は、慣れた動作で暴徒鎮圧用に懐に忍ばせていた爆竹を取り出すと100円ライターで素早く着火し、感謝の合唱をしている集団の手前のスペースに迷いなく放り込んだ。

 爆竹から発せられるパパパパパパーンっと乾いた破裂音により集団の感謝の合唱は止み、代わりに多数の悲鳴が上がった。

「ぱぱぱぱぱぱーん」

「おわぁっ⁉ てってててててってめぇこら弥堂こらボケェっ! やっていいことと悪いことがマジでわかんねえのかてめぇこら!」
「てめーこらびとーこらぼけー……」
「黙れこのクズどもが」
「だまれこのくずどもが」
「んだこら? 爆竹なんぞ放ってくれやがってクズはてめぇだろうが」
「んだこら……」
「俺は風紀だ。校内での騒ぎは認められない」
「元はと言えば1から10まで全部てめぇのせいだろうがあああっ‼」
「……てめーのせーだろーがー」

 見ようによってはより一層に阿鼻叫喚となったかもしれないが、ともかく多くの者がショックと怒りにより正気へと返り、儀式めいた怪しい合唱を止めることには成功した。幸い負傷者は出なかったようだが、しかし水無瀬さんの不具合は解消されなかったようだ。

「おうこらぼけ、上等な口ききやがって三下風紀がよぉ、随分チョーシくれてんじゃねぇか、えぇおい? やんならやったんぞこらぁ」
「やったんぞこらー」
「黙れ低能。貴様にやれることなど何もない。失せろ」
「だまれてーのー」
「あぁ⁉ 試してみっかぁ? てめ、 こら! ぶち殺……あ、あの、水無瀬さん? 危ないからあっちのお姉ちゃんのとこ行ってようね? ね?」
「ぶちころー」

 随分とガラの悪い生徒さんであったようだが女子供には優しいナイスガイのようで、「水無瀬ちゃんこっちこっちー」と手招きする女生徒の方へと水無瀬を促した。ただ単に意気が削がれて邪魔だっただけとも謂える。

「待て」

 しかし、弥堂はか弱い女生徒の避難を妨害した。

「あぁ?」
「迂闊にそいつに触れるな」
「んだこら? 彼氏気どりかぁ? あぁん? チョーシのんなよてめぇ」
「今からそいつを元に戻す。俺の邪魔をするな。消えろ」
「戻すって……お前ホントに戻せんのかこれ?」

 弥堂はその言葉には答えず水無瀬へと顔を向けた。必要なことはもう伝えた。これ以上邪魔をするようなら実力を以て排除するだけだ。

「水無瀬」
「みなせ」

 水無瀬の目を見つめ彼女の状態を回帰させるべく以前に教わったことを記録から引き出す。その方法を――

――方法を……方法を……方法を……

「ふむ」

 弥堂は指先で顎を撫でた。

「お、おい。どう思う?」
「怪しいぜ……なんか考え込んでるぞあいつ」

 一応は静粛にしていたが、不穏な気配を感じた野次馬たちから囁き声が上がり始める。


 そういえば――

 そういえば、弥堂にこれを教えた女が所属していた組織は過激極まる宗教団体の暗部だ。
 そもそも対象を洗脳し、必要とする情報を引き出すために主に使われた技法であったのだが……情報さえ得られればその対象はもう用済みなわけであって――


 つまりは、もとに戻す方法など存在しなかった。


「おい弥堂……お前、まさか……」

「黙れ」
「だまれ」

 だが、まぁないものは仕方ない。弥堂はもう面倒になった。

「あー、水無瀬ー。その、あれだ。俺の手を見ろ。今から指をパチンっと鳴らす。それでお前は元に戻る。もうそれでいいな?」

「ちょっと! 何よその投げやり!」
「それでいいな?ってなんだ⁉ お前ふざけてんのか、クソ野郎!」
「……くそやろー」

 周囲からは非難の嵐だが、弥堂は全てを無視してカウントを始める。カウントした方がなんかそれっぽいと思ったからだ。

「あー……3……2……1……」

 パチンと弥堂は指を鳴らした。

「――はっ⁉ 私は一体何を――⁉」
「「「「「嘘でしょ⁉⁉」」」」」

 ちょっと考えられないくらい単純で思い込みの激しい水無瀬さんは正気に返った。

 一同からの総ツッコミであったが、しかし一応は状況は事無きを得たようで、催眠時の記憶がないのか事態が掴めずにキョロキョロと辺りを見回す水無瀬の姿に人々は安堵した。
 そして不本意ではあるが一応形上は功労者である木の上の男に労いの言葉をかける。その功労者は下手人でもあるのだが。

「ははっ、なんだよ弥堂お前。出来んなら早くやれよな。マジでビビっただろ」

 朗らかに弥堂へ賛辞を贈るがしかし、当の本人はだんまりで水無瀬へと懐疑的な視線を送っていた。声をかけた男子生徒がその様子を不審に思い彼を見ていると、誰に聞かせるつもりでもなく思わずといった様子で弥堂の口から言葉が漏れた。

「――嘘だろ」

「おい!」
「マジかよ……こいつ、マジかよ……!」
「頭おかしいんじゃないの」

 今日イチどん引きした人々からの、元々最低な弥堂の好感度がさらに最小値を下に更新した瞬間であった。


 弥堂は暫く水無瀬の様子を見守っていたが、信じ難いことではあるがどうやら本当に回復しているようで、施術者としてはそうなる理由は一つたりとも思いつかなかったが、だがしかし、いくら理屈を後付けしたところで今目の前で起こっている事象以上の説得力を持たせることは不可能であるし、それを超え覆すような理論を考えることも不毛だ。弥堂はこれはもうそういうものなのだと割り切った。

「水無瀬」
「え――あ! 弥堂くんっ!――そうだ……私すぐに――」
「それはもういい。動くな、喋るな、考えるな。そっちのお姉ちゃんの所に行っていろ」

 弥堂に気が付き、水無瀬は自分が何をしようとしていたのか思い出したのだろう、すぐにまた慌てだしそうになるが、弥堂は機先を制しそれを止めた。

「で、でも……ど、どうしたら……」
「どうもこうもない。飛び降りる」
「飛び降りって……え⁉」

 弥堂が現在居る木の枝は校舎二階フロアに相当する高さだ。本人は簡単に言ってはいるが飛び降りるとなるとそれなりに危険を伴う高さとなる。

 水無瀬は「あわわわわ……どうしようどうしよう」と焦って辺りを見回すと「水無瀬ちゃんおいでー」と両手を拡げて呼びかける上級生のお姉さんが目に入った。それに何か閃きを得たのだろう、彼女が何か思いついた時に周囲の者に幻視させるお花をピコンっと頭に一本咲かせた。

「ど、どうぞっ‼」

 木の上の弥堂に向って両腕を拡げて伸ばすとぎゅっと目を瞑った。

「……何の真似だ……」

 またしても理解不能な仕草を見せた被験者に弥堂は再度不審な視線を送った。

「うっ、受け止めますっ! どうぞ‼」
「どうぞじゃないが?」

 目は瞑ったままでしかし、気概は十分だというアピールで水無瀬は再度その短い両腕をバっと拡げた。

「……受け止めるって……お前な……」

 弥堂は身長178㎝、体重は70㎏近くある。対して受け止める側の水無瀬は小柄で、150㎝にも満たない身長に体重もどう見ても50㎏はない。せいぜい40㎏あればいい方であろう。
 男子の中でも高身長な部類の弥堂を女子の中でも小柄な水無瀬が受け止める。誰がどう考えても無理だった。

「私こう見えてもけっこう力もちだから遠慮しないでっ、どうぞっ!」

 弥堂の疑心を掃うように水無瀬は「ふんっふんっ」と鼻息荒く気合を見せた。

 弥堂はそれに「はぁ――」と溜め息を一つ。

 そもそも水無瀬の立ち位置は弥堂の居る桜の木から5mほど離れている。助走もなしにそこまで飛べというのかと呆れを滲ませつつ、しかしその方が今は都合がいいと「いいか? 絶対に動くなよ」と短く警告を発し、何の予備動作も覚悟もなく落下した。

 急速に高度の変わる視界の中で、「ひょわあぁっ」と奇声をあげる水無瀬が自身の着地点に突っ込んでくるようなことがないと確認し、特に何事もなく両の足で着地をした。

 着地の瞬間『タタッタタッタタッターン』と高速で乾いた音が鳴る。

 その音に周囲の者達は驚き、また水無瀬も、彼女の鈍い反射神経と運動能力なりに遅れて弥堂を受け止めるべく一歩だけ踏み出していた体勢で固まった。
 口をぽかーんと開きながらその大きく丸い目で茫然と弥堂を見ていたが、数瞬で我を取り戻すとわたわたと弥堂に走り寄り、目の前でしゃがみこんだ。

 それを訝しんだ弥堂は、害はないだろうとは思うがしかし、何かおかしな動きを見せれば即座に膝蹴りを叩き込めるよう重心を調整し様子を見る。すると水無瀬は人差し指で恐る恐る弥堂の膝をチョンチョンっとつつき、次いで脹脛や腿をペタペタと触わると、遂には何やら揉み解し始めた。

「…………何をしている?」

 弥堂は努めて冷静に尋ねた。

「だ、だいじょうぶ? 足じぃーーんってなってない?」

 心底から案じているのだろうとわかるほどに、瞳に心配の色を滲ませこちらを見上げてくる彼女に頭を抱えたくなる。
 弥堂からしてみればバカにしているのかと感じられるが、しかし先程までと同様にこれもまた総て彼女の善意なのだろう。

 疲労感を吐き出すように弥堂は短く息を吐き、未だ自分の足に謎のマッサージを施す水無瀬の眼前に左手を差し出した。

 目の前に差し出された手の意図がわからず、水無瀬は首をかしげ少しだけ考えると、弥堂のその手を両手でハシっと捕まえ、なにやらにぎにぎし始めた。

 別に手をマッサージしろという意図を込めたつもりのない弥堂が彼女に「違う。両手でしっかり摑まっていろ」と伝えると、水無瀬はようやく意図を察し、その大きな両の瞳をキラキラと輝かさせると彼の左手を両手でしっかりと握った。

 それを確認した弥堂は――出来れば安全の為に彼女の手首を握りたかったので掌を握るのはやめて欲しかったのだが――特に力を入れることもなく彼女の軽い身体を引っ張り上げた。

 それほど強く引っ張ったつもりは弥堂にはなかったが、運動神経の乏しい水無瀬は立ち上がった瞬間にトトっとバランスを崩してよろけると弥堂の方へ倒れこみそうになる。
 それを弥堂は彼女の肩を右手で軽く抑えることで支えてやる。

「えへへ……ありがとう」と照れ隠しに笑いながら礼を言う彼女がしっかりと立っていることを確認すると、弥堂はすぐに彼女から両手を離した。

 それでも、何が楽しいのかわからないがそのままニコニコとしながら自分に顔を向け続けている彼女の――水無瀬  愛苗の顏を見ていると、彼は――弥堂  優輝は何か言い知れない不思議な感覚に囚われた。

 先程までここで起きていた騒動は事態が収拾したのかどうかさえ、もはやよくわからなかった。そもそも自分はここで何をしていて、何をしに来ていたのかさえ忘れそうになる。締まりが悪く、締まりがなく、全くを以て冗長が極まって、段取りもなければ結もない。要はグダグダすぎた。

 彼女に付き合っているとしばしば、こういった不思議な脱力感に苛まれる。弥堂があまり経験のしたことのない、彼には言語化の出来ない徒労感や諦観に似たナニカ。

 弥堂にはそれが何なのかわからなかった。

 そして、こういった無駄を最も嫌うはずの自分がそれほどには不快になっていないことに、弥堂 優輝は気が付いてはいなかった。
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