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1巻
1-3
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水科は無言のまま目を閉じていた。両手をポケットに入れ、吹いてくる風を一身に受け続けている。普段の愛想のいい水科篤樹は、そこにはいない。物憂げで、どこか傷ついているような、儚い雰囲気を漂わせている。
彼に声をかけられず、依里佳はしばらくその場に立ち尽くしていた。そしてハッと我に返り、そのまま立ち去ろうと後ずさりをした途端、水科がこちらの動きに気づいた。
「蓮見さん?」
「……あ、ご、ごめんね、邪魔しちゃって。み、水科くんがいるなんて、思わなかったから!」
(決して後をつけて来たわけじゃないから! ストーカーじゃないから! 偶然だから!)
そう大声でさけびたかったが、かえって言い訳がましくなりそうな気がしてやめておいた。
「――あ……っと、お邪魔だから、私、行くね?」
「気を遣わなくても大丈夫ですよ、蓮見さん」
きびすを返そうとすると、水科に呼び止められた。
「蓮見さんもストレス解消に来たんですか? ここ、いいですよね。誰も来なくて」
風を浴びながら水科が笑う。その表情は、やっぱりいつもの笑顔とは違っていた。昨日の駅で見た表情とも異なる、無色透明な笑みだ。
(疲れてる……のかな)
「水科くんも、ストレス溜まるんだね」
少し失礼かな、とも思ったが、尋ねてみた。
「そりゃあ、俺も人間ですから。……っていうか、愛想よくし続けるのも、実はちょっと疲れるんですよね。……きっと蓮見さんなら、こういうの分かってくれると思うんですけど」
「そう……だね」
水科の言いたいことが痛いほど分かった。おそらく彼は普段、愛想のいい水科篤樹を演じているのだろう。そうするには何らかの理由があると思うのだが、さすがにそこまで踏み込むわけにはいかない。
依里佳も昔は器に見合う自分を演じようとしたことがあったから――どうしたって無理だと分かったので、結局やめてしまったけれど。
「でも、半ばクセみたいになっちゃってるんで、今さらやめられないんですけどね。だから時々、ここで風と日光に当たってストレス解消してるんです」
「水科くんは、どうやって屋上に入ってきたの?」
依里佳と同じルートから来た形跡がない以上、他にも辿り着く方法があるはずだ。水科はどうやって屋上まで来ているのか、気になった。
「これです、これ」
水科は首から下げていたIDカードケースを裏返しにして、振ってみせる。そこには、一本の鍵が入っていた。
「鍵……? それって、屋上の?」
「そうです。……入手ルートは内緒、ですけど」
肩をすくめながら、水科が悪戯っぽく笑った。
「本来の、正規の通路から来てる、ってことなのね」
『――ねぇねぇ知ってる? 企画一課の水科くんがうちの持株会社の社長の息子だって噂があるの』
依里佳はふと、先ほど女子社員が話していたことを思い出す。
もしかしたら、それは案外当たらずとも遠からずで、そのコネで鍵を入手したのだろうか――ほんの少しだけ、そう考えてしまった。
(だめだってば! 下手な噂は信じちゃいけないんだから)
心の中で自分を戒める。
依里佳自身、根も葉もない噂で悩まされることが多いので、そういった根拠のない話は信じない、信じてはいけないと、常に自分に言い聞かせていた。
「昨日から、蓮見さんと俺、縁がありますね」
「そ、そうだね。偶然が続いちゃったね!」
確かにここ二日間、水科と遭遇する機会が多かった。今まであまり接触がなかったこともあり、急に水科との距離が縮まった気がする。
「嬉しいな、なんだか蓮見さんとの距離が縮まった感があって」
「っ」
今まさに考えていた内容とまったく同じことを言われ、思わず肩を震わせてしまった。
「あ、ありがとう。そう言ってくれると、私も嬉しい」
慌てる依里佳を見て、水科が笑う。
(あ……昨日と同じ)
無色透明だった笑顔が一気に色づいた。駅で見たあの笑みだ。依里佳を搦め取るほど引力のある瞳で見つめてくるから、図らずも心臓が高鳴ってしまった。
「――蓮見さん、ここ、二人だけの秘密にしましょうね?」
そう言って水科が、人差し指を自分の口元に添えた――年下とは思えない色気を全身にまとわせながら。
第二章
「翔くん、いらっしゃい。新しいカメレオンが来たんだよ。見てみる?」
「うん!」
たくさんの爬虫類に囲まれた翔は上機嫌だった。
土曜日、陽子がクライアントと会う用事が出来たので、俊輔と依里佳が翔の面倒を見ることになった。翔に出かけたいところがあるか聞いたところ、『ペットショップ!』と即答され、こうして三人で連れ立って来たというわけだ。と言っても、ここは可愛らしい仔犬や仔猫がショーケースでコロコロ戯れているような、ファンシーな場所ではない。
トカゲ、イグアナ、ヘビ、ヤモリ、カメなどがひしめき合う、爬虫類を扱うペットショップだ。その名もズバリ『レプタイルズ』、英語で爬虫類という意味だ。蓮見家から車で五分ほどのところにある店で、爬虫類の他には両生類や珍しい虫なども置いている。隣には哺乳類を販売している系列店も併設されていて、おそらく普通の人にとってはそちらがメインなのだろう。
しかし依里佳たち――というより翔にとっては、犬猫よりもトカゲが可愛く見えるらしい。一度俊輔が『翔、動物飼いたいなら犬か猫はどうだ?』と聞いてみたところ、『やだぁ。おれ、イグアナかカメレオンがいい!』と、一蹴されている。
もはや翔の爬虫類好きには、家族すらもついていけなくなりつつあった。
「依里佳、おまえ買う物あるんだろ? 翔は俺が見てるから、先に買いに行って来ちゃえよ」
「うん、分かった。じゃあ私、モールに行って来るけど、どこで待ち合わせする?」
「……どうせ翔は一、二時間は動かないだろ? ここにいるよ、多分」
俊輔が少しげんなりとした表情を見せた。
レプタイルズは翔のオアシスとも言うべき場所で、月に二、三度は通っている。まったく飽きないようで、一度入ると数時間はてこでも動かない。
店長も翔を常連と認めてくれており、いつも快く迎えてくれる。おまけに展示されている生き物たちを触らせてもくれるのだから、翔がここに入り浸ってしまうのも仕方がないだろう。
今も店長が見せてくれるヨツヅノカメレオンに夢中な翔は、依里佳に見向きもしない。それはそれで少し淋しいが、この間に必要なものを買いに行こうと、二人を置いて車を走らせた。
ショッピングモールへ着くと、まずは自分の服を見て回った。派手好きではないものの、やはり依里佳も女性である。おしゃれには興味があり、月に一度は新しい洋服を買うことにしていた。
ショップへ行くと、店員からは必ずと言っていいほど派手めなものを薦められるが、依里佳自身はフェミニンな服装が好きだ。だから柔らかい印象を与えるもので、かつ、自分に似合うものを慎重に選ぶ。
依里佳は何十分も迷った末に、白いリボンブラウスと、薄いブルーの大花柄のフレアスカートを買った。
それから陽子に頼まれた雑誌と、自分が毎月購読している雑誌を本屋で購入し、その後は夕飯の材料を見繕う。今日の夕食は翔のリクエストで、煮込みハンバーグにするつもりだ。
両親が他界してからの二年間はほとんどの家事を一人で請け負っていたので、依里佳は料理もそこそこ出来る。陽子がいない時の食事担当は依里佳で、翔も彼女が作った食事を美味しいと言ってくれるのが嬉しい。
両手に大荷物を抱えて車に戻ると、再びレプタイルズに向かった。
店内では、翔が何故か飼育ケースに入ったカブトムシを持ってはしゃいでいた。
「えりか! みてみて! カブトムシもらったぁ!」
「どうしたの? それ」
「店長が知り合いからたくさんもらったとかで、翔にもくれたんだよ。ったく、カナヘビもいるっていうのに……」
俊輔が苦笑しながら大きな袋を掲げてみせた。カブトムシ用の腐葉土とエサのゼリーが入っているようだ。
(あはは、買わされたんだ)
「いつもほとんど何も買わずに入り浸ってるんだから、せめてこういう時くらいはお店に貢献しないと、お兄ちゃん」
翔は来店するたびに『イグアナかいた~い!』『カメレオンかって~!』と駄々を捏ねるけれど、俊輔と陽子が『小学校に入るまではダメ』と言い聞かせ、今は見るだけに留めさせていた。
「翔~、そろそろ帰るぞ~」
俊輔は痺れを切らしているようだ。
「もうちょっとまって~、さいごにカメみてくる~。えりか、これもってて!」
翔はカブトムシを依里佳に押しつけると、カメのコーナーへと向かった。
「あ、翔! 待って!」
依里佳は慌てて翔の後を追う。そして一つ先の展示棚を曲がろうとした時――
「……え?」
棚に挟まれた通路の奥に、見知った姿を発見した。
(水科くん!?)
カメレオンのコーナーに、水科が立っている。いつも会社で見るようなスーツ姿ではなく、アウトドアブランドのTシャツにハーフパンツというカジュアルな服装ではあったけれど、間違いなく彼だ。意外な場所で意外すぎる顔を見かけて驚き、依里佳は慌てて棚の陰に隠れる。
(べ、別に隠れなくてもいいのに、私……)
ここのところ続く偶然に心がざわついてしまい、普通に声をかけられなかった。
(っていうか、今度こそストーカーだと思われちゃったらやだ~!)
見た目に反して小心者の依里佳は、そんなことを心配してしまう。
そこにいる水科はとても楽しそうだ。どうやら連れはいないようで、一人でショーケースを眺めている。もう一度そっと覗いてみると、水科はエボシカメレオンのケースに顔を近づけ、ニコニコと笑っていた。
思わず口元に手を当てて息を呑む依里佳の後ろから、翔が心配そうに声をかけてきた。
「えりか……? なにしてるの?」
「っ、あ、な、何でもないよ? もう帰ろう? お父さん待ちくたびれてるみたいだから」
依里佳は翔の手を取り、急いで出口へと向かう。俊輔はすでに車の運転席へと座り、エンジンをかけて待っていた。翔は嬉しそうにカブトムシのケースを抱えてチャイルドシートへ乗り込む。
家に向かう車の中で、依里佳は水科の姿を思い返していた。
カメレオンを見ている時の表情、それは彼女が翔を見る時に似た笑顔だった――可愛いものを目にすると自然と顔がほころんでしまう、というやつだ。
あんな特殊な店で笑ってショーケースを見ている理由なんて、一つしか思いつかない。
もしかして……もしかしなくても。
(水科くんって、爬虫類が好きだったりする……?)
***
(あぁ……どうしよう……)
依里佳は社内用スマートフォンを手にして悩んでいた。テキストメッセージの送信画面を開いたりホーム画面へ戻ったりと、忙しない動きを続けている。
一昨日レプタイルズで水科を見かけ、彼が爬虫類好きなのではないかという考えに至って以来、依里佳にはずっと思案していたことがあった。
それはきっと図々しいお願いだと思う。『はぁ? 無理に決まってるじゃないですか』と、一蹴されてしまう可能性もある。けれど、水科の人懐っこさと優しさに賭けてみたい気持ちが、時間を経るごとにどんどんふくらんでしまって――
(うーん……思い切っちゃう? いやでも、迷惑かもしれないしなぁ……)
そんなことを繰り返している内に、始業のチャイムが鳴った。
(いいや、送っちゃえ!)
〝いきなりのメッセージでごめんね。お話ししたいことがあるので、今日のお昼休み、ご飯を食べ終わったら屋上に来てもらえますか?〟
依里佳は大きく深呼吸をし、大げさな動きでテキストメッセージの送信ボタンを押した。すぐ後に、さほど離れていない場所で受信音が鳴る。依里佳はドキリとしたが、音の方向は見ないようにした。それから間を置かず、今度は依里佳のスマホが受信音を響かせる。
〝了解しました。二十分以内には食べ終わると思うので、その後屋上で待ってますね〟
文面を見てホッとした依里佳は、ようやく仕事に取りかかった。
その後は珍しくも、三女子から嫌味を言われることなく午前中の作業を終えることが出来た。リーダー格の佐々木が出張で不在だったからだろうか。
昼休み、依里佳は食堂へは赴かず、売店でサンドイッチとサラダを買って自席で食事を済ませた。それから歯磨きとメイク直しを終え、例のごとく倉庫へと入る。階段を上り、重い扉を両手で開くと、快晴の空の下に出た。
(うわぁ……日焼けしそう)
雲一つない天気――陽の光が容赦なく降り注ぐ屋上は、とても眩しい。目を細めながら視線を動かすと、依里佳のいつもの場所には、すでに水科が立っていた。
「蓮見さん」
「ご、ごめんね、遅くなって……!」
「いえいえ、俺もちょっと前に来たばかりですから」
小走りで水科のもとに駆け寄ると、少し距離を空けて立ち止まった。
「貴重な休み時間なのに、呼び出したりなんかしてごめんね。さすがに就業時間中には話が出来ないな、と思って」
「大丈夫です。俺にとっては、蓮見さんと顔をつき合わせて話せる時間の方が貴重ですから」
こうやってさりげなくフォローしてくれるところがさすがだなと、依里佳は感心する。
「――それで、お話って何ですか?」
水科が目尻を下げて優しげに尋ねてくる。
「あ、うん――」
依里佳は緊張していた。いきなりこんなことを申し出るなんて、図々しいと思われたらどうしよう。心配で心臓がドキドキする。でも呼び出してしまったからには、言わないわけにはいかない。
(よし、言うぞ!)
依里佳は決心し、大きく息を吸った。
「――お願いします! つきあってください!」
両のこぶしを握り、目をぎゅっとつぶってさけぶように声を出した。
「……」
二人の間に静寂が訪れる。聞こえるのは吹きすさぶ風の音だけだ。
依里佳は片目をそっと開いた。
見ると、水科は目を見開いて固まっている。
(ん? 私、何かおかしいこと……言った?)
依里佳は自分の発言を反芻してみる。理解した瞬間、ボッと火がついたように頬が熱くなった。
(ひ~っ! ちょっ、私! 何てこと言っちゃってるの!?)
緊張のあまり言葉足らずになってしまったことにようやく気づいた依里佳は、慌てふためいた。
『つきあってください』なんて、水科の側からしてみれば、完全に交際の申し込みだ。驚くのも無理はない。
「ちっ、違うの! ごっ、ごめんなさい! そういう意味じゃなくて!!」
あたふたと両手を胸の前で振りながら、依里佳はしどろもどろになる。対照的に、水科は若干の緊張感を残しつつも落ち着きを取り戻し始めていた。
「落ち着いて、蓮見さん」
「そ、そうだね、ごめんなさい……説明、します」
軽く息を切らせた依里佳は、胸に手を当て何度も深呼吸をした。
(子供じゃないんだからもう……恥ずかしい)
いい年をした大人なのに、今時中学生でもしないようなヘマをやらかしてしまい、ちょっと落ち込む。少し冷静になってきた頃、依里佳はようやく切り出した。
「あのね、水科くんって……爬虫類が好きなの?」
依里佳は、自分には爬虫類好きの甥がいること、この先もふくらみ続けるであろう彼の爬虫類愛と知識欲にどう対応するべきかと家族一同で悩んでいること、そんな中、一昨日レプタイルズで水科を見かけたこと。
よければそんな翔と爬虫類友達としてつきあってもらえたらと考えたことを伝えた。
「……そういうことでしたか」
話を一通り聞いた水科は、はぁ、と大きなため息をこぼした。目元を緩ませたその様子は、依里佳の告白に困り果てていたが、間違いだと分かって安心した――そういった面持ちに見える。
(そ、そんなあからさまにホッとしなくても……)
少しだけ心が痛んだが、いつまでも傷ついてはいられない。可愛い甥っ子のためなのだ。こんなことで怯んでどうする。
「ど、どうかな……?」
依里佳は探るように水科の顔を見上げた。断られることも覚悟していたのだが、視界に入って来たのは、意外にも好意的な表情だった。
「いいですよ」
「ほ……んと?」
「俺でよければ喜んで」
水科はちょこんと小首を傾けて笑った。
「よ……かったぁ……。ありがとう!」
安心して笑みを浮かべる依里佳を見て、水科がクスクスと笑い出す。
「な、何……?」
「……いや、蓮見さんの意外な姿を見てしまったんで。子供みたいに大慌てしちゃって可愛いなぁ、と思いました」
「ご、ごめんね? 断られたらどうしよう、ってドキドキしてたから」
「いやいや、なんだか蓮見さんの秘密を知っちゃったみたいで、楽しかったです」
「楽しかったのなら……よかった……よ……うん」
からかうような眼差しで見つめてくる水科に、依里佳は照れを隠せない。
「それで、提案なんですけど、まずは俺がおすすめの爬虫類図鑑をプレゼントする、ってところから始めませんか? 俺みたいな見ず知らずの男がいきなり友達面して現れるのもおかしいですし、自分としても、甥っ子くんのご両親の信頼を得てからの方が、いろいろ誘ったりしやすいですから」
「あ、うん……実は私もそう説明しようと思ってたの。緊張してあんな風に言っちゃったけど」
「じゃあ蓮見さんさえよければ、今度の土曜日にでも、俺と一緒に図鑑を探しに行きませんか?」
「土曜日なら空いてるから大丈夫。ありがとう、わざわざ時間取ってもらっ……、あ」
ふとそこで、とても大事なことに気づいてしまった。
(うわぁ……忘れてたぁ……)
依里佳はほんの少し、眉根を寄せた。これだけは確認しておかねばならない。場合によっては、この話がなくなるのも覚悟しなくては。
「何ですか?」
先を促され、散々迷った末に、依里佳は恐る恐る切り出した。
「あの……水科くんって今、彼女いる? もしそうなら、私と二人で出かけて彼女さんに誤解されちゃうとまずいな、と思って。それに、今後翔……甥と友達になってくれて、出かけたりする機会があったら、きっと私も同行することになると思うし……。困るなら、この件は断ってくれていいから」
「大丈夫です。今は彼女いませんから」
依里佳の問いに、水科は柔らかく笑う。
「あ、そうなんだ。……よかった」
「そういうわけで俺、最近は割とヒマなんで、そんなに気を遣わないでください。とりあえず、蓮見さんの連絡先を教えてくれますか? 社用じゃなくてプライベートの方」
「ありがとう……じゃあ、送るね」
依里佳はスマートフォンで、自分の携帯番号とメッセージアプリのIDを送信する。
「――届きました。後で、アプリから俺の連絡先を送ります。時間とかはその時決めましょうね」
では俺、先に席に戻りますね――にこやかにそう言い残し、水科は正規のルートで社内に戻って行く。依里佳は彼に快諾してもらえた安堵感に胸を撫で下ろしつつ、その後ろ姿を見送った。
初めは水科が提案した通り、図鑑のプレゼントから。
「わぁ、素敵な本~。これは洋書なんだね?」
「でしょう? 前にネットで見つけたんですが、桜浜だとここでしか売ってなくて」
依里佳と水科は桜浜駅近くの大型書店に来ていた。彼のおすすめだという図鑑は、絵と写真がとても美しく、文字が読めない子供の視覚にも訴えかける作りになっていた。
「これは翔が喜びそうだなぁ」
依里佳は本を手に取り、パラパラとめくっては感心している。
「喜んでもらえたら嬉しいです。じゃあ俺、買ってきますね」
そう言って一冊手にすると、水科はレジへと向かった。
「あ、私、払うよ?」
彼の後を追いかけながら、依里佳は財布を出す。
「俺からのプレゼントなんですから、俺が払わないとカッコつかないですし。これくらい出させてください」
水科が眉尻を下げて笑った。
「分かった……じゃあ、お言葉に甘えるね。ありがとう」
(会社の子たちが騒ぐ気持ちが分かるなぁ……)
レジで支払いをする彼の後ろ姿を眺めながら、依里佳はほぅ、と感嘆のため息をついた。
お金を出す時も押しつけがましくない。あえて自分を下げてみせることで、女性に対して高圧的な印象を与えないようにしているのかもしれない。こういうことに慣れているのだろうが、それにしてもいちいちスマートだと、依里佳は感心した。
書店を出た後、二人は昼食のために駅ビルの洋食屋へ向かった。その間、水科へ視線を送る女性は後を絶たない。
(私が隣にいていいのかしら)
それだけのルックスなのだから仕方がないと理解しつつも、依里佳はそんなことを思ってしまう。けれど水科には逆に、『蓮見さんと一緒にいると、男たちの視線が痛いですね』と言われてしまった。しかし本人にその痛さを気にしている様子はさしてなく、平然としている。
「そ、それを言ったら、私だって、女の子たちの視線が痛いから!」
依里佳も慌てて言い返した。
「いやぁ……蓮見さんと張り合う度胸のある女性は、なかなかいないと思いますけど」
水科は肩をすくめて苦笑する。依里佳の美貌を褒め称える意味で口にしたのだろう言葉だったが、不思議なことに、過去デートをしたほとんどの男性が垣間見せてきた『依里佳を見せびらかして自慢したい』という思惑が、彼からは微塵も感じられない。
だからだろうか。水科と一緒にいるのはとても居心地がよかった。
会社で人気だという事実に納得させられるほど、水科は気遣いの男だった。食事の間はいろいろな話を振ってくれ、また依里佳が何を言っても笑顔で受け止め、絶対に否定をしない。翔の話をしても同じ反応で、むしろ今後のために彼女の家族のことを知りたいとまで言ってくれた。
依里佳は図鑑のお礼に昼食はごちそうさせてほしいと頼んだが、それすら水科が支払ってしまった。
「せっかくこうして蓮見さんとデート出来たんですから、今日くらいは俺にいいカッコさせてほしいです」
申し訳なく思っているうちに、水科は穏やかな声音でそう告げ、依里佳を店外へとエスコートする。あまりにもスムーズでさりげなかったので、危うくお礼を言うのを忘れてしまうところだった。
その後二人はしばらく駅付近で話をしながら過ごした。あっという間に時は過ぎ、暗くならない内にと北名吉駅まで戻る。
「水科くん、今日は本当にありがとう。翔、きっと喜ぶよ」
「こちらこそありがとうございました。とても楽しかったです。甥っ子くんに気に入ってもらえることを祈ってます」
改札を出たところで立ち止まると、二人は互いにそう言い合って別れた。
「私も……楽しかったな……」
依里佳は足取り軽く自宅へと向かいながら、一人呟く。男性と一緒にいて楽しいと思ったのは久しぶりだった――いや、ここまで心地いいと思えたのは初めてかもしれない。
唯一の心残りは、今日かかった代金をすべて水科に支払ってもらってしまったことだ。
(今度、ちゃんとお礼しなくちゃ……!)
依里佳はそう決意しつつ、家の玄関を開けた。
彼に声をかけられず、依里佳はしばらくその場に立ち尽くしていた。そしてハッと我に返り、そのまま立ち去ろうと後ずさりをした途端、水科がこちらの動きに気づいた。
「蓮見さん?」
「……あ、ご、ごめんね、邪魔しちゃって。み、水科くんがいるなんて、思わなかったから!」
(決して後をつけて来たわけじゃないから! ストーカーじゃないから! 偶然だから!)
そう大声でさけびたかったが、かえって言い訳がましくなりそうな気がしてやめておいた。
「――あ……っと、お邪魔だから、私、行くね?」
「気を遣わなくても大丈夫ですよ、蓮見さん」
きびすを返そうとすると、水科に呼び止められた。
「蓮見さんもストレス解消に来たんですか? ここ、いいですよね。誰も来なくて」
風を浴びながら水科が笑う。その表情は、やっぱりいつもの笑顔とは違っていた。昨日の駅で見た表情とも異なる、無色透明な笑みだ。
(疲れてる……のかな)
「水科くんも、ストレス溜まるんだね」
少し失礼かな、とも思ったが、尋ねてみた。
「そりゃあ、俺も人間ですから。……っていうか、愛想よくし続けるのも、実はちょっと疲れるんですよね。……きっと蓮見さんなら、こういうの分かってくれると思うんですけど」
「そう……だね」
水科の言いたいことが痛いほど分かった。おそらく彼は普段、愛想のいい水科篤樹を演じているのだろう。そうするには何らかの理由があると思うのだが、さすがにそこまで踏み込むわけにはいかない。
依里佳も昔は器に見合う自分を演じようとしたことがあったから――どうしたって無理だと分かったので、結局やめてしまったけれど。
「でも、半ばクセみたいになっちゃってるんで、今さらやめられないんですけどね。だから時々、ここで風と日光に当たってストレス解消してるんです」
「水科くんは、どうやって屋上に入ってきたの?」
依里佳と同じルートから来た形跡がない以上、他にも辿り着く方法があるはずだ。水科はどうやって屋上まで来ているのか、気になった。
「これです、これ」
水科は首から下げていたIDカードケースを裏返しにして、振ってみせる。そこには、一本の鍵が入っていた。
「鍵……? それって、屋上の?」
「そうです。……入手ルートは内緒、ですけど」
肩をすくめながら、水科が悪戯っぽく笑った。
「本来の、正規の通路から来てる、ってことなのね」
『――ねぇねぇ知ってる? 企画一課の水科くんがうちの持株会社の社長の息子だって噂があるの』
依里佳はふと、先ほど女子社員が話していたことを思い出す。
もしかしたら、それは案外当たらずとも遠からずで、そのコネで鍵を入手したのだろうか――ほんの少しだけ、そう考えてしまった。
(だめだってば! 下手な噂は信じちゃいけないんだから)
心の中で自分を戒める。
依里佳自身、根も葉もない噂で悩まされることが多いので、そういった根拠のない話は信じない、信じてはいけないと、常に自分に言い聞かせていた。
「昨日から、蓮見さんと俺、縁がありますね」
「そ、そうだね。偶然が続いちゃったね!」
確かにここ二日間、水科と遭遇する機会が多かった。今まであまり接触がなかったこともあり、急に水科との距離が縮まった気がする。
「嬉しいな、なんだか蓮見さんとの距離が縮まった感があって」
「っ」
今まさに考えていた内容とまったく同じことを言われ、思わず肩を震わせてしまった。
「あ、ありがとう。そう言ってくれると、私も嬉しい」
慌てる依里佳を見て、水科が笑う。
(あ……昨日と同じ)
無色透明だった笑顔が一気に色づいた。駅で見たあの笑みだ。依里佳を搦め取るほど引力のある瞳で見つめてくるから、図らずも心臓が高鳴ってしまった。
「――蓮見さん、ここ、二人だけの秘密にしましょうね?」
そう言って水科が、人差し指を自分の口元に添えた――年下とは思えない色気を全身にまとわせながら。
第二章
「翔くん、いらっしゃい。新しいカメレオンが来たんだよ。見てみる?」
「うん!」
たくさんの爬虫類に囲まれた翔は上機嫌だった。
土曜日、陽子がクライアントと会う用事が出来たので、俊輔と依里佳が翔の面倒を見ることになった。翔に出かけたいところがあるか聞いたところ、『ペットショップ!』と即答され、こうして三人で連れ立って来たというわけだ。と言っても、ここは可愛らしい仔犬や仔猫がショーケースでコロコロ戯れているような、ファンシーな場所ではない。
トカゲ、イグアナ、ヘビ、ヤモリ、カメなどがひしめき合う、爬虫類を扱うペットショップだ。その名もズバリ『レプタイルズ』、英語で爬虫類という意味だ。蓮見家から車で五分ほどのところにある店で、爬虫類の他には両生類や珍しい虫なども置いている。隣には哺乳類を販売している系列店も併設されていて、おそらく普通の人にとってはそちらがメインなのだろう。
しかし依里佳たち――というより翔にとっては、犬猫よりもトカゲが可愛く見えるらしい。一度俊輔が『翔、動物飼いたいなら犬か猫はどうだ?』と聞いてみたところ、『やだぁ。おれ、イグアナかカメレオンがいい!』と、一蹴されている。
もはや翔の爬虫類好きには、家族すらもついていけなくなりつつあった。
「依里佳、おまえ買う物あるんだろ? 翔は俺が見てるから、先に買いに行って来ちゃえよ」
「うん、分かった。じゃあ私、モールに行って来るけど、どこで待ち合わせする?」
「……どうせ翔は一、二時間は動かないだろ? ここにいるよ、多分」
俊輔が少しげんなりとした表情を見せた。
レプタイルズは翔のオアシスとも言うべき場所で、月に二、三度は通っている。まったく飽きないようで、一度入ると数時間はてこでも動かない。
店長も翔を常連と認めてくれており、いつも快く迎えてくれる。おまけに展示されている生き物たちを触らせてもくれるのだから、翔がここに入り浸ってしまうのも仕方がないだろう。
今も店長が見せてくれるヨツヅノカメレオンに夢中な翔は、依里佳に見向きもしない。それはそれで少し淋しいが、この間に必要なものを買いに行こうと、二人を置いて車を走らせた。
ショッピングモールへ着くと、まずは自分の服を見て回った。派手好きではないものの、やはり依里佳も女性である。おしゃれには興味があり、月に一度は新しい洋服を買うことにしていた。
ショップへ行くと、店員からは必ずと言っていいほど派手めなものを薦められるが、依里佳自身はフェミニンな服装が好きだ。だから柔らかい印象を与えるもので、かつ、自分に似合うものを慎重に選ぶ。
依里佳は何十分も迷った末に、白いリボンブラウスと、薄いブルーの大花柄のフレアスカートを買った。
それから陽子に頼まれた雑誌と、自分が毎月購読している雑誌を本屋で購入し、その後は夕飯の材料を見繕う。今日の夕食は翔のリクエストで、煮込みハンバーグにするつもりだ。
両親が他界してからの二年間はほとんどの家事を一人で請け負っていたので、依里佳は料理もそこそこ出来る。陽子がいない時の食事担当は依里佳で、翔も彼女が作った食事を美味しいと言ってくれるのが嬉しい。
両手に大荷物を抱えて車に戻ると、再びレプタイルズに向かった。
店内では、翔が何故か飼育ケースに入ったカブトムシを持ってはしゃいでいた。
「えりか! みてみて! カブトムシもらったぁ!」
「どうしたの? それ」
「店長が知り合いからたくさんもらったとかで、翔にもくれたんだよ。ったく、カナヘビもいるっていうのに……」
俊輔が苦笑しながら大きな袋を掲げてみせた。カブトムシ用の腐葉土とエサのゼリーが入っているようだ。
(あはは、買わされたんだ)
「いつもほとんど何も買わずに入り浸ってるんだから、せめてこういう時くらいはお店に貢献しないと、お兄ちゃん」
翔は来店するたびに『イグアナかいた~い!』『カメレオンかって~!』と駄々を捏ねるけれど、俊輔と陽子が『小学校に入るまではダメ』と言い聞かせ、今は見るだけに留めさせていた。
「翔~、そろそろ帰るぞ~」
俊輔は痺れを切らしているようだ。
「もうちょっとまって~、さいごにカメみてくる~。えりか、これもってて!」
翔はカブトムシを依里佳に押しつけると、カメのコーナーへと向かった。
「あ、翔! 待って!」
依里佳は慌てて翔の後を追う。そして一つ先の展示棚を曲がろうとした時――
「……え?」
棚に挟まれた通路の奥に、見知った姿を発見した。
(水科くん!?)
カメレオンのコーナーに、水科が立っている。いつも会社で見るようなスーツ姿ではなく、アウトドアブランドのTシャツにハーフパンツというカジュアルな服装ではあったけれど、間違いなく彼だ。意外な場所で意外すぎる顔を見かけて驚き、依里佳は慌てて棚の陰に隠れる。
(べ、別に隠れなくてもいいのに、私……)
ここのところ続く偶然に心がざわついてしまい、普通に声をかけられなかった。
(っていうか、今度こそストーカーだと思われちゃったらやだ~!)
見た目に反して小心者の依里佳は、そんなことを心配してしまう。
そこにいる水科はとても楽しそうだ。どうやら連れはいないようで、一人でショーケースを眺めている。もう一度そっと覗いてみると、水科はエボシカメレオンのケースに顔を近づけ、ニコニコと笑っていた。
思わず口元に手を当てて息を呑む依里佳の後ろから、翔が心配そうに声をかけてきた。
「えりか……? なにしてるの?」
「っ、あ、な、何でもないよ? もう帰ろう? お父さん待ちくたびれてるみたいだから」
依里佳は翔の手を取り、急いで出口へと向かう。俊輔はすでに車の運転席へと座り、エンジンをかけて待っていた。翔は嬉しそうにカブトムシのケースを抱えてチャイルドシートへ乗り込む。
家に向かう車の中で、依里佳は水科の姿を思い返していた。
カメレオンを見ている時の表情、それは彼女が翔を見る時に似た笑顔だった――可愛いものを目にすると自然と顔がほころんでしまう、というやつだ。
あんな特殊な店で笑ってショーケースを見ている理由なんて、一つしか思いつかない。
もしかして……もしかしなくても。
(水科くんって、爬虫類が好きだったりする……?)
***
(あぁ……どうしよう……)
依里佳は社内用スマートフォンを手にして悩んでいた。テキストメッセージの送信画面を開いたりホーム画面へ戻ったりと、忙しない動きを続けている。
一昨日レプタイルズで水科を見かけ、彼が爬虫類好きなのではないかという考えに至って以来、依里佳にはずっと思案していたことがあった。
それはきっと図々しいお願いだと思う。『はぁ? 無理に決まってるじゃないですか』と、一蹴されてしまう可能性もある。けれど、水科の人懐っこさと優しさに賭けてみたい気持ちが、時間を経るごとにどんどんふくらんでしまって――
(うーん……思い切っちゃう? いやでも、迷惑かもしれないしなぁ……)
そんなことを繰り返している内に、始業のチャイムが鳴った。
(いいや、送っちゃえ!)
〝いきなりのメッセージでごめんね。お話ししたいことがあるので、今日のお昼休み、ご飯を食べ終わったら屋上に来てもらえますか?〟
依里佳は大きく深呼吸をし、大げさな動きでテキストメッセージの送信ボタンを押した。すぐ後に、さほど離れていない場所で受信音が鳴る。依里佳はドキリとしたが、音の方向は見ないようにした。それから間を置かず、今度は依里佳のスマホが受信音を響かせる。
〝了解しました。二十分以内には食べ終わると思うので、その後屋上で待ってますね〟
文面を見てホッとした依里佳は、ようやく仕事に取りかかった。
その後は珍しくも、三女子から嫌味を言われることなく午前中の作業を終えることが出来た。リーダー格の佐々木が出張で不在だったからだろうか。
昼休み、依里佳は食堂へは赴かず、売店でサンドイッチとサラダを買って自席で食事を済ませた。それから歯磨きとメイク直しを終え、例のごとく倉庫へと入る。階段を上り、重い扉を両手で開くと、快晴の空の下に出た。
(うわぁ……日焼けしそう)
雲一つない天気――陽の光が容赦なく降り注ぐ屋上は、とても眩しい。目を細めながら視線を動かすと、依里佳のいつもの場所には、すでに水科が立っていた。
「蓮見さん」
「ご、ごめんね、遅くなって……!」
「いえいえ、俺もちょっと前に来たばかりですから」
小走りで水科のもとに駆け寄ると、少し距離を空けて立ち止まった。
「貴重な休み時間なのに、呼び出したりなんかしてごめんね。さすがに就業時間中には話が出来ないな、と思って」
「大丈夫です。俺にとっては、蓮見さんと顔をつき合わせて話せる時間の方が貴重ですから」
こうやってさりげなくフォローしてくれるところがさすがだなと、依里佳は感心する。
「――それで、お話って何ですか?」
水科が目尻を下げて優しげに尋ねてくる。
「あ、うん――」
依里佳は緊張していた。いきなりこんなことを申し出るなんて、図々しいと思われたらどうしよう。心配で心臓がドキドキする。でも呼び出してしまったからには、言わないわけにはいかない。
(よし、言うぞ!)
依里佳は決心し、大きく息を吸った。
「――お願いします! つきあってください!」
両のこぶしを握り、目をぎゅっとつぶってさけぶように声を出した。
「……」
二人の間に静寂が訪れる。聞こえるのは吹きすさぶ風の音だけだ。
依里佳は片目をそっと開いた。
見ると、水科は目を見開いて固まっている。
(ん? 私、何かおかしいこと……言った?)
依里佳は自分の発言を反芻してみる。理解した瞬間、ボッと火がついたように頬が熱くなった。
(ひ~っ! ちょっ、私! 何てこと言っちゃってるの!?)
緊張のあまり言葉足らずになってしまったことにようやく気づいた依里佳は、慌てふためいた。
『つきあってください』なんて、水科の側からしてみれば、完全に交際の申し込みだ。驚くのも無理はない。
「ちっ、違うの! ごっ、ごめんなさい! そういう意味じゃなくて!!」
あたふたと両手を胸の前で振りながら、依里佳はしどろもどろになる。対照的に、水科は若干の緊張感を残しつつも落ち着きを取り戻し始めていた。
「落ち着いて、蓮見さん」
「そ、そうだね、ごめんなさい……説明、します」
軽く息を切らせた依里佳は、胸に手を当て何度も深呼吸をした。
(子供じゃないんだからもう……恥ずかしい)
いい年をした大人なのに、今時中学生でもしないようなヘマをやらかしてしまい、ちょっと落ち込む。少し冷静になってきた頃、依里佳はようやく切り出した。
「あのね、水科くんって……爬虫類が好きなの?」
依里佳は、自分には爬虫類好きの甥がいること、この先もふくらみ続けるであろう彼の爬虫類愛と知識欲にどう対応するべきかと家族一同で悩んでいること、そんな中、一昨日レプタイルズで水科を見かけたこと。
よければそんな翔と爬虫類友達としてつきあってもらえたらと考えたことを伝えた。
「……そういうことでしたか」
話を一通り聞いた水科は、はぁ、と大きなため息をこぼした。目元を緩ませたその様子は、依里佳の告白に困り果てていたが、間違いだと分かって安心した――そういった面持ちに見える。
(そ、そんなあからさまにホッとしなくても……)
少しだけ心が痛んだが、いつまでも傷ついてはいられない。可愛い甥っ子のためなのだ。こんなことで怯んでどうする。
「ど、どうかな……?」
依里佳は探るように水科の顔を見上げた。断られることも覚悟していたのだが、視界に入って来たのは、意外にも好意的な表情だった。
「いいですよ」
「ほ……んと?」
「俺でよければ喜んで」
水科はちょこんと小首を傾けて笑った。
「よ……かったぁ……。ありがとう!」
安心して笑みを浮かべる依里佳を見て、水科がクスクスと笑い出す。
「な、何……?」
「……いや、蓮見さんの意外な姿を見てしまったんで。子供みたいに大慌てしちゃって可愛いなぁ、と思いました」
「ご、ごめんね? 断られたらどうしよう、ってドキドキしてたから」
「いやいや、なんだか蓮見さんの秘密を知っちゃったみたいで、楽しかったです」
「楽しかったのなら……よかった……よ……うん」
からかうような眼差しで見つめてくる水科に、依里佳は照れを隠せない。
「それで、提案なんですけど、まずは俺がおすすめの爬虫類図鑑をプレゼントする、ってところから始めませんか? 俺みたいな見ず知らずの男がいきなり友達面して現れるのもおかしいですし、自分としても、甥っ子くんのご両親の信頼を得てからの方が、いろいろ誘ったりしやすいですから」
「あ、うん……実は私もそう説明しようと思ってたの。緊張してあんな風に言っちゃったけど」
「じゃあ蓮見さんさえよければ、今度の土曜日にでも、俺と一緒に図鑑を探しに行きませんか?」
「土曜日なら空いてるから大丈夫。ありがとう、わざわざ時間取ってもらっ……、あ」
ふとそこで、とても大事なことに気づいてしまった。
(うわぁ……忘れてたぁ……)
依里佳はほんの少し、眉根を寄せた。これだけは確認しておかねばならない。場合によっては、この話がなくなるのも覚悟しなくては。
「何ですか?」
先を促され、散々迷った末に、依里佳は恐る恐る切り出した。
「あの……水科くんって今、彼女いる? もしそうなら、私と二人で出かけて彼女さんに誤解されちゃうとまずいな、と思って。それに、今後翔……甥と友達になってくれて、出かけたりする機会があったら、きっと私も同行することになると思うし……。困るなら、この件は断ってくれていいから」
「大丈夫です。今は彼女いませんから」
依里佳の問いに、水科は柔らかく笑う。
「あ、そうなんだ。……よかった」
「そういうわけで俺、最近は割とヒマなんで、そんなに気を遣わないでください。とりあえず、蓮見さんの連絡先を教えてくれますか? 社用じゃなくてプライベートの方」
「ありがとう……じゃあ、送るね」
依里佳はスマートフォンで、自分の携帯番号とメッセージアプリのIDを送信する。
「――届きました。後で、アプリから俺の連絡先を送ります。時間とかはその時決めましょうね」
では俺、先に席に戻りますね――にこやかにそう言い残し、水科は正規のルートで社内に戻って行く。依里佳は彼に快諾してもらえた安堵感に胸を撫で下ろしつつ、その後ろ姿を見送った。
初めは水科が提案した通り、図鑑のプレゼントから。
「わぁ、素敵な本~。これは洋書なんだね?」
「でしょう? 前にネットで見つけたんですが、桜浜だとここでしか売ってなくて」
依里佳と水科は桜浜駅近くの大型書店に来ていた。彼のおすすめだという図鑑は、絵と写真がとても美しく、文字が読めない子供の視覚にも訴えかける作りになっていた。
「これは翔が喜びそうだなぁ」
依里佳は本を手に取り、パラパラとめくっては感心している。
「喜んでもらえたら嬉しいです。じゃあ俺、買ってきますね」
そう言って一冊手にすると、水科はレジへと向かった。
「あ、私、払うよ?」
彼の後を追いかけながら、依里佳は財布を出す。
「俺からのプレゼントなんですから、俺が払わないとカッコつかないですし。これくらい出させてください」
水科が眉尻を下げて笑った。
「分かった……じゃあ、お言葉に甘えるね。ありがとう」
(会社の子たちが騒ぐ気持ちが分かるなぁ……)
レジで支払いをする彼の後ろ姿を眺めながら、依里佳はほぅ、と感嘆のため息をついた。
お金を出す時も押しつけがましくない。あえて自分を下げてみせることで、女性に対して高圧的な印象を与えないようにしているのかもしれない。こういうことに慣れているのだろうが、それにしてもいちいちスマートだと、依里佳は感心した。
書店を出た後、二人は昼食のために駅ビルの洋食屋へ向かった。その間、水科へ視線を送る女性は後を絶たない。
(私が隣にいていいのかしら)
それだけのルックスなのだから仕方がないと理解しつつも、依里佳はそんなことを思ってしまう。けれど水科には逆に、『蓮見さんと一緒にいると、男たちの視線が痛いですね』と言われてしまった。しかし本人にその痛さを気にしている様子はさしてなく、平然としている。
「そ、それを言ったら、私だって、女の子たちの視線が痛いから!」
依里佳も慌てて言い返した。
「いやぁ……蓮見さんと張り合う度胸のある女性は、なかなかいないと思いますけど」
水科は肩をすくめて苦笑する。依里佳の美貌を褒め称える意味で口にしたのだろう言葉だったが、不思議なことに、過去デートをしたほとんどの男性が垣間見せてきた『依里佳を見せびらかして自慢したい』という思惑が、彼からは微塵も感じられない。
だからだろうか。水科と一緒にいるのはとても居心地がよかった。
会社で人気だという事実に納得させられるほど、水科は気遣いの男だった。食事の間はいろいろな話を振ってくれ、また依里佳が何を言っても笑顔で受け止め、絶対に否定をしない。翔の話をしても同じ反応で、むしろ今後のために彼女の家族のことを知りたいとまで言ってくれた。
依里佳は図鑑のお礼に昼食はごちそうさせてほしいと頼んだが、それすら水科が支払ってしまった。
「せっかくこうして蓮見さんとデート出来たんですから、今日くらいは俺にいいカッコさせてほしいです」
申し訳なく思っているうちに、水科は穏やかな声音でそう告げ、依里佳を店外へとエスコートする。あまりにもスムーズでさりげなかったので、危うくお礼を言うのを忘れてしまうところだった。
その後二人はしばらく駅付近で話をしながら過ごした。あっという間に時は過ぎ、暗くならない内にと北名吉駅まで戻る。
「水科くん、今日は本当にありがとう。翔、きっと喜ぶよ」
「こちらこそありがとうございました。とても楽しかったです。甥っ子くんに気に入ってもらえることを祈ってます」
改札を出たところで立ち止まると、二人は互いにそう言い合って別れた。
「私も……楽しかったな……」
依里佳は足取り軽く自宅へと向かいながら、一人呟く。男性と一緒にいて楽しいと思ったのは久しぶりだった――いや、ここまで心地いいと思えたのは初めてかもしれない。
唯一の心残りは、今日かかった代金をすべて水科に支払ってもらってしまったことだ。
(今度、ちゃんとお礼しなくちゃ……!)
依里佳はそう決意しつつ、家の玄関を開けた。
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