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第14話
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桜浜駅は東京の主要駅ほどではないものの、かなり大きな駅だ。一日の乗降者数は十万人を超える。
港に面しており、駅周辺にはオフィスビル、商業ビル、ホテル、美術館などが立ち並び、日本有数の一大観光地としても有名だ。
花梨の自宅がある日月駅からは私鉄を使って十五分ほどで着く。
伊集院大河の個展の会場は駅から歩いて十分、シーサイドに位置するラグジュアリーホテル内のイベントホールらしい。
花梨は仕事以外で桜浜駅へ出るのは久しぶりだった。友人との女子会でたまに来たりはするものの、ショッピングともなるとそう頻繁にはない。どうしても自宅から車で十分ほどのショッピングモールで済ませてしまうからだ。
花梨は駅に降り立つと、南口へ出て待ち合わせ場所へ向かった。約束した時間まであと五分はある。南口駅前には大きな広場があり、その真ん中に噴水がある。そこで桐生と待ち合わせをしていた。
(あ……もう来てる)
噴水が見えてくると、多くの人の中に頭一つ出ている男性の姿が見えた。間違えようもない、桐生颯斗だ。以前彼に身長を尋ねたのだが、一八七センチだと言っていた。花梨も一六七センチほどあり女性としては高い方なのだが、それでも桐生とは二十センチの身長差があった。
小走りで駆け寄ると、彼は二人の女性と話をしていた。
(知り合い……?)
話しかけていいものか悩みつつ、少し離れたところで待っていると、少しして桐生が花梨に気づいたようで、彼女たちとの会話を強制終了した。
名残惜しそうな女性たちを尻目に、桐生は花梨の前に立つ。
「お、待たせしました。おはようございます」
ぺこりと頭を下げる花梨を見て、彼は目をぱちくりとさせた。そのまま言葉を発することなく見つめられ、気恥ずかしさで動きがぎこちなくなってしまう。
「な、なんですか……? この格好じゃまずかったですか?」
薄い水色地のマルチストライプの七分袖ブラウスに、ほのかに紫がかった淡いピンクのフレアスカートはリボンを前で結ぶタイプ、それにスモーキーブルーのパンプスを合わせて。バッグは白を選んだ。
髪は緩く巻いてハーフアップにした――これは柚羽にやってもらったのだが。
春らしいコーディネイトにしてみたけれど、どこかおかしいのだろうか。
「――いや、すごく可愛い」
桐生の声音には照れなど一切なかった。ごく普通に口から出た言葉のようだ。よく臆面もなくそういう台詞が飛び出すものだと、花梨の方が面食らってしまう。
「……馬子にも衣装、って言いたいんでしょう?」
「そんなことない。何を着ても似合うと思ってはいた。……ただ、想像以上に可愛かったから見とれていた」
桐生はサラリと言ってのけた。たとえそれが社交辞令だったとしても、褒められて悪い気はしないものだ。花梨だってそうだ。
「あ、りがとうございます」
照れながらお礼を言うと、彼は「行こうか」と、会場のあるホテルを指差した。
「――そういえば、さっき話していた女の人たちはお知り合いですか?」
噴水の前にいた女性たちのことを尋ねると、桐生は首を傾げながら答えた。
「いや? 道を聞かれただけ」
「道……?」
(あんな噴水の前で人に道を聞いたりする……? ……あ、そっか)
彼はきっと女性に声をかけられていたのだろう。いわゆる逆ナンだ。駅を出てすぐに交番があるので、道を知りたいのならそこで尋ねるのが一番確実で手っ取り早い。
桐生が会話を終了させた時に彼女たちが見せた残念そうな表情からも、それがうかがえる。
(まぁ……見た目はすっごくかっこいいもんね……この人)
今日の桐生はスーツではない。とは言っても、セミフォーマルには近い服装だ。濃紺のジャケットの下にはごくごく薄い水色のシャツ、デニムのパンツにボルドーの革靴、靴と同色のベルト――シンプルだが彼が着ているとすべてが高級ブランドのものに見えてくるし、彼自身がモデルのようだ。女性が声をかけたくなってしまうのも理解できる。
(なんか……私が隣を歩いていてもいいのかしら)
桐生から誘われたので一緒に歩くのは当然のなりゆきとはいえ、花梨はそんなことを思ってしまう。隣を歩く彼は自分に注がれるピンクの視線など気にも留めていないようだ。
ホテルまでの道のり、桐生が何かと話題を振ってくれるので、沈黙に苛まれることはなかった。
「そういや直登も今日、柚羽さんと出かけると言っていたな」
「あー……そうみたい、ですね」
今朝出かける時に、柚羽が散々『桐生さんとのデート楽しみ!』と、まるで自分が桐生と出かけるかのように言ってきた。髪をアレンジしてもらっている時も、
『きっと可愛いって思ってもらえるわよ。後でどうだったか聞かせてね?』
と、念を押された。そう言う柚羽もおしゃれをしていたので聞いてみると、照れたように笑って答えた。
『眞木先生から映画に誘われてるの。お昼前に待ち合わせだから、花梨よりも家出るの遅いのよ』
それを聞いて心にチクリとするものがあったけれど、意識は個展に傾いていたので、気にしないようにして家を出た。
思い出してはぶり返す胸の痛みを忘れるように、花梨はふるふるとかぶりを振った。
「――ところで、伊集院大河の著書は持って来たのか?」
「え? あ、はい! 一冊だけですけど」
一昨日カフェから家に帰る時、桐生と連絡先を交換した。今日、連絡を取る必要が出た場合に、知っておいた方がいいと言われたからだ。
そして昨日の夜、桐生からメッセージが届いた。
“明日、伊集院に会えた時のために、サインしてもらえそうなものを持っていくといいと思う”
花梨は伊集院の著書はすべて持っていたので、その中でも一番大切にしている写真集を持参した。それは彼自身ではなく彼の過去の作品が網羅された本だ。花梨が小中学生の時に憧れて真似た作品もすべて掲載されている。彼女の思い出もたくさん詰まった一冊だ。
きっと今日、伊集院はホストとして沢山の招待客を相手にすることになるのだろう。サインなどとてももらえないとは思うけれど、せっかく桐生が言ってくれたのだからと、それだけはバッグに入れてきたのだ。
「してもらえるといいな、サイン」
桐生が優しい声でそう言ってくれた。
ホテルに着くと、案内の通りに会場へと向かう。受付には女性スタッフが立っていて、芳名帳への記入を求められる。桐生がペンを取り、きれいな字で二人分の名前を書いてくれた。
「展示物のフラッシュ撮影はご遠慮ください」
スタッフの一人がパンフレットを手渡しながら、そう言ってきた。花梨は桐生に断ってから、入口に掲げてある看板の写真を撮る。そこには『伊集院大河個展―息吹―』と、毛筆で書かれていた。彼女はそれに触れるか触れないかの距離で指を滑らせる。
「あー……なんか、すごくドキドキします。楽しみすぎて」
「気が済むまで看板を堪能したら、中に入ろう」
うっとりと看板を見つめている花梨に、桐生が笑いながら声をかけた。
港に面しており、駅周辺にはオフィスビル、商業ビル、ホテル、美術館などが立ち並び、日本有数の一大観光地としても有名だ。
花梨の自宅がある日月駅からは私鉄を使って十五分ほどで着く。
伊集院大河の個展の会場は駅から歩いて十分、シーサイドに位置するラグジュアリーホテル内のイベントホールらしい。
花梨は仕事以外で桜浜駅へ出るのは久しぶりだった。友人との女子会でたまに来たりはするものの、ショッピングともなるとそう頻繁にはない。どうしても自宅から車で十分ほどのショッピングモールで済ませてしまうからだ。
花梨は駅に降り立つと、南口へ出て待ち合わせ場所へ向かった。約束した時間まであと五分はある。南口駅前には大きな広場があり、その真ん中に噴水がある。そこで桐生と待ち合わせをしていた。
(あ……もう来てる)
噴水が見えてくると、多くの人の中に頭一つ出ている男性の姿が見えた。間違えようもない、桐生颯斗だ。以前彼に身長を尋ねたのだが、一八七センチだと言っていた。花梨も一六七センチほどあり女性としては高い方なのだが、それでも桐生とは二十センチの身長差があった。
小走りで駆け寄ると、彼は二人の女性と話をしていた。
(知り合い……?)
話しかけていいものか悩みつつ、少し離れたところで待っていると、少しして桐生が花梨に気づいたようで、彼女たちとの会話を強制終了した。
名残惜しそうな女性たちを尻目に、桐生は花梨の前に立つ。
「お、待たせしました。おはようございます」
ぺこりと頭を下げる花梨を見て、彼は目をぱちくりとさせた。そのまま言葉を発することなく見つめられ、気恥ずかしさで動きがぎこちなくなってしまう。
「な、なんですか……? この格好じゃまずかったですか?」
薄い水色地のマルチストライプの七分袖ブラウスに、ほのかに紫がかった淡いピンクのフレアスカートはリボンを前で結ぶタイプ、それにスモーキーブルーのパンプスを合わせて。バッグは白を選んだ。
髪は緩く巻いてハーフアップにした――これは柚羽にやってもらったのだが。
春らしいコーディネイトにしてみたけれど、どこかおかしいのだろうか。
「――いや、すごく可愛い」
桐生の声音には照れなど一切なかった。ごく普通に口から出た言葉のようだ。よく臆面もなくそういう台詞が飛び出すものだと、花梨の方が面食らってしまう。
「……馬子にも衣装、って言いたいんでしょう?」
「そんなことない。何を着ても似合うと思ってはいた。……ただ、想像以上に可愛かったから見とれていた」
桐生はサラリと言ってのけた。たとえそれが社交辞令だったとしても、褒められて悪い気はしないものだ。花梨だってそうだ。
「あ、りがとうございます」
照れながらお礼を言うと、彼は「行こうか」と、会場のあるホテルを指差した。
「――そういえば、さっき話していた女の人たちはお知り合いですか?」
噴水の前にいた女性たちのことを尋ねると、桐生は首を傾げながら答えた。
「いや? 道を聞かれただけ」
「道……?」
(あんな噴水の前で人に道を聞いたりする……? ……あ、そっか)
彼はきっと女性に声をかけられていたのだろう。いわゆる逆ナンだ。駅を出てすぐに交番があるので、道を知りたいのならそこで尋ねるのが一番確実で手っ取り早い。
桐生が会話を終了させた時に彼女たちが見せた残念そうな表情からも、それがうかがえる。
(まぁ……見た目はすっごくかっこいいもんね……この人)
今日の桐生はスーツではない。とは言っても、セミフォーマルには近い服装だ。濃紺のジャケットの下にはごくごく薄い水色のシャツ、デニムのパンツにボルドーの革靴、靴と同色のベルト――シンプルだが彼が着ているとすべてが高級ブランドのものに見えてくるし、彼自身がモデルのようだ。女性が声をかけたくなってしまうのも理解できる。
(なんか……私が隣を歩いていてもいいのかしら)
桐生から誘われたので一緒に歩くのは当然のなりゆきとはいえ、花梨はそんなことを思ってしまう。隣を歩く彼は自分に注がれるピンクの視線など気にも留めていないようだ。
ホテルまでの道のり、桐生が何かと話題を振ってくれるので、沈黙に苛まれることはなかった。
「そういや直登も今日、柚羽さんと出かけると言っていたな」
「あー……そうみたい、ですね」
今朝出かける時に、柚羽が散々『桐生さんとのデート楽しみ!』と、まるで自分が桐生と出かけるかのように言ってきた。髪をアレンジしてもらっている時も、
『きっと可愛いって思ってもらえるわよ。後でどうだったか聞かせてね?』
と、念を押された。そう言う柚羽もおしゃれをしていたので聞いてみると、照れたように笑って答えた。
『眞木先生から映画に誘われてるの。お昼前に待ち合わせだから、花梨よりも家出るの遅いのよ』
それを聞いて心にチクリとするものがあったけれど、意識は個展に傾いていたので、気にしないようにして家を出た。
思い出してはぶり返す胸の痛みを忘れるように、花梨はふるふるとかぶりを振った。
「――ところで、伊集院大河の著書は持って来たのか?」
「え? あ、はい! 一冊だけですけど」
一昨日カフェから家に帰る時、桐生と連絡先を交換した。今日、連絡を取る必要が出た場合に、知っておいた方がいいと言われたからだ。
そして昨日の夜、桐生からメッセージが届いた。
“明日、伊集院に会えた時のために、サインしてもらえそうなものを持っていくといいと思う”
花梨は伊集院の著書はすべて持っていたので、その中でも一番大切にしている写真集を持参した。それは彼自身ではなく彼の過去の作品が網羅された本だ。花梨が小中学生の時に憧れて真似た作品もすべて掲載されている。彼女の思い出もたくさん詰まった一冊だ。
きっと今日、伊集院はホストとして沢山の招待客を相手にすることになるのだろう。サインなどとてももらえないとは思うけれど、せっかく桐生が言ってくれたのだからと、それだけはバッグに入れてきたのだ。
「してもらえるといいな、サイン」
桐生が優しい声でそう言ってくれた。
ホテルに着くと、案内の通りに会場へと向かう。受付には女性スタッフが立っていて、芳名帳への記入を求められる。桐生がペンを取り、きれいな字で二人分の名前を書いてくれた。
「展示物のフラッシュ撮影はご遠慮ください」
スタッフの一人がパンフレットを手渡しながら、そう言ってきた。花梨は桐生に断ってから、入口に掲げてある看板の写真を撮る。そこには『伊集院大河個展―息吹―』と、毛筆で書かれていた。彼女はそれに触れるか触れないかの距離で指を滑らせる。
「あー……なんか、すごくドキドキします。楽しみすぎて」
「気が済むまで看板を堪能したら、中に入ろう」
うっとりと看板を見つめている花梨に、桐生が笑いながら声をかけた。
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