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 童子わらしが一人で山を下るにはちょうど良い季節であったなと、山神さまは埋めようのない空白を噛みしめながら呟きました。



 岩の洞窟の外は、童子と出会った寒い冬から季節が変わり、つかの間の青空が広がる初夏が訪れておりました。






 山神さまは、そのお姿で山に暮らす生き物を無闇に怯えさせないように、それはそれは長い間、身を潜めるようにして暮らしていらっしゃいました。ひどい吹雪のときや、暗い夜にしか、山にはお出ましになりません。

 そんな山神さまが朝の明るい日差しを浴びて、山の下生えが朝露に濡れてきらきらとしているのを、爽やかな風が葉を揺らし水滴を散らしていくのを、ただ静かに眺めております。


 日が高く昇るにつれ、山の強い日差しに朝露が消えてなくなっても、山神さまは一歩たりとも動かずにただ立っていました。






 山神さまは、何度も振り返りながら山を下っていった童子の後ろ姿を思い出します。

 そうすると、今からでも童子を追いかけていきたくなるような、童子の無事を祈らずにはいられないような、心許ない気持ちになるのでした。
 それでも神の端くれとして、この想いがきっと童子の良き加護となるようにと、山神さまは心を静めて真摯に立っているのです。






 今日という日までに、山神さまと童子はたくさん話し合いました。
 そうして日が暮れるまでには帰ると約束をして、童子は日の出とともに出立したのです。


 山の日暮れは早く、童子の目と足で暗い山道を登るとなると、きっと命取りになってしまうでしょう。もし火急の問題があった場合は、なんとしてでも童子のもとに駆けつけようと、山神さまは決意をしておいででした。





 そんな山神さまの六本の足の先には、朽ちることのない赤い注連縄しめなわが濃い緑の中で異彩を放っております。





 山神さまは、人里に下りません。大昔にみずからがそうお決めになりました。そのために戒めの赤い注連縄を、山神さまご自身でこの場所に据え置いたのです。

 その異形の姿と大きすぎる神の力で、混乱を招いてしまわないように。この地に住まう生き物がみな、心安らかに暮らせるように。
 赤い注連縄には、そういった山神さまの願いが込められているのでした。




 いつしか恐れながらも敬意をはらうべき神域であると人びとの間で周知の事実となるほどに、長い年月が過ぎ去っておりました。
 それはただの若木が、偶然にも神の力が宿る赤い注連縄によって山の生き物から守られ、結界門としてまつられるほどの巨木となるほどに長い年月です。





 今では大人十人が両手を広げても取り囲めないほど立派に育った木の根元には、白い団子がささやかに供えられています。
 大きなヤマアリが群がっておりますが、そう古い物ではありませんでした。以前にはなかった小さなほこらが建てられ、獣道も整えられているようです。

 山神さまはそれらをなるべく視界に入れないように、ただそよぐ木々を見つめておりました。






 



 山神さまの足元に影を落としていた太陽が、山の向こうに姿を消そうとしております。
 童子と約束をした日暮れが、山神さまの赤黒い毛並みを木々に溶かしていきます。

 山神さまは待ちました。
 心を静めて、童子の声を聞き逃すまいと耳を澄ませます。きっとどれほど離れていても、童子の助けを呼ぶ声を山神さまが聞き逃すはずもありません。だとしたらまだ待つべき時間なのだと、山神さまは赤い八つの目で木々の向こうを見つめます。


 どれほどそうしていたことでしょう。
 とっぷりと日は暮れ、うっそうと生える木々の隙間から、暗闇を切り取る松明の光がちらちらと見えました。一つではありません。どうやら数人で列をなし、山神さまのもとへと獣道を登ってくるようです。

 山神さまは静かに待ちました。
 




「やまがみさま! やまがみさま! おそくなってごめんなさい!」


 人の目からも赤い注連縄が見える距離にまできたのでしょう。背負子から飛び降りた童子が、跳ねるように山神さまめがけて駆けだしました。松明を持つ村人が慌てたように制止していますが、童子の耳には届きません。

 真新しい白い衣装に身を包んだ童子の姿は、まるで暗闇で光っているようでした。光りながら舞う蝶のようだと、山神さまは見つめます。

 童子が巨木の隆起した根っこに足を取られ転んでも、山神さまはじっと待ちました。
 童子はすぐさま立ち上がり、また山神さまをめがけて走ります。
 そのままの勢いで赤い注連縄の下をくぐり抜け、小さな足で一歩神域に踏み入れたとたんに、童子は山神さまの大きな手で抱きとめられました。童子もその小さな体いっぱいで、山神さまの大きな手にしがみつきます。

 はあはあと荒い息を整えながら、山神さまの手の中でぴょこぴょこと頭を下げるのでした。



「ようやく、かえってまいりました。おそくなってごめんなさい。しんぱいかけて、ごめんなさい」
「お前が無事だったのなら良い。久々の帰郷だ。いくらでも、ゆっくりしてきていいんだ」
「でも、おやまでひとりは、さみしかったでしょ」
「……寂しくなどなかったさ」




 山神さまは童子を地に降ろすと、まあるい爪でそっと背を押しました。




 童子が促されるままに振り返った先には、赤い注連縄。その向こう側には、数人の村の男が地に額を擦りつけるようにして平伏しているのでした。





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