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3_にえみえる
しおりを挟む一日に三度の食事の時間です。
食べ物を手にした山神さまの大きく長い手が、 童子に伸ばされます。
童子の頭上に、大きな大きな手の影が落ちると、童子は顔を上げて見えないはずの山神さまの手を目で追いました。
「小さいの、お前、目が見えるようになったのか?」
岩の洞窟に、驚いたような山神さまの声が響きました。山神さまの低くも高くもない不思議な響きのお声が、童子は好きでした。
「まだ、ぼんやりとです。でもくらいのと、あかるいのは、わかるようになりました。ぜんぶ、やまがみさまのおかげです!」
童子は嬉しくて嬉しくて、山神さまに頭を下げて、丁寧にお礼を言いました。そうすると小さな童子の体は、山神さまの獣毛にもふもふと埋もれて隠れてしまいます。
山神さまはその様子を、赤い八つの目で見つめました。
童子は自分の目が見えるようになったことよりも、毎日丁寧にお世話をしてくださった山神さまに、自分の体が応えられたことが誇らしかったのです。
「そうか。嬉しいか」
「はい! めがみえるようになったら、ぼくがやまがみさまのおせわをして、おたすけするんです! ぼく、きっときっと、やまがみさまのおやくにたちます!」
「役に立つから生かしているんじゃない。お前は我の貴重な話し相手だ。ゆめゆめ忘れるな」
「はい! ぼくは、やまがみさまのにえです! このごおんは、ぜったいわすれません!」
「お前、分かっておらんな」
山神さまは呆れたようなお声でそう言いながらも、食べ物をいくつか童子の膝の上に置いてくださいました。
花のような甘い匂いが童子の鼻をくすぐります。
村にいたとき甘味は貴重な食材で、山の木になる柿の熟したのが、童子の知っている一番の甘さでした。それが山神さまの背中で与えられる甘味の豊富さときたら、まるでこの世の極楽です。
村の爺さまが言っていた極楽とは、きっとこのことに違いないと、童子は頬を緩めながらまあるい食べ物を一つ手に取りました。それはつるつるとした手触りで、童子の両方の手のひらから少しはみ出すほどの大きさでした。
目にうんと近付けると、ぼんやり色が見えます。山神さまの毛並みを薄くしたような色です。目の見えなかった童子には色の名前は分かりませんが、山神さまに似た色はいい色だと思いました。山神さまの色は、童子のいっとう好きな色です。
一口食べれば、しゃくしゃくと歯ごたえがよく、みずみずしい甘さが口に広がりました。
山神さまはそんな童子の様子を、八つの赤い目で静かに見つめます。
「美味しいか」
「はい。とってもおいしいです。やまがみさまも、ぜひ、ひとくちどうぞ」
童子は、山神さまがお食事されているところを見たことがありません。もしかしたら食事を必要としないお体なのかもしれないなと思いましたが、美味しい食べ物を山神さまにも食べてもらいたいと、童子はまあるい食べ物を両手で捧げ持ちました。
立ち上がった拍子に、童子の膝の上にあった食べ物がぽすぽすと足元の毛並みの中に落ちていきます。
山神さまの手が、童子が倒れやしないかと心配するように、おろおろと彷徨っています。
童子はそれに気付かず、精一杯つま先立ちで高く高く食べ物を捧げ持ちました。童子の目では、遠くはまだまだ見えません。なんとなく山神さまのお声のする方へ、手を伸ばします。
童子の目の前が、ぬっと暗くなりました。
するとすぐに、鋭い牙がびっしりと生えた大きな口が、まあるい食べ物を慎重に咥えてさっと離れていきました。
湿った音を立てて嚥下する音が聞こえます。
童子の目では、お顔全体はぼやけていてよく分かりませんでした。それでも、ついでとばかりに長い舌がべろりと童子の手を舐めていったので、これは間違いなく山神さまのお顔なのだと分かりました。
この舌は、童子のよく知っている舌です。髪を舐めて整えてもらうと、とてもいい気持ちになれる舌です。
「ね? おいしいでしょう!」
童子が自信満々でそう問いかけると、山神さまは戸惑いながらも答えます。
「ああ。美味い」
たったそれだけの言葉で満面の笑みになる童子を見て、山神さまは小さな声を漏らしました。
「お前は、我が怖くはないのだな。そうか。生まれてからずっと、今までただの一度も、目が見えたことがないからか」
たしかに童子は、記憶のある限りずっと、暗い世界を手探りで暮らしてきました。耳に聞こえる生活音と、肌に感じる太陽の光でなんとか一日の時間の流れを感じる生活です。
目は見えなかったし、山神さまはちっとも怖くないと、童子は素直に一つ頷きました。
「そうか。こんなに美味しく感じたのは、初めてだ。きっと、お前が与えてくれたからだ」
童子には難しいことは分かりません。それでも山神さまの優しさはよく分かっていました。
村にいたときから、目が見えないからこそ、周りの感情には敏感であったからです。
そうでなくても、貧しい村で暮らす貧しい家族のお荷物であると、理解していた聡い童子です。贄に選ばれたときも、自分の感情よりも周りの期待に応えることを優先したような、優しい童子です。
童子は山神さまが向けてくださる温かな感情が、ずっと欲しくてたまらなかった愛情であればいいなと夢見ては、恐れ多いと反省することを繰り返していました。
自分を傷付けることのないように、山神さまが片方の手の爪を短くしてくださっていることを、童子は知っていました。
そうっとそうっと、まるで大切な壊れ物のように触れてくださる山神さまの手が、童子はとても好きでした。山神さまに優しく触れられるたび、自分がまるで価値あるもののような気持ちになれました。
山神さまの爪一つで、童子の顔ほどもある大きな手です。
毛むくじゃらで、恐ろしく指の長い大きな手です。
山で恐れられていた熊の手よりも、大きな手です。童子は、村の男衆が仕留めたという熊に、こっそり一度だけ触れたことがありました。冷たくて硬い手のひらと、ごわごわした毛皮と、そしてなによりも鋭い爪が恐ろしく、布団の中でこっそり泣いてしまったものでした。きっとその熊よりも何倍も強い手です。
それでも童子は、山神さまの手を怖いと思ったことはありませんでした。童子は、優しい山神さまの手が大好きでした。
よく分からないけれど、山神さまがお喜びになったようだと思った童子は、その日から与えられた食べ物の半分を、山神さまに捧げるようになってしまったのでした。
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