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風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜
ー金獅子と白龍ー
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ゆらゆらとランプの灯が揺らめく天幕の中、一人の男が静かに座していた。
男は物思いに耽っているようで、胡座をかいた状態で頬杖をつき、軽く瞳を閉じたまま、まったく動く気配がない。
ところがまるで彫像のように微動だにしなかった男が、突然何かの気配を感じたかのようにスッとその瞳を開く。
それと共に、男の金の瞳がすうっと滑らかに動き、天幕の入り口の方へと向けられた。
「…烙耀か?」
誰も居ないはずの空間に向かって、男が静かに声をかける。すると突然その場に若い『影』の男が現れ、スッと恭しく跪いた。
「はい、承っていたご伝言を風嘉側に伝えて参りました」
偉そうに見下ろす男に対し、淡々とそう答えた影は、薄茶色の短髪に浅黒い肌、男と同じ金の瞳のなかなかの美男だった。
影にしてはやけに物腰が柔らかく、そのため穏やかな印象を受けるが、おそらくそれは黒髪が普通の月鷲の民において、色素の薄い髪を持っているからこその影響もあるだろう。
それを受けて、天幕の中の男が微かに笑う。
仄かな灯に照らされ、ゆらりと映し出された受け手の男の姿もまた、普通の月鷲の民とは大きく違っていた。肌が浅黒く、瞳が金色なのは皆と同じだが、男の髪はまるで獅子の鬣のように豪奢な金髪で、ランプの灯を受けて夜目にも鮮やかにまばゆく輝く。
またその姿は誰よりも自信と威厳に満ち溢れ、見る者を平伏さずには居られないほどの気迫を放っていた。
そしてそんな男の口から影の男に向かって、静かに確認の言葉が零れ落ちる。
「…直接あいつには会えたのか?」
「いえ、実は向かっている途中で、あちらの『影』と遭遇致しまして…」
そう聞いて、男が実に楽しげにこう呟く。
「…嘉魄か。なるほど、やはりあちらも気付いていたようだな」
「はい。さすがは『風嘉の白龍』…といったところでしょうか」
「ふん、まぁそうじゃなきゃ俺も面白くないからな。それに小虫とはいえ、さすがにあれも鬱陶しくなってきた…。ここらで始末しておかないと、後々害になるだろう」
フフッと楽しげに、豪奢な金髪を揺らしながら、男は自らの影の前で独り言る。
それを受けて烙耀と呼ばれた影は、自らの主人に対し、静かにこう返した。
「…そうは仰いますが、最初からそういうご予定だったのでしょう?」
「ほぅ…?何故そう思う?」
突然の問いに、男が楽しげに問い返す。
すると烙耀は、実に理路整然とその理由を語ってみせた。
「今までも…あの方に関しては、いくらでも始末する機会はございました。けれど鴎悧様は、『捨て置け』とわざとあの方を泳がせておいでだった。おそらくいずれこうなる事を見越して、そうされていたのでは…?」
そう返され、男が無言でニヤリと笑う。
否定の言葉がないところを見ると、やはり事実だったのだなと烙耀は確信した。
『月鷲の金獅子』との異名を取るこの主人は、その見た目の軽薄さを裏切り、 実に狡猾で冷徹な真の為政者だ。
わざと無能な振りをしながら相手の油断を誘い、事態を見極めつつ冷静に分析をする。
そして一旦『不要』と判断すれば、それまでが嘘のように手のひらを返し、完膚無きまでに始末する…そんな怖ろしい男である。
だからこそ今のこの事態は、主人がそうなるように仕向けた結果という事であった。
その事を彼の『影』である烙耀は、嫌というほどよく知っている。そしてその予想通り、鴎悧帝は事も無げにこう答えた。
「雑草ごときの始末なら、いつでも出来るからな。だがどうせ刈り取るなら、二度と生えてこないようにしないと意味がない」
「…仮にも血の繋がっている叔父上様を、『雑草』扱いですか…」
そのあまりの言い草に、さすがに烙耀が眉を顰めると、鴎悧帝は容赦なくこう言い放つ。
「それ以外どう表現しろと?皇家の血を引いているというだけで、何の役にも立たん穀潰しのくせに、愚かにも分不相応の夢に取り憑かれおって…。しかも泳がされてる事にも気付かず、無様に踊り続ける阿呆など、叔父だと思った事もないわ」
どこまでも冷淡にそう吐き棄てると、鴎悧帝はふいに楽しげにこう呟く。
「まぁどうにもならん馬鹿だが、最後の最後に役に立ったな。あいつのお陰で、思いがけず璉に会えるのだから、逆に感謝せねばならんかもしれん」
そう言いつつフフッと笑うと、鴎悧帝はもはや叔父の事など歯牙にもかけず、お気に入りの『風嘉の白龍』へと思いを馳せる。
それを仕方無さそうに眺めながら、烙耀は一人、口には出さずにこう考えていた。
『…さて、あの御仁がそう上手く利用されてくれますかね…?むしろうちの主人の方が、気が付いたらうまく踊らされていた…という事にならなければ良いのですが…』
どう考えても自分の主人より、一枚も二枚も上手と思われる隣国の皇帝の事を、烙耀は過小評価する気にはなれなかった。
また彼の『影』を務める嘉魄も、この世界では五本の指に入るほどの実力者である。
烙耀としては、出来る事ならどちらも敵に回したくないというのが本音であった。
『まぁ幸いな事に、あちらの方も鴎悧様に対して好意的だ。敢えてあちらの逆鱗に触れるような真似さえしなければ、大事には至らないでしょう』
そう烙耀は判断したが、まさか実際にその逆鱗に触れるような事態が起ころうとは、さすがに想像もしていなかった。
月鷲側でそんなやり取りが行われていた頃、当然のように璉と同じ部屋へと通された鴻夏は、早速自らの行動を後悔していた。
おそらくこの砦の中では最上級の部屋なのだろうが、お世辞にも広いとは言い難い部屋の中で、やたらとその存在感を主張している大きな寝台の上に今、鴻夏は転がされていた。
そしてそんな鴻夏を見下ろす形で、璉が鴻夏の両手首を一纏めにして寝台に縫い止めつつ、実に楽しげに見下ろしている。
何でこんな事になったのか、その経緯を思い出してみるが、自分でもよくわからないうちにこうなっていたとしか言えなかった…。
確か宴が終わった後、璉に流れるように自然にこの部屋へと連れ込まれ、部屋の扉を閉めるや否や強引に口付けられて、ぼぅっとしている間に寝台の上に押し倒されていた。
自分がどうやってここまで移動したのかもわからないが、大ピンチなのは間違いない。
まだまだ全然、いただかれる覚悟が出来ていない鴻夏に対し、璉が意地悪くこう囁く。
「…さて、今朝の続きをしましょうか?」
「あ…いや、そ、それは…その…」
明らかに困り果てている鴻夏を見ながら、璉はニコニコとこの状況を楽しんでいる。
そしてすうっと左手で鴻夏の顎を撫で上げると、妙に色っぽくこう囁いた。
「今朝は中途半端にしてしまって、申し訳なかったですね。多分、今なら邪魔は入らないと思うのですが…」
軽く鴻夏の髪に口付けながら、さらりととんでもない事を言い出した相手に、鴻夏がこれ以上ないほど動揺する。
そして何とか逃げねばと焦りながら、鴻夏はあまり意味のない事をモゴモゴと口にした。
「あ…いやその…っ、そ…れはまだご遠慮したいというか…。その…やっぱり怖いし、なんか痛そうだしで、色々と踏ん切りが…っ!」
ジタバタと抵抗しつつも、とりあえずそう主張してみたが、璉は事も無げにこう答える。
「…ふぅん?それだけの問題なら、初めてでも充分気持ち良くさせる自信はあるので、いただいてしまってもいいんでしょうか…?」
軽々と右手一本で鴻夏の抵抗を押さえつつ、そう言ってのけた相手に、鴻夏が青くなる。
さすが百戦錬磨のプロとでも言おうか…。
簡単に『それだけの問題』と片付けられてしまい絶句していると、無言は了承と受け取ったのか、するりと璉の左手が鴻夏の背中に回って器用にドレスのボタンを外した。
途端に上半身からドレス特有の締め付け感がなくなり、はらりと身体から服が離れる気配がして、鴻夏はハッと正気を取り戻す。
「ちょ…っ、ちょっと璉っ⁉︎ま、まだダメだって…!」
「どうして…?鴻夏も別に、私の事が嫌いではないんでしょう?」
意地悪く璉にそう聞かれ、鴻夏はうまく説明出来なくて泣きたくなる。
「そ…うだけど、まだ早いというか…!勇気が出ないというか…っ」
そう言いながら微かに震えていると、璉が溜め息をつきつつ、スッと鴻夏から離れた。
その隙に慌てて起き上がり、ドレスの胸元を押さえながら恐る恐る相手を見返すと、璉が少し困ったような顔でこう呟く。
「…仕方ないですねぇ…。まぁ貴女がその気になるまで待つと約束しましたしね。無理強いはしませんよ」
「れ…璉…」
ニコリと安心させるかのように微笑むと、璉はそのまま寝台から離れ、部屋の奥に置かれた収納家具の前へと移動した。
そしてその棚を開け、中から何枚かの布と女性用の夜着を一組取り出すと、それを持って鴻夏のところまで戻ってくる。
「…そのままでは寝られないでしょう?お湯を用意してもらってきますね」
そう言って着替えを手渡すと、璉はそのまま部屋の外へと出て行ってしまった。
何となく気まずい思いのまま、その背中を見送った鴻夏は、手渡された着替えをぎゅっと抱き締めながらポツリと呟く。
「ど…どうしよう…。マズかったかしら…」
璉の事は嫌いではない。むしろ大好きだ。
触られるのも嫌ではないし、もしそういう事をするのなら、相手は璉しか考えられない。
そう思ってはいるが、どうしても鴻夏はまだ一線を越える勇気が持てなかった。
璉の過去に関係のあった女性達に対する態度を見ていると、自分も関係を持ったが最後、飽きられるのではないかと不安になる。
そう思ってぐるぐると一人悩んでいたら、璉が数人の侍女を連れて部屋へと戻ってきた。
そして侍女らはテキパキと部屋の隅に湯船を設置し、その中に運んできた湯を張るなど入浴の準備を済ませると皆一礼して出て行く。
それを見てあれ?と思っていたら、璉がその考えを読んだかのようにこう言った。
「…砦にも共用の湯殿はありますが、鴻夏の場合は誰かと一緒はマズいでしょう?それに身分の高い方ほど部屋で入る方が多いので、誰も気にしませんよ」
「あ、ええと…そうじゃなくて…。その…璉の居る前で…入る…の…?」
恐る恐るそう尋ねると、至極当然とばかりに璉が答える。
「部屋の中で入るのだから、もちろんそうなりますね。それに一人だと髪を洗うのも大変でしょう?手伝いますよ」
「はっ?いや…皇帝陛下に風呂の世話をさせる妃なんて居ないでしょ⁉︎」
「別にいいですよ?一応皇帝ではありますが、そんなご大層な者ではありませんし。それに部屋の中での事ですから、誰かに見られているわけでもありませんし」
さらりとそう言われ、鴻夏が凍り付く。
そして慌ててこう言い募った。
「…いやいや、おかしいでしょ⁉︎今来てくれた侍女達に手伝ってもらわず、何で璉に手伝って貰うの⁉︎」
「砦の者達に鴻夏の裸を見られる訳にはいかないでしょう?それにもう夜も遅いですから、彼女達も早く休みたいでしょうし。あと何回も湯を用意して貰うくらいなら、鴻夏の世話がてら私も一緒に入れば、一度で済むかなと思いまして…」
「はっ⁉︎い、一緒に入るって…っ⁉︎」
何でもない事のようにさらりとそう言われ、鴻夏が思わず聞き返すと、にっこり笑って璉が答える。
「別に夫婦なんだから普通でしょう?彼女達も当然そうするものだと思って、一人分の湯だけ用意して帰っていったわけだし…」
そこで一旦言葉を区切り、璉が鴻夏が断れないよう笑顔でダメ押しをする。
「まさか私に入るなとは言いませんよね?」
有無を言わさず璉がそう言うのを、鴻夏は何も考えられない頭でボンヤリと聞いていた。
翌朝 爽やかに頰を撫でる風を受けて、鴻夏はふと目を覚ました。一瞬自分がどこに居るのか理解出来ず、ボンヤリと風の来る方向へと視線を動かすと、窓際で片足を抱え込むようにして座る人物の姿が目に入ってくる。
長い亜麻色の髪を風に靡かせ、どこか遠くの一点を見つめているその姿は、まるで一枚の絵画のように優雅で美しかった。
そしてそんな視線に気付いたのか、ふとその人物が鴻夏の方へと振り返る。
その一挙一動を食い入るように眺めながら、鴻夏は無意識にその人の名を口にしていた。
「れ…璉…?」
「…起こしてしまいましたか?おはようございます、鴻夏」
にっこりと朝陽を受けながら微笑むのは、鴻夏の夫である璉こと璉瀏帝であった。
相変わらず妙に艶っぽい雰囲気を出しながら、璉は風に靡く自らの髪を押さえるように無造作に掻き上げると、スッと窓際からまだ寝台の上に居る鴻夏の下へと戻って来た。
そして流れるように自然に鴻夏へと近付き、その口唇に軽く口付ける。
そっと口唇を離して見つめると、鴻夏は真っ赤な顔をして自らの口唇を押さえて俯いた。
それを見て璉がくすりと笑う。
「今日も私の妃は綺麗で可愛いですね。よく眠れましたか?」
「あ…ええ、おかげさまで…。璉は…?」
そう答える鴻夏を安心させるように抱き締めながら、璉も穏やかにこう答える。
「私も先ほどまで隣で寝てましたよ。今日は視察の名目で、砦の外に出てきますね?外で合流した樓爛と視察役を交代し、私はそのまま嘉魄と月鷲まで出向いてきます」
「だ…大丈夫なの…?危険なんじゃ…?」
不安そうに見つめてくる鴻夏の頰に手を添えると、璉は安心させるかのように微笑む。
「大丈夫ですよ。数時間、月鷲側に出向いて来るだけです。鴎悧帝も壁の近くまで来てるようなので、すぐに合流出来ますよ」
「無理…しないでね?あ、あと…その…あ、あんまり鴎悧帝に…その…触らせないで…ね?」
ボソボソと消え入りそうな声でそう言うと、鴻夏は真っ赤な顔で俯いた。
それを受けて、璉が嬉しそうにこう答える。
「…はい、気をつけます。結婚前ならともかく、今の私は鴻夏の専属ですからね」
「せ、専属って…」
聞き慣れない言葉に鴻夏が思わず反応すると、璉がキョトンとした顔でこう尋ねる。
「…あれ、違いました?結婚したので、もう鴻夏以外とはしてはいけないのかと思ってたんですけど…。鴎悧帝に望まれたら、夜のお相手をしてきてもいいんでしょうか?」
「だ…ダメですっ‼︎」
真っ赤な顔できっぱりそう言うと、璉がくすくすと笑ってこう答える。
「…ですよね。大丈夫、迫られてもちゃんとお断りしますので」
「絶対よ?もう私と結婚したんだから、私以外の人とはダメなんだからねっ?」
そう言って鴻夏が強く念を押すと、璉がふいに意地悪い表情でこう呟く。
「そうですねぇ…。でもそれでしたら、鴻夏もちゃんと私のお相手をしてくれなきゃダメですよね?」
「え…?」
「私もこれでも男なので、あんまり焦らされ続けると、欲求不満で他の方にお相手を頼んでしまうかもしれませんよ…?」
実に艶っぽく鴻夏の耳元でそう告げると、璉はそのままするりと鴻夏から離れた。
そして意味深な笑みを一つ残して、そのまま部屋の外へと出て行ってしまう。
「え…っ?今のって…えぇーっ⁉︎」
一人部屋に残された鴻夏の口から、ようやくそんな叫びが漏れたのは、璉が姿を消してから随分経った後だった。
陽が完全に登りきった頃、璉は視察団と南方軍の一部を率いて、砦の外へと視察に出向いて行った。今日の視察日程はかなりの強行軍のため、それに付いて行けそうにない鴻夏達は砦での留守番を言い渡されている。
仕方なく璉達を見送った鴻夏は、今日はもうやる事もなくなり、またもや居心地の悪い思いを味わっていた。何しろ先ほどからチクチクと、嫉妬の視線が鴻夏を貫いている。
『これはまた昨夜の続きか』と思ったところで、ふいに隣に立つ暁鴉が鴻夏と同じような感想を口にした。
「どうにも懲りない連中だね。主に一喝されたぐらいじゃ、引き下がらないか…」
「暁鴉…私もう針のむしろなんだけど…」
ウンザリした様子でそう告げると、暁鴉が溜め息混じりにこう答える。
「まぁ、それも仕方ないかな。誰にも興味を示さなかった主が、鴻夏様にはデレデレだからねぇ…。それにあの主が、まさか誰かと寝所を共にする日が来るとは思わなかったよ」
「え…?」
言われた意味がまるでわからず、キョトンとして暁鴉を見つめ返すと、暁鴉が鴻夏のためだけに補足説明をしてくれる。
そしてそのあまりに予想外の内容に、鴻夏は思わず我が耳を疑った。
「うちの主はさ、望まれれば誰のお相手でもするような人だけど、代わりに誰かと一緒に朝を迎えるような人でもなかったんだ。生まれた時から常に命を狙われてきたから、もはやそれが癖になってたのかもしれないけど、とにかく共に夜を過ごす事はあっても一緒の寝台で眠る事はない。朝には自室に戻ってしまうか、そのまま寝ないかのどちらかで、誰も主の寝顔を見た事ないんだよ」
そう言われて、鴻夏は呆然とする。
誰とも一緒に眠らない人だと言われたが、昨夜も璉は当たり前のように鴻夏と同じ寝台で、鴻夏を抱き締めながら眠りについた。
夜中にふと目覚めた時に、隣で眠る彼の体温と寝息を感じて、ひどく安心してまた眠りに落ちたのを覚えている。
それが本来ならば有り得ない事だなんて、俄かには信じられなかった。
そして鴻夏は信じられない思いで、無意味な言葉を口にする。
「え…?で、でも…昨夜も璉は…」
「…そう。鴻夏様とはちゃんと一緒に寝てるんだろ?それってもう奇跡に近いよ」
暁鴉が嘘を言っているようにも思えず、鴻夏はますます混乱する。
『嘘⁉︎だってこの旅の間中、ずっと璉は私と一緒に寝てて…。昨夜は強引にお風呂にまで一緒に…。え、でもそれも私だけ…なの…⁉︎』
そう思った瞬間、恥ずかしいやら嬉しいやらで鴻夏は一気に真っ赤になる。
色事に関しては、すでにプロと言うべき域にいる璉だからこそ、てっきり誰とでもそういう事をしているのだろうと思っていた。
だから今までどれだけの人が、この人と一緒に幸せな朝を迎えたのだろうと、言い知れない嫉妬に打ちのめされてもいた。
ところが思いがけずそれが自分だけだと言われ、鴻夏は動揺を隠せない。
『…嘘…。あの人の…穏やかな寝顔を知ってるのは私だけ?あの人の温もりを感じながら、幸せな朝を迎えた事があるのも私だけ…⁉︎』
もしそれが本当なら、自分は一体どれだけの人達の恨みを買ったのだろうと鴻夏は思う。
まさか当たり前のように与えられていた幸せが、自分だけに許された特権だったなんて、思いもしなかった。だって璉は、そんな事を一言も言ってくれなかったから。
そして深い深い溜め息をつきながら、鴻夏は暁鴉に向かってこう呟く。
「…暁鴉…。私 今ものすごく、過去の璉の恋人達の恨みを買ったような気がしたわ…」
「まぁしっかり買ってるだろうさ。誰も主に本気で相手にして貰えなかったんだからね」
ニヤニヤと笑いながら、暁鴉がそう返す。
それを未だに信じられない思いで聞きながら、鴻夏は何とも言えない複雑な思いで、璉の消えた地平線の彼方を見据えた。
一方 砦から少し離れた場所で、璉は早くも西方領からやって来た樓爛と合流していた。
彼は昨日のうちに砦まで行く事も可能な距離まで来ていたのだが、なぜか嘉魄を通じ、璉からその場での待機を言い渡され、渋々もう一泊野営する羽目になったのである。
そのため璉に会った途端、樓爛はその小太りの身体を揺らしながら、ぶつくさと不平不満を口にする。
「まったくもう!璉は昨夜からちゃんとした寝台で寝てるんだろうけど、私は昨夜も天幕暮らしだったんだからね?しかも食事もそっちはご馳走だったんだろうけど、私は簡易食だからね⁉︎いきなり西方領から呼びつけられた挙句に、この仕打ちって一体何なのっ⁉︎」
半分キレながらそういう樓爛に、璉は腕組みをしたままこう告げる。
「…でも元をたどれば、樓爛の失態ですよね?いくら南方領での事とは言え、横領を見落としたのは財務長官である君の責任でしょう」
「も~っ、それはホントに悪かったってば!でも私だって万能じゃないんだから、大きな額ならともかく、遠くでちまちまやられる程度の事なんてそう簡単には気付けないよ!」
もはや完全に開き直ってそう文句を返しながら、樓爛が璉に食ってかかる。
それに対し、璉は実に冷静にこう返した。
「だから挽回の機会も兼ねて、わざわざここまで呼んだんでしょう?私に文句を言う暇があったら、サッサッと片付けてきて下さい」
さらりとそう言われ、樓爛がハァッと大きな溜め息をつきながら頭を抱える。そしてヤケになったのか、彼は仕方なくこう答えた。
「あぁもぉ~、わかった、わかりましたよ!ちゃんと証拠掴んで、密輸ルートを潰して来ればいいんでしょ?」
「わかればいいんです。いいですか?二度と同じ事が繰り返されないよう、徹底的に潰して来て下さい。でも皆殺しにするのはダメですよ?生き証人は必要ですからね…」
口調こそいつも通りの穏やかなものだったが、その瞳がいつになく危険な光を宿す。
時折ふいに見せる、冷酷な為政者の顔を覗かせながら、璉は冷ややかに樓爛を見つめた。
その途端ゾクリと背筋が凍るような恐怖が駆け抜け、樓爛は冷や汗を流しつつこう呟く。
「…やだなぁ。おっかない顔しないでよ、璉?私の方が今にも殺されそうだよ」
「おや、そう見えます?でも貴方にはまだ役に立ってもらわなくてはならないので、今のところは殺す予定はありませんよ…?」
フフッと悪魔のような笑みを浮かべながら、璉が穏やかにそう語る。それを受けて樓爛は、両手を軽く挙げながらこうボヤいた。
「あぁ、もう!何でこんな性格悪い人に仕えちゃったかなぁ?私も大概趣味が悪いよ」
ブツブツと文句を垂れつつも、樓爛は諦めたかのように盛大な溜め息をつく。
それを受けて璉が、静かにこう指示した。
「それじゃあ、私の代わりに視察をお願いしますね?あと多少は掴んでいるんでしょうが、証拠探しとルート潰しも忘れずに」
「…はいはい、ホント人使い荒いんだから。私がストレスで倒れたらどうするのさ?」
そう不満げに樓爛が問うと、璉は先ほどまでの雰囲気はどこへやら…いつも通りの穏やかな笑顔でこう告げる。
「この程度で君が倒れるわけないでしょう?西の海の支配者が、まさか南方領の小者程度に手こずるとは思えませんけどねぇ…?」
さりげなく言葉じりに樓爛への信頼と評価を滲ませながら、璉がチラリと視線を投げる。
それを受けて、樓爛が少し照れ臭そうな顔をしながらこう答えた。
「…私を評価してくれるのは、ありがたいんだけどさ。そもそもここは私の領域じゃないんだけどね、璉?」
「経済界を泳ぎ続ける『白鯨』にとって、領域なんて関係ないでしょう?君にかかれば、この世界全てが縄張りですから」
「言ってくれるねぇ。でもそういう璉こそ、この世界すべてが庭みたいなもんだろ?」
予想外にそう返され、思わず璉が苦笑する。
そして彼は困ったような顔をしながら、こう答えた。
「そうでもないです。君が思うほど私は器用ではないので、自国の事で手一杯ですよ」
そう語ると璉はその場を樓爛に任せ、嘉魄のみを伴って視察団を離れた。
ここからは公に出来ない事をしに行くので、供は最低限にしなければならない。
そのため久し振りに嘉魄と二人、馬を走らせながら、璉が静かにこう問いかける。
「鴎悧帝とはどこで落ち合う予定です?」
「…ここから数キロ先の月鷲側の草原です。そこに天幕を立てて、お待ちになっているとのご伝言でした」
その答えを聞いて、璉がくすりと笑う。
「まさか月鷲帝自ら、この私に不法入国して来いと仰るとはね…。まぁ、あの方らしいと言えばそれまでですが…」
「よろしいんじゃないでしょうか?先だってはあちらの方が、大人数で我が国に不法入国なさってましたし…」
そう嘉魄が答えると、璉があぁと思い当たったような顔をする。
「そう言えばそうでしたね。鴻夏を迎えに行った帰りに、我が国のオアシスにいらっしゃってたんでした。あまりにも大胆過ぎて失念していましたが、確かにあれもそうですね」
フフッと楽しげにそう語ると、ふいに璉は間近に迫ってきた国境の壁を見据える。
普段なら門のない場所以外は特に人影もなく、ただひたすら強固な石壁が続くだけなのだが、その上に今 一人の男の影があった。
遠目にも見覚えのあるその姿に、璉も嘉魄も無言で馬の足を止める。
それを見届け、ひらりと身軽に壁の上から地上へと降り立った人物は、二人に対し優雅に一礼をすると、恭しい態度でこう語った。
「…お待ちしておりました。わざわざご足労いただき、ありがとうございます。ここから先は、私が主人の元まで案内させていただきます」
そう静かに語ったのは、薄茶色の短髪に浅黒い肌の鴎悧帝の『影』、烙耀であった。
白い瀟洒な天幕の中、約一ヶ月半ぶりに二人の人物が再会を果たしていた。
一人は派手な金髪に浅黒い肌、鋭い金の瞳が印象的な華麗で威厳に満ち溢れた美丈夫。
その見た目と苛烈な気性から、『月鷲の金獅子』の異名をとる月鷲帝、濤 鴎悧であった。
対するは長い亜麻色の髪に金彩の入った翠の瞳、どちらかというと細身で優しげな容姿の男。
よく見るとそれなりに整った容姿をしているのだが、どちらかというと野に咲く名もない花のようにひっそりとした雰囲気で、目の前に座す鴎悧帝に比べたら、華やかさも相手の気持ちを鼓舞させるような魅力もない。
だがその見た目を裏切る実力は本物で、近隣諸国から『風嘉の白龍』と呼ばれ、最も恐れられている風嘉帝、緫 璉瀏その人であった。
四大皇国の中でも、一、二位を争うほど有名な武帝同士の秘密会談となると、普通はもっと緊迫した雰囲気を想像するものだが、実際のそれはお互いの立場と実力からはとても考えられないほど、和やかなものであった。
今も鴎悧帝がひどく楽しげに璉の手を捉えながら、何事かを口説き続けている。
そしてその内容は政治的というより、つれない相手に熱心に愛を語る男のそれであった。
「そろそろ俺の物にならないか、璉?」
「…結婚したばかりの私に、よくそんな台詞が吐けますね…。貴方の事は嫌いではありませんが、そういう節操なしなところは頂けないです」
しれっと冷たく璉が遇らうと、鴎悧帝が心外だと言わんばかりにこう語る。
「何を言ってるんだ。せっかく目の前に狙ってる獲物が居るというのに、何で空気を読む必要がある?それに政略結婚の相手なんて、数に入れる必要もないだろう」
「…ホント前向きな肉食系ですね…。でも残念ながら私の場合は恋愛結婚です。だから妻が嫌がるので、あんまり触らないで下さい」
そう言ってパシッと冷たく手を振り払われた鴎悧帝が、しばし呆然とした顔をする。
まるで聞き取れない言葉で言われたかのように、そのまま目を丸くして固まっていたが、すぐに彼は確認するかのようにこう呟いた。
「…は?恋愛結婚?お前が⁉︎」
「失礼ですねぇ…。私が恋愛したらダメなんですか」
不服そうに睨む璉に、鴎悧帝がたたみ掛ける。
「いやいや、他の奴ならともかくお前だろ?誰と居てもまるで興味を示さなかったお前が恋愛?ないだろ、普通」
「それに関しては、特に否定する気もありませんが…あまり本人を目の前に言わないでくれません?さすがに傷付きますよ」
「傷付く?お前がぁ?お前、いつからそんなに人間臭くなったんだ?」
「…ホント失礼ですねぇ。私は最初から人間ですよ。一体何だと思ってたんですか」
呆れたように璉が呟くと、鴎悧帝が心底面白そうにこう答える。
「まぁ敢えて言うなら、人の形をしている獣だな。絶対に飼い慣らせない、誇り高い野生の獣。まぁだからこそ、俺は敢えて飼ってみたくなるんだが…」
そう言って鴎悧帝は懲りずに手を伸ばしたが、すぐにその手をすげなく払われる。
そして璉は、僅かに身に纏う雰囲気を変えると、実に冷ややかにこう尋ねた。
「野生の獣…ね。でもそういう貴方も同じでしょう?誰よりも貪欲で誰よりも誇り高い『金獅子』。月鷲の皇位に就くにあたって、一体どれだけの血を流したのです?」
痛烈な皮肉であったが、それすらも鴎悧帝は余裕の表情で躱す。
「さぁてね?もう忘れたな。俺より弱い奴らの事なんて、いちいち覚えちゃいないさ」
「…貴方がそんなんだから、こっちにまでとばっちりが来るんですよ」
ふいに璉が溜め息混じりにそう呟き、チラリとその翠の瞳が目の前の鴎悧帝を捕らえる。
そして璉は確信を持って、鴎悧帝に向かってこう尋ねた。
「今回の件、敢えて風嘉を巻き込むように仕向けましたね…?何故です?」
璉の射抜くような強い視線に、鴎悧帝は余裕で微笑みながらこう答える。
「…さすがにわかるか」
「わからないわけないでしょう?あんな穴だらけの計画、貴方が気付かないわけがない」
冷ややかにそう返す璉に、鴎悧帝がニヤリと笑った。そして彼は事も無げにこう答える。
「あんなどうしようもない馬鹿でも、一応は皇族でな。始末するとなると、それなりの証拠と罪状が必要になるのさ。まったく…役にも立たん穀潰しのくせに、血筋だけは立派で参るよ」
そうわざとらしくボヤいて見せた鴎悧帝に、璉が確信めいた疑問を投げる。
「…それだけが理由とは思えませんけどね…?貴方の事だから、あわよくば私が出て来ないかと狙っていたのでしょう?」
「もちろん、それもあるな。どうにもならん馬鹿だが、お前と会える機会を作ってくれた事には感謝せんとな」
さらりとそう言ってのける相手に、璉は思わず苦々しい視線を返す。すると相手はそれすらも楽しいとばかりに、こう語った。
「…まぁそう嫌そうな顔をするなよ。お前も長年の膿を出せるんだ。お互いにとって利益のある話じゃないか?」
「どう考えても貴方に都合よく、事態が動かされてますよね?しかもうちの方は小者で、本来ならば大した影響も出ないはずなのに、貴方が無駄に操作してくれたお陰で、両国を巻き込んでの大事になってしまってる。この落とし前をどうつけるおつもりです?」
キッと見据えると、鴎悧帝は璉の怒りの感情すら嬉しいとばかりに、ご機嫌でこう返す。
「…まぁそう怒るなよ、璉。どうせ小者同士の悪だくみだ。底も浅ければ、大きな穴も開いている。そうそう上手くいかない事くらい、お前だってわかっているだろう?」
そう言われ、璉が忌々しげにこう答える。
「確かにあの穴だらけの計画では、成功するはずもありませんが、それでも影響はそこそこあります。無駄な被害は良しとしません」
「まぁまぁ。代わりに禍根無く刈り取れるだろう?しかも同じような事を企む奴等には、いい見せしめにもなる。これでお互い、当分は静かに過ごせるだろう」
ニヤリと笑いながら、鴎悧帝がそう語る。
それを見て幾分呆れながらも、璉はやはりこの男は油断がならないと密かに思っていた。
正直見た目の派手さに惑わされがちだが、こう見えて鴎悧帝はかなりの策略家である。
まるで真綿で首を締めるかの如く、ゆっくりじっくり機会を伺い、そして着実に相手を追い詰めていく。そしていざという時には、何の容赦も慈悲もなく徹底的に叩き潰す。
実際の獅子が鼠を狩る時ですら全力を尽くすのと同じく、この男もいざ狩ると決めたら、それこそ全力で狩りに来る。
だからこそ『金獅子』との異名があるのだ。
もし本気で鴎悧帝と殺り合う事になったら、さすがの璉も確実に勝てる保証は無い。
過去に鴎悧帝とは何度か戦場で合間見えてはいるが、あの頃の自分達はお互いまだ一将軍に過ぎず、当時指揮できた軍勢は今動かせる人数の十分の一ほどに過ぎなかった。
しかも上に居る者達に邪魔をされ、お互い本当の実力を出し切れていたわけでもない。
だが皇帝となった今、もし殺り合うとなれば、それこそ国を挙げての総力戦となる。
今のところは鴎悧帝がやたらと璉の事を気に入っているため、非常に友好的な関係を保っているが、それもこの男の気まぐれ一つでいつ逆転するとも限らなかった。
だからこそ璉は、いくらふざけた態度を取られても、決して鴎悧帝を過小評価しない。
鴎悧帝は出来る事なら敵に回したくないと璉に思わせる、数少ない男の一人なのである。
そして一見お遊びにしか見えないこの関係も、実はお互い腹の探り合い、策の仕掛け合いで、結構目には見えない駆け引きがある。
今もふざけた口調で璉を口説きながら、鴎悧帝はさり気なくこう囁いた。
「…ああ、そうそう。お前が探っていた密輸ルートの件だがな。うちの国内に張り巡らされてた分に関しては、すでに俺の方で叩き潰しておいたぞ。だからそっちの分を潰せば、もはや使い物にならんはずだ」
その何気無い囁きにピクリと璉が反応する。
そして一瞬、ゆらりと怒りのオーラを纏った璉が正面から鴎悧帝を見つめた。
「…相変わらず早耳ですね。ご自分で仕掛けられた事ですから、潰すのも一瞬ですか」
そう冷たく返すと、ニヤリと鴎悧帝が笑う。
自分が他事に気を取られている間の事だったとはいえ、今回の件は明らかに鴎悧帝にしてやられた感が拭えない。
いつから仕掛けられていたのか…おそらく数年前から少しずつといったところなのだろうが、今までそれに気付けなかったのだから、完全に自分の失態としか言えないだろう。
そしてもし本気で鴎悧帝が仕掛けてきていたなら、被害はこんな物では済まなかったはずだとわかるだけに、璉は内心苛立ちが隠せなかった。
ところがそんな時、鴎悧帝との駆け引きすら一瞬で忘れるほどの報告が璉に届いたのだ。
「主!」
ふいに何の許しも請わずに、その場に嘉魄が現れた。鴎悧帝も居る中、今まで一度もここまで焦って現れた事などなかったのに…と驚く璉に、嘉魄は二つの緊急連絡を差し出す。
それを手に取り、璉は素早く目を通した。
一つは砦で鴻夏を護っているはずの暁鴉から、もう一つは視察団を率いて密輸ルートを潰しに行ったはずの樓爛からで、その内容はほぼ同じ文面であった。
そしてそれを確認した途端、璉は珍しく一気に怒りも露わにその手紙を握り潰す。
一瞬で目の前の人物が、本来の『白龍』へと豹変するのを目の当たりにした鴎悧帝は、背筋が凍り付くほどの恐怖とそれを遥かに上回る興奮で、気分が高揚するのを感じていた。
そしてそんな鴎悧帝に向かって、豹変した璉が凍るような視線を向ける。
「…鴎悧。貴方はこうなる事がわかってて、わざとあれを焚きつけたのですか…?」
「どういう事だ…?」
「鴻夏が…闇商人に連れ去られました。他にも騙されて密輸に協力させられていた若者達が、一緒に捕らわれたようです」
淡々と語りながらも、璉の全身から抑えようのない怒りのオーラが滲み出している。
ビリビリと痛みすら感じるほどの気迫に、知らず冷や汗を流しながら、それでも鴎悧帝は為政者らしく冷静にこう答えた。
「…知らんな。さすがの俺でも、阿呆の仕出かす事までは予測し切れんわ」
「わざとではない…と?」
「俺はそんなつまらん事で、嘘はつかん」
はっきりそう言い切ると、璉はしばらくの間、無言でジッと鴎悧帝を見つめた。
それに対し、鴎悧帝も負けじと見つめ返し、二人の皇帝の視線が苛烈にぶつかり合う。
一瞬とも永遠とも取れる時間の中、何を感じとったのか、ふいに璉が視線を落とす。
そして深い溜め息と共に、彼は口を開いた。
「…わかりました。わざとではないという貴方の言葉は信じましょう。けれどこれは大きな貸しですからね?あとそちらの黒幕らの命については、保証は致し兼ねますので、最初からそのおつもりで…」
冷ややかに、そしてこれ以上ないほどの怒りを込めて、璉がそう宣言する。
一気に天幕内の気温を氷点下まで叩き落とすと、璉はそのまま勢いよく踵を返した。
「…戻りますよ、嘉魄!」
「はっ」
短い応えと共に二人が天幕から出て行くと、慌てて入れ違いでその場に烙耀が現れる。
「鴎悧様!ご無事ですかっ⁉︎一体何事が起こったのです⁉︎」
明らかに只事ではない雰囲気を醸し出す風嘉帝に驚き、主人の安否を確かめに来た烙耀は、宙を見つめたままその場に取り残されている鴎悧帝に慌てて駆け寄る。
「鴎悧様⁉︎しっかりなさってください!」
驚きつつもその肩を揺さぶると、フッとその視線が動き、烙耀の姿を捉える。
てっきり正気を失っているのかと思ったが、思いがけず理知的な視線を返され、烙耀は思わずホッとした。しかし次に発せられた鴎悧帝の言葉に、烙耀は思わず絶句する。
「…見たか、烙耀?」
「鴎悧様…?」
「あの璉が…あの何事にも一切興味を示さない璉が!初めて俺の前で怒りも露わに、俺の事を呼び捨てたぞ!」
ウキウキと実に楽しそうな声で語りながら、鴎悧帝がご機嫌でそう語る。
あまりの主人の能天気さに、呆れて絶句する烙耀の前で、鴎悧帝はふいに為政者の顔に戻ると、ひどく楽しげにこう呟いた。
「…予想外に面白くなってきた。烙耀!俺も璉の後に続いて風嘉側に行くぞ」
「えっ⁉︎そ、それは不法入国…っ!」
「まぁ細かい事は気にするな。どうせ俺は、今ここには居ない事になってるんだからな。ここに居ない者が、国境を越えられるはずもない…そうだろう?」
ニッと彼らしい屁理屈を捏ながら、鴎悧帝が実に楽しげにそう答える。
「行くぞ、烙耀!」
「…はっ」
言い出したら絶対に聞かない主人の事、止めても無駄だとわかっている烙耀は、内心複雑な思いを抱えながらも渋々そう返答した。
しかし今まで見た事がないほど、怒り心頭であった風嘉帝に対し、その怒りを向けられた事に喜ぶとは、自分の主人は根性が座っているというよりすでに感覚がおかしいと思う。
もしかして違う意味で大物かもしれないと思いながら、烙耀は何が『白龍』をあそこまで怒らせたのかと、その事が気になった。
『まさか『白龍』の逆鱗に触れるような馬鹿が出るとはね…。一体誰がそんな大それた事を仕出かしたのやら…』
間違いなくそいつの命はないな…と思いながら、烙耀は主人に付いて国境を越えた。
そして後世にまでその名を残す二人の武帝は、秘密裏に風嘉の南方領で、新たな伝説を作ったのである。
男は物思いに耽っているようで、胡座をかいた状態で頬杖をつき、軽く瞳を閉じたまま、まったく動く気配がない。
ところがまるで彫像のように微動だにしなかった男が、突然何かの気配を感じたかのようにスッとその瞳を開く。
それと共に、男の金の瞳がすうっと滑らかに動き、天幕の入り口の方へと向けられた。
「…烙耀か?」
誰も居ないはずの空間に向かって、男が静かに声をかける。すると突然その場に若い『影』の男が現れ、スッと恭しく跪いた。
「はい、承っていたご伝言を風嘉側に伝えて参りました」
偉そうに見下ろす男に対し、淡々とそう答えた影は、薄茶色の短髪に浅黒い肌、男と同じ金の瞳のなかなかの美男だった。
影にしてはやけに物腰が柔らかく、そのため穏やかな印象を受けるが、おそらくそれは黒髪が普通の月鷲の民において、色素の薄い髪を持っているからこその影響もあるだろう。
それを受けて、天幕の中の男が微かに笑う。
仄かな灯に照らされ、ゆらりと映し出された受け手の男の姿もまた、普通の月鷲の民とは大きく違っていた。肌が浅黒く、瞳が金色なのは皆と同じだが、男の髪はまるで獅子の鬣のように豪奢な金髪で、ランプの灯を受けて夜目にも鮮やかにまばゆく輝く。
またその姿は誰よりも自信と威厳に満ち溢れ、見る者を平伏さずには居られないほどの気迫を放っていた。
そしてそんな男の口から影の男に向かって、静かに確認の言葉が零れ落ちる。
「…直接あいつには会えたのか?」
「いえ、実は向かっている途中で、あちらの『影』と遭遇致しまして…」
そう聞いて、男が実に楽しげにこう呟く。
「…嘉魄か。なるほど、やはりあちらも気付いていたようだな」
「はい。さすがは『風嘉の白龍』…といったところでしょうか」
「ふん、まぁそうじゃなきゃ俺も面白くないからな。それに小虫とはいえ、さすがにあれも鬱陶しくなってきた…。ここらで始末しておかないと、後々害になるだろう」
フフッと楽しげに、豪奢な金髪を揺らしながら、男は自らの影の前で独り言る。
それを受けて烙耀と呼ばれた影は、自らの主人に対し、静かにこう返した。
「…そうは仰いますが、最初からそういうご予定だったのでしょう?」
「ほぅ…?何故そう思う?」
突然の問いに、男が楽しげに問い返す。
すると烙耀は、実に理路整然とその理由を語ってみせた。
「今までも…あの方に関しては、いくらでも始末する機会はございました。けれど鴎悧様は、『捨て置け』とわざとあの方を泳がせておいでだった。おそらくいずれこうなる事を見越して、そうされていたのでは…?」
そう返され、男が無言でニヤリと笑う。
否定の言葉がないところを見ると、やはり事実だったのだなと烙耀は確信した。
『月鷲の金獅子』との異名を取るこの主人は、その見た目の軽薄さを裏切り、 実に狡猾で冷徹な真の為政者だ。
わざと無能な振りをしながら相手の油断を誘い、事態を見極めつつ冷静に分析をする。
そして一旦『不要』と判断すれば、それまでが嘘のように手のひらを返し、完膚無きまでに始末する…そんな怖ろしい男である。
だからこそ今のこの事態は、主人がそうなるように仕向けた結果という事であった。
その事を彼の『影』である烙耀は、嫌というほどよく知っている。そしてその予想通り、鴎悧帝は事も無げにこう答えた。
「雑草ごときの始末なら、いつでも出来るからな。だがどうせ刈り取るなら、二度と生えてこないようにしないと意味がない」
「…仮にも血の繋がっている叔父上様を、『雑草』扱いですか…」
そのあまりの言い草に、さすがに烙耀が眉を顰めると、鴎悧帝は容赦なくこう言い放つ。
「それ以外どう表現しろと?皇家の血を引いているというだけで、何の役にも立たん穀潰しのくせに、愚かにも分不相応の夢に取り憑かれおって…。しかも泳がされてる事にも気付かず、無様に踊り続ける阿呆など、叔父だと思った事もないわ」
どこまでも冷淡にそう吐き棄てると、鴎悧帝はふいに楽しげにこう呟く。
「まぁどうにもならん馬鹿だが、最後の最後に役に立ったな。あいつのお陰で、思いがけず璉に会えるのだから、逆に感謝せねばならんかもしれん」
そう言いつつフフッと笑うと、鴎悧帝はもはや叔父の事など歯牙にもかけず、お気に入りの『風嘉の白龍』へと思いを馳せる。
それを仕方無さそうに眺めながら、烙耀は一人、口には出さずにこう考えていた。
『…さて、あの御仁がそう上手く利用されてくれますかね…?むしろうちの主人の方が、気が付いたらうまく踊らされていた…という事にならなければ良いのですが…』
どう考えても自分の主人より、一枚も二枚も上手と思われる隣国の皇帝の事を、烙耀は過小評価する気にはなれなかった。
また彼の『影』を務める嘉魄も、この世界では五本の指に入るほどの実力者である。
烙耀としては、出来る事ならどちらも敵に回したくないというのが本音であった。
『まぁ幸いな事に、あちらの方も鴎悧様に対して好意的だ。敢えてあちらの逆鱗に触れるような真似さえしなければ、大事には至らないでしょう』
そう烙耀は判断したが、まさか実際にその逆鱗に触れるような事態が起ころうとは、さすがに想像もしていなかった。
月鷲側でそんなやり取りが行われていた頃、当然のように璉と同じ部屋へと通された鴻夏は、早速自らの行動を後悔していた。
おそらくこの砦の中では最上級の部屋なのだろうが、お世辞にも広いとは言い難い部屋の中で、やたらとその存在感を主張している大きな寝台の上に今、鴻夏は転がされていた。
そしてそんな鴻夏を見下ろす形で、璉が鴻夏の両手首を一纏めにして寝台に縫い止めつつ、実に楽しげに見下ろしている。
何でこんな事になったのか、その経緯を思い出してみるが、自分でもよくわからないうちにこうなっていたとしか言えなかった…。
確か宴が終わった後、璉に流れるように自然にこの部屋へと連れ込まれ、部屋の扉を閉めるや否や強引に口付けられて、ぼぅっとしている間に寝台の上に押し倒されていた。
自分がどうやってここまで移動したのかもわからないが、大ピンチなのは間違いない。
まだまだ全然、いただかれる覚悟が出来ていない鴻夏に対し、璉が意地悪くこう囁く。
「…さて、今朝の続きをしましょうか?」
「あ…いや、そ、それは…その…」
明らかに困り果てている鴻夏を見ながら、璉はニコニコとこの状況を楽しんでいる。
そしてすうっと左手で鴻夏の顎を撫で上げると、妙に色っぽくこう囁いた。
「今朝は中途半端にしてしまって、申し訳なかったですね。多分、今なら邪魔は入らないと思うのですが…」
軽く鴻夏の髪に口付けながら、さらりととんでもない事を言い出した相手に、鴻夏がこれ以上ないほど動揺する。
そして何とか逃げねばと焦りながら、鴻夏はあまり意味のない事をモゴモゴと口にした。
「あ…いやその…っ、そ…れはまだご遠慮したいというか…。その…やっぱり怖いし、なんか痛そうだしで、色々と踏ん切りが…っ!」
ジタバタと抵抗しつつも、とりあえずそう主張してみたが、璉は事も無げにこう答える。
「…ふぅん?それだけの問題なら、初めてでも充分気持ち良くさせる自信はあるので、いただいてしまってもいいんでしょうか…?」
軽々と右手一本で鴻夏の抵抗を押さえつつ、そう言ってのけた相手に、鴻夏が青くなる。
さすが百戦錬磨のプロとでも言おうか…。
簡単に『それだけの問題』と片付けられてしまい絶句していると、無言は了承と受け取ったのか、するりと璉の左手が鴻夏の背中に回って器用にドレスのボタンを外した。
途端に上半身からドレス特有の締め付け感がなくなり、はらりと身体から服が離れる気配がして、鴻夏はハッと正気を取り戻す。
「ちょ…っ、ちょっと璉っ⁉︎ま、まだダメだって…!」
「どうして…?鴻夏も別に、私の事が嫌いではないんでしょう?」
意地悪く璉にそう聞かれ、鴻夏はうまく説明出来なくて泣きたくなる。
「そ…うだけど、まだ早いというか…!勇気が出ないというか…っ」
そう言いながら微かに震えていると、璉が溜め息をつきつつ、スッと鴻夏から離れた。
その隙に慌てて起き上がり、ドレスの胸元を押さえながら恐る恐る相手を見返すと、璉が少し困ったような顔でこう呟く。
「…仕方ないですねぇ…。まぁ貴女がその気になるまで待つと約束しましたしね。無理強いはしませんよ」
「れ…璉…」
ニコリと安心させるかのように微笑むと、璉はそのまま寝台から離れ、部屋の奥に置かれた収納家具の前へと移動した。
そしてその棚を開け、中から何枚かの布と女性用の夜着を一組取り出すと、それを持って鴻夏のところまで戻ってくる。
「…そのままでは寝られないでしょう?お湯を用意してもらってきますね」
そう言って着替えを手渡すと、璉はそのまま部屋の外へと出て行ってしまった。
何となく気まずい思いのまま、その背中を見送った鴻夏は、手渡された着替えをぎゅっと抱き締めながらポツリと呟く。
「ど…どうしよう…。マズかったかしら…」
璉の事は嫌いではない。むしろ大好きだ。
触られるのも嫌ではないし、もしそういう事をするのなら、相手は璉しか考えられない。
そう思ってはいるが、どうしても鴻夏はまだ一線を越える勇気が持てなかった。
璉の過去に関係のあった女性達に対する態度を見ていると、自分も関係を持ったが最後、飽きられるのではないかと不安になる。
そう思ってぐるぐると一人悩んでいたら、璉が数人の侍女を連れて部屋へと戻ってきた。
そして侍女らはテキパキと部屋の隅に湯船を設置し、その中に運んできた湯を張るなど入浴の準備を済ませると皆一礼して出て行く。
それを見てあれ?と思っていたら、璉がその考えを読んだかのようにこう言った。
「…砦にも共用の湯殿はありますが、鴻夏の場合は誰かと一緒はマズいでしょう?それに身分の高い方ほど部屋で入る方が多いので、誰も気にしませんよ」
「あ、ええと…そうじゃなくて…。その…璉の居る前で…入る…の…?」
恐る恐るそう尋ねると、至極当然とばかりに璉が答える。
「部屋の中で入るのだから、もちろんそうなりますね。それに一人だと髪を洗うのも大変でしょう?手伝いますよ」
「はっ?いや…皇帝陛下に風呂の世話をさせる妃なんて居ないでしょ⁉︎」
「別にいいですよ?一応皇帝ではありますが、そんなご大層な者ではありませんし。それに部屋の中での事ですから、誰かに見られているわけでもありませんし」
さらりとそう言われ、鴻夏が凍り付く。
そして慌ててこう言い募った。
「…いやいや、おかしいでしょ⁉︎今来てくれた侍女達に手伝ってもらわず、何で璉に手伝って貰うの⁉︎」
「砦の者達に鴻夏の裸を見られる訳にはいかないでしょう?それにもう夜も遅いですから、彼女達も早く休みたいでしょうし。あと何回も湯を用意して貰うくらいなら、鴻夏の世話がてら私も一緒に入れば、一度で済むかなと思いまして…」
「はっ⁉︎い、一緒に入るって…っ⁉︎」
何でもない事のようにさらりとそう言われ、鴻夏が思わず聞き返すと、にっこり笑って璉が答える。
「別に夫婦なんだから普通でしょう?彼女達も当然そうするものだと思って、一人分の湯だけ用意して帰っていったわけだし…」
そこで一旦言葉を区切り、璉が鴻夏が断れないよう笑顔でダメ押しをする。
「まさか私に入るなとは言いませんよね?」
有無を言わさず璉がそう言うのを、鴻夏は何も考えられない頭でボンヤリと聞いていた。
翌朝 爽やかに頰を撫でる風を受けて、鴻夏はふと目を覚ました。一瞬自分がどこに居るのか理解出来ず、ボンヤリと風の来る方向へと視線を動かすと、窓際で片足を抱え込むようにして座る人物の姿が目に入ってくる。
長い亜麻色の髪を風に靡かせ、どこか遠くの一点を見つめているその姿は、まるで一枚の絵画のように優雅で美しかった。
そしてそんな視線に気付いたのか、ふとその人物が鴻夏の方へと振り返る。
その一挙一動を食い入るように眺めながら、鴻夏は無意識にその人の名を口にしていた。
「れ…璉…?」
「…起こしてしまいましたか?おはようございます、鴻夏」
にっこりと朝陽を受けながら微笑むのは、鴻夏の夫である璉こと璉瀏帝であった。
相変わらず妙に艶っぽい雰囲気を出しながら、璉は風に靡く自らの髪を押さえるように無造作に掻き上げると、スッと窓際からまだ寝台の上に居る鴻夏の下へと戻って来た。
そして流れるように自然に鴻夏へと近付き、その口唇に軽く口付ける。
そっと口唇を離して見つめると、鴻夏は真っ赤な顔をして自らの口唇を押さえて俯いた。
それを見て璉がくすりと笑う。
「今日も私の妃は綺麗で可愛いですね。よく眠れましたか?」
「あ…ええ、おかげさまで…。璉は…?」
そう答える鴻夏を安心させるように抱き締めながら、璉も穏やかにこう答える。
「私も先ほどまで隣で寝てましたよ。今日は視察の名目で、砦の外に出てきますね?外で合流した樓爛と視察役を交代し、私はそのまま嘉魄と月鷲まで出向いてきます」
「だ…大丈夫なの…?危険なんじゃ…?」
不安そうに見つめてくる鴻夏の頰に手を添えると、璉は安心させるかのように微笑む。
「大丈夫ですよ。数時間、月鷲側に出向いて来るだけです。鴎悧帝も壁の近くまで来てるようなので、すぐに合流出来ますよ」
「無理…しないでね?あ、あと…その…あ、あんまり鴎悧帝に…その…触らせないで…ね?」
ボソボソと消え入りそうな声でそう言うと、鴻夏は真っ赤な顔で俯いた。
それを受けて、璉が嬉しそうにこう答える。
「…はい、気をつけます。結婚前ならともかく、今の私は鴻夏の専属ですからね」
「せ、専属って…」
聞き慣れない言葉に鴻夏が思わず反応すると、璉がキョトンとした顔でこう尋ねる。
「…あれ、違いました?結婚したので、もう鴻夏以外とはしてはいけないのかと思ってたんですけど…。鴎悧帝に望まれたら、夜のお相手をしてきてもいいんでしょうか?」
「だ…ダメですっ‼︎」
真っ赤な顔できっぱりそう言うと、璉がくすくすと笑ってこう答える。
「…ですよね。大丈夫、迫られてもちゃんとお断りしますので」
「絶対よ?もう私と結婚したんだから、私以外の人とはダメなんだからねっ?」
そう言って鴻夏が強く念を押すと、璉がふいに意地悪い表情でこう呟く。
「そうですねぇ…。でもそれでしたら、鴻夏もちゃんと私のお相手をしてくれなきゃダメですよね?」
「え…?」
「私もこれでも男なので、あんまり焦らされ続けると、欲求不満で他の方にお相手を頼んでしまうかもしれませんよ…?」
実に艶っぽく鴻夏の耳元でそう告げると、璉はそのままするりと鴻夏から離れた。
そして意味深な笑みを一つ残して、そのまま部屋の外へと出て行ってしまう。
「え…っ?今のって…えぇーっ⁉︎」
一人部屋に残された鴻夏の口から、ようやくそんな叫びが漏れたのは、璉が姿を消してから随分経った後だった。
陽が完全に登りきった頃、璉は視察団と南方軍の一部を率いて、砦の外へと視察に出向いて行った。今日の視察日程はかなりの強行軍のため、それに付いて行けそうにない鴻夏達は砦での留守番を言い渡されている。
仕方なく璉達を見送った鴻夏は、今日はもうやる事もなくなり、またもや居心地の悪い思いを味わっていた。何しろ先ほどからチクチクと、嫉妬の視線が鴻夏を貫いている。
『これはまた昨夜の続きか』と思ったところで、ふいに隣に立つ暁鴉が鴻夏と同じような感想を口にした。
「どうにも懲りない連中だね。主に一喝されたぐらいじゃ、引き下がらないか…」
「暁鴉…私もう針のむしろなんだけど…」
ウンザリした様子でそう告げると、暁鴉が溜め息混じりにこう答える。
「まぁ、それも仕方ないかな。誰にも興味を示さなかった主が、鴻夏様にはデレデレだからねぇ…。それにあの主が、まさか誰かと寝所を共にする日が来るとは思わなかったよ」
「え…?」
言われた意味がまるでわからず、キョトンとして暁鴉を見つめ返すと、暁鴉が鴻夏のためだけに補足説明をしてくれる。
そしてそのあまりに予想外の内容に、鴻夏は思わず我が耳を疑った。
「うちの主はさ、望まれれば誰のお相手でもするような人だけど、代わりに誰かと一緒に朝を迎えるような人でもなかったんだ。生まれた時から常に命を狙われてきたから、もはやそれが癖になってたのかもしれないけど、とにかく共に夜を過ごす事はあっても一緒の寝台で眠る事はない。朝には自室に戻ってしまうか、そのまま寝ないかのどちらかで、誰も主の寝顔を見た事ないんだよ」
そう言われて、鴻夏は呆然とする。
誰とも一緒に眠らない人だと言われたが、昨夜も璉は当たり前のように鴻夏と同じ寝台で、鴻夏を抱き締めながら眠りについた。
夜中にふと目覚めた時に、隣で眠る彼の体温と寝息を感じて、ひどく安心してまた眠りに落ちたのを覚えている。
それが本来ならば有り得ない事だなんて、俄かには信じられなかった。
そして鴻夏は信じられない思いで、無意味な言葉を口にする。
「え…?で、でも…昨夜も璉は…」
「…そう。鴻夏様とはちゃんと一緒に寝てるんだろ?それってもう奇跡に近いよ」
暁鴉が嘘を言っているようにも思えず、鴻夏はますます混乱する。
『嘘⁉︎だってこの旅の間中、ずっと璉は私と一緒に寝てて…。昨夜は強引にお風呂にまで一緒に…。え、でもそれも私だけ…なの…⁉︎』
そう思った瞬間、恥ずかしいやら嬉しいやらで鴻夏は一気に真っ赤になる。
色事に関しては、すでにプロと言うべき域にいる璉だからこそ、てっきり誰とでもそういう事をしているのだろうと思っていた。
だから今までどれだけの人が、この人と一緒に幸せな朝を迎えたのだろうと、言い知れない嫉妬に打ちのめされてもいた。
ところが思いがけずそれが自分だけだと言われ、鴻夏は動揺を隠せない。
『…嘘…。あの人の…穏やかな寝顔を知ってるのは私だけ?あの人の温もりを感じながら、幸せな朝を迎えた事があるのも私だけ…⁉︎』
もしそれが本当なら、自分は一体どれだけの人達の恨みを買ったのだろうと鴻夏は思う。
まさか当たり前のように与えられていた幸せが、自分だけに許された特権だったなんて、思いもしなかった。だって璉は、そんな事を一言も言ってくれなかったから。
そして深い深い溜め息をつきながら、鴻夏は暁鴉に向かってこう呟く。
「…暁鴉…。私 今ものすごく、過去の璉の恋人達の恨みを買ったような気がしたわ…」
「まぁしっかり買ってるだろうさ。誰も主に本気で相手にして貰えなかったんだからね」
ニヤニヤと笑いながら、暁鴉がそう返す。
それを未だに信じられない思いで聞きながら、鴻夏は何とも言えない複雑な思いで、璉の消えた地平線の彼方を見据えた。
一方 砦から少し離れた場所で、璉は早くも西方領からやって来た樓爛と合流していた。
彼は昨日のうちに砦まで行く事も可能な距離まで来ていたのだが、なぜか嘉魄を通じ、璉からその場での待機を言い渡され、渋々もう一泊野営する羽目になったのである。
そのため璉に会った途端、樓爛はその小太りの身体を揺らしながら、ぶつくさと不平不満を口にする。
「まったくもう!璉は昨夜からちゃんとした寝台で寝てるんだろうけど、私は昨夜も天幕暮らしだったんだからね?しかも食事もそっちはご馳走だったんだろうけど、私は簡易食だからね⁉︎いきなり西方領から呼びつけられた挙句に、この仕打ちって一体何なのっ⁉︎」
半分キレながらそういう樓爛に、璉は腕組みをしたままこう告げる。
「…でも元をたどれば、樓爛の失態ですよね?いくら南方領での事とは言え、横領を見落としたのは財務長官である君の責任でしょう」
「も~っ、それはホントに悪かったってば!でも私だって万能じゃないんだから、大きな額ならともかく、遠くでちまちまやられる程度の事なんてそう簡単には気付けないよ!」
もはや完全に開き直ってそう文句を返しながら、樓爛が璉に食ってかかる。
それに対し、璉は実に冷静にこう返した。
「だから挽回の機会も兼ねて、わざわざここまで呼んだんでしょう?私に文句を言う暇があったら、サッサッと片付けてきて下さい」
さらりとそう言われ、樓爛がハァッと大きな溜め息をつきながら頭を抱える。そしてヤケになったのか、彼は仕方なくこう答えた。
「あぁもぉ~、わかった、わかりましたよ!ちゃんと証拠掴んで、密輸ルートを潰して来ればいいんでしょ?」
「わかればいいんです。いいですか?二度と同じ事が繰り返されないよう、徹底的に潰して来て下さい。でも皆殺しにするのはダメですよ?生き証人は必要ですからね…」
口調こそいつも通りの穏やかなものだったが、その瞳がいつになく危険な光を宿す。
時折ふいに見せる、冷酷な為政者の顔を覗かせながら、璉は冷ややかに樓爛を見つめた。
その途端ゾクリと背筋が凍るような恐怖が駆け抜け、樓爛は冷や汗を流しつつこう呟く。
「…やだなぁ。おっかない顔しないでよ、璉?私の方が今にも殺されそうだよ」
「おや、そう見えます?でも貴方にはまだ役に立ってもらわなくてはならないので、今のところは殺す予定はありませんよ…?」
フフッと悪魔のような笑みを浮かべながら、璉が穏やかにそう語る。それを受けて樓爛は、両手を軽く挙げながらこうボヤいた。
「あぁ、もう!何でこんな性格悪い人に仕えちゃったかなぁ?私も大概趣味が悪いよ」
ブツブツと文句を垂れつつも、樓爛は諦めたかのように盛大な溜め息をつく。
それを受けて璉が、静かにこう指示した。
「それじゃあ、私の代わりに視察をお願いしますね?あと多少は掴んでいるんでしょうが、証拠探しとルート潰しも忘れずに」
「…はいはい、ホント人使い荒いんだから。私がストレスで倒れたらどうするのさ?」
そう不満げに樓爛が問うと、璉は先ほどまでの雰囲気はどこへやら…いつも通りの穏やかな笑顔でこう告げる。
「この程度で君が倒れるわけないでしょう?西の海の支配者が、まさか南方領の小者程度に手こずるとは思えませんけどねぇ…?」
さりげなく言葉じりに樓爛への信頼と評価を滲ませながら、璉がチラリと視線を投げる。
それを受けて、樓爛が少し照れ臭そうな顔をしながらこう答えた。
「…私を評価してくれるのは、ありがたいんだけどさ。そもそもここは私の領域じゃないんだけどね、璉?」
「経済界を泳ぎ続ける『白鯨』にとって、領域なんて関係ないでしょう?君にかかれば、この世界全てが縄張りですから」
「言ってくれるねぇ。でもそういう璉こそ、この世界すべてが庭みたいなもんだろ?」
予想外にそう返され、思わず璉が苦笑する。
そして彼は困ったような顔をしながら、こう答えた。
「そうでもないです。君が思うほど私は器用ではないので、自国の事で手一杯ですよ」
そう語ると璉はその場を樓爛に任せ、嘉魄のみを伴って視察団を離れた。
ここからは公に出来ない事をしに行くので、供は最低限にしなければならない。
そのため久し振りに嘉魄と二人、馬を走らせながら、璉が静かにこう問いかける。
「鴎悧帝とはどこで落ち合う予定です?」
「…ここから数キロ先の月鷲側の草原です。そこに天幕を立てて、お待ちになっているとのご伝言でした」
その答えを聞いて、璉がくすりと笑う。
「まさか月鷲帝自ら、この私に不法入国して来いと仰るとはね…。まぁ、あの方らしいと言えばそれまでですが…」
「よろしいんじゃないでしょうか?先だってはあちらの方が、大人数で我が国に不法入国なさってましたし…」
そう嘉魄が答えると、璉があぁと思い当たったような顔をする。
「そう言えばそうでしたね。鴻夏を迎えに行った帰りに、我が国のオアシスにいらっしゃってたんでした。あまりにも大胆過ぎて失念していましたが、確かにあれもそうですね」
フフッと楽しげにそう語ると、ふいに璉は間近に迫ってきた国境の壁を見据える。
普段なら門のない場所以外は特に人影もなく、ただひたすら強固な石壁が続くだけなのだが、その上に今 一人の男の影があった。
遠目にも見覚えのあるその姿に、璉も嘉魄も無言で馬の足を止める。
それを見届け、ひらりと身軽に壁の上から地上へと降り立った人物は、二人に対し優雅に一礼をすると、恭しい態度でこう語った。
「…お待ちしておりました。わざわざご足労いただき、ありがとうございます。ここから先は、私が主人の元まで案内させていただきます」
そう静かに語ったのは、薄茶色の短髪に浅黒い肌の鴎悧帝の『影』、烙耀であった。
白い瀟洒な天幕の中、約一ヶ月半ぶりに二人の人物が再会を果たしていた。
一人は派手な金髪に浅黒い肌、鋭い金の瞳が印象的な華麗で威厳に満ち溢れた美丈夫。
その見た目と苛烈な気性から、『月鷲の金獅子』の異名をとる月鷲帝、濤 鴎悧であった。
対するは長い亜麻色の髪に金彩の入った翠の瞳、どちらかというと細身で優しげな容姿の男。
よく見るとそれなりに整った容姿をしているのだが、どちらかというと野に咲く名もない花のようにひっそりとした雰囲気で、目の前に座す鴎悧帝に比べたら、華やかさも相手の気持ちを鼓舞させるような魅力もない。
だがその見た目を裏切る実力は本物で、近隣諸国から『風嘉の白龍』と呼ばれ、最も恐れられている風嘉帝、緫 璉瀏その人であった。
四大皇国の中でも、一、二位を争うほど有名な武帝同士の秘密会談となると、普通はもっと緊迫した雰囲気を想像するものだが、実際のそれはお互いの立場と実力からはとても考えられないほど、和やかなものであった。
今も鴎悧帝がひどく楽しげに璉の手を捉えながら、何事かを口説き続けている。
そしてその内容は政治的というより、つれない相手に熱心に愛を語る男のそれであった。
「そろそろ俺の物にならないか、璉?」
「…結婚したばかりの私に、よくそんな台詞が吐けますね…。貴方の事は嫌いではありませんが、そういう節操なしなところは頂けないです」
しれっと冷たく璉が遇らうと、鴎悧帝が心外だと言わんばかりにこう語る。
「何を言ってるんだ。せっかく目の前に狙ってる獲物が居るというのに、何で空気を読む必要がある?それに政略結婚の相手なんて、数に入れる必要もないだろう」
「…ホント前向きな肉食系ですね…。でも残念ながら私の場合は恋愛結婚です。だから妻が嫌がるので、あんまり触らないで下さい」
そう言ってパシッと冷たく手を振り払われた鴎悧帝が、しばし呆然とした顔をする。
まるで聞き取れない言葉で言われたかのように、そのまま目を丸くして固まっていたが、すぐに彼は確認するかのようにこう呟いた。
「…は?恋愛結婚?お前が⁉︎」
「失礼ですねぇ…。私が恋愛したらダメなんですか」
不服そうに睨む璉に、鴎悧帝がたたみ掛ける。
「いやいや、他の奴ならともかくお前だろ?誰と居てもまるで興味を示さなかったお前が恋愛?ないだろ、普通」
「それに関しては、特に否定する気もありませんが…あまり本人を目の前に言わないでくれません?さすがに傷付きますよ」
「傷付く?お前がぁ?お前、いつからそんなに人間臭くなったんだ?」
「…ホント失礼ですねぇ。私は最初から人間ですよ。一体何だと思ってたんですか」
呆れたように璉が呟くと、鴎悧帝が心底面白そうにこう答える。
「まぁ敢えて言うなら、人の形をしている獣だな。絶対に飼い慣らせない、誇り高い野生の獣。まぁだからこそ、俺は敢えて飼ってみたくなるんだが…」
そう言って鴎悧帝は懲りずに手を伸ばしたが、すぐにその手をすげなく払われる。
そして璉は、僅かに身に纏う雰囲気を変えると、実に冷ややかにこう尋ねた。
「野生の獣…ね。でもそういう貴方も同じでしょう?誰よりも貪欲で誰よりも誇り高い『金獅子』。月鷲の皇位に就くにあたって、一体どれだけの血を流したのです?」
痛烈な皮肉であったが、それすらも鴎悧帝は余裕の表情で躱す。
「さぁてね?もう忘れたな。俺より弱い奴らの事なんて、いちいち覚えちゃいないさ」
「…貴方がそんなんだから、こっちにまでとばっちりが来るんですよ」
ふいに璉が溜め息混じりにそう呟き、チラリとその翠の瞳が目の前の鴎悧帝を捕らえる。
そして璉は確信を持って、鴎悧帝に向かってこう尋ねた。
「今回の件、敢えて風嘉を巻き込むように仕向けましたね…?何故です?」
璉の射抜くような強い視線に、鴎悧帝は余裕で微笑みながらこう答える。
「…さすがにわかるか」
「わからないわけないでしょう?あんな穴だらけの計画、貴方が気付かないわけがない」
冷ややかにそう返す璉に、鴎悧帝がニヤリと笑った。そして彼は事も無げにこう答える。
「あんなどうしようもない馬鹿でも、一応は皇族でな。始末するとなると、それなりの証拠と罪状が必要になるのさ。まったく…役にも立たん穀潰しのくせに、血筋だけは立派で参るよ」
そうわざとらしくボヤいて見せた鴎悧帝に、璉が確信めいた疑問を投げる。
「…それだけが理由とは思えませんけどね…?貴方の事だから、あわよくば私が出て来ないかと狙っていたのでしょう?」
「もちろん、それもあるな。どうにもならん馬鹿だが、お前と会える機会を作ってくれた事には感謝せんとな」
さらりとそう言ってのける相手に、璉は思わず苦々しい視線を返す。すると相手はそれすらも楽しいとばかりに、こう語った。
「…まぁそう嫌そうな顔をするなよ。お前も長年の膿を出せるんだ。お互いにとって利益のある話じゃないか?」
「どう考えても貴方に都合よく、事態が動かされてますよね?しかもうちの方は小者で、本来ならば大した影響も出ないはずなのに、貴方が無駄に操作してくれたお陰で、両国を巻き込んでの大事になってしまってる。この落とし前をどうつけるおつもりです?」
キッと見据えると、鴎悧帝は璉の怒りの感情すら嬉しいとばかりに、ご機嫌でこう返す。
「…まぁそう怒るなよ、璉。どうせ小者同士の悪だくみだ。底も浅ければ、大きな穴も開いている。そうそう上手くいかない事くらい、お前だってわかっているだろう?」
そう言われ、璉が忌々しげにこう答える。
「確かにあの穴だらけの計画では、成功するはずもありませんが、それでも影響はそこそこあります。無駄な被害は良しとしません」
「まぁまぁ。代わりに禍根無く刈り取れるだろう?しかも同じような事を企む奴等には、いい見せしめにもなる。これでお互い、当分は静かに過ごせるだろう」
ニヤリと笑いながら、鴎悧帝がそう語る。
それを見て幾分呆れながらも、璉はやはりこの男は油断がならないと密かに思っていた。
正直見た目の派手さに惑わされがちだが、こう見えて鴎悧帝はかなりの策略家である。
まるで真綿で首を締めるかの如く、ゆっくりじっくり機会を伺い、そして着実に相手を追い詰めていく。そしていざという時には、何の容赦も慈悲もなく徹底的に叩き潰す。
実際の獅子が鼠を狩る時ですら全力を尽くすのと同じく、この男もいざ狩ると決めたら、それこそ全力で狩りに来る。
だからこそ『金獅子』との異名があるのだ。
もし本気で鴎悧帝と殺り合う事になったら、さすがの璉も確実に勝てる保証は無い。
過去に鴎悧帝とは何度か戦場で合間見えてはいるが、あの頃の自分達はお互いまだ一将軍に過ぎず、当時指揮できた軍勢は今動かせる人数の十分の一ほどに過ぎなかった。
しかも上に居る者達に邪魔をされ、お互い本当の実力を出し切れていたわけでもない。
だが皇帝となった今、もし殺り合うとなれば、それこそ国を挙げての総力戦となる。
今のところは鴎悧帝がやたらと璉の事を気に入っているため、非常に友好的な関係を保っているが、それもこの男の気まぐれ一つでいつ逆転するとも限らなかった。
だからこそ璉は、いくらふざけた態度を取られても、決して鴎悧帝を過小評価しない。
鴎悧帝は出来る事なら敵に回したくないと璉に思わせる、数少ない男の一人なのである。
そして一見お遊びにしか見えないこの関係も、実はお互い腹の探り合い、策の仕掛け合いで、結構目には見えない駆け引きがある。
今もふざけた口調で璉を口説きながら、鴎悧帝はさり気なくこう囁いた。
「…ああ、そうそう。お前が探っていた密輸ルートの件だがな。うちの国内に張り巡らされてた分に関しては、すでに俺の方で叩き潰しておいたぞ。だからそっちの分を潰せば、もはや使い物にならんはずだ」
その何気無い囁きにピクリと璉が反応する。
そして一瞬、ゆらりと怒りのオーラを纏った璉が正面から鴎悧帝を見つめた。
「…相変わらず早耳ですね。ご自分で仕掛けられた事ですから、潰すのも一瞬ですか」
そう冷たく返すと、ニヤリと鴎悧帝が笑う。
自分が他事に気を取られている間の事だったとはいえ、今回の件は明らかに鴎悧帝にしてやられた感が拭えない。
いつから仕掛けられていたのか…おそらく数年前から少しずつといったところなのだろうが、今までそれに気付けなかったのだから、完全に自分の失態としか言えないだろう。
そしてもし本気で鴎悧帝が仕掛けてきていたなら、被害はこんな物では済まなかったはずだとわかるだけに、璉は内心苛立ちが隠せなかった。
ところがそんな時、鴎悧帝との駆け引きすら一瞬で忘れるほどの報告が璉に届いたのだ。
「主!」
ふいに何の許しも請わずに、その場に嘉魄が現れた。鴎悧帝も居る中、今まで一度もここまで焦って現れた事などなかったのに…と驚く璉に、嘉魄は二つの緊急連絡を差し出す。
それを手に取り、璉は素早く目を通した。
一つは砦で鴻夏を護っているはずの暁鴉から、もう一つは視察団を率いて密輸ルートを潰しに行ったはずの樓爛からで、その内容はほぼ同じ文面であった。
そしてそれを確認した途端、璉は珍しく一気に怒りも露わにその手紙を握り潰す。
一瞬で目の前の人物が、本来の『白龍』へと豹変するのを目の当たりにした鴎悧帝は、背筋が凍り付くほどの恐怖とそれを遥かに上回る興奮で、気分が高揚するのを感じていた。
そしてそんな鴎悧帝に向かって、豹変した璉が凍るような視線を向ける。
「…鴎悧。貴方はこうなる事がわかってて、わざとあれを焚きつけたのですか…?」
「どういう事だ…?」
「鴻夏が…闇商人に連れ去られました。他にも騙されて密輸に協力させられていた若者達が、一緒に捕らわれたようです」
淡々と語りながらも、璉の全身から抑えようのない怒りのオーラが滲み出している。
ビリビリと痛みすら感じるほどの気迫に、知らず冷や汗を流しながら、それでも鴎悧帝は為政者らしく冷静にこう答えた。
「…知らんな。さすがの俺でも、阿呆の仕出かす事までは予測し切れんわ」
「わざとではない…と?」
「俺はそんなつまらん事で、嘘はつかん」
はっきりそう言い切ると、璉はしばらくの間、無言でジッと鴎悧帝を見つめた。
それに対し、鴎悧帝も負けじと見つめ返し、二人の皇帝の視線が苛烈にぶつかり合う。
一瞬とも永遠とも取れる時間の中、何を感じとったのか、ふいに璉が視線を落とす。
そして深い溜め息と共に、彼は口を開いた。
「…わかりました。わざとではないという貴方の言葉は信じましょう。けれどこれは大きな貸しですからね?あとそちらの黒幕らの命については、保証は致し兼ねますので、最初からそのおつもりで…」
冷ややかに、そしてこれ以上ないほどの怒りを込めて、璉がそう宣言する。
一気に天幕内の気温を氷点下まで叩き落とすと、璉はそのまま勢いよく踵を返した。
「…戻りますよ、嘉魄!」
「はっ」
短い応えと共に二人が天幕から出て行くと、慌てて入れ違いでその場に烙耀が現れる。
「鴎悧様!ご無事ですかっ⁉︎一体何事が起こったのです⁉︎」
明らかに只事ではない雰囲気を醸し出す風嘉帝に驚き、主人の安否を確かめに来た烙耀は、宙を見つめたままその場に取り残されている鴎悧帝に慌てて駆け寄る。
「鴎悧様⁉︎しっかりなさってください!」
驚きつつもその肩を揺さぶると、フッとその視線が動き、烙耀の姿を捉える。
てっきり正気を失っているのかと思ったが、思いがけず理知的な視線を返され、烙耀は思わずホッとした。しかし次に発せられた鴎悧帝の言葉に、烙耀は思わず絶句する。
「…見たか、烙耀?」
「鴎悧様…?」
「あの璉が…あの何事にも一切興味を示さない璉が!初めて俺の前で怒りも露わに、俺の事を呼び捨てたぞ!」
ウキウキと実に楽しそうな声で語りながら、鴎悧帝がご機嫌でそう語る。
あまりの主人の能天気さに、呆れて絶句する烙耀の前で、鴎悧帝はふいに為政者の顔に戻ると、ひどく楽しげにこう呟いた。
「…予想外に面白くなってきた。烙耀!俺も璉の後に続いて風嘉側に行くぞ」
「えっ⁉︎そ、それは不法入国…っ!」
「まぁ細かい事は気にするな。どうせ俺は、今ここには居ない事になってるんだからな。ここに居ない者が、国境を越えられるはずもない…そうだろう?」
ニッと彼らしい屁理屈を捏ながら、鴎悧帝が実に楽しげにそう答える。
「行くぞ、烙耀!」
「…はっ」
言い出したら絶対に聞かない主人の事、止めても無駄だとわかっている烙耀は、内心複雑な思いを抱えながらも渋々そう返答した。
しかし今まで見た事がないほど、怒り心頭であった風嘉帝に対し、その怒りを向けられた事に喜ぶとは、自分の主人は根性が座っているというよりすでに感覚がおかしいと思う。
もしかして違う意味で大物かもしれないと思いながら、烙耀は何が『白龍』をあそこまで怒らせたのかと、その事が気になった。
『まさか『白龍』の逆鱗に触れるような馬鹿が出るとはね…。一体誰がそんな大それた事を仕出かしたのやら…』
間違いなくそいつの命はないな…と思いながら、烙耀は主人に付いて国境を越えた。
そして後世にまでその名を残す二人の武帝は、秘密裏に風嘉の南方領で、新たな伝説を作ったのである。
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