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風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜
ー南方領へー
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須嬰が皇都に戻ってから四日後、ついに璉と鴻夏は南方領へと旅立った。
風嘉に嫁いで来る時のお忍び旅行で、最後に立ち寄ったオアシスへと向かいながら、鴻夏は初めて行く南方領へと想いを馳せる。
一応授業で風嘉の南方領は草原地帯で、月鷲と国境を接している関係上、長く激戦区であった事、即位前の璉が長く長官を務めていた事などは習ったが、それ以外の事については正直あまりよくわかっていない。
またいくら璉の正妃とはいえ、所詮は異国人に過ぎない自分が、南方領の人々に受け入れて貰えるのかも不安だった。
『せっかく一緒に行こうと誘ってもらったけど、本当に付いて来て良かったのかしら…』
馬の背に付けられた一人乗り用の輿の中で、特にやる事もない鴻夏はついつい悪い方向へと考えてしまう。
するとその考えを読んだかのように、隣で馬を進める暁鴉が、捌けた様子でこう言った。
「いつも通りにしてりゃいいんだよ。主の方から鴻夏様を誘ったって事は、連れて行っても大丈夫って判断したからさ。ま、難しい事は主に任せて、鴻夏様は普通に旦那との新婚旅行を楽しめばいいさ」
「し…新婚旅行って…」
思いもかけない生々しい単語に、鴻夏が真っ赤になって固まると、暁鴉が何を今更とばかりにこう告げる。
「だってそうだろ?結婚後の初旅行なんだし、誰から見ても仲良し夫婦じゃん」
「そ、そうかしら。私、ちゃんと璉の奥さん出来てる…?」
不安そうに尋ねると、暁鴉が何を寝ぼけた事を言ってるんだとばかりにこう返す。
「あれだけ毎日イチャついてて、何を言ってるんだか…。あの璉瀏帝が、花胤から迎えた妃に夢中だって話は、国内外を問わずに有名だよ?うちの主は各国から怖れられてるからねぇ。噂が広まるのも早い早い」
「え、ええ⁉︎そんな話になってるのっ⁉︎」
真っ赤になって鴻夏が動揺すると、ニヤリと笑って暁鴉が答える。
「だから今更だって。数多あった縁談を全部 蹴ってきたうちの主が、ついに結婚したってだけでも注目されてんのに、相手が彼の有名な『花胤の陰陽』の片割れだよ?そりゃあ、あっという間に広まるさ」
「で、でも私、見た目が多少お母様に似ているってだけで、何の取り柄もないただの世間知らずなんだけど…」
オロオロと生真面目に悩む鴻夏に、暁鴉が豪快に笑いながらこう告げる。
「何言ってんのさ。あの主に選ばせたってだけでもすごい快挙だよ?あたし主は一生誰とも結婚しないと思ってたしね」
「そ、それは私の立場と境遇が、璉にも都合が良かったってだけで、別に私自身を選んでもらったわけじゃないもの…」
自分で言ってて虚しくなりながら、鴻夏がそう呟くと、暁鴉が真剣な顔でこう返す。
「…本当にそれが理由だと思ってるのかい?確かに鴻夏様と結婚する事で、他の縁談は避けられるかもしれないさ。でも代わりに、主はより複雑な対外情勢にも対応しなきゃならなくなった。これって主にとって、本当に利益がある話かい?」
そう問われ、ふいに鴻夏は考え込む。
言われてみれば結婚前、月鷲の鴎悧帝とオアシスで遭遇した際に、璉は自分との結婚を思い留まるよう説得されていた。
これから荒れるであろう国の姫を、何故わざわざ娶るのかと。
だからあの時、自分はこの縁談はこれで破談になるだろうと覚悟したのに、璉はそれすらも込みで自分との結婚を決めたと言った。
そしてその言葉通りに、自分を正妃として迎え入れてくれたのだ。
『つまり…璉にとって、私との結婚なんて、ほぼ利益はなかったって事…?じゃあ、なんでわざわざ結婚なんて…』
そう思った瞬間、絶対にあり得ないと思っていた可能性が頭を過ぎる。
真っ赤になって急に黙り込んだ鴻夏を横目に、暁鴉は人の悪い笑みを浮かべていた。
その夜、懐かしい思い出のオアシスで一泊する事になった一行は、かつて鴎悧帝も滞在していたあの湖の側で天幕を建てていた。
そしていくつも建てられた天幕の中でも、一際豪華な天幕の中で、鴻夏は今、璉と二人っきりになってしまい固まっている。
正直うっかりしていたが、璉と一緒に旅をするという事は、その間ずっと寝所も共にするという事で、鴻夏は当然のように案内された皇帝の天幕の中で、何をどうすればいいものかとぐるぐるしていた。
それを見て、くすりと璉が笑う。
「…鴻夏」
「うわ…っ、はいっ⁉︎」
緊張のあまり、ずっと璉の方を見れずにいた鴻夏が思わず振り返ると、いつの間に近付いていたのか、璉がすぐ後ろに立っていた。
突然の至近距離にドキリとすると、ふわりと夜着の上に外套を掛けられる。
「え…?」
「少し散歩して来ませんか?多分今夜は星が綺麗ですよ」
相変わらず掴み所のない笑顔を見せると、璉は自分も軽く外套を羽織り、そのまま鴻夏を天幕の外へと連れ出した。
こっそりと監視の騎士達の目を擦り抜け、灯りもほとんど届かない湖のほとりへと行くと、満天の星空が頭上一杯に広がり、鴻夏を幻想的な光景へと誘う。
「わぁ、素敵…!」
素直に鴻夏が感嘆の声をあげると、璉がスッと一つの星を指差し、こう告げた。
「鴻夏、あれが北極星です。常に真北にある星なので、旅人にとっては大事な道標となる星です。砂漠などで方向を見失ってしまった際は夜を待ち、あの星を探して正しい方向を確認します。だから旅人からは、『皇帝の星』とも呼ばれているのですよ」
「『皇帝の星』…?でもあの星より明るく輝いてる星は、他にもたくさんあるのに…?」
不思議そうに鴻夏が聞き返すと、璉が穏やかな表情でこう答える。
「…確かに北極星は二等星なので、輝きだけでいうと一等星には負けてしまいます。けれど重要なのは、あの星が常に真北にあるという事実です。旅人を常に正しい方向へと導く星…。だからこそあの星は『皇帝』なのです」
そこで一旦言葉を区切った璉は、スッと鴻夏の方へと向き直る。
そして少し陰のある表情を見せながら、璉はまるで独り言のようにこう続けた。
「真に輝くべきは皇帝を支える家臣達です。皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を懸けて責任を負わなくてはならない。私はそう思ってますよ」
淡々とした口調ではあったが、まるで自らに言い聞かせるかのような内容だった。
それを受けて鴻夏の口から、思いもよらない言葉が滑り出る。
「…璉は、進むべき方向を迷っているの?」
突然投げ掛けられた疑問に、璉が意表をつかれたかのように、鴻夏へと視線を向ける。
するとあまりに綺麗な金の瞳が、真っ直ぐに璉の姿を捉えていた。
それを感じ多少は動揺はしたものの、璉はすぐに落ち着きを取り戻し、静かにこう答える。
「さぁ…どうなんでしょうね?何が正しくて何が間違っているのかは、正直私にもわかりません。ただ私は自分が最善と判断した道を進むだけです」
「じゃあ、それでいいんじゃないの?」
「え…?」
「人間は万能じゃないんだから、何が正しいのかなんて、誰にもわからないんでしょう?だったらわからない中でも真剣に考えて、それが最善だと判断した事なら、それはそれでいいんじゃないの?例えそれが結果的に間違っていたとしても、決断した時点では誰にもわからなかった事なんだから、それはもうお互い様って事でしょう」
実に簡単にそう言われ、璉は目から鱗が落ちたかのように、驚いて固まる。
政治や宮廷のしがらみなど一切知らない、世間知らずな鴻夏だからこそ導き出せた、真実を突いた意見だった。
そのあまりに明快すぎる答えに、思わず璉が笑い出すと、鴻夏が慌ててこう聞き返す。
「え?なんか私、間違った事を言った??」
「…いえ、なるほどと思っただけです。むしろ私の方が、変に難しく考え過ぎていたのかもしれません…」
しばらくして笑いをおさめると、璉は何かが吹っ切れたかのように、とても晴れやかな表情でそう答えた。
それを受けて鴻夏が、可愛らしく首を傾げながらこう尋ねる。
「…よくわからないけど、解決したの?」
「まぁそんなところです」
ニッコリと微笑み即答する璉に、何となく鴻夏もホッとする。
璉が何を考えているのか、相変わらず何もわからなかったが、ただ彼の表情が目に見えて明るくなっていたので、まぁいいかと鴻夏もそれ以上は追及しなかった。
そしてその様子を、静かに見守る影が二つ。
一人は鍛え抜かれた鋼のような肉体を持つ、黒髪に陽に焼けた浅黒い肌が印象的な、威圧感のある壮年の男。
鋭い銀の瞳が獲物を狙う鷹のようで、見据えられた途端に、思わず逃げ出したくなる。
そしてもう一人は、緩やかにうねる長い金髪に日に焼けた浅黒い肌、豊満で鍛え抜かれた肉体が特徴的な迫力ある美女。
女性にしてはかなりの大柄だが、なぜか受ける印象は明るくさっぱりとしていて、どうにも憎めない雰囲気がある。
そしてその大柄な美女は、見た目通りに豪快な溜め息をつくと、半ば呆れたように隣に立つ男に向かってこうボヤいた。
「まったく、鴻夏様はあれでイチャついてないつもりなのかね?あたしから見たら、どう見てもベタベタの仲良し夫婦なんだけど…」
「まぁ我々は主の性格をよく知っているだけに、余計にそう思うんだろうよ。主があそこまで楽しそうにしている事自体が、貴重だって事も鴻夏様は知らないだろうからな」
そう言って、もう一人の男がそう答える。
言うまでもなく、影から皇帝夫妻を眺めていたのは、璉の影である嘉魄と鴻夏の影である暁鴉だった。
二人とも仕事とはいえ、何が嬉しくて単に逢引き中の皇帝夫妻を出歯亀のように見てなきゃならんのだとは思っている。
しかしそれでも目を離した隙に、刺客にでも襲われては敵わないので、仕方なくこうして影からそっと見守り続けているのだが、正直目の前で繰り広げられる甘々な光景に、当てられっぱなしで困っていた。
そしてその覗き行為に耐えかねたのか、再び暁鴉がこう呟く。
「ねぇ、嘉魄。主はうちらがここから見てるって事、当然気づいてるよね?」
「…まぁ十中八九、気づいてるだろうな」
「気づいてても、あれってどうなの?見せつけたいわけ?」
そう言って呆れたように暁鴉が親指を立てて見せた先には、隙だらけの鴻夏を抱き込み、ちゃっかりとその口唇を奪う璉の姿。
多分彼の性格上、誰かに見られたところで気にもしないのだろうが、相手の鴻夏が同じかというとそうでもない。
おそらく鴻夏の方は、誰かに見られていると知ったら真っ赤になって動揺する事だろう。
それをわかっていながら、まったく隠す気もない相手に半ば呆れていると、彼の影である嘉魄が、苦笑しながらこう答える。
「…案外見られる事より、手を出せる機会の方を逃したくないのかもな。長い付き合いだが、あの主にあそこまで執着する相手が現れるとは思わなかった…」
そう言って嘉魄が、穏やかな目で仲良く寄り添う皇帝夫妻を見つめる。
それを受けて暁鴉の方も、仕方なさそうに溜め息をつきながらこう答えた。
「確かにね…。主は昔からすっごくモテるけど、いつも相手が夢中になるだけで、本人自身はどこ吹く風だったよね。何ていうか誰に対しても一線引いてる感じで、まさしく色事っていうより、仕事の一環って感じだった…」
そう語る暁鴉の脳裏に浮かぶのは、いつも何事にも興味無さそうにしている璉の姿。
相手がどれだけ必死に愛を訴えようと、彼の心の琴線にはまるで響かず、まるで流れる水のようにすべてが摺り抜けてしまう。
そして彼の気持ちは常に遥か遠くにあって、決して目の前の相手に向けられる事はない。
それがあまりにも虚しくて、今まで何人もの恋人達が、哀しげに璉の元を去って行った。
それに対し、嘉魄はこう答える。
「まぁ実際、仕事の一環だったんだろうよ。主は先帝の役に立つ為だけに生きてたようなものだから、自国の利益になる相手としか付き合っていなかったし…。誰かと共に歩む未来なんて考えもしなかったんだろうしな…」
淡々とそう語りながらも、嘉魄の表情が少し憂いを帯びる。
昔から璉を間近に見てきただけに、嘉魄にはより強く思うところがあるのだろう。
だが暁鴉にしても、多少なりとも人間らしくなってきた璉を、それなりに喜ばしく感じていた。
今までの璉は、いつこの世から消えてしまってもおかしくないほど、常に存在そのものが不安定で、見ている方が痛ましかった。
まるで全てを諦めているかのように、周囲に何の関心も示さず、一切自分を顧りみようともしない璉に、彼の周りの人々は不安を覚えずには居られなかった。
しかしそんな璉が、初めて損得抜きに手に入れたいと望んだのが、鴻夏だったのだ。
璉が一体いつ、どうやって鴻夏の事を知ったのかはわからない。
だが彼は鴻夏との縁談が来た時点で、すでに彼女の秘密も知っていた。
そして最初からそれを承知の上で、何喰わぬ顔でそのまま縁談を進めたのだ。
「…つまり今回ばかりは、明らかに主の方が鴻夏様を選んでるんだよね」
「まぁそうなるな…」
「鴻夏様は花胤の後宮育ちで、自国の者達ですら滅多に拝顔できないほどの深窓の姫君だよね?それなのになんで主は、鴻夏様の秘密も知ってたんだろう…?」
もっともな疑問を口にした暁鴉に、嘉魄は無言で何も答えない。
その様子から、嘉魄がその答えを知っている事は間違いなかったが、それを誰かに話す気はまったくないようだった。
こうなるともう、いくら聞いても答えは来ないので、余計な詮索は無駄という事になる。
『まぁいいさ。そのうちわかるだろ』
呆気ないくらいにあっさりと諦めると、暁鴉はすぐに気持ちを切り替え、遠目から自らの主人である鴻夏を見つめる。
優秀だけれど、人としてはかなり問題のある風嘉の皇帝と、一癖も二癖もあるその側近達に、何の抵抗もなく受け入れられた鴻夏は、実は一番の大物なのかもしれない。
そして本人にその自覚はないようだが、鴻夏はそこに居るだけで、まるで空に輝く太陽の如く、周りの人々の心を明るく照らし出す。
まさしく『花胤の陽の姫』の名が相応しい、輝くような存在だった。
そしてふと暁鴉は思う。
風嘉の方は鴻夏を迎えた事で、全てが良い方向に進んでいるように感じるが、逆に鴻夏を失った花胤の方はどうなのだろうかと…。
この輝きを失い、果たして今まで通りにいられるものなのだろうか…?
何となく花胤が、破滅への階段を登り始めているような…嫌な予感が胸を過ぎった。
特に彼女の双子の片割れである『花胤の陰の皇子』こと凛鵜皇子。
昔一度だけ遠目に見た事があるが、鴻夏の双子の弟でありながら、その中身はかなり違う印象を受けた。
あれは間違いなく鴻夏とは真逆の、どちらかと言うと璉に近い人間。
おそらく自らの目的を果たす為ならば、どんな手段も厭わず、自らの命も賭けてしまうような…そんな危うい存在だった。
ただ璉の場合は、何の欲も執着もないが故に自らを蔑ろにしている印象だが、彼の場合はむしろ執着が強い故に、結果としてそうなっているように見えた。
暁鴉から見れば、凛鵜皇子はいつ自滅してもおかしくない、絶対にお近付きにはなりたくない類の人間である。
そして暁鴉は、鴻夏を見つめながら思う。
『鴻夏様が、悲しむ結果にならなきゃいいんだが…』と。
花胤国にも凛鵜皇子にも、特に何の思い入れもない暁鴉だったが、自らの主人である鴻夏には人一倍の思い入れがある。
出会ってまだ日こそ浅いが、すでに暁鴉にとって鴻夏は失い難い存在になっていた。
もはや鴻夏以外の主人は考えられず、璉の妃として彼の隣に立つ人物も、鴻夏以外は認められない。
おそらく風嘉の側近達も、すべてが同じ思いで鴻夏を皇后として認めているはずだった。
お互い敢えて確認した事もないが、暁鴉はそう確信している。
だからこそ鴻夏の影として、暁鴉は命に代えても鴻夏を護る覚悟があった。
正直『影』として、心から仕えたいと思える主人に出逢えた自分は、本当に幸運だと思う。
そして誰よりも大事に思っているからこそ、鴻夏には絶対に幸せになって欲しかった。
ただ相手があの璉だという時点で、前途多難である事はわかっている。
唯一の救いは璉の方も間違いなく、鴻夏に好意を寄せているという事だった。
おそらく鴻夏ならば、そのうちに必ず本当の意味での正妃になる事だろう。
そう思いながらも、どういうわけかなかなか進展しない二人の関係に、暁鴉は多少の焦ったさも感じていた。
そもそもすでに結婚しているにも関わらず、二人の仲はたまに口付けしてる程度の、まるで婚約前のような初々しいものである。
確かに仕事以外では、何事にも淡白過ぎる璉と超箱入り娘の鴻夏では、こんなものなのかもしれないが、傍で見ている者にしてみれば、これでいいのかという疑問が出てくる。
特に璉と言えば、男女を問わず出会ったその場で関係を持つ事もザラであったはずなのに、鴻夏に対しては彼女が望まない限り、特に関係を進めるつもりがないらしい。
おそらくその気になれば、いとも容易く鴻夏を落とせるはずなのに、敢えてそれをしないところに逆に彼の本気度を感じる。
一方そういった事にかなり疎い鴻夏は、反応がいちいち初々しくて、自分から璉にどうこうしようという発想がない。
そのため時々 璉の方から軽く仕掛ける程度で、二人の仲は結婚から一ヶ月経った今でも清廉潔白なものだった。
今も璉に口唇を奪われた鴻夏が、真っ赤になりながら璉に向かって何かを怒鳴っている。
『こりゃあ本当の妃になるまでの道のりは、かなり長そうだねぇ。まぁでも、主の方も楽しそうだからいいか…』
今まで見た事がないほど、自然に笑っている璉を見ながら、暁鴉が呆れたように溜め息をつくと、その横で嘉魄も穏やかに微笑む。
二人の影に暖かく見守られながら、普通の恋人同士のように仲良く寄り添う皇帝夫妻を、満天の星が優しく包んでいた。
翌朝、何かが動く気配に目覚めた鴻夏は、自分の隣に誰かの体温を感じ、ひどく驚いた。
慌てて半身を起こして振り返ると、見覚えのある長い亜麻色の髪が目に入る。
「…ああ、起こしてしまいましたか?」
そういう優しい声が聞こえ、振り仰ぐと寝起きと思われる雰囲気のある男が目に入った。
「れ、璉…⁉︎」
「おはようございます、鴻夏」
ニッコリと艶やかに微笑むのは、鴻夏の夫であり、この風嘉の皇帝である緫 璉瀏であった。
元々妙に色気のある男だが、寝台の上で気怠げに髪を搔き上げる姿は、思わず目のやり場に困るほど壮絶に色っぽい。
あまりの事に呆然として固まる鴻夏に対し、璉はするりと鴻夏に近付くと、抵抗がないのをいい事に実に自然に口付けた。
「ちょっ…ちょっと璉っ⁉︎」
「…朝の挨拶ですよ。寝起き姿があまりにも可愛いかったので、つい頂いちゃいました」
そう言ってしれっと答えると、璉は寝台から立ち上がり、傍に置かれていた上掛を羽織る。
そして近くの卓に置かれていた水差しから、二つの杯に水を注ぐと、それを持って鴻夏の元へと戻ってきた。
「あ…ありがとう…」
差し出された片方の杯を、両手で受け取りながら礼を言うと、『どういたしまして』と答えながら、璉が鴻夏のすぐ側に腰を下ろす。
じんわりと相手の体温を感じながら、鴻夏が受け取った杯に口を付けると、それを見ながら璉も残したもう一つの杯に口を付けた。
しかし表面上は穏やかに見えるが、鴻夏の頭の中は大混乱である。
『わ…私、何で璉と一緒の寝台で寝てんの⁉︎昨夜は璉と星を見に行って…それから、それからどうしたんだっけ⁉︎』
一生懸命思い出そうとするが、動揺しているせいか、まったく経緯が思い出せない。
するとその考えを読んだかのように、璉がさらりとその答えを教えてくれた。
「…昨夜は疲れていたのか、鴻夏は星を見ているうちに眠ってしまったんですよ。だから連れて帰ってきて、私もそのまま寝ました。寝台がこの通り一つしか用意されていませんでしたので、勝手に一緒に寝させてもらったんですけど、いけませんでしたか?」
「べ、別にそれはいいんだけど、その…ごめんなさい…。私、寝ちゃったのね…?」
心底申し訳なさそうにする鴻夏に、璉は穏やかに首を横に振ると、逆に鴻夏を気遣うようにこう答えた。
「いえ…私の方こそ、慣れない旅で疲れている鴻夏を連れ回してすみません。もう少し考えるべきでしたね」
思いがけずそう謝られ、今度は鴻夏が慌てて否定する。
「ち、違うわ!私、璉に誘って貰えて嬉しかったし、星もすごく綺麗だったし…!その…すごく楽しかったから…、また一緒にお出掛けして欲しいのだけれど…」
真っ赤になりながらも、素直に気持ちを伝えてくる鴻夏に、自然と璉に笑みが浮かぶ。
すうっと璉の手が伸ばされ、鴻夏の頭を優しく撫でながら髪を一房取ると、璉は流れるように自然にそれに指を絡めて口付けた。
「れ…璉…っ!」
鴻夏が焦ったように小さく叫ぶと、チラリと璉が悩ましげな視線を向ける。
その翠の瞳にドキリとすると、明らかに何かのスイッチが入った璉が、鴻夏に向かって艶っぽくこう語った。
「…あんまり可愛い事ばかり言うと、調子に乗って頂いちゃいますよ…?これでも結構、我慢してるんですからね」
自分の何が彼のスイッチを入れたのかはわからなかったが、その雰囲気に気圧され、鴻夏がひどく不安げな顔を見せる。
するとそれを見た途端、璉は静かに鴻夏の髪から手を外し、一人 寝台から立ち上がった。
「れ、璉…?」
「…冗談ですよ。貴女が嫌がるような事はしません。ただ貴女の方もその気になったら、きっと手加減はしてあげられないと思うので、そのおつもりで…」
ニッコリと微笑みながらそう宣言すると、璉は手にしていた杯を卓の上に置き、そのまま天幕の外へと出て行った。
その後ろ姿を見届けながら、鴻夏の顔が一気に真っ赤になる。
「な…っ、え…?わ、私がその気になったらって…ええっ⁉︎」
これ以上ないほど動揺しながら、鴻夏が寝台の上で一人焦る。
さすがの鴻夏もその意味するところを理解し、恥ずかしくて仕様がなかったが、困った事に璉に対する不快感はまったくなかった。
ただ鴻夏の心臓だけが、壊れそうなほど早く脈打っていて、息をするのさえ苦しい。
「も、もう…どうしてあの人はこうなの⁉︎私を殺す気…?」
真っ赤な顔でそうボヤきながらも、でも心のどこかでそうなる事を望んでいる自分も居て、鴻夏は複雑な思いで顔を伏せた。
こうして南方領への旅の二日目は、朝から波乱含みで始まったのである。
陽も登りきった頃、璉を始めとした南方領への視察団は、オアシスを後にし旅立った。
定例視察という事もあり、特に急ぐ旅でもないのだが、とりあえず陽が沈む前にある程度の距離を進んでおかないと、今夜の野営場所の心配が出てくる。
目標としては今日中に砂漠地帯を越え、草原地帯にまで入っておきたいところだった。
鴻夏にとっては、人生で初めての草原地帯への旅になる。
また自分の夫である璉が、まだ少年と呼べる年齢から長く過ごしたという場所に、鴻夏も早く行ってみたかった。
一面に広がる草原とは一体どんな光景だろうとワクワクしながら、鴻夏は隣で馬を進める暁鴉に声をかける。
「ねぇ、暁鴉は南方領に行った事あるの?」
「ああ、まぁ仕事で何度か…。あたしはこの容姿なんで、潜入捜査はもっぱら月鷲でさ。その関係で拠点にしてた時期もあるよ」
さして面白くもなさそうに暁鴉が答えると、その答えに鴻夏が嬉しそうに喰いつく。
「そうなの…!ねぇ、南方領の砦は草原地帯の中にあるって聞いたけど本当?どんな感じなのかしら?」
「何かえらく楽しみにしてるみたいだけど、単なる国境の砦だからね?別に豪華でも何でもないよ。ごく普通の石造りの城さ。ただ草原の中に作られた、国境線を示す石の外壁の傍にポツンと建ってるから、まぁ目立つっちゃ目立つけどね」
あっさりとそう答える暁鴉に、鴻夏が目を輝かせてさらに問いかける。
「まぁ…!それ授業で習ったわ!璉が月鷲との和睦の条件として作ったという外壁ね?」
「そうそう、まぁ圧巻ではあるよ。他に何の建造物もない所に、草原を縦断するように延々と石壁が続いているからね」
そう暁鴉が答えると、鴻夏が心底楽しそうに、輝くような笑顔を見せる。
「素敵…!歴史の授業で習った外壁の実物が見られるのね!しかもそれを作らせたのが璉だなんて、本当に誇らしいわ」
やや興奮気味にそう語る鴻夏に、暁鴉がふいにニヤリと笑ってこう囁く。
「あー、そういう事ね。つまり鴻夏様は、実際に主の功績が見られるのが楽しみなんだ?なるほど、なるほど…。まぁ確かに鴻夏様の旦那はすごいよ。『風嘉の白龍』の名は伊達じゃない」
「そ、それもあるけど、別にそれだけってわけじゃ…。あ、あと『白龍』って叙事詩の中だけでの呼び名じゃ…?」
思いもかけなかった突っ込みに動揺しつつも、鴻夏がそう尋ねると、暁鴉が冷静な態度でこう答える。
「いや…南方領での主の通り名は、『白龍』だよ。最初は戦場で主を見かけた敵側から、そう呼ばれるようになって、それがいつの間にかこっち側でも広まっていって、ついには全員から『白龍』と呼ばれるようになった。だから今から行く南方領の砦の連中は、主の事を『白龍』と呼ぶはずだよ」
「そ…うなのね。『白龍』って、てっきり叙事詩での創作上の呼び名かと…。まさか本当の通り名だとは思わなかったわ」
そう言いながら、鴻夏はあの叙事詩が先帝によって禁歌とされた本当の意味がわかったような気がした。
泰瀏皇子が指摘したように、『龍』とは皇帝を表す言葉なのに、当時まだ皇弟に過ぎなかった璉へと使われていたとしたら、それは先帝ではなく璉を皇帝として崇めている意味になる。
また当時、圧倒的な軍才を誇っていた璉ならば、すぐさま『反逆の意志あり』と取られてもおかしくはないはずだった。
おそらく璉が周囲にその才知 を認められていく過程で、徐々に先帝との間に溝が出来、それがどんどん深まっていったのだろう。
自分にはない圧倒的な才を見せつける異母弟に、嫉妬や苛立ちが募ると共に、いつか皇帝の座から追いやられるかもしれないとの不安から、先帝は狂っていったのかもしれない。
そう思うといくらか同情の余地がないわけでもないが、それらを考慮したとしても、先帝のした行為は許されるものではなかった。
『皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を懸かけて責任を負わなくてはならない』
昨夜 璉はそう言った。おそらくその考えは正しくて、世の理としてもそれが真理なのだろう。
けれどこの世の中、一体どれだけの君主がその事を知り、正しくあろうと努力しているというのだろうか?
少なくとも風嘉の先帝は、そうあり続ける事が出来ず、最終的に国を荒らし自滅した。
本人の自滅は自業自得であるが、それに巻き込まれた国と国民はたまったものではない。
そしてその後始末を必死でおこなっているのが、璉と彼の側近達だ。
彼等は併合一歩手前まで迫っていた、他国の侵略を一気に退け、荒れ果てた国土を一から再建し、風嘉にかつての繁栄を取り戻した。
今や風嘉は四大皇国一の軍事国家と目され、璉瀏帝は当代随一の武帝として、各国からその存在を恐れられている。
そんな華々しい経歴を持つ璉だが、当人自身は至って普通のつもりなのか、普段は帯刀もせず、フラフラとあちこちを出歩いている。
一度いくら嘉魄らが付いているとはいえ、無防備過ぎるのではないか?と窘めた事があったが、『剣は得意じゃないので…』と困ったように微笑んだだけで、まったく言う事を聞いてくれなかった。
実は鴻夏が剣を習い始めたのもそれが理由で、夫である璉を側で護れるよう、誰よりも強くなりたいと思っている。
『そう言えば私、一度も璉が剣を振るっている所を見た事がないわ…』
ふとその事に気付き、鴻夏は首を捻る。
確かに本人も『得意じゃない』とは言っていたが、それでも若い頃からずっと戦場に出ていたのだから、決して使えないはずはない。
なのに彼の側近達や彼の影である嘉魄に至るまで、誰もが璉が帯刀しない事を、咎めようともしないのだ。
『これって、普通におかしいわよね…?璉は大事な皇帝なのに、何で誰も璉が帯刀しない事を責めないのかしら?』
そう思った鴻夏の疑問は、思いもよらない形で解決される事になる。
旅程二日目。陽も傾き始め、そろそろ今夜の野営予定地まであと少しの距離になった頃、それは突然起こったのだ。
ザァッと複数の黒い影が、突如右側の岩山から現れ、視察団を側面から襲う。
途端に目の前で血生臭い戦闘が始まった。
「盗賊だぁ!」
「固まれ、固まれ!背後を取られるな!」
使節団の警護兵から、警告の声が飛ぶ。
それを耳にし、鴻夏は一人用の輿の中で、ビクリと肩を震わせた。
そんな鴻夏の耳に、暁鴉の鋭い声が飛ぶ。
「鴻夏様!輿から出ないでおくれよ?」
「ぎ…暁鴉」
抜剣し、鴻夏の乗る輿を数人の警護兵と共に警護しながらも、暁鴉は余裕のある表情でこう答える。
「大丈夫、すぐに片付くよ。馬鹿な奴等さ。よりによって『風嘉の白龍』の一行を襲うなんてね…」
そう暁鴉が言い終わるか否か、突然盗賊団の中心から断末魔の悲鳴が上がる。
驚いてその方向に目をやると、見覚えのある長い亜麻色の髪が目に入った。
それを見て、思わず鴻夏は叫んでしまう。
「れ、璉っ⁉︎ちょっ…暁鴉!璉が敵に囲まれて…っ!」
「…大丈夫。よく見なよ、鴻夏様?うちの主はあの程度の奴等に殺やられやしないよ」
そう暁鴉に言われ、もう一度敵の方へと目をやると、璉の周りを取り囲んでいたはずの盗賊達が、一瞬ですべて地に伏していた。
そして残された盗賊の中から悲鳴が上がる。
「ひぃ…っ!こ、こいつ『白龍』だ!な、何でこんなところに…っ!」
「何っ⁉︎白龍っ⁉︎」
ザサァッと潮が引くかのように、璉の周りの盗賊が遠巻きに離れる。
その中心で、一人血塗られた剣を手にしながら、璉が立ち尽くしていた。
そしてゆらりと陽炎のように、璉の周囲に目に見えない何かが立ち昇る。
「…おや、私をご存知でしたか。でもどうせなら、襲う前に気付いて欲しかったですね」
ニコリといっそ優しいくらいに微笑みながら、璉がチラリと周囲に視線を泳がせる。
すでにその足下には、十数名にも及ぶ盗賊達の死体が転がっており、彼が本物の『白龍』だという事は疑う余地もなかった。
そして璉がスッと一歩前へと出るのと同時に、ジリッと盗賊達が後ろへと下がる。
すでに両者の間で雌雄は決しており、盗賊達は遠巻きに対峙する事しか出来なかった。
それに対して璉が、容赦なく告げる。
「どうします?大人しく捕まるか、私に斬られるか、二つに一つです。あぁ、ちなみに逃げようとしても無駄ですからね?例え私の間合いから逃れられたとしても、我が国の影はとても優秀でね…。絶対に貴方達を逃しませんよ」
脅しではない真実を告げながら、璉が精神的にも盗賊等を追い詰める。
するとカランカランと鈍い音を立てて、次々と盗賊達の手から剣が滑り落ちた。
そして両手を上げ、すでに戦意を喪失している事を告げる盗賊達に、一斉に風嘉の警護兵が飛びかかり抵抗出来ないよう縛り上げる。
それを視界の端で確認しながら、璉はようやく手にしていた剣をその場に投げ捨てた。
その光景を呆然と見守る鴻夏に、暁鴉が得意げにこう告げる。
「ほら…ね?ここじゃ、もう主と殺り合おうなんて奴は居ないんだよ。絶対に殺られるってのがわかってるからね」
その声をボンヤリと聞きながら、鴻夏はポツリとこう呟く。
「…暁鴉。璉は確か『剣が得意じゃない』って…」
「あぁ…そう言われると、確かに得意じゃないかもね。剣を持つと、主は全員殺しちまうから」
「それって…つまり…」
「『上手く手加減出来ない』って意味だと思うけど?別に主も無駄に相手を殺したいわけじゃないし…。ただ剣を使うと生け捕りにして終わらせるって事が出来ないから、『得意じゃない』って言ったんじゃないかな?」
あっさりとそう言われ、鴻夏は軽く目眩を感じながら、その場に崩れ落ちる。
そして動揺しつつも、敢えてもう一度確認するかのように、暁鴉にこう尋ねた。
「じゃあ普段、璉が帯刀しないのって…」
「剣だと確実に殺しちまうからだよ。別に剣がなくても、主は戦えるしね。うちの主は敵陣への潜入も生業としてたから、うちらと同じく一通りの暗器を使いこなすよ?だから一見丸腰に見えても、結構色々隠し持ってるはず…」
そう言われ、鴻夏はガクッと肩を落とした。
そして力無くこう呟く。
「…そういう意味なの…。剣を使えないはずはないとは思ってたけど、まさか『手加減出来ない』って意味だとは思わなかったわ…」
口にしたのはそれだけだったが、心の中ではそれじゃあ今から剣を覚えても、璉の域まで達するのは相当長い道のりじゃないかと毒づいてしまう。
そしてどこまでも自分の想像の上をいく夫に、鴻夏は盛大に溜め息をついたのだった。
風嘉に嫁いで来る時のお忍び旅行で、最後に立ち寄ったオアシスへと向かいながら、鴻夏は初めて行く南方領へと想いを馳せる。
一応授業で風嘉の南方領は草原地帯で、月鷲と国境を接している関係上、長く激戦区であった事、即位前の璉が長く長官を務めていた事などは習ったが、それ以外の事については正直あまりよくわかっていない。
またいくら璉の正妃とはいえ、所詮は異国人に過ぎない自分が、南方領の人々に受け入れて貰えるのかも不安だった。
『せっかく一緒に行こうと誘ってもらったけど、本当に付いて来て良かったのかしら…』
馬の背に付けられた一人乗り用の輿の中で、特にやる事もない鴻夏はついつい悪い方向へと考えてしまう。
するとその考えを読んだかのように、隣で馬を進める暁鴉が、捌けた様子でこう言った。
「いつも通りにしてりゃいいんだよ。主の方から鴻夏様を誘ったって事は、連れて行っても大丈夫って判断したからさ。ま、難しい事は主に任せて、鴻夏様は普通に旦那との新婚旅行を楽しめばいいさ」
「し…新婚旅行って…」
思いもかけない生々しい単語に、鴻夏が真っ赤になって固まると、暁鴉が何を今更とばかりにこう告げる。
「だってそうだろ?結婚後の初旅行なんだし、誰から見ても仲良し夫婦じゃん」
「そ、そうかしら。私、ちゃんと璉の奥さん出来てる…?」
不安そうに尋ねると、暁鴉が何を寝ぼけた事を言ってるんだとばかりにこう返す。
「あれだけ毎日イチャついてて、何を言ってるんだか…。あの璉瀏帝が、花胤から迎えた妃に夢中だって話は、国内外を問わずに有名だよ?うちの主は各国から怖れられてるからねぇ。噂が広まるのも早い早い」
「え、ええ⁉︎そんな話になってるのっ⁉︎」
真っ赤になって鴻夏が動揺すると、ニヤリと笑って暁鴉が答える。
「だから今更だって。数多あった縁談を全部 蹴ってきたうちの主が、ついに結婚したってだけでも注目されてんのに、相手が彼の有名な『花胤の陰陽』の片割れだよ?そりゃあ、あっという間に広まるさ」
「で、でも私、見た目が多少お母様に似ているってだけで、何の取り柄もないただの世間知らずなんだけど…」
オロオロと生真面目に悩む鴻夏に、暁鴉が豪快に笑いながらこう告げる。
「何言ってんのさ。あの主に選ばせたってだけでもすごい快挙だよ?あたし主は一生誰とも結婚しないと思ってたしね」
「そ、それは私の立場と境遇が、璉にも都合が良かったってだけで、別に私自身を選んでもらったわけじゃないもの…」
自分で言ってて虚しくなりながら、鴻夏がそう呟くと、暁鴉が真剣な顔でこう返す。
「…本当にそれが理由だと思ってるのかい?確かに鴻夏様と結婚する事で、他の縁談は避けられるかもしれないさ。でも代わりに、主はより複雑な対外情勢にも対応しなきゃならなくなった。これって主にとって、本当に利益がある話かい?」
そう問われ、ふいに鴻夏は考え込む。
言われてみれば結婚前、月鷲の鴎悧帝とオアシスで遭遇した際に、璉は自分との結婚を思い留まるよう説得されていた。
これから荒れるであろう国の姫を、何故わざわざ娶るのかと。
だからあの時、自分はこの縁談はこれで破談になるだろうと覚悟したのに、璉はそれすらも込みで自分との結婚を決めたと言った。
そしてその言葉通りに、自分を正妃として迎え入れてくれたのだ。
『つまり…璉にとって、私との結婚なんて、ほぼ利益はなかったって事…?じゃあ、なんでわざわざ結婚なんて…』
そう思った瞬間、絶対にあり得ないと思っていた可能性が頭を過ぎる。
真っ赤になって急に黙り込んだ鴻夏を横目に、暁鴉は人の悪い笑みを浮かべていた。
その夜、懐かしい思い出のオアシスで一泊する事になった一行は、かつて鴎悧帝も滞在していたあの湖の側で天幕を建てていた。
そしていくつも建てられた天幕の中でも、一際豪華な天幕の中で、鴻夏は今、璉と二人っきりになってしまい固まっている。
正直うっかりしていたが、璉と一緒に旅をするという事は、その間ずっと寝所も共にするという事で、鴻夏は当然のように案内された皇帝の天幕の中で、何をどうすればいいものかとぐるぐるしていた。
それを見て、くすりと璉が笑う。
「…鴻夏」
「うわ…っ、はいっ⁉︎」
緊張のあまり、ずっと璉の方を見れずにいた鴻夏が思わず振り返ると、いつの間に近付いていたのか、璉がすぐ後ろに立っていた。
突然の至近距離にドキリとすると、ふわりと夜着の上に外套を掛けられる。
「え…?」
「少し散歩して来ませんか?多分今夜は星が綺麗ですよ」
相変わらず掴み所のない笑顔を見せると、璉は自分も軽く外套を羽織り、そのまま鴻夏を天幕の外へと連れ出した。
こっそりと監視の騎士達の目を擦り抜け、灯りもほとんど届かない湖のほとりへと行くと、満天の星空が頭上一杯に広がり、鴻夏を幻想的な光景へと誘う。
「わぁ、素敵…!」
素直に鴻夏が感嘆の声をあげると、璉がスッと一つの星を指差し、こう告げた。
「鴻夏、あれが北極星です。常に真北にある星なので、旅人にとっては大事な道標となる星です。砂漠などで方向を見失ってしまった際は夜を待ち、あの星を探して正しい方向を確認します。だから旅人からは、『皇帝の星』とも呼ばれているのですよ」
「『皇帝の星』…?でもあの星より明るく輝いてる星は、他にもたくさんあるのに…?」
不思議そうに鴻夏が聞き返すと、璉が穏やかな表情でこう答える。
「…確かに北極星は二等星なので、輝きだけでいうと一等星には負けてしまいます。けれど重要なのは、あの星が常に真北にあるという事実です。旅人を常に正しい方向へと導く星…。だからこそあの星は『皇帝』なのです」
そこで一旦言葉を区切った璉は、スッと鴻夏の方へと向き直る。
そして少し陰のある表情を見せながら、璉はまるで独り言のようにこう続けた。
「真に輝くべきは皇帝を支える家臣達です。皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を懸けて責任を負わなくてはならない。私はそう思ってますよ」
淡々とした口調ではあったが、まるで自らに言い聞かせるかのような内容だった。
それを受けて鴻夏の口から、思いもよらない言葉が滑り出る。
「…璉は、進むべき方向を迷っているの?」
突然投げ掛けられた疑問に、璉が意表をつかれたかのように、鴻夏へと視線を向ける。
するとあまりに綺麗な金の瞳が、真っ直ぐに璉の姿を捉えていた。
それを感じ多少は動揺はしたものの、璉はすぐに落ち着きを取り戻し、静かにこう答える。
「さぁ…どうなんでしょうね?何が正しくて何が間違っているのかは、正直私にもわかりません。ただ私は自分が最善と判断した道を進むだけです」
「じゃあ、それでいいんじゃないの?」
「え…?」
「人間は万能じゃないんだから、何が正しいのかなんて、誰にもわからないんでしょう?だったらわからない中でも真剣に考えて、それが最善だと判断した事なら、それはそれでいいんじゃないの?例えそれが結果的に間違っていたとしても、決断した時点では誰にもわからなかった事なんだから、それはもうお互い様って事でしょう」
実に簡単にそう言われ、璉は目から鱗が落ちたかのように、驚いて固まる。
政治や宮廷のしがらみなど一切知らない、世間知らずな鴻夏だからこそ導き出せた、真実を突いた意見だった。
そのあまりに明快すぎる答えに、思わず璉が笑い出すと、鴻夏が慌ててこう聞き返す。
「え?なんか私、間違った事を言った??」
「…いえ、なるほどと思っただけです。むしろ私の方が、変に難しく考え過ぎていたのかもしれません…」
しばらくして笑いをおさめると、璉は何かが吹っ切れたかのように、とても晴れやかな表情でそう答えた。
それを受けて鴻夏が、可愛らしく首を傾げながらこう尋ねる。
「…よくわからないけど、解決したの?」
「まぁそんなところです」
ニッコリと微笑み即答する璉に、何となく鴻夏もホッとする。
璉が何を考えているのか、相変わらず何もわからなかったが、ただ彼の表情が目に見えて明るくなっていたので、まぁいいかと鴻夏もそれ以上は追及しなかった。
そしてその様子を、静かに見守る影が二つ。
一人は鍛え抜かれた鋼のような肉体を持つ、黒髪に陽に焼けた浅黒い肌が印象的な、威圧感のある壮年の男。
鋭い銀の瞳が獲物を狙う鷹のようで、見据えられた途端に、思わず逃げ出したくなる。
そしてもう一人は、緩やかにうねる長い金髪に日に焼けた浅黒い肌、豊満で鍛え抜かれた肉体が特徴的な迫力ある美女。
女性にしてはかなりの大柄だが、なぜか受ける印象は明るくさっぱりとしていて、どうにも憎めない雰囲気がある。
そしてその大柄な美女は、見た目通りに豪快な溜め息をつくと、半ば呆れたように隣に立つ男に向かってこうボヤいた。
「まったく、鴻夏様はあれでイチャついてないつもりなのかね?あたしから見たら、どう見てもベタベタの仲良し夫婦なんだけど…」
「まぁ我々は主の性格をよく知っているだけに、余計にそう思うんだろうよ。主があそこまで楽しそうにしている事自体が、貴重だって事も鴻夏様は知らないだろうからな」
そう言って、もう一人の男がそう答える。
言うまでもなく、影から皇帝夫妻を眺めていたのは、璉の影である嘉魄と鴻夏の影である暁鴉だった。
二人とも仕事とはいえ、何が嬉しくて単に逢引き中の皇帝夫妻を出歯亀のように見てなきゃならんのだとは思っている。
しかしそれでも目を離した隙に、刺客にでも襲われては敵わないので、仕方なくこうして影からそっと見守り続けているのだが、正直目の前で繰り広げられる甘々な光景に、当てられっぱなしで困っていた。
そしてその覗き行為に耐えかねたのか、再び暁鴉がこう呟く。
「ねぇ、嘉魄。主はうちらがここから見てるって事、当然気づいてるよね?」
「…まぁ十中八九、気づいてるだろうな」
「気づいてても、あれってどうなの?見せつけたいわけ?」
そう言って呆れたように暁鴉が親指を立てて見せた先には、隙だらけの鴻夏を抱き込み、ちゃっかりとその口唇を奪う璉の姿。
多分彼の性格上、誰かに見られたところで気にもしないのだろうが、相手の鴻夏が同じかというとそうでもない。
おそらく鴻夏の方は、誰かに見られていると知ったら真っ赤になって動揺する事だろう。
それをわかっていながら、まったく隠す気もない相手に半ば呆れていると、彼の影である嘉魄が、苦笑しながらこう答える。
「…案外見られる事より、手を出せる機会の方を逃したくないのかもな。長い付き合いだが、あの主にあそこまで執着する相手が現れるとは思わなかった…」
そう言って嘉魄が、穏やかな目で仲良く寄り添う皇帝夫妻を見つめる。
それを受けて暁鴉の方も、仕方なさそうに溜め息をつきながらこう答えた。
「確かにね…。主は昔からすっごくモテるけど、いつも相手が夢中になるだけで、本人自身はどこ吹く風だったよね。何ていうか誰に対しても一線引いてる感じで、まさしく色事っていうより、仕事の一環って感じだった…」
そう語る暁鴉の脳裏に浮かぶのは、いつも何事にも興味無さそうにしている璉の姿。
相手がどれだけ必死に愛を訴えようと、彼の心の琴線にはまるで響かず、まるで流れる水のようにすべてが摺り抜けてしまう。
そして彼の気持ちは常に遥か遠くにあって、決して目の前の相手に向けられる事はない。
それがあまりにも虚しくて、今まで何人もの恋人達が、哀しげに璉の元を去って行った。
それに対し、嘉魄はこう答える。
「まぁ実際、仕事の一環だったんだろうよ。主は先帝の役に立つ為だけに生きてたようなものだから、自国の利益になる相手としか付き合っていなかったし…。誰かと共に歩む未来なんて考えもしなかったんだろうしな…」
淡々とそう語りながらも、嘉魄の表情が少し憂いを帯びる。
昔から璉を間近に見てきただけに、嘉魄にはより強く思うところがあるのだろう。
だが暁鴉にしても、多少なりとも人間らしくなってきた璉を、それなりに喜ばしく感じていた。
今までの璉は、いつこの世から消えてしまってもおかしくないほど、常に存在そのものが不安定で、見ている方が痛ましかった。
まるで全てを諦めているかのように、周囲に何の関心も示さず、一切自分を顧りみようともしない璉に、彼の周りの人々は不安を覚えずには居られなかった。
しかしそんな璉が、初めて損得抜きに手に入れたいと望んだのが、鴻夏だったのだ。
璉が一体いつ、どうやって鴻夏の事を知ったのかはわからない。
だが彼は鴻夏との縁談が来た時点で、すでに彼女の秘密も知っていた。
そして最初からそれを承知の上で、何喰わぬ顔でそのまま縁談を進めたのだ。
「…つまり今回ばかりは、明らかに主の方が鴻夏様を選んでるんだよね」
「まぁそうなるな…」
「鴻夏様は花胤の後宮育ちで、自国の者達ですら滅多に拝顔できないほどの深窓の姫君だよね?それなのになんで主は、鴻夏様の秘密も知ってたんだろう…?」
もっともな疑問を口にした暁鴉に、嘉魄は無言で何も答えない。
その様子から、嘉魄がその答えを知っている事は間違いなかったが、それを誰かに話す気はまったくないようだった。
こうなるともう、いくら聞いても答えは来ないので、余計な詮索は無駄という事になる。
『まぁいいさ。そのうちわかるだろ』
呆気ないくらいにあっさりと諦めると、暁鴉はすぐに気持ちを切り替え、遠目から自らの主人である鴻夏を見つめる。
優秀だけれど、人としてはかなり問題のある風嘉の皇帝と、一癖も二癖もあるその側近達に、何の抵抗もなく受け入れられた鴻夏は、実は一番の大物なのかもしれない。
そして本人にその自覚はないようだが、鴻夏はそこに居るだけで、まるで空に輝く太陽の如く、周りの人々の心を明るく照らし出す。
まさしく『花胤の陽の姫』の名が相応しい、輝くような存在だった。
そしてふと暁鴉は思う。
風嘉の方は鴻夏を迎えた事で、全てが良い方向に進んでいるように感じるが、逆に鴻夏を失った花胤の方はどうなのだろうかと…。
この輝きを失い、果たして今まで通りにいられるものなのだろうか…?
何となく花胤が、破滅への階段を登り始めているような…嫌な予感が胸を過ぎった。
特に彼女の双子の片割れである『花胤の陰の皇子』こと凛鵜皇子。
昔一度だけ遠目に見た事があるが、鴻夏の双子の弟でありながら、その中身はかなり違う印象を受けた。
あれは間違いなく鴻夏とは真逆の、どちらかと言うと璉に近い人間。
おそらく自らの目的を果たす為ならば、どんな手段も厭わず、自らの命も賭けてしまうような…そんな危うい存在だった。
ただ璉の場合は、何の欲も執着もないが故に自らを蔑ろにしている印象だが、彼の場合はむしろ執着が強い故に、結果としてそうなっているように見えた。
暁鴉から見れば、凛鵜皇子はいつ自滅してもおかしくない、絶対にお近付きにはなりたくない類の人間である。
そして暁鴉は、鴻夏を見つめながら思う。
『鴻夏様が、悲しむ結果にならなきゃいいんだが…』と。
花胤国にも凛鵜皇子にも、特に何の思い入れもない暁鴉だったが、自らの主人である鴻夏には人一倍の思い入れがある。
出会ってまだ日こそ浅いが、すでに暁鴉にとって鴻夏は失い難い存在になっていた。
もはや鴻夏以外の主人は考えられず、璉の妃として彼の隣に立つ人物も、鴻夏以外は認められない。
おそらく風嘉の側近達も、すべてが同じ思いで鴻夏を皇后として認めているはずだった。
お互い敢えて確認した事もないが、暁鴉はそう確信している。
だからこそ鴻夏の影として、暁鴉は命に代えても鴻夏を護る覚悟があった。
正直『影』として、心から仕えたいと思える主人に出逢えた自分は、本当に幸運だと思う。
そして誰よりも大事に思っているからこそ、鴻夏には絶対に幸せになって欲しかった。
ただ相手があの璉だという時点で、前途多難である事はわかっている。
唯一の救いは璉の方も間違いなく、鴻夏に好意を寄せているという事だった。
おそらく鴻夏ならば、そのうちに必ず本当の意味での正妃になる事だろう。
そう思いながらも、どういうわけかなかなか進展しない二人の関係に、暁鴉は多少の焦ったさも感じていた。
そもそもすでに結婚しているにも関わらず、二人の仲はたまに口付けしてる程度の、まるで婚約前のような初々しいものである。
確かに仕事以外では、何事にも淡白過ぎる璉と超箱入り娘の鴻夏では、こんなものなのかもしれないが、傍で見ている者にしてみれば、これでいいのかという疑問が出てくる。
特に璉と言えば、男女を問わず出会ったその場で関係を持つ事もザラであったはずなのに、鴻夏に対しては彼女が望まない限り、特に関係を進めるつもりがないらしい。
おそらくその気になれば、いとも容易く鴻夏を落とせるはずなのに、敢えてそれをしないところに逆に彼の本気度を感じる。
一方そういった事にかなり疎い鴻夏は、反応がいちいち初々しくて、自分から璉にどうこうしようという発想がない。
そのため時々 璉の方から軽く仕掛ける程度で、二人の仲は結婚から一ヶ月経った今でも清廉潔白なものだった。
今も璉に口唇を奪われた鴻夏が、真っ赤になりながら璉に向かって何かを怒鳴っている。
『こりゃあ本当の妃になるまでの道のりは、かなり長そうだねぇ。まぁでも、主の方も楽しそうだからいいか…』
今まで見た事がないほど、自然に笑っている璉を見ながら、暁鴉が呆れたように溜め息をつくと、その横で嘉魄も穏やかに微笑む。
二人の影に暖かく見守られながら、普通の恋人同士のように仲良く寄り添う皇帝夫妻を、満天の星が優しく包んでいた。
翌朝、何かが動く気配に目覚めた鴻夏は、自分の隣に誰かの体温を感じ、ひどく驚いた。
慌てて半身を起こして振り返ると、見覚えのある長い亜麻色の髪が目に入る。
「…ああ、起こしてしまいましたか?」
そういう優しい声が聞こえ、振り仰ぐと寝起きと思われる雰囲気のある男が目に入った。
「れ、璉…⁉︎」
「おはようございます、鴻夏」
ニッコリと艶やかに微笑むのは、鴻夏の夫であり、この風嘉の皇帝である緫 璉瀏であった。
元々妙に色気のある男だが、寝台の上で気怠げに髪を搔き上げる姿は、思わず目のやり場に困るほど壮絶に色っぽい。
あまりの事に呆然として固まる鴻夏に対し、璉はするりと鴻夏に近付くと、抵抗がないのをいい事に実に自然に口付けた。
「ちょっ…ちょっと璉っ⁉︎」
「…朝の挨拶ですよ。寝起き姿があまりにも可愛いかったので、つい頂いちゃいました」
そう言ってしれっと答えると、璉は寝台から立ち上がり、傍に置かれていた上掛を羽織る。
そして近くの卓に置かれていた水差しから、二つの杯に水を注ぐと、それを持って鴻夏の元へと戻ってきた。
「あ…ありがとう…」
差し出された片方の杯を、両手で受け取りながら礼を言うと、『どういたしまして』と答えながら、璉が鴻夏のすぐ側に腰を下ろす。
じんわりと相手の体温を感じながら、鴻夏が受け取った杯に口を付けると、それを見ながら璉も残したもう一つの杯に口を付けた。
しかし表面上は穏やかに見えるが、鴻夏の頭の中は大混乱である。
『わ…私、何で璉と一緒の寝台で寝てんの⁉︎昨夜は璉と星を見に行って…それから、それからどうしたんだっけ⁉︎』
一生懸命思い出そうとするが、動揺しているせいか、まったく経緯が思い出せない。
するとその考えを読んだかのように、璉がさらりとその答えを教えてくれた。
「…昨夜は疲れていたのか、鴻夏は星を見ているうちに眠ってしまったんですよ。だから連れて帰ってきて、私もそのまま寝ました。寝台がこの通り一つしか用意されていませんでしたので、勝手に一緒に寝させてもらったんですけど、いけませんでしたか?」
「べ、別にそれはいいんだけど、その…ごめんなさい…。私、寝ちゃったのね…?」
心底申し訳なさそうにする鴻夏に、璉は穏やかに首を横に振ると、逆に鴻夏を気遣うようにこう答えた。
「いえ…私の方こそ、慣れない旅で疲れている鴻夏を連れ回してすみません。もう少し考えるべきでしたね」
思いがけずそう謝られ、今度は鴻夏が慌てて否定する。
「ち、違うわ!私、璉に誘って貰えて嬉しかったし、星もすごく綺麗だったし…!その…すごく楽しかったから…、また一緒にお出掛けして欲しいのだけれど…」
真っ赤になりながらも、素直に気持ちを伝えてくる鴻夏に、自然と璉に笑みが浮かぶ。
すうっと璉の手が伸ばされ、鴻夏の頭を優しく撫でながら髪を一房取ると、璉は流れるように自然にそれに指を絡めて口付けた。
「れ…璉…っ!」
鴻夏が焦ったように小さく叫ぶと、チラリと璉が悩ましげな視線を向ける。
その翠の瞳にドキリとすると、明らかに何かのスイッチが入った璉が、鴻夏に向かって艶っぽくこう語った。
「…あんまり可愛い事ばかり言うと、調子に乗って頂いちゃいますよ…?これでも結構、我慢してるんですからね」
自分の何が彼のスイッチを入れたのかはわからなかったが、その雰囲気に気圧され、鴻夏がひどく不安げな顔を見せる。
するとそれを見た途端、璉は静かに鴻夏の髪から手を外し、一人 寝台から立ち上がった。
「れ、璉…?」
「…冗談ですよ。貴女が嫌がるような事はしません。ただ貴女の方もその気になったら、きっと手加減はしてあげられないと思うので、そのおつもりで…」
ニッコリと微笑みながらそう宣言すると、璉は手にしていた杯を卓の上に置き、そのまま天幕の外へと出て行った。
その後ろ姿を見届けながら、鴻夏の顔が一気に真っ赤になる。
「な…っ、え…?わ、私がその気になったらって…ええっ⁉︎」
これ以上ないほど動揺しながら、鴻夏が寝台の上で一人焦る。
さすがの鴻夏もその意味するところを理解し、恥ずかしくて仕様がなかったが、困った事に璉に対する不快感はまったくなかった。
ただ鴻夏の心臓だけが、壊れそうなほど早く脈打っていて、息をするのさえ苦しい。
「も、もう…どうしてあの人はこうなの⁉︎私を殺す気…?」
真っ赤な顔でそうボヤきながらも、でも心のどこかでそうなる事を望んでいる自分も居て、鴻夏は複雑な思いで顔を伏せた。
こうして南方領への旅の二日目は、朝から波乱含みで始まったのである。
陽も登りきった頃、璉を始めとした南方領への視察団は、オアシスを後にし旅立った。
定例視察という事もあり、特に急ぐ旅でもないのだが、とりあえず陽が沈む前にある程度の距離を進んでおかないと、今夜の野営場所の心配が出てくる。
目標としては今日中に砂漠地帯を越え、草原地帯にまで入っておきたいところだった。
鴻夏にとっては、人生で初めての草原地帯への旅になる。
また自分の夫である璉が、まだ少年と呼べる年齢から長く過ごしたという場所に、鴻夏も早く行ってみたかった。
一面に広がる草原とは一体どんな光景だろうとワクワクしながら、鴻夏は隣で馬を進める暁鴉に声をかける。
「ねぇ、暁鴉は南方領に行った事あるの?」
「ああ、まぁ仕事で何度か…。あたしはこの容姿なんで、潜入捜査はもっぱら月鷲でさ。その関係で拠点にしてた時期もあるよ」
さして面白くもなさそうに暁鴉が答えると、その答えに鴻夏が嬉しそうに喰いつく。
「そうなの…!ねぇ、南方領の砦は草原地帯の中にあるって聞いたけど本当?どんな感じなのかしら?」
「何かえらく楽しみにしてるみたいだけど、単なる国境の砦だからね?別に豪華でも何でもないよ。ごく普通の石造りの城さ。ただ草原の中に作られた、国境線を示す石の外壁の傍にポツンと建ってるから、まぁ目立つっちゃ目立つけどね」
あっさりとそう答える暁鴉に、鴻夏が目を輝かせてさらに問いかける。
「まぁ…!それ授業で習ったわ!璉が月鷲との和睦の条件として作ったという外壁ね?」
「そうそう、まぁ圧巻ではあるよ。他に何の建造物もない所に、草原を縦断するように延々と石壁が続いているからね」
そう暁鴉が答えると、鴻夏が心底楽しそうに、輝くような笑顔を見せる。
「素敵…!歴史の授業で習った外壁の実物が見られるのね!しかもそれを作らせたのが璉だなんて、本当に誇らしいわ」
やや興奮気味にそう語る鴻夏に、暁鴉がふいにニヤリと笑ってこう囁く。
「あー、そういう事ね。つまり鴻夏様は、実際に主の功績が見られるのが楽しみなんだ?なるほど、なるほど…。まぁ確かに鴻夏様の旦那はすごいよ。『風嘉の白龍』の名は伊達じゃない」
「そ、それもあるけど、別にそれだけってわけじゃ…。あ、あと『白龍』って叙事詩の中だけでの呼び名じゃ…?」
思いもかけなかった突っ込みに動揺しつつも、鴻夏がそう尋ねると、暁鴉が冷静な態度でこう答える。
「いや…南方領での主の通り名は、『白龍』だよ。最初は戦場で主を見かけた敵側から、そう呼ばれるようになって、それがいつの間にかこっち側でも広まっていって、ついには全員から『白龍』と呼ばれるようになった。だから今から行く南方領の砦の連中は、主の事を『白龍』と呼ぶはずだよ」
「そ…うなのね。『白龍』って、てっきり叙事詩での創作上の呼び名かと…。まさか本当の通り名だとは思わなかったわ」
そう言いながら、鴻夏はあの叙事詩が先帝によって禁歌とされた本当の意味がわかったような気がした。
泰瀏皇子が指摘したように、『龍』とは皇帝を表す言葉なのに、当時まだ皇弟に過ぎなかった璉へと使われていたとしたら、それは先帝ではなく璉を皇帝として崇めている意味になる。
また当時、圧倒的な軍才を誇っていた璉ならば、すぐさま『反逆の意志あり』と取られてもおかしくはないはずだった。
おそらく璉が周囲にその才知 を認められていく過程で、徐々に先帝との間に溝が出来、それがどんどん深まっていったのだろう。
自分にはない圧倒的な才を見せつける異母弟に、嫉妬や苛立ちが募ると共に、いつか皇帝の座から追いやられるかもしれないとの不安から、先帝は狂っていったのかもしれない。
そう思うといくらか同情の余地がないわけでもないが、それらを考慮したとしても、先帝のした行為は許されるものではなかった。
『皇帝とは進むべき方向を定めるだけの存在。それ以上でもそれ以下でもない…。けれどその決断には、自らの命を懸かけて責任を負わなくてはならない』
昨夜 璉はそう言った。おそらくその考えは正しくて、世の理としてもそれが真理なのだろう。
けれどこの世の中、一体どれだけの君主がその事を知り、正しくあろうと努力しているというのだろうか?
少なくとも風嘉の先帝は、そうあり続ける事が出来ず、最終的に国を荒らし自滅した。
本人の自滅は自業自得であるが、それに巻き込まれた国と国民はたまったものではない。
そしてその後始末を必死でおこなっているのが、璉と彼の側近達だ。
彼等は併合一歩手前まで迫っていた、他国の侵略を一気に退け、荒れ果てた国土を一から再建し、風嘉にかつての繁栄を取り戻した。
今や風嘉は四大皇国一の軍事国家と目され、璉瀏帝は当代随一の武帝として、各国からその存在を恐れられている。
そんな華々しい経歴を持つ璉だが、当人自身は至って普通のつもりなのか、普段は帯刀もせず、フラフラとあちこちを出歩いている。
一度いくら嘉魄らが付いているとはいえ、無防備過ぎるのではないか?と窘めた事があったが、『剣は得意じゃないので…』と困ったように微笑んだだけで、まったく言う事を聞いてくれなかった。
実は鴻夏が剣を習い始めたのもそれが理由で、夫である璉を側で護れるよう、誰よりも強くなりたいと思っている。
『そう言えば私、一度も璉が剣を振るっている所を見た事がないわ…』
ふとその事に気付き、鴻夏は首を捻る。
確かに本人も『得意じゃない』とは言っていたが、それでも若い頃からずっと戦場に出ていたのだから、決して使えないはずはない。
なのに彼の側近達や彼の影である嘉魄に至るまで、誰もが璉が帯刀しない事を、咎めようともしないのだ。
『これって、普通におかしいわよね…?璉は大事な皇帝なのに、何で誰も璉が帯刀しない事を責めないのかしら?』
そう思った鴻夏の疑問は、思いもよらない形で解決される事になる。
旅程二日目。陽も傾き始め、そろそろ今夜の野営予定地まであと少しの距離になった頃、それは突然起こったのだ。
ザァッと複数の黒い影が、突如右側の岩山から現れ、視察団を側面から襲う。
途端に目の前で血生臭い戦闘が始まった。
「盗賊だぁ!」
「固まれ、固まれ!背後を取られるな!」
使節団の警護兵から、警告の声が飛ぶ。
それを耳にし、鴻夏は一人用の輿の中で、ビクリと肩を震わせた。
そんな鴻夏の耳に、暁鴉の鋭い声が飛ぶ。
「鴻夏様!輿から出ないでおくれよ?」
「ぎ…暁鴉」
抜剣し、鴻夏の乗る輿を数人の警護兵と共に警護しながらも、暁鴉は余裕のある表情でこう答える。
「大丈夫、すぐに片付くよ。馬鹿な奴等さ。よりによって『風嘉の白龍』の一行を襲うなんてね…」
そう暁鴉が言い終わるか否か、突然盗賊団の中心から断末魔の悲鳴が上がる。
驚いてその方向に目をやると、見覚えのある長い亜麻色の髪が目に入った。
それを見て、思わず鴻夏は叫んでしまう。
「れ、璉っ⁉︎ちょっ…暁鴉!璉が敵に囲まれて…っ!」
「…大丈夫。よく見なよ、鴻夏様?うちの主はあの程度の奴等に殺やられやしないよ」
そう暁鴉に言われ、もう一度敵の方へと目をやると、璉の周りを取り囲んでいたはずの盗賊達が、一瞬ですべて地に伏していた。
そして残された盗賊の中から悲鳴が上がる。
「ひぃ…っ!こ、こいつ『白龍』だ!な、何でこんなところに…っ!」
「何っ⁉︎白龍っ⁉︎」
ザサァッと潮が引くかのように、璉の周りの盗賊が遠巻きに離れる。
その中心で、一人血塗られた剣を手にしながら、璉が立ち尽くしていた。
そしてゆらりと陽炎のように、璉の周囲に目に見えない何かが立ち昇る。
「…おや、私をご存知でしたか。でもどうせなら、襲う前に気付いて欲しかったですね」
ニコリといっそ優しいくらいに微笑みながら、璉がチラリと周囲に視線を泳がせる。
すでにその足下には、十数名にも及ぶ盗賊達の死体が転がっており、彼が本物の『白龍』だという事は疑う余地もなかった。
そして璉がスッと一歩前へと出るのと同時に、ジリッと盗賊達が後ろへと下がる。
すでに両者の間で雌雄は決しており、盗賊達は遠巻きに対峙する事しか出来なかった。
それに対して璉が、容赦なく告げる。
「どうします?大人しく捕まるか、私に斬られるか、二つに一つです。あぁ、ちなみに逃げようとしても無駄ですからね?例え私の間合いから逃れられたとしても、我が国の影はとても優秀でね…。絶対に貴方達を逃しませんよ」
脅しではない真実を告げながら、璉が精神的にも盗賊等を追い詰める。
するとカランカランと鈍い音を立てて、次々と盗賊達の手から剣が滑り落ちた。
そして両手を上げ、すでに戦意を喪失している事を告げる盗賊達に、一斉に風嘉の警護兵が飛びかかり抵抗出来ないよう縛り上げる。
それを視界の端で確認しながら、璉はようやく手にしていた剣をその場に投げ捨てた。
その光景を呆然と見守る鴻夏に、暁鴉が得意げにこう告げる。
「ほら…ね?ここじゃ、もう主と殺り合おうなんて奴は居ないんだよ。絶対に殺られるってのがわかってるからね」
その声をボンヤリと聞きながら、鴻夏はポツリとこう呟く。
「…暁鴉。璉は確か『剣が得意じゃない』って…」
「あぁ…そう言われると、確かに得意じゃないかもね。剣を持つと、主は全員殺しちまうから」
「それって…つまり…」
「『上手く手加減出来ない』って意味だと思うけど?別に主も無駄に相手を殺したいわけじゃないし…。ただ剣を使うと生け捕りにして終わらせるって事が出来ないから、『得意じゃない』って言ったんじゃないかな?」
あっさりとそう言われ、鴻夏は軽く目眩を感じながら、その場に崩れ落ちる。
そして動揺しつつも、敢えてもう一度確認するかのように、暁鴉にこう尋ねた。
「じゃあ普段、璉が帯刀しないのって…」
「剣だと確実に殺しちまうからだよ。別に剣がなくても、主は戦えるしね。うちの主は敵陣への潜入も生業としてたから、うちらと同じく一通りの暗器を使いこなすよ?だから一見丸腰に見えても、結構色々隠し持ってるはず…」
そう言われ、鴻夏はガクッと肩を落とした。
そして力無くこう呟く。
「…そういう意味なの…。剣を使えないはずはないとは思ってたけど、まさか『手加減出来ない』って意味だとは思わなかったわ…」
口にしたのはそれだけだったが、心の中ではそれじゃあ今から剣を覚えても、璉の域まで達するのは相当長い道のりじゃないかと毒づいてしまう。
そしてどこまでも自分の想像の上をいく夫に、鴻夏は盛大に溜め息をついたのだった。
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