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風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜

ー纜瀏帝の呪縛ー

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よく晴れたある日の昼下がり。
鴻夏コウカは一つの決意を胸に、思い切ってレン執務室 しつむしつを訪れていた。
普段の鴻夏コウカなら政務の邪魔をしないよう、決して執務室 しつむしつには近寄らないようにしているのだが、今回ばかりはどうしても早くレンの許可が欲しくて、つい訪ねて来てしまった。
しかしここまで勢いで来たものの、最終的になかなか扉を叩く勇気が持てず、鴻夏コウカはそのままモジモジと扉の前で迷ってしまう。
するといきなり執務室 しつむしつの扉が中から開いて、出てきた牽蓮ヒレンが扉の前で固まる鴻夏コウカに気付き、すぐに気さくに話しかけてきた。
鴻夏コウカ様…?執務室 しつむしつまでいらっしゃるなんて珍しいですね。どうされました?」
そう言われ、少し気まずそうに見つめ返しながら、鴻夏コウカは小さい声で牽蓮ヒレンに尋ねる。
「あ…あの…お仕事の邪魔してごめんなさい。その、忙しい…わよね…?」
「まぁ…ほどほどに?でも別にそこまで急ぎの案件もないので、少しくらいなら構いませんよ。レン鴻夏コウカ様がお見えです」
そう言って牽蓮ヒレン鴻夏コウカが止める間もなく、そのまま執務室 しつむしつの中に居るレンに声をかける。
するとすぐに中から返事があって、鴻夏コウカ執務室 しつむしつの中に入るよううながされた。

おずおずと中に入ると、そこにはたくさんの書類の山に囲まれたレン黎鵞レイガが居て、鴻夏コウカはすぐに訪ねた事を後悔してしまう。
しかし彼等の方は別段気にした風もなく、入ってきた鴻夏コウカを見付けると、実ににこやかにこう話しかけてきた。
「いらっしゃい、鴻夏コウカ。ここまで訪ねて来るなんて珍しいですね。何かありましたか?」
「すみません、鴻夏コウカ様。少々散らかっておりまして…。よろしければそちらの椅子にでも、お座りになってください」
次々と気遣きづかわれ、鴻夏コウカが恐縮してこう呟く。
「あ、あのお仕事の邪魔してごめんなさい。やっぱりとても忙しそうだから…その…また夕食の時にでも改めるわ」
そう言って慌てて戻ろうとすると、その背中に向かってレンの声がかかる。
「待ってください、鴻夏コウカ。…戻らないで?」
「え…でも…」
恐る恐る振り返ると、ニッコリと微笑んだレンが書類を置いて執務机 しつむづくえから立ち上がる。
そして無言で黎鵞レイガ牽蓮ヒレンに目をやると、二人は何を読み取ったのか、そのまま無言でスッと一礼をし、執務室 しつむしつの外へと出て行った。
それをオロオロと見送りながら、鴻夏コウカが扉の前に立ち尽くしていると、突然横から誰かの腕が伸びてきて、まるで鴻夏コウカ退路たいろを断つかのようにその扉を閉めてしまう。
そしてそれと同時に、サラリと自分を包むように亜麻色 あまいろの髪が周囲に下りてきて、鴻夏コウカは思わずドキリとした。

気がつくといつの間にかレンが自分のすぐ後ろに立っていて、その両腕で鴻夏コウカを扉にい止めるかのように両側の退路たいろを断っている。
あまりにも至近距離にレンが居て、動揺のあまり声もなく扉にすがり付くと、その耳元でレンが妙に艶っぽくこう語った。
「…貴女からここに来るなんて、本当に珍しいですね…。私に何か話したい事があったのでしょう?」
「そ…そうなんだけど、でも…あの…そこまで重要な話でもないから、あ、後でもいいというか…」
真っ赤な顔でしどろもどろにそう答えながら、鴻夏コウカレンの方を振り返れない。
声と気配だけでもすでに心臓が壊れそうなのに、これで顔まで見たら本当にマズい。
そう思ってかたくなに扉のみを見つめていたのに、レンはそれが気に入らなかったのか、突然 鴻夏コウカの身体を引き寄せると、強引にその身体の向きを変えさせ、再び扉へと押し付ける。
「ちゃんとこっちを見て…?」
間近からレンの綺麗なみどりの瞳が鴻夏コウカの姿を映し、その右手が優しく頰に触れた。
その途端、一瞬で鴻夏コウカの理性が崩壊する。
声こそ何も出さなかったものの、すでに頭の中は大混乱だった。

『ひぃぃ~っ⁉︎ち、近いっ!しかも何か妙に色っぽいっ?…た、多分また無意識なんだろうけど、何でこの人こんな無駄にフェロモン振りまくわけっ⁉︎』
思わず居たたまれなくなって、ギュッと強く目をつむると、それを見たレンがどう受け取ったのか、突然何の前触れもなく口付けてくる。
それを受けて、鴻夏コウカは更に混乱した。
『は…っ⁉︎えっ⁉︎な、何で…っ⁉︎』
元々回ってない頭で必死で考えようとするが、衝撃の方が大き過ぎたらしく、頭の中が真っ白で何も浮かばない。
そうこうしているうちにスッとレンの口唇が離れ、鴻夏コウカは身体を震わせつつ、真っ赤な顔で自らの口唇を押さえながらこう呟いた。
「な…んで…?」
「あれ…?もしかして違いました?目が合った途端に閉じられたから、てっきりして欲しいのかと思ったんですけど…」
あっけらかんとそう言われ、プツンと鴻夏コウカの理性が切れる。
そして少し涙目でキッとレンを睨むと、鴻夏コウカは思わず叫んでいた。

「ば…っ、馬鹿ぁ!そんなわけないでしょ⁉︎こ、こっちは貴方と違って、全然慣れてないんだから、それが合図になるなんてまったく知らなかったわよっ!」
「あ、そうなんですか…。そうなると私が勝手に勘違いしてしちゃった事になりますね?それは…大変失礼を致しました」
ニッコリと爽やかな笑顔で謝られ、鴻夏コウカは毒気を抜かれ、へなへなとその場に座り込む。
それを優しく抱き起こしながら、レンは相変わらず艶っぽく耳元でこう囁いた。
「…でも男の前であんな事をしたら、普通は誘われてると思いますよ?今回は私だったから良かったけど、他の男の前では絶対にしないでくださいね」
「も…っ、もう誰の前でもしませんっ!」
慌ててそう言って離れると、レンはおや?といった顔でこう呟く。
「別に私にはして下さって構いませんけど?可愛い奥さんに誘われて、嬉しくない夫は居ませんので」
「さ…っ、誘っ…⁉︎」
「そうそう、初々しくてなかなか良かったですよ。また是非お願いしますね…?」
ニッコリと意地の悪い笑顔を見せながら、レンが囁くようにそう答えた。


そして出だしこそ思いがけず、色っぽい展開になってしまったが、結局 鴻夏コウカにその気がない事がわかると、レンは驚くほどあっさりと普段通りに戻ってしまった。
今も手ずから淹れてくれたお茶を卓に置きながら、鴻夏コウカに普通に話し掛けてくる。
「…それでここまで来て、鴻夏コウカは私に何を言いたかったのですか?」
鴻夏コウカの正面の席に座りながら、レンが穏やかにそう尋ねると、呑気にお茶を飲もうとしていた鴻夏コウカが、はたと本来の目的を思い出す。
「あ…っ、そうだった!私、レンにお願いがあって来たんだった!」
「お願い…?」
不思議そうに聞き返すレンに、鴻夏コウカは慌てて頷くと、恐る恐るこう切り出した。
「あ、あのね…。その…勉強をさせて欲しいんだけど…」
「勉強?」
「そう。一応嫁入り前に一般的な事は多少は習ったんだけど、基本が皇女 おうじょ向けの勉強だったから、その…わからない事の方が多くて…。このままじゃ、私なんの役にも立たない皇后になっちゃうんで、その…少しでも皆の役に立てるよう、もう一度勉強し直したいの…」
モジモジしながらそう呟く鴻夏コウカに、レンの瞳が少し驚きで見開かれる。

しかしすぐにフッと優しい笑顔を浮かべると、レンは穏やかにこう答えた。
「…いいですよ。何を習いたいのですか?」
「普通の皇子 おうじが習う事すべて!あ、あと剣も習いたいと思うんだけど…、さすがにそれはダメかしら…?」
上目遣 うわめづかいでそう尋ねると、レンはあっさりと『いいですよ』と答えてくれる。
それを受けて、鴻夏コウカが輝くような笑顔でレンにこう言った。
「良かった…!私には必要ないって言われるかと思って、ドキドキしてたの」
「別に…学びたいと思う事があるのなら、何でも好きに学べばいいんですよ。いちいち私の許可を取らなくても構いませんよ?ただ皇子教育となると、普通の子達が通う学校では教えられないでしょうから、タイと一緒に勉強する方がいいかもしれませんね…。早速明日から一緒に授業を受けられるよう、手配しておきましょう」
淡々とそう告げると、レンは穏やかに自ら淹れたお茶に口を付ける。
こうしてこの変わり者の皇帝は、自らの妃の望み通りに、あっさりと想定外なお妃教育を許可してしまったのだった。



翌日から鴻夏コウカ泰瀏皇子タイリュウおうじの部屋に通い、一緒に授業を受け始めた。
まだ十歳とはいえ、神童 しんどうと名高いタイが受けている授業は、すでに小児が受けるようなものではなく、十七歳の鴻夏コウカが受けても付いていくのが大変なほど水準の高いものだった。
タイにしても、今までは一人で教師から一方的な形で教えられるだけだった授業に、鴻夏コウカが同席してくれるようになり、その結果 今まではなかった討論などの時間も増えて、より深く充実した内容の授業になっている。
結果として型破りではあるものの、お互いがお互いの能力を高められる状態の授業になった事に、最初こそ眉をひそめていた官僚 かんりょう達もいつの間にか陰口 かげぐちを叩かなくなっていた。
もちろん後宮 こうきゅうに住む者達は、最初から誰一人反対する者はなく、むしろ応援態勢である。
特に彼等は鴻夏コウカの本来の性を知っているだけに、『皇子としての教養も身に付けたい』と切望する鴻夏コウカの気持ちが、痛いほどよく理解出来ていた。
もし花胤カインに同性の双子を不吉とする風習さえなかったら、鴻夏コウカも本来の性のまま一人の皇子として育てられ、そのまま花胤カインの皇帝の座に就いていてもおかしくはなかった。
たまたま運命の悪戯から皇女として育てられ、そして自分達が敬愛する璉瀏レンリュウ帝の元に輿入 こしいれしてきたが、鴻夏コウカのその真っ直ぐな気質はいつの間にか周囲のすべての者達を とりこにし、もはや誰もがレンの正妃として鴻夏コウカの事を認めていた。
レンとの間に後継 あとつぎを望めない事を除けば、容姿、性格共に何の問題もない。

それに特に恋愛方面において、誰かに執着する姿をまったく見せなかったレンが、何故か鴻夏コウカに対してだけは、自ら気を配り側に居る事を許容 きょようしている。
あまり自分を大事にしようとしないレンを、陰ながら常に心配し続けていた後宮の者達にとって、それはとても喜ばしい変化だった。
今も忙しい政務の合間を縫って、わざわざ鴻夏コウカの様子を見に訪れたレンを見ながら、彼等は温かい目でその様子を見守る。
彼等の頭を過ぎるのは、結婚一日目の夜に、後宮で働く者全員が大広間に集められ、レンの口から鴻夏コウカの秘密が暴露された時の事。
美しい姫にしか見えなかった鴻夏コウカが、実は男性で絶対に後継が望めない事を知った時には、驚くやらがっかりするやらでかなり混乱したものだが、その後すぐに心底申し訳なさそうに謝る鴻夏コウカの姿を見て、それもどうでも良くなった。
今となってはあの段階で、自分達を心から信用し、何も隠さず真実を明かしてくれたレン達に感謝しかない。
だからこそ自分達は彼等の期待に応え、鴻夏コウカの秘密が漏もれないよう、細心 さいしんの注意を払う。
そもそも人としても仕えるべき主君としても、彼等以上の者達は望めないのだ。
それなら自分達も今の恵まれた環境を守るために、一緒に努力すべきだろうというのが、後宮に仕える者達の一致した意見だった。


そんな臣下達の密かな決意も知らず、レン鴻夏コウカタイも交えて、皇子教育の内容についての話をしていた。
まずは大真面目な顔をしながら、鴻夏コウカがいきなりこう切り出す。
「…思うんだけど、そもそも『皇子』はどこまでの範囲を勉強するものなのかしら?あと皇子は皇子でも、普通の皇子と皇太子とでは習う範囲や内容も違うものなのかしら?」
そう言ってひたすら首をねる鴻夏コウカに対し、レンが穏やかにこう答える。
「まぁ国によって多少の違いはあるでしょうが、皇位継承権の順位に関わらず、『皇子』と しょうされる方々の勉強する内容は、基本全員同じだと思いますよ?いつどこで何があるかわかりませんから、誰がいつ皇位に就いてもいいよう、皇帝として最低限の政務が取れるよう、全員同じように教育されるはずです」
「ふーん?じゃあ今、タイと私が習ってる事をレンも昔習ったんだ?」
何気なくそう聞いた鴻夏コウカに対し、レンが淡々とこう答える。
「…そうですね。ただ私の場合は他にもたくさんの皇子が居たので、皇位継承権の順位的に、私にまで皇位が回ってくる事はまずなかったんですよ。ですから普通の皇子では覚えないような、少々変わった内容の事も色々と習得させられました…」
「変わった事…?」
キョトンとして聞き返すと、さらりと何でもない事のようにレンが答える。
「まぁいくつか例を挙げると、医術、諜報術 ちょうほうじゅつ暗殺術 あんさつじゅつ房中術 ぼうちゅうじゅつとかですかね…。私は皇子というより、纜瀏ランリュウ帝の こまとなるよう育てられたので、多分他の皇子達とは教育された内容が違うんです。だからあまり参考にはならないと思いますよ」

まるで他人事のように、さらりと痛まし過ぎる過去を口にしたレンは、そのまま何の感情も読み取れない雰囲気で軽く目を閉じる。
思わず何と答えるべきかもわからず、声を失った鴻夏コウカの前で、泣きそうな顔のタイレンに縋り付いた。
「…ご…めんなさい、ごめんなさい、レン。父上がレンに酷い事を…」
「何を謝るのです、タイ?別に貴方が気にする事は何もありませんよ。私も特に不満もありませんでしたし…。それに元々私の命は貴方の父上に救われた物です。それをどう使われようと、私自身が構わなかったんですよ」
そう言って、レンが優しくタイの頭を撫でる。
多分その言葉に偽りはなくて、レン自身はそれが当たり前だと思っていたのだろう。
だが普通に考えるとそんな酷い扱いはない。
実の異母弟 いぼていを良いように使うための こまとして育てるなんて、常識では考えられなかった。
『もしかして…前に暁鴉ギョウアが言っていた、レンが『暁鴉ギョウア達側の人間』ってのは、こういう意味だったの…?』
ふいにその言葉の差す意味が、理解出来てしまった気がして、鴻夏コウカはいたたまれない気持ちでいっぱいになった。
レンが皇帝になるまで自国に住む家も持たず、国から使い捨て同然に利用されてきた『影』達と、異母兄 いぼけいの役に立つよう育てられ、そのこまとして生きる事だけを強いられてきたレン
確かに境遇的きょうぐうてきによく似ている気がした。
そしてそれだけに、鴻夏コウカは一層哀しくなる。

「…ごめんなさい、レンレンタイの気持ちも考えず、不用意な発言だったわ…」
 うつむきながら、今にも消え入りそうな声で鴻夏コウカが謝ると、レン鴻夏コウカの肩に手を置き、ひどく優しげにこう話す。
「本当に気にしないでいいんですよ、鴻夏コウカ?私にとってはそれが当たり前の日常で、特に不幸だとか思った事もないんです」
そこで一旦言葉を区切ると、レンは遠い目をして続けてこう語る。
「…物心がつく頃には、纜瀏ランリュウ帝の役に立つ事だけが自分の存在意義だと思っていました。彼だけを見て彼だけを愛し、彼の役に立つように生き、彼の為に死ぬ…。ずっと周りからそのように言われ続けてきたので、私もそうする事が当たり前なんだと思っていました。そしてそんな風に育てられた私は、一度も死ぬ事が怖いと思わなかった…。結果としてそれが功を奏し、私は若くして戦場で名を馳せる事が出来たというわけです…」
淡々とそう語ると、最後に彼はポツリと『皮肉なものですね』と穏やかに微笑んだ。



そしてその晩、鴻夏コウカは色々な事に悩みながら、一人 悶々 もんもんと寝台の中で答えの出ない問答を繰り返していた。
きっかけは、今日思いもかけず少しだけ知ってしまったレンの過去。
チラリと聞いただけでも、かなり酷い特殊な環境で育ったのは間違いなく、おそらくそれが原因で色々な感情や常識が欠落気味なのだろうという事が容易に想像出来た。
けれど今回自分が知った内容は、多分氷山の一角に過ぎず、レンレンの周りの人達についてもまだまだ謎の方が多い。
そして鴻夏コウカは結論として、特に誰に聞かせるわけでもなくポツリとこう呟いた。
「…やっぱり私が知らなさ過すぎるのよね…」
かなり端的な言葉であったが、それが一番、今の鴻夏コウカの心情をよく表していた。
よくよく考えてみれば、鴻夏コウカはあまりにもレンの事を知らなさ過すぎるのである。
正直 風嘉フウカに来るまでは、まさか自分が結婚する事になるとは思いもしなかったので、敢えて自分から何かを知ろうとは思わなかった。
そして結婚後はこの特殊な後宮環境に慣れるのに精一杯で、気がつけばもう一ヶ月間が経っていたという感じである。
だから最近になってようやく、少し周りを見る余裕が出てきた鴻夏コウカは、今更ながらにその事に気付いてしまったのであった。

そして溜め息をつきながら、鴻夏コウカは思う。
鴻夏コウカレンについて知っている事は、三年前に風嘉フウカで起こっていた未曾有 みぞうの大乱を鎮めた『風嘉フウカの英雄』である事。
その前は若くして国境線を守り、その目覚ましい働きぶりから『戦場の鬼神 きしん』と呼ばれ、怖れられていたという事。
そして異母兄 いぼけいである纜瀏ランリュウ帝に駒として育てられ、今もなおその呪縛に縛られとらわれているだろうという事…。
普段は穏やかで優しい雰囲気を纏うレンだが、時々ひどく冷たい気を放つ事がある。
まるで人が入れ替わったかのように、近付きがたい気を纏い、向き合う相手に得も言われぬ恐怖を感じさせる時、確かにこの人は風嘉フウカを長年に渡って支え続けてきた皇帝なのだと、否が応にも思い知らされる。
…正直そういった空気を纏うレンは怖い。
怖くて本能的に逃げ出したい衝動に駆られるが、まるで冴え渡る刃のように りんとした気を放つレンは、目を逸らせないほどに美しい。
そして震えが止まらないほど怖いのに、鴻夏コウカはそんなレンにも惹かれてしまっている。
普段の優しいレンももちろん好きだが、時折垣間見せる冷酷なレンは、まるで美しく咲き誇る毒花のように、ただそこに居るだけで人々の心をどうしようもなく惹きつける。
多分あれが月鷲ゲッシュウ鴎悧 オウリ帝や先帝である纜瀏ランリュウ帝を惑わせたレンの真の姿なのだろう。
強く気高く美しい…孤高の獣のようなレン

彼を手に入れたいと望む者は、それこそ掃いて捨てるほど居たに違いない。
けれど彼は生まれた時から纜瀏ランリュウ帝の物で、彼の瞳は纜瀏ランリュウ帝以外の者を映さない。
生まれた時から纜瀏ランリュウ帝だけを見て、纜瀏ランリュウ帝だけを愛し、纜瀏ランリュウ帝の役に立つためだけに生き、纜瀏ランリュウ帝の為に死ぬ。
そうする事が当たり前と しつけられてきたレンは、纜瀏ランリュウ帝の死後もその呪縛に囚われている。
おそらくタイを守り、愛情深く大事に育てているのも、彼が纜瀏ランリュウ帝の息子だったから。
ではそうなると自分は…?
自分は彼にとってどういう存在なのだろう?
そう思った瞬間、鴻夏コウカはどうしようもない不安に駆られた。
花胤カインから政略結婚で嫁いできた自分は、確かに後継問題の面からみれば、非常に都合の良い存在だったとは思う。
だが都合が良いだけで、はたしてそこにレンの気持ちがあったのか?と言われると、まったくもって自信がない…。
『どうしよう…。なんだか急に切なくなってきた…。レンにとって私はどういう存在なの?彼にとって真に価値がある存在だと言えるの…?』
そう思ったら、ポロリと自然に涙が溢れた。
自分が何に対して傷付いているのかもわからないが、ただただ心が張り裂けそうに痛い。
双子の弟の凛鵜リンウと離れなければならなかった時よりも、ずっとずっと辛かった。
そして鴻夏コウカはその痛みと共に、ふいに自らの気持ちを自覚する。

『私…もしかしてレンの事が好き…なの⁉︎え、でもいくら結婚してるといっても、レンとは契約結婚だし、それに私の本来の性別は男で、レンも同じ男性で…。いくら私が皇女として育てられてきたとしても、おかしいんじゃ…?』
混乱しながらもそう思うが、それでもそう考えると、今までの自分のよくわからない反応の意味が、ようやく理解出来る気がする。
いつもレンの姿を見るだけでひどく心臓がドキドキしていたのも、彼の一挙一動に常に動揺していたのも、そして今、彼の気持ちが分からないというだけで泣けてきてしまうのも、すべては彼に恋していたから。
仕事面では誰よりも優秀なのに、何故か人の感情にだけは疎くて、どこか不器用なのに優しくて、誰よりも心が強く綺麗な人。
お世辞にも良い環境では育っていないのに、それでも真に歪む事もなく、真っ直ぐに生きてきたレンがどうしようもなく愛おしかった。
『…あの人を助けたい…。あの人に必要とされるような人間になりたい。そして誰よりも強くて危ういあの人を、纜瀏ランリュウ帝の呪縛から解放してあげたい…!』
次から次へと溢れ出る想いを、もう鴻夏コウカは止められなかった。
そしてその勢いのままに、鴻夏コウカはフラリと立ち上がると、今まで一度も自分からは叩いた事がない扉の前に立つ。
震える手で軽く扉を叩くと、すぐに聞き慣れた声がそれに応じ、鴻夏コウカは小さな声で中に居るであろう人物に声をかけた。
そして程なく扉は中から開かれ、鴻夏コウカ一人を招き入れると再び元通りに閉じられる。
そこは鴻夏コウカが今まで一度も訪れた事のない、自らの夫であるレンの自室であった。


白壁 しらかべに焦茶色と紺青色を基調とした、重厚で落ち着いた雰囲気の部屋の中で、鴻夏コウカは今更ながらに自らの行動を後悔していた。
何となく勢いのままに、フラフラとレンの部屋の扉を叩いてしまったが、少し落ち着いて考えてみると、時刻はすでに深夜に近く、到底人を訪ねても良い時間ではなかった。
しかもうっかりと忘れていたが、この時間のレンは当然もう夜着 やぎ姿で、思わず目のやり場に困るほど艶っぽい。
正直同じ男であるレンに、何故こうも色気を感じてしまうのかはわからないが、無駄に雰囲気のある自らの夫に、鴻夏コウカはひどく困っていた。
しかしそんな鴻夏コウカの気も知らず、レンは手ずからお茶を淹れると、実に優雅な仕草でそれを卓に並べる。
そして自らも鴻夏コウカの正面の席に座ると、初めて穏やかにこう話しかけてきた。
「…鴻夏コウカから私の部屋に訪ねて来るのは、初めてですね。何かありましたか?」
そう言われ、思わず鴻夏コウカが黙り込む。
そしてはたと、もしかしてこれは非常にマズい状態ではないかと、気が付いた。
『…あれ?深夜に男性の部屋を一人で訪ねるのって、頂いちゃって下さいって意味になるんだっけ⁉︎』
気付いた途端に思わず椅子から立ち上がった鴻夏コウカは、しどろもどろにこう答える。

「あ、あの…その…こ、こんな深夜に急に訪ねて来ちゃってごめんなさい?や、やっぱり話すのは明日にするわ」
そう言って慌てて踵を返そうとした鴻夏コウカだったが、すぐにその手を掴まれる。
ハッとして振り返ると、するりとレン鴻夏コウカに近づき、間近から鴻夏コウカをジッと見つめた。
そして鴻夏コウカは例の如く、声を出せないまま頭の中で大混乱を引き起こす。
『ひぃいい~⁉︎ち、近っ!しかも見てる、めっちゃ見てるっ!』
動揺して目を白黒させながら固まる鴻夏コウカに、レンがポツリとこう呟く。
「…目が赤い…。泣いたのですか、鴻夏コウカ?」
「あ…っ、これはその…」
まさか貴方が自分の事をどう思ってるのかわからず泣きましたとも言えず、困ったように言葉を濁していると、それを勘違いしたレンが気遣うようにこう告げる。
「やはり花胤カインに戻りたいのですか…?確かにここは貴女にとっては慣れない異国で、知り合いも居らず、文化や風習も全てが違う…。私も政務が忙しく、正直あまり貴女を構ってあげられてなかったですし、辛い思いをさせていたのでしょうか…」
「え?違…っ!これは別件で…その…。と、とにかく大丈夫だからっ!」

ほぼ説明になってないなと自分でも思ったが、うまい言い訳が見つからない。
しかも間近からレンに見つめられると、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも何をしたいのか、何を言いたいのかもよく分からなくなってくる。
それをどう受け取ったのか、レンは無言で鴻夏コウカを見つめるだけで特に何も語らなかった。
そしてしばらくの間、困ったように鴻夏コウカが固まっていると、ふいにスッとレンが手を伸ばし、ポンポンと軽く鴻夏コウカの頭を叩く。
驚いて鴻夏コウカが見上げると、少し困ったように微笑みながらレンが優しくこう言った。
「…言いたくないのなら、何も聞きません。でも話したくなったら、いつでも言って下さいね?私は貴女の夫なのですから」
レン…」
「あとせっかく鴻夏コウカから訪ねて来て下さったのだから、まだ帰らないで下さいね?とりあえず落ち着いて座って下さい。大丈夫、貴女が嫌がるような事は、何もしませんから」
さり気なく鴻夏コウカが心配していた事についても返答しながら、レンはそのまま再度、鴻夏コウカを椅子に座らせる。
そして先程は正面の席に座ったレンだったが、今回はそのまま鴻夏コウカの隣に腰を下ろした。
微妙にお互いの温もりが感じられるほど近くにレンが居て、鴻夏コウカは意味もなく緊張する。

『ど、どうしよう⁉︎ち…近いっ!横が見れないっ!何か話さないといけないと思うけど、緊張し過ぎて何も思い浮かばないっ!』
そう思いつつ、ぐるぐるしながら固まっていると、その気配を読んだのか、レンがさり気なくこう聞いてくる。
「…それで?鴻夏コウカは私に何が聞きたかったんです?」
「え…っ、どうして私が何かを聞きたいんだと思ったの⁉︎」
まだ何も言っていないのに、突然 核心を突いてきたレンに驚き、思わず彼の方に向き直ると、レンは事も無げにこう答える。
「何となくですが、そろそろ私や私の周りの人達が、一体何者なのかが気になり出す頃かと思いましたので…。当たってました?」
「す…ごい。やっぱりレンって賢いのね…」
呆然としながらそう呟くと、レンがくすくすと笑いながらこう答える。
「お褒めに預かりどうも…。それで何から聞きたいのです?」
「え…っ?聞いてもいいのっ⁉︎」
至極あっさりとレンにそう言われ、恐る恐る鴻夏コウカがそう尋ねると、レンは何の感情も読み取れない表情でこう答える。
「…構いませんよ。特に楽しい話でもありませんが、隠しているつもりもありませんので…。ただ私の話はともかく、周りの皆の事となると勝手に話せない内容もありますが、それでもよろしければ…」

淡々とそう語りながら、レンの綺麗な みどりの瞳が、何の感情もなく自分の姿を映している。
咄嗟に色々と聞きたい衝動に駆られたが、鴻夏コウカは少し悩んだ後、きっぱりとこう言った。
「…やっぱり止めておくわ」
「え?」
「うん、確かに色々と聞きたい事はあったんだけどね…。こうして無理矢理 喋らせるってのは、何か違うと思うのよ?うまく言えないけれど、ちゃんとレンが話してくれる気になるまで、待つのが筋なんじゃないかなって」
一所懸命に言葉を一つ一つ選びながら、鴻夏コウカが素直に自分の気持ちをそう語る。
その予想外の反応を無言で見つめながら、レンはひどく驚いていた。
「…いいのですか?真相を知りたくて、ここまで来たのでしょう?」
ポツリとレンがそう呟くと、鴻夏コウカがそれに対してこう答える。
「確かにそうなんだけど…。でもレンがいつも私の気持ちを優先してくれるように、私もそこはレンの気持ちを優先しないとダメなんじゃないかと思うのよ。そうじゃないと公平じゃないと言うか、一方通行な気がして…」
そこで一旦言葉を区切ると、鴻夏コウカは晴れ晴れとした笑顔でこう続けた。
「だから私も待つ事にするわ。レンが話したくなった時に聞く事にする!…だって私はこれからも貴方の妃なんでしょう?」

先程 レンが言った台詞そのままに、鴻夏コウカが悪戯っぽくそう聞き返すと、驚きから立ち直ったレンが苦笑しながらこう返す。
「…そうですね。今のところ離縁する気はまったくありませんので、まだまだ時間はたくさんあると思います」
「でしょ?だから焦らない事にするわ。貴方が本当に話しても良いと思えた時に聞くから、その時は隠さず全部話してね?」
「はい、そうします。…ありがとう、鴻夏コウカ
どこかホッとしたような表情を浮かべるレンに、鴻夏コウカレンの背負っているものが、自分の想像以上に重たいものなんだろうと感じていた。



そして翌日、後宮の庭の一角で、珍しくレンも居ない状態で、黎鵞レイガ鴻夏コウカが人目を避けるように二人っきりで話していた。
話題は昨日思いがけず聞いてしまった、レンの過去についてで、鴻夏コウカははひどく落ち込んだ顔で黎鵞レイガに経緯を話していた。
そして最後に絞り出すようにこう締め括る。
「私が思っていた以上に、レンは特殊な環境で育ったのね…。私は纜瀏ランリュウ帝の事は正直よく存じ上げないけれど…それでも少し聞いただけでも、纜瀏ランリュウ帝もその周りの人達もどこか異常だという事はわかったわ…」
そう呟く鴻夏コウカに、黎鵞レイガが冷静に意見を返す。
「…私には纜瀏ランリュウ帝の周囲が、そこまで異常だったとは思えません。当時の纜瀏ランリュウ帝は皇后の産んだ唯一の嫡子であり、将来を有望視された優秀な皇太子でした。正直彼が居る限り、どの皇子にも皇位が巡ってくる事はあり得なかった。それなら皇位に程遠い末の皇子は、大事な皇太子を生かすための捨て駒として育てようと考えたのは、至極当然の事であったかと思います」
あまりにも冷た過ぎるその言い草に、鴻夏コウカが思わず激昂する。
「そんな…っ!だっていくら皇位から遠いからって、血の繋がった異母弟おとうとなのよ?それを捨て駒として育てるなんて…っ」
「それも致し方ない事でしょう。より大事な者を生かすための策です。皇家にはよくある話ですよ。…ただ纜瀏ランリュウ帝のレンへの執着が異常であったというのは、私もその通りかと思います…」
そう言って、黎鵞レイガがその美しい眉をひそめる。

普段あまり感情を顔に出さない黎鵞レイガが、珍しく嫌悪感を露わに黙り込むのを見て、鴻夏コウカはひどく嫌な予感がした。
黎鵞レイガ…?」
「すみません、鴻夏コウカ様…。レンが敢えてお話していない事ですので、私からは何も申し上げる事は出来ません。ただレンは…今も纜瀏ランリュウ帝の呪縛に縛られております。レンはあの男の命令一つで、いとも容易く死を選ぶよう育てられました。だからレンにとって、纜瀏ランリュウ帝という存在は絶対なのです…」
そう語ると、黎鵞レイガはふいに鴻夏コウカの方に向き直り、スッとその頭を下げた。
突然の敬服に鴻夏コウカが一人焦りまくると、黎鵞レイガは冷静にこう願い出る。
「…鴻夏コウカ様、どうかレンを救ってやって下さい。纜瀏ランリュウ帝と真逆の位置に居る貴女にしか、レンは救えません。私達では無理なのです…」
「え…っ、私⁉︎で、でも私が一番、レンとの付き合いが短いと思うんだけど…?」
焦ってあまり意味のない内容を返してしまった鴻夏コウカに、黎鵞レイガがゆっくりと首を横に振る。
そしてその美し過ぎる瞳で、真っ直ぐに鴻夏コウカを見つめると、はっきりとこう告げた。
「この際付き合いの長さは関係ありません。貴女の持って生まれた資質の話です。貴女のその資質に、レンも無意識に惹かれています。おそらく貴女にしかレンは救えません」
風嘉フウカ一の知恵者にそう断言され、鴻夏コウカはただ何も言えずに立ち尽くしたのだった。
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