3 / 12
風嘉の白龍 〜花鳥風月奇譚・2〜
ー纜瀏帝の呪縛ー
しおりを挟む
よく晴れたある日の昼下がり。
鴻夏は一つの決意を胸に、思い切って璉の執務室を訪れていた。
普段の鴻夏なら政務の邪魔をしないよう、決して執務室には近寄らないようにしているのだが、今回ばかりはどうしても早く璉の許可が欲しくて、つい訪ねて来てしまった。
しかしここまで勢いで来たものの、最終的になかなか扉を叩く勇気が持てず、鴻夏はそのままモジモジと扉の前で迷ってしまう。
するといきなり執務室の扉が中から開いて、出てきた牽蓮が扉の前で固まる鴻夏に気付き、すぐに気さくに話しかけてきた。
「鴻夏様…?執務室までいらっしゃるなんて珍しいですね。どうされました?」
そう言われ、少し気まずそうに見つめ返しながら、鴻夏は小さい声で牽蓮に尋ねる。
「あ…あの…お仕事の邪魔してごめんなさい。その、忙しい…わよね…?」
「まぁ…ほどほどに?でも別にそこまで急ぎの案件もないので、少しくらいなら構いませんよ。璉!鴻夏様がお見えです」
そう言って牽蓮は鴻夏が止める間もなく、そのまま執務室の中に居る璉に声をかける。
するとすぐに中から返事があって、鴻夏は執務室の中に入るよう促された。
おずおずと中に入ると、そこにはたくさんの書類の山に囲まれた璉と黎鵞が居て、鴻夏はすぐに訪ねた事を後悔してしまう。
しかし彼等の方は別段気にした風もなく、入ってきた鴻夏を見付けると、実ににこやかにこう話しかけてきた。
「いらっしゃい、鴻夏。ここまで訪ねて来るなんて珍しいですね。何かありましたか?」
「すみません、鴻夏様。少々散らかっておりまして…。よろしければそちらの椅子にでも、お座りになってください」
次々と気遣われ、鴻夏が恐縮してこう呟く。
「あ、あのお仕事の邪魔してごめんなさい。やっぱりとても忙しそうだから…その…また夕食の時にでも改めるわ」
そう言って慌てて戻ろうとすると、その背中に向かって璉の声がかかる。
「待ってください、鴻夏。…戻らないで?」
「え…でも…」
恐る恐る振り返ると、ニッコリと微笑んだ璉が書類を置いて執務机から立ち上がる。
そして無言で黎鵞と牽蓮に目をやると、二人は何を読み取ったのか、そのまま無言でスッと一礼をし、執務室の外へと出て行った。
それをオロオロと見送りながら、鴻夏が扉の前に立ち尽くしていると、突然横から誰かの腕が伸びてきて、まるで鴻夏の退路を断つかのようにその扉を閉めてしまう。
そしてそれと同時に、サラリと自分を包むように亜麻色の髪が周囲に下りてきて、鴻夏は思わずドキリとした。
気がつくといつの間にか璉が自分のすぐ後ろに立っていて、その両腕で鴻夏を扉に縫い止めるかのように両側の退路を断っている。
あまりにも至近距離に璉が居て、動揺のあまり声もなく扉に縋り付くと、その耳元で璉が妙に艶っぽくこう語った。
「…貴女からここに来るなんて、本当に珍しいですね…。私に何か話したい事があったのでしょう?」
「そ…そうなんだけど、でも…あの…そこまで重要な話でもないから、あ、後でもいいというか…」
真っ赤な顔でしどろもどろにそう答えながら、鴻夏は璉の方を振り返れない。
声と気配だけでもすでに心臓が壊れそうなのに、これで顔まで見たら本当にマズい。
そう思って頑なに扉のみを見つめていたのに、璉はそれが気に入らなかったのか、突然 鴻夏の身体を引き寄せると、強引にその身体の向きを変えさせ、再び扉へと押し付ける。
「ちゃんとこっちを見て…?」
間近から璉の綺麗な翠の瞳が鴻夏の姿を映し、その右手が優しく頰に触れた。
その途端、一瞬で鴻夏の理性が崩壊する。
声こそ何も出さなかったものの、すでに頭の中は大混乱だった。
『ひぃぃ~っ⁉︎ち、近いっ!しかも何か妙に色っぽいっ?…た、多分また無意識なんだろうけど、何でこの人こんな無駄にフェロモン振りまくわけっ⁉︎』
思わず居たたまれなくなって、ギュッと強く目を瞑ると、それを見た璉がどう受け取ったのか、突然何の前触れもなく口付けてくる。
それを受けて、鴻夏は更に混乱した。
『は…っ⁉︎えっ⁉︎な、何で…っ⁉︎』
元々回ってない頭で必死で考えようとするが、衝撃の方が大き過ぎたらしく、頭の中が真っ白で何も浮かばない。
そうこうしているうちにスッと璉の口唇が離れ、鴻夏は身体を震わせつつ、真っ赤な顔で自らの口唇を押さえながらこう呟いた。
「な…んで…?」
「あれ…?もしかして違いました?目が合った途端に閉じられたから、てっきりして欲しいのかと思ったんですけど…」
あっけらかんとそう言われ、プツンと鴻夏の理性が切れる。
そして少し涙目でキッと璉を睨むと、鴻夏は思わず叫んでいた。
「ば…っ、馬鹿ぁ!そんなわけないでしょ⁉︎こ、こっちは貴方と違って、全然慣れてないんだから、それが合図になるなんてまったく知らなかったわよっ!」
「あ、そうなんですか…。そうなると私が勝手に勘違いしてしちゃった事になりますね?それは…大変失礼を致しました」
ニッコリと爽やかな笑顔で謝られ、鴻夏は毒気を抜かれ、へなへなとその場に座り込む。
それを優しく抱き起こしながら、璉は相変わらず艶っぽく耳元でこう囁いた。
「…でも男の前であんな事をしたら、普通は誘われてると思いますよ?今回は私だったから良かったけど、他の男の前では絶対にしないでくださいね」
「も…っ、もう誰の前でもしませんっ!」
慌ててそう言って離れると、璉はおや?といった顔でこう呟く。
「別に私にはして下さって構いませんけど?可愛い奥さんに誘われて、嬉しくない夫は居ませんので」
「さ…っ、誘っ…⁉︎」
「そうそう、初々しくてなかなか良かったですよ。また是非お願いしますね…?」
ニッコリと意地の悪い笑顔を見せながら、璉が囁くようにそう答えた。
そして出だしこそ思いがけず、色っぽい展開になってしまったが、結局 鴻夏にその気がない事がわかると、璉は驚くほどあっさりと普段通りに戻ってしまった。
今も手ずから淹れてくれたお茶を卓に置きながら、鴻夏に普通に話し掛けてくる。
「…それでここまで来て、鴻夏は私に何を言いたかったのですか?」
鴻夏の正面の席に座りながら、璉が穏やかにそう尋ねると、呑気にお茶を飲もうとしていた鴻夏が、はたと本来の目的を思い出す。
「あ…っ、そうだった!私、璉にお願いがあって来たんだった!」
「お願い…?」
不思議そうに聞き返す璉に、鴻夏は慌てて頷くと、恐る恐るこう切り出した。
「あ、あのね…。その…勉強をさせて欲しいんだけど…」
「勉強?」
「そう。一応嫁入り前に一般的な事は多少は習ったんだけど、基本が皇女向けの勉強だったから、その…わからない事の方が多くて…。このままじゃ、私なんの役にも立たない皇后になっちゃうんで、その…少しでも皆の役に立てるよう、もう一度勉強し直したいの…」
モジモジしながらそう呟く鴻夏に、璉の瞳が少し驚きで見開かれる。
しかしすぐにフッと優しい笑顔を浮かべると、璉は穏やかにこう答えた。
「…いいですよ。何を習いたいのですか?」
「普通の皇子が習う事すべて!あ、あと剣も習いたいと思うんだけど…、さすがにそれはダメかしら…?」
上目遣いでそう尋ねると、璉はあっさりと『いいですよ』と答えてくれる。
それを受けて、鴻夏が輝くような笑顔で璉にこう言った。
「良かった…!私には必要ないって言われるかと思って、ドキドキしてたの」
「別に…学びたいと思う事があるのなら、何でも好きに学べばいいんですよ。いちいち私の許可を取らなくても構いませんよ?ただ皇子教育となると、普通の子達が通う学校では教えられないでしょうから、泰と一緒に勉強する方がいいかもしれませんね…。早速明日から一緒に授業を受けられるよう、手配しておきましょう」
淡々とそう告げると、璉は穏やかに自ら淹れたお茶に口を付ける。
こうしてこの変わり者の皇帝は、自らの妃の望み通りに、あっさりと想定外なお妃教育を許可してしまったのだった。
翌日から鴻夏は泰瀏皇子の部屋に通い、一緒に授業を受け始めた。
まだ十歳とはいえ、神童と名高い泰が受けている授業は、すでに小児が受けるようなものではなく、十七歳の鴻夏が受けても付いていくのが大変なほど水準の高いものだった。
泰にしても、今までは一人で教師から一方的な形で教えられるだけだった授業に、鴻夏が同席してくれるようになり、その結果 今まではなかった討論などの時間も増えて、より深く充実した内容の授業になっている。
結果として型破りではあるものの、お互いがお互いの能力を高められる状態の授業になった事に、最初こそ眉をひそめていた官僚達もいつの間にか陰口を叩かなくなっていた。
もちろん後宮に住む者達は、最初から誰一人反対する者はなく、むしろ応援態勢である。
特に彼等は鴻夏の本来の性を知っているだけに、『皇子としての教養も身に付けたい』と切望する鴻夏の気持ちが、痛いほどよく理解出来ていた。
もし花胤に同性の双子を不吉とする風習さえなかったら、鴻夏も本来の性のまま一人の皇子として育てられ、そのまま花胤の皇帝の座に就いていてもおかしくはなかった。
たまたま運命の悪戯から皇女として育てられ、そして自分達が敬愛する璉瀏帝の元に輿入してきたが、鴻夏のその真っ直ぐな気質はいつの間にか周囲のすべての者達を虜にし、もはや誰もが璉の正妃として鴻夏の事を認めていた。
璉との間に後継を望めない事を除けば、容姿、性格共に何の問題もない。
それに特に恋愛方面において、誰かに執着する姿をまったく見せなかった璉が、何故か鴻夏に対してだけは、自ら気を配り側に居る事を許容している。
あまり自分を大事にしようとしない璉を、陰ながら常に心配し続けていた後宮の者達にとって、それはとても喜ばしい変化だった。
今も忙しい政務の合間を縫って、わざわざ鴻夏の様子を見に訪れた璉を見ながら、彼等は温かい目でその様子を見守る。
彼等の頭を過ぎるのは、結婚一日目の夜に、後宮で働く者全員が大広間に集められ、璉の口から鴻夏の秘密が暴露された時の事。
美しい姫にしか見えなかった鴻夏が、実は男性で絶対に後継が望めない事を知った時には、驚くやらがっかりするやらでかなり混乱したものだが、その後すぐに心底申し訳なさそうに謝る鴻夏の姿を見て、それもどうでも良くなった。
今となってはあの段階で、自分達を心から信用し、何も隠さず真実を明かしてくれた璉達に感謝しかない。
だからこそ自分達は彼等の期待に応え、鴻夏の秘密が漏もれないよう、細心の注意を払う。
そもそも人としても仕えるべき主君としても、彼等以上の者達は望めないのだ。
それなら自分達も今の恵まれた環境を守るために、一緒に努力すべきだろうというのが、後宮に仕える者達の一致した意見だった。
そんな臣下達の密かな決意も知らず、璉と鴻夏は泰も交えて、皇子教育の内容についての話をしていた。
まずは大真面目な顔をしながら、鴻夏がいきなりこう切り出す。
「…思うんだけど、そもそも『皇子』はどこまでの範囲を勉強するものなのかしら?あと皇子は皇子でも、普通の皇子と皇太子とでは習う範囲や内容も違うものなのかしら?」
そう言ってひたすら首を捻ねる鴻夏に対し、璉が穏やかにこう答える。
「まぁ国によって多少の違いはあるでしょうが、皇位継承権の順位に関わらず、『皇子』と称される方々の勉強する内容は、基本全員同じだと思いますよ?いつどこで何があるかわかりませんから、誰がいつ皇位に就いてもいいよう、皇帝として最低限の政務が取れるよう、全員同じように教育されるはずです」
「ふーん?じゃあ今、泰と私が習ってる事を璉も昔習ったんだ?」
何気なくそう聞いた鴻夏に対し、璉が淡々とこう答える。
「…そうですね。ただ私の場合は他にもたくさんの皇子が居たので、皇位継承権の順位的に、私にまで皇位が回ってくる事はまずなかったんですよ。ですから普通の皇子では覚えないような、少々変わった内容の事も色々と習得させられました…」
「変わった事…?」
キョトンとして聞き返すと、さらりと何でもない事のように璉が答える。
「まぁいくつか例を挙げると、医術、諜報術、暗殺術、房中術とかですかね…。私は皇子というより、纜瀏帝の駒となるよう育てられたので、多分他の皇子達とは教育された内容が違うんです。だからあまり参考にはならないと思いますよ」
まるで他人事のように、さらりと痛まし過ぎる過去を口にした璉は、そのまま何の感情も読み取れない雰囲気で軽く目を閉じる。
思わず何と答えるべきかもわからず、声を失った鴻夏の前で、泣きそうな顔の泰が璉に縋り付いた。
「…ご…めんなさい、ごめんなさい、璉。父上が璉に酷い事を…」
「何を謝るのです、泰?別に貴方が気にする事は何もありませんよ。私も特に不満もありませんでしたし…。それに元々私の命は貴方の父上に救われた物です。それをどう使われようと、私自身が構わなかったんですよ」
そう言って、璉が優しく泰の頭を撫でる。
多分その言葉に偽りはなくて、璉自身はそれが当たり前だと思っていたのだろう。
だが普通に考えるとそんな酷い扱いはない。
実の異母弟を良いように使うための駒として育てるなんて、常識では考えられなかった。
『もしかして…前に暁鴉が言っていた、璉が『暁鴉達側の人間』ってのは、こういう意味だったの…?』
ふいにその言葉の差す意味が、理解出来てしまった気がして、鴻夏はいたたまれない気持ちでいっぱいになった。
璉が皇帝になるまで自国に住む家も持たず、国から使い捨て同然に利用されてきた『影』達と、異母兄の役に立つよう育てられ、その駒として生きる事だけを強いられてきた璉。
確かに境遇的によく似ている気がした。
そしてそれだけに、鴻夏は一層哀しくなる。
「…ごめんなさい、璉。璉や泰の気持ちも考えず、不用意な発言だったわ…」
俯きながら、今にも消え入りそうな声で鴻夏が謝ると、璉は鴻夏の肩に手を置き、ひどく優しげにこう話す。
「本当に気にしないでいいんですよ、鴻夏?私にとってはそれが当たり前の日常で、特に不幸だとか思った事もないんです」
そこで一旦言葉を区切ると、璉は遠い目をして続けてこう語る。
「…物心がつく頃には、纜瀏帝の役に立つ事だけが自分の存在意義だと思っていました。彼だけを見て彼だけを愛し、彼の役に立つように生き、彼の為に死ぬ…。ずっと周りからそのように言われ続けてきたので、私もそうする事が当たり前なんだと思っていました。そしてそんな風に育てられた私は、一度も死ぬ事が怖いと思わなかった…。結果としてそれが功を奏し、私は若くして戦場で名を馳せる事が出来たというわけです…」
淡々とそう語ると、最後に彼はポツリと『皮肉なものですね』と穏やかに微笑んだ。
そしてその晩、鴻夏は色々な事に悩みながら、一人 悶々と寝台の中で答えの出ない問答を繰り返していた。
きっかけは、今日思いもかけず少しだけ知ってしまった璉の過去。
チラリと聞いただけでも、かなり酷い特殊な環境で育ったのは間違いなく、おそらくそれが原因で色々な感情や常識が欠落気味なのだろうという事が容易に想像出来た。
けれど今回自分が知った内容は、多分氷山の一角に過ぎず、璉も璉の周りの人達についてもまだまだ謎の方が多い。
そして鴻夏は結論として、特に誰に聞かせるわけでもなくポツリとこう呟いた。
「…やっぱり私が知らなさ過すぎるのよね…」
かなり端的な言葉であったが、それが一番、今の鴻夏の心情をよく表していた。
よくよく考えてみれば、鴻夏はあまりにも璉の事を知らなさ過すぎるのである。
正直 風嘉に来るまでは、まさか自分が結婚する事になるとは思いもしなかったので、敢えて自分から何かを知ろうとは思わなかった。
そして結婚後はこの特殊な後宮環境に慣れるのに精一杯で、気がつけばもう一ヶ月間が経っていたという感じである。
だから最近になってようやく、少し周りを見る余裕が出てきた鴻夏は、今更ながらにその事に気付いてしまったのであった。
そして溜め息をつきながら、鴻夏は思う。
鴻夏が璉について知っている事は、三年前に風嘉で起こっていた未曾有の大乱を鎮めた『風嘉の英雄』である事。
その前は若くして国境線を守り、その目覚ましい働きぶりから『戦場の鬼神』と呼ばれ、怖れられていたという事。
そして異母兄である纜瀏帝に駒として育てられ、今もなおその呪縛に縛られ囚われているだろうという事…。
普段は穏やかで優しい雰囲気を纏う璉だが、時々ひどく冷たい気を放つ事がある。
まるで人が入れ替わったかのように、近付きがたい気を纏い、向き合う相手に得も言われぬ恐怖を感じさせる時、確かにこの人は風嘉を長年に渡って支え続けてきた皇帝なのだと、否が応にも思い知らされる。
…正直そういった空気を纏う璉は怖い。
怖くて本能的に逃げ出したい衝動に駆られるが、まるで冴え渡る刃のように凜とした気を放つ璉は、目を逸らせないほどに美しい。
そして震えが止まらないほど怖いのに、鴻夏はそんな璉にも惹かれてしまっている。
普段の優しい璉ももちろん好きだが、時折垣間見せる冷酷な璉は、まるで美しく咲き誇る毒花のように、ただそこに居るだけで人々の心をどうしようもなく惹きつける。
多分あれが月鷲の鴎悧帝や先帝である纜瀏帝を惑わせた璉の真の姿なのだろう。
強く気高く美しい…孤高の獣のような璉。
彼を手に入れたいと望む者は、それこそ掃いて捨てるほど居たに違いない。
けれど彼は生まれた時から纜瀏帝の物で、彼の瞳は纜瀏帝以外の者を映さない。
生まれた時から纜瀏帝だけを見て、纜瀏帝だけを愛し、纜瀏帝の役に立つためだけに生き、纜瀏帝の為に死ぬ。
そうする事が当たり前と躾られてきた璉は、纜瀏帝の死後もその呪縛に囚われている。
おそらく泰を守り、愛情深く大事に育てているのも、彼が纜瀏帝の息子だったから。
ではそうなると自分は…?
自分は彼にとってどういう存在なのだろう?
そう思った瞬間、鴻夏はどうしようもない不安に駆られた。
花胤から政略結婚で嫁いできた自分は、確かに後継問題の面からみれば、非常に都合の良い存在だったとは思う。
だが都合が良いだけで、はたしてそこに璉の気持ちがあったのか?と言われると、まったくもって自信がない…。
『どうしよう…。なんだか急に切なくなってきた…。璉にとって私はどういう存在なの?彼にとって真に価値がある存在だと言えるの…?』
そう思ったら、ポロリと自然に涙が溢れた。
自分が何に対して傷付いているのかもわからないが、ただただ心が張り裂けそうに痛い。
双子の弟の凛鵜と離れなければならなかった時よりも、ずっとずっと辛かった。
そして鴻夏はその痛みと共に、ふいに自らの気持ちを自覚する。
『私…もしかして璉の事が好き…なの⁉︎え、でもいくら結婚してるといっても、璉とは契約結婚だし、それに私の本来の性別は男で、璉も同じ男性で…。いくら私が皇女として育てられてきたとしても、おかしいんじゃ…?』
混乱しながらもそう思うが、それでもそう考えると、今までの自分のよくわからない反応の意味が、ようやく理解出来る気がする。
いつも璉の姿を見るだけでひどく心臓がドキドキしていたのも、彼の一挙一動に常に動揺していたのも、そして今、彼の気持ちが分からないというだけで泣けてきてしまうのも、すべては彼に恋していたから。
仕事面では誰よりも優秀なのに、何故か人の感情にだけは疎くて、どこか不器用なのに優しくて、誰よりも心が強く綺麗な人。
お世辞にも良い環境では育っていないのに、それでも真に歪む事もなく、真っ直ぐに生きてきた璉がどうしようもなく愛おしかった。
『…あの人を助けたい…。あの人に必要とされるような人間になりたい。そして誰よりも強くて危ういあの人を、纜瀏帝の呪縛から解放してあげたい…!』
次から次へと溢れ出る想いを、もう鴻夏は止められなかった。
そしてその勢いのままに、鴻夏はフラリと立ち上がると、今まで一度も自分からは叩いた事がない扉の前に立つ。
震える手で軽く扉を叩くと、すぐに聞き慣れた声がそれに応じ、鴻夏は小さな声で中に居るであろう人物に声をかけた。
そして程なく扉は中から開かれ、鴻夏一人を招き入れると再び元通りに閉じられる。
そこは鴻夏が今まで一度も訪れた事のない、自らの夫である璉の自室であった。
白壁に焦茶色と紺青色を基調とした、重厚で落ち着いた雰囲気の部屋の中で、鴻夏は今更ながらに自らの行動を後悔していた。
何となく勢いのままに、フラフラと璉の部屋の扉を叩いてしまったが、少し落ち着いて考えてみると、時刻はすでに深夜に近く、到底人を訪ねても良い時間ではなかった。
しかもうっかりと忘れていたが、この時間の璉は当然もう夜着姿で、思わず目のやり場に困るほど艶っぽい。
正直同じ男である璉に、何故こうも色気を感じてしまうのかはわからないが、無駄に雰囲気のある自らの夫に、鴻夏はひどく困っていた。
しかしそんな鴻夏の気も知らず、璉は手ずからお茶を淹れると、実に優雅な仕草でそれを卓に並べる。
そして自らも鴻夏の正面の席に座ると、初めて穏やかにこう話しかけてきた。
「…鴻夏から私の部屋に訪ねて来るのは、初めてですね。何かありましたか?」
そう言われ、思わず鴻夏が黙り込む。
そしてはたと、もしかしてこれは非常にマズい状態ではないかと、気が付いた。
『…あれ?深夜に男性の部屋を一人で訪ねるのって、頂いちゃって下さいって意味になるんだっけ⁉︎』
気付いた途端に思わず椅子から立ち上がった鴻夏は、しどろもどろにこう答える。
「あ、あの…その…こ、こんな深夜に急に訪ねて来ちゃってごめんなさい?や、やっぱり話すのは明日にするわ」
そう言って慌てて踵を返そうとした鴻夏だったが、すぐにその手を掴まれる。
ハッとして振り返ると、するりと璉が鴻夏に近づき、間近から鴻夏をジッと見つめた。
そして鴻夏は例の如く、声を出せないまま頭の中で大混乱を引き起こす。
『ひぃいい~⁉︎ち、近っ!しかも見てる、めっちゃ見てるっ!』
動揺して目を白黒させながら固まる鴻夏に、璉がポツリとこう呟く。
「…目が赤い…。泣いたのですか、鴻夏?」
「あ…っ、これはその…」
まさか貴方が自分の事をどう思ってるのかわからず泣きましたとも言えず、困ったように言葉を濁していると、それを勘違いした璉が気遣うようにこう告げる。
「やはり花胤に戻りたいのですか…?確かにここは貴女にとっては慣れない異国で、知り合いも居らず、文化や風習も全てが違う…。私も政務が忙しく、正直あまり貴女を構ってあげられてなかったですし、辛い思いをさせていたのでしょうか…」
「え?違…っ!これは別件で…その…。と、とにかく大丈夫だからっ!」
ほぼ説明になってないなと自分でも思ったが、うまい言い訳が見つからない。
しかも間近から璉に見つめられると、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも何をしたいのか、何を言いたいのかもよく分からなくなってくる。
それをどう受け取ったのか、璉は無言で鴻夏を見つめるだけで特に何も語らなかった。
そしてしばらくの間、困ったように鴻夏が固まっていると、ふいにスッと璉が手を伸ばし、ポンポンと軽く鴻夏の頭を叩く。
驚いて鴻夏が見上げると、少し困ったように微笑みながら璉が優しくこう言った。
「…言いたくないのなら、何も聞きません。でも話したくなったら、いつでも言って下さいね?私は貴女の夫なのですから」
「璉…」
「あとせっかく鴻夏から訪ねて来て下さったのだから、まだ帰らないで下さいね?とりあえず落ち着いて座って下さい。大丈夫、貴女が嫌がるような事は、何もしませんから」
さり気なく鴻夏が心配していた事についても返答しながら、璉はそのまま再度、鴻夏を椅子に座らせる。
そして先程は正面の席に座った璉だったが、今回はそのまま鴻夏の隣に腰を下ろした。
微妙にお互いの温もりが感じられるほど近くに璉が居て、鴻夏は意味もなく緊張する。
『ど、どうしよう⁉︎ち…近いっ!横が見れないっ!何か話さないといけないと思うけど、緊張し過ぎて何も思い浮かばないっ!』
そう思いつつ、ぐるぐるしながら固まっていると、その気配を読んだのか、璉がさり気なくこう聞いてくる。
「…それで?鴻夏は私に何が聞きたかったんです?」
「え…っ、どうして私が何かを聞きたいんだと思ったの⁉︎」
まだ何も言っていないのに、突然 核心を突いてきた璉に驚き、思わず彼の方に向き直ると、璉は事も無げにこう答える。
「何となくですが、そろそろ私や私の周りの人達が、一体何者なのかが気になり出す頃かと思いましたので…。当たってました?」
「す…ごい。やっぱり璉って賢いのね…」
呆然としながらそう呟くと、璉がくすくすと笑いながらこう答える。
「お褒めに預かりどうも…。それで何から聞きたいのです?」
「え…っ?聞いてもいいのっ⁉︎」
至極あっさりと璉にそう言われ、恐る恐る鴻夏がそう尋ねると、璉は何の感情も読み取れない表情でこう答える。
「…構いませんよ。特に楽しい話でもありませんが、隠しているつもりもありませんので…。ただ私の話はともかく、周りの皆の事となると勝手に話せない内容もありますが、それでもよろしければ…」
淡々とそう語りながら、璉の綺麗な翠の瞳が、何の感情もなく自分の姿を映している。
咄嗟に色々と聞きたい衝動に駆られたが、鴻夏は少し悩んだ後、きっぱりとこう言った。
「…やっぱり止めておくわ」
「え?」
「うん、確かに色々と聞きたい事はあったんだけどね…。こうして無理矢理 喋らせるってのは、何か違うと思うのよ?うまく言えないけれど、ちゃんと璉が話してくれる気になるまで、待つのが筋なんじゃないかなって」
一所懸命に言葉を一つ一つ選びながら、鴻夏が素直に自分の気持ちをそう語る。
その予想外の反応を無言で見つめながら、璉はひどく驚いていた。
「…いいのですか?真相を知りたくて、ここまで来たのでしょう?」
ポツリと璉がそう呟くと、鴻夏がそれに対してこう答える。
「確かにそうなんだけど…。でも璉がいつも私の気持ちを優先してくれるように、私もそこは璉の気持ちを優先しないとダメなんじゃないかと思うのよ。そうじゃないと公平じゃないと言うか、一方通行な気がして…」
そこで一旦言葉を区切ると、鴻夏は晴れ晴れとした笑顔でこう続けた。
「だから私も待つ事にするわ。璉が話したくなった時に聞く事にする!…だって私はこれからも貴方の妃なんでしょう?」
先程 璉が言った台詞そのままに、鴻夏が悪戯っぽくそう聞き返すと、驚きから立ち直った璉が苦笑しながらこう返す。
「…そうですね。今のところ離縁する気はまったくありませんので、まだまだ時間はたくさんあると思います」
「でしょ?だから焦らない事にするわ。貴方が本当に話しても良いと思えた時に聞くから、その時は隠さず全部話してね?」
「はい、そうします。…ありがとう、鴻夏」
どこかホッとしたような表情を浮かべる璉に、鴻夏は璉の背負っているものが、自分の想像以上に重たいものなんだろうと感じていた。
そして翌日、後宮の庭の一角で、珍しく璉も居ない状態で、黎鵞と鴻夏が人目を避けるように二人っきりで話していた。
話題は昨日思いがけず聞いてしまった、璉の過去についてで、鴻夏ははひどく落ち込んだ顔で黎鵞に経緯を話していた。
そして最後に絞り出すようにこう締め括る。
「私が思っていた以上に、璉は特殊な環境で育ったのね…。私は纜瀏帝の事は正直よく存じ上げないけれど…それでも少し聞いただけでも、纜瀏帝もその周りの人達もどこか異常だという事はわかったわ…」
そう呟く鴻夏に、黎鵞が冷静に意見を返す。
「…私には纜瀏帝の周囲が、そこまで異常だったとは思えません。当時の纜瀏帝は皇后の産んだ唯一の嫡子であり、将来を有望視された優秀な皇太子でした。正直彼が居る限り、どの皇子にも皇位が巡ってくる事はあり得なかった。それなら皇位に程遠い末の皇子は、大事な皇太子を生かすための捨て駒として育てようと考えたのは、至極当然の事であったかと思います」
あまりにも冷た過ぎるその言い草に、鴻夏が思わず激昂する。
「そんな…っ!だっていくら皇位から遠いからって、血の繋がった異母弟なのよ?それを捨て駒として育てるなんて…っ」
「それも致し方ない事でしょう。より大事な者を生かすための策です。皇家にはよくある話ですよ。…ただ纜瀏帝の璉への執着が異常であったというのは、私もその通りかと思います…」
そう言って、黎鵞がその美しい眉を顰める。
普段あまり感情を顔に出さない黎鵞が、珍しく嫌悪感を露わに黙り込むのを見て、鴻夏はひどく嫌な予感がした。
「黎鵞…?」
「すみません、鴻夏様…。璉が敢えてお話していない事ですので、私からは何も申し上げる事は出来ません。ただ璉は…今も纜瀏帝の呪縛に縛られております。璉はあの男の命令一つで、いとも容易く死を選ぶよう育てられました。だから璉にとって、纜瀏帝という存在は絶対なのです…」
そう語ると、黎鵞はふいに鴻夏の方に向き直り、スッとその頭を下げた。
突然の敬服に鴻夏が一人焦りまくると、黎鵞は冷静にこう願い出る。
「…鴻夏様、どうか璉を救ってやって下さい。纜瀏帝と真逆の位置に居る貴女にしか、璉は救えません。私達では無理なのです…」
「え…っ、私⁉︎で、でも私が一番、璉との付き合いが短いと思うんだけど…?」
焦ってあまり意味のない内容を返してしまった鴻夏に、黎鵞がゆっくりと首を横に振る。
そしてその美し過ぎる瞳で、真っ直ぐに鴻夏を見つめると、はっきりとこう告げた。
「この際付き合いの長さは関係ありません。貴女の持って生まれた資質の話です。貴女のその資質に、璉も無意識に惹かれています。おそらく貴女にしか璉は救えません」
風嘉一の知恵者にそう断言され、鴻夏はただ何も言えずに立ち尽くしたのだった。
鴻夏は一つの決意を胸に、思い切って璉の執務室を訪れていた。
普段の鴻夏なら政務の邪魔をしないよう、決して執務室には近寄らないようにしているのだが、今回ばかりはどうしても早く璉の許可が欲しくて、つい訪ねて来てしまった。
しかしここまで勢いで来たものの、最終的になかなか扉を叩く勇気が持てず、鴻夏はそのままモジモジと扉の前で迷ってしまう。
するといきなり執務室の扉が中から開いて、出てきた牽蓮が扉の前で固まる鴻夏に気付き、すぐに気さくに話しかけてきた。
「鴻夏様…?執務室までいらっしゃるなんて珍しいですね。どうされました?」
そう言われ、少し気まずそうに見つめ返しながら、鴻夏は小さい声で牽蓮に尋ねる。
「あ…あの…お仕事の邪魔してごめんなさい。その、忙しい…わよね…?」
「まぁ…ほどほどに?でも別にそこまで急ぎの案件もないので、少しくらいなら構いませんよ。璉!鴻夏様がお見えです」
そう言って牽蓮は鴻夏が止める間もなく、そのまま執務室の中に居る璉に声をかける。
するとすぐに中から返事があって、鴻夏は執務室の中に入るよう促された。
おずおずと中に入ると、そこにはたくさんの書類の山に囲まれた璉と黎鵞が居て、鴻夏はすぐに訪ねた事を後悔してしまう。
しかし彼等の方は別段気にした風もなく、入ってきた鴻夏を見付けると、実ににこやかにこう話しかけてきた。
「いらっしゃい、鴻夏。ここまで訪ねて来るなんて珍しいですね。何かありましたか?」
「すみません、鴻夏様。少々散らかっておりまして…。よろしければそちらの椅子にでも、お座りになってください」
次々と気遣われ、鴻夏が恐縮してこう呟く。
「あ、あのお仕事の邪魔してごめんなさい。やっぱりとても忙しそうだから…その…また夕食の時にでも改めるわ」
そう言って慌てて戻ろうとすると、その背中に向かって璉の声がかかる。
「待ってください、鴻夏。…戻らないで?」
「え…でも…」
恐る恐る振り返ると、ニッコリと微笑んだ璉が書類を置いて執務机から立ち上がる。
そして無言で黎鵞と牽蓮に目をやると、二人は何を読み取ったのか、そのまま無言でスッと一礼をし、執務室の外へと出て行った。
それをオロオロと見送りながら、鴻夏が扉の前に立ち尽くしていると、突然横から誰かの腕が伸びてきて、まるで鴻夏の退路を断つかのようにその扉を閉めてしまう。
そしてそれと同時に、サラリと自分を包むように亜麻色の髪が周囲に下りてきて、鴻夏は思わずドキリとした。
気がつくといつの間にか璉が自分のすぐ後ろに立っていて、その両腕で鴻夏を扉に縫い止めるかのように両側の退路を断っている。
あまりにも至近距離に璉が居て、動揺のあまり声もなく扉に縋り付くと、その耳元で璉が妙に艶っぽくこう語った。
「…貴女からここに来るなんて、本当に珍しいですね…。私に何か話したい事があったのでしょう?」
「そ…そうなんだけど、でも…あの…そこまで重要な話でもないから、あ、後でもいいというか…」
真っ赤な顔でしどろもどろにそう答えながら、鴻夏は璉の方を振り返れない。
声と気配だけでもすでに心臓が壊れそうなのに、これで顔まで見たら本当にマズい。
そう思って頑なに扉のみを見つめていたのに、璉はそれが気に入らなかったのか、突然 鴻夏の身体を引き寄せると、強引にその身体の向きを変えさせ、再び扉へと押し付ける。
「ちゃんとこっちを見て…?」
間近から璉の綺麗な翠の瞳が鴻夏の姿を映し、その右手が優しく頰に触れた。
その途端、一瞬で鴻夏の理性が崩壊する。
声こそ何も出さなかったものの、すでに頭の中は大混乱だった。
『ひぃぃ~っ⁉︎ち、近いっ!しかも何か妙に色っぽいっ?…た、多分また無意識なんだろうけど、何でこの人こんな無駄にフェロモン振りまくわけっ⁉︎』
思わず居たたまれなくなって、ギュッと強く目を瞑ると、それを見た璉がどう受け取ったのか、突然何の前触れもなく口付けてくる。
それを受けて、鴻夏は更に混乱した。
『は…っ⁉︎えっ⁉︎な、何で…っ⁉︎』
元々回ってない頭で必死で考えようとするが、衝撃の方が大き過ぎたらしく、頭の中が真っ白で何も浮かばない。
そうこうしているうちにスッと璉の口唇が離れ、鴻夏は身体を震わせつつ、真っ赤な顔で自らの口唇を押さえながらこう呟いた。
「な…んで…?」
「あれ…?もしかして違いました?目が合った途端に閉じられたから、てっきりして欲しいのかと思ったんですけど…」
あっけらかんとそう言われ、プツンと鴻夏の理性が切れる。
そして少し涙目でキッと璉を睨むと、鴻夏は思わず叫んでいた。
「ば…っ、馬鹿ぁ!そんなわけないでしょ⁉︎こ、こっちは貴方と違って、全然慣れてないんだから、それが合図になるなんてまったく知らなかったわよっ!」
「あ、そうなんですか…。そうなると私が勝手に勘違いしてしちゃった事になりますね?それは…大変失礼を致しました」
ニッコリと爽やかな笑顔で謝られ、鴻夏は毒気を抜かれ、へなへなとその場に座り込む。
それを優しく抱き起こしながら、璉は相変わらず艶っぽく耳元でこう囁いた。
「…でも男の前であんな事をしたら、普通は誘われてると思いますよ?今回は私だったから良かったけど、他の男の前では絶対にしないでくださいね」
「も…っ、もう誰の前でもしませんっ!」
慌ててそう言って離れると、璉はおや?といった顔でこう呟く。
「別に私にはして下さって構いませんけど?可愛い奥さんに誘われて、嬉しくない夫は居ませんので」
「さ…っ、誘っ…⁉︎」
「そうそう、初々しくてなかなか良かったですよ。また是非お願いしますね…?」
ニッコリと意地の悪い笑顔を見せながら、璉が囁くようにそう答えた。
そして出だしこそ思いがけず、色っぽい展開になってしまったが、結局 鴻夏にその気がない事がわかると、璉は驚くほどあっさりと普段通りに戻ってしまった。
今も手ずから淹れてくれたお茶を卓に置きながら、鴻夏に普通に話し掛けてくる。
「…それでここまで来て、鴻夏は私に何を言いたかったのですか?」
鴻夏の正面の席に座りながら、璉が穏やかにそう尋ねると、呑気にお茶を飲もうとしていた鴻夏が、はたと本来の目的を思い出す。
「あ…っ、そうだった!私、璉にお願いがあって来たんだった!」
「お願い…?」
不思議そうに聞き返す璉に、鴻夏は慌てて頷くと、恐る恐るこう切り出した。
「あ、あのね…。その…勉強をさせて欲しいんだけど…」
「勉強?」
「そう。一応嫁入り前に一般的な事は多少は習ったんだけど、基本が皇女向けの勉強だったから、その…わからない事の方が多くて…。このままじゃ、私なんの役にも立たない皇后になっちゃうんで、その…少しでも皆の役に立てるよう、もう一度勉強し直したいの…」
モジモジしながらそう呟く鴻夏に、璉の瞳が少し驚きで見開かれる。
しかしすぐにフッと優しい笑顔を浮かべると、璉は穏やかにこう答えた。
「…いいですよ。何を習いたいのですか?」
「普通の皇子が習う事すべて!あ、あと剣も習いたいと思うんだけど…、さすがにそれはダメかしら…?」
上目遣いでそう尋ねると、璉はあっさりと『いいですよ』と答えてくれる。
それを受けて、鴻夏が輝くような笑顔で璉にこう言った。
「良かった…!私には必要ないって言われるかと思って、ドキドキしてたの」
「別に…学びたいと思う事があるのなら、何でも好きに学べばいいんですよ。いちいち私の許可を取らなくても構いませんよ?ただ皇子教育となると、普通の子達が通う学校では教えられないでしょうから、泰と一緒に勉強する方がいいかもしれませんね…。早速明日から一緒に授業を受けられるよう、手配しておきましょう」
淡々とそう告げると、璉は穏やかに自ら淹れたお茶に口を付ける。
こうしてこの変わり者の皇帝は、自らの妃の望み通りに、あっさりと想定外なお妃教育を許可してしまったのだった。
翌日から鴻夏は泰瀏皇子の部屋に通い、一緒に授業を受け始めた。
まだ十歳とはいえ、神童と名高い泰が受けている授業は、すでに小児が受けるようなものではなく、十七歳の鴻夏が受けても付いていくのが大変なほど水準の高いものだった。
泰にしても、今までは一人で教師から一方的な形で教えられるだけだった授業に、鴻夏が同席してくれるようになり、その結果 今まではなかった討論などの時間も増えて、より深く充実した内容の授業になっている。
結果として型破りではあるものの、お互いがお互いの能力を高められる状態の授業になった事に、最初こそ眉をひそめていた官僚達もいつの間にか陰口を叩かなくなっていた。
もちろん後宮に住む者達は、最初から誰一人反対する者はなく、むしろ応援態勢である。
特に彼等は鴻夏の本来の性を知っているだけに、『皇子としての教養も身に付けたい』と切望する鴻夏の気持ちが、痛いほどよく理解出来ていた。
もし花胤に同性の双子を不吉とする風習さえなかったら、鴻夏も本来の性のまま一人の皇子として育てられ、そのまま花胤の皇帝の座に就いていてもおかしくはなかった。
たまたま運命の悪戯から皇女として育てられ、そして自分達が敬愛する璉瀏帝の元に輿入してきたが、鴻夏のその真っ直ぐな気質はいつの間にか周囲のすべての者達を虜にし、もはや誰もが璉の正妃として鴻夏の事を認めていた。
璉との間に後継を望めない事を除けば、容姿、性格共に何の問題もない。
それに特に恋愛方面において、誰かに執着する姿をまったく見せなかった璉が、何故か鴻夏に対してだけは、自ら気を配り側に居る事を許容している。
あまり自分を大事にしようとしない璉を、陰ながら常に心配し続けていた後宮の者達にとって、それはとても喜ばしい変化だった。
今も忙しい政務の合間を縫って、わざわざ鴻夏の様子を見に訪れた璉を見ながら、彼等は温かい目でその様子を見守る。
彼等の頭を過ぎるのは、結婚一日目の夜に、後宮で働く者全員が大広間に集められ、璉の口から鴻夏の秘密が暴露された時の事。
美しい姫にしか見えなかった鴻夏が、実は男性で絶対に後継が望めない事を知った時には、驚くやらがっかりするやらでかなり混乱したものだが、その後すぐに心底申し訳なさそうに謝る鴻夏の姿を見て、それもどうでも良くなった。
今となってはあの段階で、自分達を心から信用し、何も隠さず真実を明かしてくれた璉達に感謝しかない。
だからこそ自分達は彼等の期待に応え、鴻夏の秘密が漏もれないよう、細心の注意を払う。
そもそも人としても仕えるべき主君としても、彼等以上の者達は望めないのだ。
それなら自分達も今の恵まれた環境を守るために、一緒に努力すべきだろうというのが、後宮に仕える者達の一致した意見だった。
そんな臣下達の密かな決意も知らず、璉と鴻夏は泰も交えて、皇子教育の内容についての話をしていた。
まずは大真面目な顔をしながら、鴻夏がいきなりこう切り出す。
「…思うんだけど、そもそも『皇子』はどこまでの範囲を勉強するものなのかしら?あと皇子は皇子でも、普通の皇子と皇太子とでは習う範囲や内容も違うものなのかしら?」
そう言ってひたすら首を捻ねる鴻夏に対し、璉が穏やかにこう答える。
「まぁ国によって多少の違いはあるでしょうが、皇位継承権の順位に関わらず、『皇子』と称される方々の勉強する内容は、基本全員同じだと思いますよ?いつどこで何があるかわかりませんから、誰がいつ皇位に就いてもいいよう、皇帝として最低限の政務が取れるよう、全員同じように教育されるはずです」
「ふーん?じゃあ今、泰と私が習ってる事を璉も昔習ったんだ?」
何気なくそう聞いた鴻夏に対し、璉が淡々とこう答える。
「…そうですね。ただ私の場合は他にもたくさんの皇子が居たので、皇位継承権の順位的に、私にまで皇位が回ってくる事はまずなかったんですよ。ですから普通の皇子では覚えないような、少々変わった内容の事も色々と習得させられました…」
「変わった事…?」
キョトンとして聞き返すと、さらりと何でもない事のように璉が答える。
「まぁいくつか例を挙げると、医術、諜報術、暗殺術、房中術とかですかね…。私は皇子というより、纜瀏帝の駒となるよう育てられたので、多分他の皇子達とは教育された内容が違うんです。だからあまり参考にはならないと思いますよ」
まるで他人事のように、さらりと痛まし過ぎる過去を口にした璉は、そのまま何の感情も読み取れない雰囲気で軽く目を閉じる。
思わず何と答えるべきかもわからず、声を失った鴻夏の前で、泣きそうな顔の泰が璉に縋り付いた。
「…ご…めんなさい、ごめんなさい、璉。父上が璉に酷い事を…」
「何を謝るのです、泰?別に貴方が気にする事は何もありませんよ。私も特に不満もありませんでしたし…。それに元々私の命は貴方の父上に救われた物です。それをどう使われようと、私自身が構わなかったんですよ」
そう言って、璉が優しく泰の頭を撫でる。
多分その言葉に偽りはなくて、璉自身はそれが当たり前だと思っていたのだろう。
だが普通に考えるとそんな酷い扱いはない。
実の異母弟を良いように使うための駒として育てるなんて、常識では考えられなかった。
『もしかして…前に暁鴉が言っていた、璉が『暁鴉達側の人間』ってのは、こういう意味だったの…?』
ふいにその言葉の差す意味が、理解出来てしまった気がして、鴻夏はいたたまれない気持ちでいっぱいになった。
璉が皇帝になるまで自国に住む家も持たず、国から使い捨て同然に利用されてきた『影』達と、異母兄の役に立つよう育てられ、その駒として生きる事だけを強いられてきた璉。
確かに境遇的によく似ている気がした。
そしてそれだけに、鴻夏は一層哀しくなる。
「…ごめんなさい、璉。璉や泰の気持ちも考えず、不用意な発言だったわ…」
俯きながら、今にも消え入りそうな声で鴻夏が謝ると、璉は鴻夏の肩に手を置き、ひどく優しげにこう話す。
「本当に気にしないでいいんですよ、鴻夏?私にとってはそれが当たり前の日常で、特に不幸だとか思った事もないんです」
そこで一旦言葉を区切ると、璉は遠い目をして続けてこう語る。
「…物心がつく頃には、纜瀏帝の役に立つ事だけが自分の存在意義だと思っていました。彼だけを見て彼だけを愛し、彼の役に立つように生き、彼の為に死ぬ…。ずっと周りからそのように言われ続けてきたので、私もそうする事が当たり前なんだと思っていました。そしてそんな風に育てられた私は、一度も死ぬ事が怖いと思わなかった…。結果としてそれが功を奏し、私は若くして戦場で名を馳せる事が出来たというわけです…」
淡々とそう語ると、最後に彼はポツリと『皮肉なものですね』と穏やかに微笑んだ。
そしてその晩、鴻夏は色々な事に悩みながら、一人 悶々と寝台の中で答えの出ない問答を繰り返していた。
きっかけは、今日思いもかけず少しだけ知ってしまった璉の過去。
チラリと聞いただけでも、かなり酷い特殊な環境で育ったのは間違いなく、おそらくそれが原因で色々な感情や常識が欠落気味なのだろうという事が容易に想像出来た。
けれど今回自分が知った内容は、多分氷山の一角に過ぎず、璉も璉の周りの人達についてもまだまだ謎の方が多い。
そして鴻夏は結論として、特に誰に聞かせるわけでもなくポツリとこう呟いた。
「…やっぱり私が知らなさ過すぎるのよね…」
かなり端的な言葉であったが、それが一番、今の鴻夏の心情をよく表していた。
よくよく考えてみれば、鴻夏はあまりにも璉の事を知らなさ過すぎるのである。
正直 風嘉に来るまでは、まさか自分が結婚する事になるとは思いもしなかったので、敢えて自分から何かを知ろうとは思わなかった。
そして結婚後はこの特殊な後宮環境に慣れるのに精一杯で、気がつけばもう一ヶ月間が経っていたという感じである。
だから最近になってようやく、少し周りを見る余裕が出てきた鴻夏は、今更ながらにその事に気付いてしまったのであった。
そして溜め息をつきながら、鴻夏は思う。
鴻夏が璉について知っている事は、三年前に風嘉で起こっていた未曾有の大乱を鎮めた『風嘉の英雄』である事。
その前は若くして国境線を守り、その目覚ましい働きぶりから『戦場の鬼神』と呼ばれ、怖れられていたという事。
そして異母兄である纜瀏帝に駒として育てられ、今もなおその呪縛に縛られ囚われているだろうという事…。
普段は穏やかで優しい雰囲気を纏う璉だが、時々ひどく冷たい気を放つ事がある。
まるで人が入れ替わったかのように、近付きがたい気を纏い、向き合う相手に得も言われぬ恐怖を感じさせる時、確かにこの人は風嘉を長年に渡って支え続けてきた皇帝なのだと、否が応にも思い知らされる。
…正直そういった空気を纏う璉は怖い。
怖くて本能的に逃げ出したい衝動に駆られるが、まるで冴え渡る刃のように凜とした気を放つ璉は、目を逸らせないほどに美しい。
そして震えが止まらないほど怖いのに、鴻夏はそんな璉にも惹かれてしまっている。
普段の優しい璉ももちろん好きだが、時折垣間見せる冷酷な璉は、まるで美しく咲き誇る毒花のように、ただそこに居るだけで人々の心をどうしようもなく惹きつける。
多分あれが月鷲の鴎悧帝や先帝である纜瀏帝を惑わせた璉の真の姿なのだろう。
強く気高く美しい…孤高の獣のような璉。
彼を手に入れたいと望む者は、それこそ掃いて捨てるほど居たに違いない。
けれど彼は生まれた時から纜瀏帝の物で、彼の瞳は纜瀏帝以外の者を映さない。
生まれた時から纜瀏帝だけを見て、纜瀏帝だけを愛し、纜瀏帝の役に立つためだけに生き、纜瀏帝の為に死ぬ。
そうする事が当たり前と躾られてきた璉は、纜瀏帝の死後もその呪縛に囚われている。
おそらく泰を守り、愛情深く大事に育てているのも、彼が纜瀏帝の息子だったから。
ではそうなると自分は…?
自分は彼にとってどういう存在なのだろう?
そう思った瞬間、鴻夏はどうしようもない不安に駆られた。
花胤から政略結婚で嫁いできた自分は、確かに後継問題の面からみれば、非常に都合の良い存在だったとは思う。
だが都合が良いだけで、はたしてそこに璉の気持ちがあったのか?と言われると、まったくもって自信がない…。
『どうしよう…。なんだか急に切なくなってきた…。璉にとって私はどういう存在なの?彼にとって真に価値がある存在だと言えるの…?』
そう思ったら、ポロリと自然に涙が溢れた。
自分が何に対して傷付いているのかもわからないが、ただただ心が張り裂けそうに痛い。
双子の弟の凛鵜と離れなければならなかった時よりも、ずっとずっと辛かった。
そして鴻夏はその痛みと共に、ふいに自らの気持ちを自覚する。
『私…もしかして璉の事が好き…なの⁉︎え、でもいくら結婚してるといっても、璉とは契約結婚だし、それに私の本来の性別は男で、璉も同じ男性で…。いくら私が皇女として育てられてきたとしても、おかしいんじゃ…?』
混乱しながらもそう思うが、それでもそう考えると、今までの自分のよくわからない反応の意味が、ようやく理解出来る気がする。
いつも璉の姿を見るだけでひどく心臓がドキドキしていたのも、彼の一挙一動に常に動揺していたのも、そして今、彼の気持ちが分からないというだけで泣けてきてしまうのも、すべては彼に恋していたから。
仕事面では誰よりも優秀なのに、何故か人の感情にだけは疎くて、どこか不器用なのに優しくて、誰よりも心が強く綺麗な人。
お世辞にも良い環境では育っていないのに、それでも真に歪む事もなく、真っ直ぐに生きてきた璉がどうしようもなく愛おしかった。
『…あの人を助けたい…。あの人に必要とされるような人間になりたい。そして誰よりも強くて危ういあの人を、纜瀏帝の呪縛から解放してあげたい…!』
次から次へと溢れ出る想いを、もう鴻夏は止められなかった。
そしてその勢いのままに、鴻夏はフラリと立ち上がると、今まで一度も自分からは叩いた事がない扉の前に立つ。
震える手で軽く扉を叩くと、すぐに聞き慣れた声がそれに応じ、鴻夏は小さな声で中に居るであろう人物に声をかけた。
そして程なく扉は中から開かれ、鴻夏一人を招き入れると再び元通りに閉じられる。
そこは鴻夏が今まで一度も訪れた事のない、自らの夫である璉の自室であった。
白壁に焦茶色と紺青色を基調とした、重厚で落ち着いた雰囲気の部屋の中で、鴻夏は今更ながらに自らの行動を後悔していた。
何となく勢いのままに、フラフラと璉の部屋の扉を叩いてしまったが、少し落ち着いて考えてみると、時刻はすでに深夜に近く、到底人を訪ねても良い時間ではなかった。
しかもうっかりと忘れていたが、この時間の璉は当然もう夜着姿で、思わず目のやり場に困るほど艶っぽい。
正直同じ男である璉に、何故こうも色気を感じてしまうのかはわからないが、無駄に雰囲気のある自らの夫に、鴻夏はひどく困っていた。
しかしそんな鴻夏の気も知らず、璉は手ずからお茶を淹れると、実に優雅な仕草でそれを卓に並べる。
そして自らも鴻夏の正面の席に座ると、初めて穏やかにこう話しかけてきた。
「…鴻夏から私の部屋に訪ねて来るのは、初めてですね。何かありましたか?」
そう言われ、思わず鴻夏が黙り込む。
そしてはたと、もしかしてこれは非常にマズい状態ではないかと、気が付いた。
『…あれ?深夜に男性の部屋を一人で訪ねるのって、頂いちゃって下さいって意味になるんだっけ⁉︎』
気付いた途端に思わず椅子から立ち上がった鴻夏は、しどろもどろにこう答える。
「あ、あの…その…こ、こんな深夜に急に訪ねて来ちゃってごめんなさい?や、やっぱり話すのは明日にするわ」
そう言って慌てて踵を返そうとした鴻夏だったが、すぐにその手を掴まれる。
ハッとして振り返ると、するりと璉が鴻夏に近づき、間近から鴻夏をジッと見つめた。
そして鴻夏は例の如く、声を出せないまま頭の中で大混乱を引き起こす。
『ひぃいい~⁉︎ち、近っ!しかも見てる、めっちゃ見てるっ!』
動揺して目を白黒させながら固まる鴻夏に、璉がポツリとこう呟く。
「…目が赤い…。泣いたのですか、鴻夏?」
「あ…っ、これはその…」
まさか貴方が自分の事をどう思ってるのかわからず泣きましたとも言えず、困ったように言葉を濁していると、それを勘違いした璉が気遣うようにこう告げる。
「やはり花胤に戻りたいのですか…?確かにここは貴女にとっては慣れない異国で、知り合いも居らず、文化や風習も全てが違う…。私も政務が忙しく、正直あまり貴女を構ってあげられてなかったですし、辛い思いをさせていたのでしょうか…」
「え?違…っ!これは別件で…その…。と、とにかく大丈夫だからっ!」
ほぼ説明になってないなと自分でも思ったが、うまい言い訳が見つからない。
しかも間近から璉に見つめられると、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも何をしたいのか、何を言いたいのかもよく分からなくなってくる。
それをどう受け取ったのか、璉は無言で鴻夏を見つめるだけで特に何も語らなかった。
そしてしばらくの間、困ったように鴻夏が固まっていると、ふいにスッと璉が手を伸ばし、ポンポンと軽く鴻夏の頭を叩く。
驚いて鴻夏が見上げると、少し困ったように微笑みながら璉が優しくこう言った。
「…言いたくないのなら、何も聞きません。でも話したくなったら、いつでも言って下さいね?私は貴女の夫なのですから」
「璉…」
「あとせっかく鴻夏から訪ねて来て下さったのだから、まだ帰らないで下さいね?とりあえず落ち着いて座って下さい。大丈夫、貴女が嫌がるような事は、何もしませんから」
さり気なく鴻夏が心配していた事についても返答しながら、璉はそのまま再度、鴻夏を椅子に座らせる。
そして先程は正面の席に座った璉だったが、今回はそのまま鴻夏の隣に腰を下ろした。
微妙にお互いの温もりが感じられるほど近くに璉が居て、鴻夏は意味もなく緊張する。
『ど、どうしよう⁉︎ち…近いっ!横が見れないっ!何か話さないといけないと思うけど、緊張し過ぎて何も思い浮かばないっ!』
そう思いつつ、ぐるぐるしながら固まっていると、その気配を読んだのか、璉がさり気なくこう聞いてくる。
「…それで?鴻夏は私に何が聞きたかったんです?」
「え…っ、どうして私が何かを聞きたいんだと思ったの⁉︎」
まだ何も言っていないのに、突然 核心を突いてきた璉に驚き、思わず彼の方に向き直ると、璉は事も無げにこう答える。
「何となくですが、そろそろ私や私の周りの人達が、一体何者なのかが気になり出す頃かと思いましたので…。当たってました?」
「す…ごい。やっぱり璉って賢いのね…」
呆然としながらそう呟くと、璉がくすくすと笑いながらこう答える。
「お褒めに預かりどうも…。それで何から聞きたいのです?」
「え…っ?聞いてもいいのっ⁉︎」
至極あっさりと璉にそう言われ、恐る恐る鴻夏がそう尋ねると、璉は何の感情も読み取れない表情でこう答える。
「…構いませんよ。特に楽しい話でもありませんが、隠しているつもりもありませんので…。ただ私の話はともかく、周りの皆の事となると勝手に話せない内容もありますが、それでもよろしければ…」
淡々とそう語りながら、璉の綺麗な翠の瞳が、何の感情もなく自分の姿を映している。
咄嗟に色々と聞きたい衝動に駆られたが、鴻夏は少し悩んだ後、きっぱりとこう言った。
「…やっぱり止めておくわ」
「え?」
「うん、確かに色々と聞きたい事はあったんだけどね…。こうして無理矢理 喋らせるってのは、何か違うと思うのよ?うまく言えないけれど、ちゃんと璉が話してくれる気になるまで、待つのが筋なんじゃないかなって」
一所懸命に言葉を一つ一つ選びながら、鴻夏が素直に自分の気持ちをそう語る。
その予想外の反応を無言で見つめながら、璉はひどく驚いていた。
「…いいのですか?真相を知りたくて、ここまで来たのでしょう?」
ポツリと璉がそう呟くと、鴻夏がそれに対してこう答える。
「確かにそうなんだけど…。でも璉がいつも私の気持ちを優先してくれるように、私もそこは璉の気持ちを優先しないとダメなんじゃないかと思うのよ。そうじゃないと公平じゃないと言うか、一方通行な気がして…」
そこで一旦言葉を区切ると、鴻夏は晴れ晴れとした笑顔でこう続けた。
「だから私も待つ事にするわ。璉が話したくなった時に聞く事にする!…だって私はこれからも貴方の妃なんでしょう?」
先程 璉が言った台詞そのままに、鴻夏が悪戯っぽくそう聞き返すと、驚きから立ち直った璉が苦笑しながらこう返す。
「…そうですね。今のところ離縁する気はまったくありませんので、まだまだ時間はたくさんあると思います」
「でしょ?だから焦らない事にするわ。貴方が本当に話しても良いと思えた時に聞くから、その時は隠さず全部話してね?」
「はい、そうします。…ありがとう、鴻夏」
どこかホッとしたような表情を浮かべる璉に、鴻夏は璉の背負っているものが、自分の想像以上に重たいものなんだろうと感じていた。
そして翌日、後宮の庭の一角で、珍しく璉も居ない状態で、黎鵞と鴻夏が人目を避けるように二人っきりで話していた。
話題は昨日思いがけず聞いてしまった、璉の過去についてで、鴻夏ははひどく落ち込んだ顔で黎鵞に経緯を話していた。
そして最後に絞り出すようにこう締め括る。
「私が思っていた以上に、璉は特殊な環境で育ったのね…。私は纜瀏帝の事は正直よく存じ上げないけれど…それでも少し聞いただけでも、纜瀏帝もその周りの人達もどこか異常だという事はわかったわ…」
そう呟く鴻夏に、黎鵞が冷静に意見を返す。
「…私には纜瀏帝の周囲が、そこまで異常だったとは思えません。当時の纜瀏帝は皇后の産んだ唯一の嫡子であり、将来を有望視された優秀な皇太子でした。正直彼が居る限り、どの皇子にも皇位が巡ってくる事はあり得なかった。それなら皇位に程遠い末の皇子は、大事な皇太子を生かすための捨て駒として育てようと考えたのは、至極当然の事であったかと思います」
あまりにも冷た過ぎるその言い草に、鴻夏が思わず激昂する。
「そんな…っ!だっていくら皇位から遠いからって、血の繋がった異母弟なのよ?それを捨て駒として育てるなんて…っ」
「それも致し方ない事でしょう。より大事な者を生かすための策です。皇家にはよくある話ですよ。…ただ纜瀏帝の璉への執着が異常であったというのは、私もその通りかと思います…」
そう言って、黎鵞がその美しい眉を顰める。
普段あまり感情を顔に出さない黎鵞が、珍しく嫌悪感を露わに黙り込むのを見て、鴻夏はひどく嫌な予感がした。
「黎鵞…?」
「すみません、鴻夏様…。璉が敢えてお話していない事ですので、私からは何も申し上げる事は出来ません。ただ璉は…今も纜瀏帝の呪縛に縛られております。璉はあの男の命令一つで、いとも容易く死を選ぶよう育てられました。だから璉にとって、纜瀏帝という存在は絶対なのです…」
そう語ると、黎鵞はふいに鴻夏の方に向き直り、スッとその頭を下げた。
突然の敬服に鴻夏が一人焦りまくると、黎鵞は冷静にこう願い出る。
「…鴻夏様、どうか璉を救ってやって下さい。纜瀏帝と真逆の位置に居る貴女にしか、璉は救えません。私達では無理なのです…」
「え…っ、私⁉︎で、でも私が一番、璉との付き合いが短いと思うんだけど…?」
焦ってあまり意味のない内容を返してしまった鴻夏に、黎鵞がゆっくりと首を横に振る。
そしてその美し過ぎる瞳で、真っ直ぐに鴻夏を見つめると、はっきりとこう告げた。
「この際付き合いの長さは関係ありません。貴女の持って生まれた資質の話です。貴女のその資質に、璉も無意識に惹かれています。おそらく貴女にしか璉は救えません」
風嘉一の知恵者にそう断言され、鴻夏はただ何も言えずに立ち尽くしたのだった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
第二王子は憂鬱~divine femto~ 学園都市ピオニール編
霜條
ファンタジー
ラウルス国、東部にある学園都市ピオニール。――ここは王侯貴族だけだなく庶民でも学べる場所として広く知られており、この場所で5年に一度の和平条約の締結式が行われる予定の地。
隣国の使者が訪れる日、ラウルス国第二王子のディアスは街の中で何者かに襲われ、その危機を見知らぬ少年が助けてくれた。
その人は会えなくなった友人の少女、クリスだった。――父の友人の娘で過去に一度会ったことがあるが、11年前に壁を挟んだ隣の国、聖国シンで神の代行者に選ばれた人でもあった。
思わぬ再会に驚くも、彼女は昔の記憶がなく王子のことをよく知らなかった。
立場上、その人は国を離れることができないため、もう会えないものと諦めていた王子は遠く離れた地でずっと安寧を願うことしか出来ない日々を過ごしていた。届かない関係であれば、それで満足だった。
ただ今回締結式に向けて、彼女は学園内で起きた事件や問題の解決のために来ており、名を伏せ、身分を隠し、性別を偽り王子のクラスメイトとなる。
問題解決まで二週間という短い期間だけしかその人には与えられていないが、改めて『友人』から関係を始めることができることにディアスは戸惑いつつも、これから共に過ごせる時間が楽しみでもあった。
常識が通じないところもあるが、本人の本質が変わらないことに気付き、立場が違ってもあの頃と変わらない関係に安寧を見つける。
神に選ばれた人に、ただの人でもある王子のディアスは『友人』関係で満足しようとするが、交流を続けるうちに次第に自分の気持ちに気付いていく――。
※まったり進行のラブコメ、ときどき陰謀シリアス計略あり。NL,BL,GL有りの世界観です。長文が読みたい方にオススメです。
▼簡単な登場人物を知りたい方はこちら▼
https://www.alphapolis.co.jp/novel/219446670/992905715/episode/9033058?preview=1
※『間奏曲』はメインから外れた周りの話です。基本短編です。
真の敵は愛にあり
Emi 松原
ファンタジー
ブルー王国に住む主人公のコルは、幼なじみの車椅子の少女、アマナと共に特別騎士団に助けられたことをキッカケに、戦争を止めるために特別騎士団を目指すため、矛盾と分かっていても自ら騎士団へと入団する。
コルが知っていくものとは。戦争は終わるのか。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
練習船で異世界に来ちゃったんだが?! ~異世界海洋探訪記~
さみぃぐらぁど
ファンタジー
航海訓練所の練習船「海鵜丸」はハワイへ向けた長期練習航海中、突然嵐に巻き込まれ、落雷を受ける。
衝撃に気を失った主人公たち当直実習生。彼らが目を覚まして目撃したものは、自分たち以外教官も実習生も居ない船、無線も電子海図も繋がらない海、そして大洋を往く見たこともない戦列艦の艦隊だった。
そして実習生たちは、自分たちがどこか地球とは違う星_異世界とでも呼ぶべき空間にやって来たことを悟る。
燃料も食料も補給の目途が立たない異世界。
果たして彼らは、自分たちの力で、船とともに現代日本の海へ帰れるのか⁈
※この作品は「カクヨム」においても投稿しています。https://kakuyomu.jp/works/16818023213965695770
願いの守護獣 チートなもふもふに転生したからには全力でペットになりたい
戌葉
ファンタジー
気付くと、もふもふに生まれ変わって、誰もいない森の雪の上に寝ていた。
人恋しさに森を出て、途中で魔物に間違われたりもしたけど、馬に助けられ騎士に保護してもらえた。正体はオレ自身でも分からないし、チートな魔法もまだ上手く使いこなせないけど、全力で可愛く頑張るのでペットとして飼ってください!
チートな魔法のせいで狙われたり、自分でも分かっていなかった正体のおかげでとんでもないことに巻き込まれちゃったりするけど、オレが目指すのはぐーたらペット生活だ!!
※「1-7」で正体が判明します。「精霊の愛し子編」や番外編、「美食の守護獣」ではすでに正体が分かっていますので、お気を付けください。
番外編「美食の守護獣 ~チートなもふもふに転生したからには全力で食い倒れたい」
「冒険者編」と「精霊の愛し子編」の間の食い倒れツアーのお話です。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/2227451/394680824
Sランク冒険者の受付嬢
おすし
ファンタジー
王都の中心街にある冒険者ギルド《ラウト・ハーヴ》は、王国最大のギルドで登録冒険者数も依頼数もNo.1と実績のあるギルドだ。
だがそんなギルドには1つの噂があった。それは、『あのギルドにはとてつもなく強い受付嬢』がいる、と。
そんな噂を耳にしてギルドに行けば、受付には1人の綺麗な銀髪をもつ受付嬢がいてー。
「こんにちは、ご用件は何でしょうか?」
その受付嬢は、今日もギルドで静かに仕事をこなしているようです。
これは、最強冒険者でもあるギルドの受付嬢の物語。
※ほのぼので、日常:バトル=2:1くらいにするつもりです。
※前のやつの改訂版です
※一章あたり約10話です。文字数は1話につき1500〜2500くらい。
ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる