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第弍部ーⅤ:二人で歩く

193.菫子 可愛いお世話

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「僕ね、すみれこさまを、元気にする、ってしおうと、約束、した、」

朝食の最中にいらした日向さんは、ベッドに登ると、ぴたりと隣に座って真剣なお顔で言う。

「……紫鷹さんが、お願いしたの?」
「んーん、二人で、決めた、」
「あらまあ、」

出かける前に顔を出した紫鷹さんは、そんなこと一言も仰いませんでしたよ。
ただ、昨日までの不安げな表情とは変わって、何か心を決めたような顔をしていたから、紫鷹さんなりに落ち着くところがあったのだと思ったけれど。
もしかすると、日向さんのお陰だったかしら。

そう思って顔を覗けば、日向さんは、眉を寄せ目に力を込めて、顰めっ面。
私の朝食のお膳を睨みつけて固まったかと思えば、突然小さな手を伸ばして、橙色の蜜柑を握った。

「みかんは、僕の仕事、」
「……日向さんが、剥いてくださるの?」
「僕が、お世話、する、」

そう言って、もの凄く真剣に蜜柑を剥き出すものだから、思わず鶴喰(つるばみ)と顔を見合わせて笑ってしまった。

「すみれこさま、ふーふーするから、笑わない、」
「そうねえ、ちょっと息が切れちゃうわね、」
「……苦しい?」
「大丈夫よ。それより日向さんの剥いてくれる蜜柑が楽しみで、元気が出て来たみたい。日向さんは、お世話上手ね、」
「うん。僕が、やるから、早く元気に、なってね、」

顰めっ面が怒り顔になって、不安げになり、自慢げに変わっていく。
そのお顔があまりに可愛くて、また笑って、日向さんに叱られた。

目も、目の周りも真っ赤なのは、ついさっきまで泣いていたからでしょうに、一生懸命ね。
不器用な手を慎重に動かしながら、蜜柑を剥いて、私に食べさせるんだと格闘する姿が、もう愛しくて愛しくて堪らなかった。
水蛟(みずち)さんが、負担にならないかと心配してくださったけれど、とんでもありませんよ。こんな可愛いお世話をしてもらえるなんて、なんて幸せ者かしら。


だけど、日向さんの手は、細やかな加減が得意ではないのよね。
右手で皮を剥こうとすれば、左手に力がこもり、左手の力を抜こうと頑張れば頑張るほど、蜜柑は小さくなっていく。
皮を全て剥き終わる頃には、蜜柑は随分と小さな塊になって、一口分の大きさしかなかった。

「……すみぇこさま、に、みかんをぁげた、ってしぉうに、書きたかった、のに、」
「蜜柑、剥いてくれたのでしょ?」
「……ぐちゃ、ぐちゃぁ、」
「その蜜柑が、お母様は欲しいんですよ。食べさせてくださいな、」

目も眉も口もぎゅっと寄ってすごい顔。
口を一文字に結び唇を噛むのは、きっと目に浮かんだ涙をこぼさないようにするためね。

でも、そのお顔のまま、震える手で食べさせてくれた蜜柑は、私がこれまでに食べたどの蜜柑よりも素晴らしいご馳走でしたよ。


それからも日向さんは、ずっと一生懸命。


紫鷹さんにお手紙を書くと言うから、私の分もお願いしたら、快く受けて代筆してくれる。
私が言う言葉をすらすら書くから驚きましたよ。皆さんから、学院に通ってからの日向さんはお勉強に熱心で、字もとても上達したと聞いていたけれど、こんなに速く書けるようになったのね。歪なところもある字だけれど整然と並んでいて、初めて貰ったお手紙では、字が紙をはみ出していたのを思うと、ちょっと涙が滲みました。

「大好き、は?」
「あら、」
「しおうは、大好きって、書いたら、いつも嬉しい、」
「あらあら、」

それは、日向さんだけの特別ではないかしら。
でも日向さんは、紫鷹さんは私のことが大好きだから書いたら喜ぶんだ、と言い譲らない。

「紫鷹さんは、もう親離れが始まっていますから、きっと恥ずかしがるんじゃないかしら、」
「んーん、しおうは、嬉しい、」
「あらまあ、」

日向さんが仰るならきっとそうなんでしょう。
だから、息子への愛情を惜しみなく語り、日向さんに書いてもらった。
この手紙が届いたらあの子は顔を真っ赤にして慌てるんじゃないかしら。でも、日向さんが、「真っ赤になって、泣くよ。でも、笑う、」と言うから、そうかもしれない。
恥ずかしがりながら涙を浮かべ、最後には苦笑する紫鷹さんを思い浮かべて胸が温かくなった。


「しおうは、仕事と、早く帰るを、頑張る約束。僕は、勉強と、遊びと、すみれこさまの、お世話。あと、足を治すも、」


そう言った日向さんは、医師が来て診察の時間だと告げれば、寝室を出ていく。
亜白(あじろ)さんと研究をしないといけないし、ブランコもしないといけないから忙しいんだと言っていたけれど、閉まりかけた扉の向こうで、堪え切れずに泣き出したのが聞こえていましたよ。

しばらくして戻ってきた時には、目が真っ赤。

それでも寝室に入った後は、またきゅっと眉を寄せ目に力を込めて、泣かずにお世話をしてくれる。
お食事の前には私の手を拭いてくれ、食後のお薬は日向さんの手ずから飲ませてくれた。本当は、お食事を食べさせるのをやりたいんですって。日向さんが具合が悪い時は、紫鷹さんや由理音(ゆりね)さんがしてくれるのが嬉しいから。でも、日向さんの手ではまだ上手にできないから練習してるんだと、と悔しそうに教えてくれる。

私がうとうとし出すと、あやすようにお腹を撫でてくれましたね。
あとで聞いたら、紫鷹さんがそうしてくれるんですって。
それでも眠れない時は、ぎゅっと抱きしめ、口づけをして甘やかしてくれるんだそう。印をつけてもらったら一番安心して眠れるんだ、とも仰っていたけど、多分紫鷹さんは私には聞かれたくないだろうから、聞かなかったことにしておきますね。

ただ、私にお水を飲ませようとした時には、手が震えて落とし、布団を濡らしてしまった。
ストローと蓋がついたコップなら日向さんにもできるんじゃないかと鶴喰と考えたのだけど、そうやって誰かに飲ませるのは初めてで、日向さんは難しかったみたい。
落ちたコップの蓋が外れて、水が布団に染み込んでいくのを必死に手でかき集めようとする。
大丈夫ですよ、と鶴喰が抱き上げ、侍女たちが新しい布団に替えてくれる間の日向さんは、可哀想なくらい震えていた。

「……そんなに唇を噛んだら、痛いでしょう?」

ぴたりとくっついてくれるから、布団越しにも、日向さんの体が震えているのがわかりますよ。
一生懸命な分、できないことが誰よりも悔しくて悲しい日向さんだもの。本当は声をあげて泣きたいでしょうに、唇を噛み、顔中に力を込めて必死に耐えている。

「泣きたい時は、泣いていいのよ。私は日向さんの声なら、泣き声でもなんでも大好きなんですから、」
「……泣かない、」
「泣き虫は、卒業?」
「……泣くは、しぉうと、やる、約束、」
「あら、」

今にも泣き出しそうな声の日向さんが言うには、紫鷹さんが帰ってきたら、一緒に泣くんですって。
紫鷹さんは泣くのが下手だから、ぎゅってしないといけないんだ。日向さんも一緒に泣いて、二人で抱きしめ合うんだ。だから、今は泣かないんだ、と眉を寄せながら言う。

「…紫鷹さんも泣くの?」
「しおぅは、泣き虫、」
「日向さんが抱きしめると、あの子は泣けるのね、」
「ぃっぱい、泣く、」

険しい顔で涙を堪える日向さんを見ていると、今朝の紫鷹さんが思い出された。
瞼が腫れて重たそうだったから、疲れているんじゃないの、と声をかけたけれど。あの子は恥ずかしそうに、酷い顔だからあまり見ないでほしい、と笑っただけ。

そう、日向さんと一緒に泣いたの。
いっぱいと、日向さんが仰るくらいだから、顔が浮腫んで瞼が腫れるまで、二人で泣いたのね。


「あの子は……、本当にいい伴侶を選んだのね、」


半色乃宮の皇族は、今は私と紫鷹さんの二人だけだから、あの子には負担をかけてしまっているのではないかと案じていた。
賢く強い子であると、親の欲目抜きにも思っているけれど、末っ子の甘えん坊で実は弱いところがあるのも、母として分かっているつもり。
日向さんも、紫鷹さんは仕事が嫌いで、本当は仕事に行きたくないんだと教えてくれた。でも皇子だから紫鷹さんは仕事をしないといけないし、私を安心させるためにも頑張ると約束したんだ、とも教えてくれた。

皇子としての責任感や私への配慮で、不安や恐怖も吐き出せずに潰れてしまわないかと心配だったのよ。
ここ数年のあの子は、私にはそういう話ができないし、内に秘めてしまう癖があったから。

でも、日向さんの前では、ありのままの紫鷹さんでいられるのね。
日向さんが、紫鷹さんの心を素直にさせてくれるのね。

「なあに、」
「…日向さんがいてくれて、私は幸せね、と思ったの、」

腕は重たいはずなのに、自然と動いて小さな体を抱きしめた。
まだぷるぷると震えているのは、失敗はもちろんだけど、私のお世話をもっとしたかったから。
いつだって真っ直ぐに、素直に、全身で愛情を伝えてくれる日向さんが、私も愛しくてたまらない。

「…すみれこさまも、甘えん坊?」
「そうね。私は息子たちに似て甘えん坊なの。甘やかしてくれる?」
「いいよ、」

ぎゅっと、小さな腕が私を抱きしめる。
幼くて、まだまだ細い腕だけど、温かくて力強かった。

紫鷹さんの心が解けるわけだわ。
病への不安だとか、残した仕事への心配だとか、胸の奥でずっと蟠っているものが、するすると解けていくような気がする。
日向さんの魔法かしら。理性や感情よりもっと深く、魂といえるくらい根本的な場所で、何かが癒やされていくような感覚が心地よかった。


魔法だけじゃない。
きっと、この子が全身で注いでくれる愛情や、素直にむけてくれる感情の全てが私を癒してくれる。


紫鷹さんに叱られるかしら、と思ったけれど、温もりが温かくてそのまま微睡んだ。
病で弱ったお母様には、この小さな息子の愛情が一番のお薬なの。
だから許してね。

代わりに、もう一人の息子が帰ってきたら、同じように抱きしめてもらいますから。



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