第八皇子は人質王子を幸福にしたい

アオウミガメ

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第弍部ーⅤ:二人で歩く

191.紫鷹 どろどろに溶ける

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「紫鷹、董子様のご容体はどうだい?良いお年なのに、無理をなさったのだろう?お前は我が儘だからなあ。あまりご負担をかけるものではないよ、」

父上の執務室を出ると、さも偶然と言うように朱華(はねず)が現れた。

長兄たる皇太子は、半色乃宮(はしたいろ)の宮の主が倒れたと聞き心を痛めていると,いかにも悲痛な面持ちで語る。皇帝陛下も頼りにしているのに、さぞ心配だろう。各国の要人たちも驚いたろうね。せっかく妃殿下が友好を築いてきたと言うのに、もし失われるようなことがあればうんぬんかんぬん。

「母上なら快方に向かっております。ご心配いりませんよ、」
「そうかい?心臓がよろしくないと噂を聞いたものだからね。半色乃宮は大変だろう。今はお前と董子さまの二人だ。厳しければ火色乃宮(ひいろのみや)が手を貸してやるから、いつでも頼りなさい、」
「ご厚情痛み入ります。陛下のご配慮で、すでに枯野乃宮(かれののみや)と呉須色乃宮(ごすいろのみや)にご助力いただいております、」
「ふうん。まあ、お前も無理をするでないよ。共倒れにでもなれば、それこそ半色乃宮の名折れだ、」

そうなれば良いと願っているだろうに。
いかにも案じて見せる言葉の裏に、みっしりと悪意が詰まっているのは、疲れた頭だって分かる。

だが、挑発に乗り、みっともなく暴れたりはしなかった。

未だ成年には満たないとは言え、俺は皇族だ。
今は母上に代わり、半色乃宮の主も担う。
何より、俺の脳裏では水色がトコトコと歩き回って、早く帰って来いと俺の袖を引っ張っていた。

だから、大丈夫。

愚かな兄など相手にせず、立派に母上の代理を務めてみせるよ。
それで、一分一秒でも早く帰って、日向と夏休みの計画を立てるんだ。

そう思って朱華をやり過ごし、粛々と仕事を片付けていった。
それだというのに、何故だろう。

次から次へと仕事は舞い込んでくる。
母上が担う予定だった公務はもちろんだが、こんな時だと言うのに、決算やら、市民の声やら、祭事の相談やら、今でなくていいだろうことも持ち込まれて、山積みになって行く。
晴海(はるみ)や母上の書記官たちが手際よくさばいてはくれたが、それでも離宮に帰る頃には日はすっかり暮れて、日向の夕食の時間にさえ間に合わなかった。





「日向様は、妃殿下のお部屋におられますよ、」

ようやく離宮に戻り安堵すると、出迎えた弥間戸(やまと)が言う。

「……今日は亜白(あじろ)が来るとか言ってなかったか、」
「午前中は、ご一緒に生き物の調査結果をまとめておられたんですけどね。どうも日向様は妃殿下が心配でいらしたようで。妃殿下と昼食をとられた後も、そのまま一緒にお過ごしです、」
「そうか、」

昨晩、母上を見舞った時の日向は、よく分かっていない様子だった。
困惑しているようではあったが、その後も、特に母上のことを聞いては来ない。ただ、やたらと甘えたい様子だったから、今朝も、朝食を食べさせながら甘やかすだけ甘やかして部屋を後にしたが。

時間が経って、母上に起きたことが理解できたのだろうか。

「……魔力暴走は起こしてないな?」
「大丈夫ですよ。萩花(はぎな)様のお話では治癒の魔法に寄っておられるそうですが、許容範囲内だと仰られていました、」

俺が怪我をした時には、治癒の魔法を暴走させ制御困難に陥った日向だ。
母上の病状を知れば再び混乱に陥るのではと懸念していたが、弥間戸の言葉に一応は安堵する。
それでも、いつもの癒しから、治癒の魔法に切り替わったわけだ。日向が不安に苛まれているだろうことは、容易に想像できた。

だから、そのまま真っすぐ母上の寝室に向かう。
体は疲弊していたが、母上を見舞うことも、日向を安心させてやることも、俺の役目だ。そう鼓舞し、重たい足や肩を運んだ。


「妃殿下は、お休みですが…。お声掛けいたしましょうか?」
「いや、いい。日向だけ引き取っていくよ、」

鶴喰(つるばみ)に案内されて母上の寝室を進むと、ベッドの上で白い顔をした母上が眠っていた。
こんな風に母上の寝顔ばかり見るのは、何時ぶりだろう。

上半身を枕に預けているのは、まだ横になると苦しいからだろう。胸に水が溜まり肺が圧迫されるせいで、呼吸が困難になるのだと侍医に聞いた。心臓の機能も落ちているから、酸素交換の効率も悪いらしい。呼吸はいつもの穏やかな母上の息遣いよりも荒かった。

それでも、今朝見舞った時よりは、幾分か良く見える。

「日向様、紫鷹殿下のお迎えですよ、」

母上の脇に、鶴喰が声をかけるから見れば、小さな布団が小山を作っていた。その中で、眠っていたのだろう。もぞもぞと山が動き出すと、水色のぼさぼさ頭が覗く。

「しぉ、」
「ん、ただいま。遅くなってごめんな、」

寝ぼけ眼なのにな。
俺を見つけた途端に、水色の瞳はゆらゆらと揺れだし、泣き顔になっていく。
抱き上げてやると、俺を確かめるようにすんすんと匂いを嗅ぐが、すぐに鼻を鳴らし、すすり泣きになった。

今日一日、一人で一生懸命に堪えていたんだよな。
きっと不安も恐怖もたくさん湧いて、心細かっただろうに。
側にいてやれなくて、ごめん。

鶴喰の話では、昼に来て以来、母上の側を離れなかったらしい。
母上が休めないのではと心配したが、診察や侍女たちが世話をする間は静かに出て行って、しばらくすると戻って来る。母上が話したい時には、良く話も聞いたが、他はずっと静かに寄り添うだけ。日向の魔法か、あるいは温もりのせいか、母上は安心して眠ったそうだ。
大変お利口でしたよ、と鶴喰は教えてくれた。

「……すみぇこ、さま、」
「よく寝ているから、起こさないでおこうな、」
「……ぅん、」
「母上の側がいいか?」
「…ぃまは、しぉお、」
「うん、俺も日向がほしい、」

鶴喰に母上を頼み、本格的に泣き出した日向をあやしながら寝室を辞した。

日向はもう、堪えていた感情が全部溢れるようで、部屋に帰る間も泣き通しだ。
就寝時間が迫っていたから早く風呂に入れて寝支度を整えてやりたいと思うのに、小さな体は子猿のようにしがみついて離れない。

結局、俺が風呂に連れていって、頭も体も全部洗ってやった。
湯船に浸かる間もえぐえぐ言って泣き続けるから、口づけもたくさん交わして溶かしてやる。泣いて、甘えて、溶けて、のぼせて、風呂を上がる頃には、ふにゃふにゃだ。
それでも俺を離す気はないようだったから、髪を乾かすのも、着替えも、歯磨きも全部やってやって、ベッドに拐った。

「俺がいなくて、寂しかった?」
「うん、」
「母上の病気も、不安だったろ、」
「ぅん、」
「なのに、側にいてやれなくて、ごめんな、」
「ごめん、は、ぃらないぃ、」

布団に入った後も日向が腹に抱きついてぐずるおかげで、寝衣はあっと言う間にびしょびしょだ。つい昨日も同じような状況に陥ったような気がするが、酷く懐かしい気がしておかしな気分になる。それだけ、日向を泣かせてるってことだな。

デートの予定を立てる気で、楽しみにしてたのにな。
買い物について教えたり、練習させたりして、日向に夏休みの楽しみを増やしてやるつもりだった。
それを壊して、ごめん。
我慢ばかりさせて、ごめん。

仕事だから仕方ないと日向は言ってくれるけど、そうさせたのは俺だ。

「ぎゅ、ってするぅ、」

どう償えばいいだろうかと逡巡し背中を撫でていると、腹のところから声がした。同時に、しがみつく手が強くなって、抱きしめられる。

「甘えん坊だなぁ。いいよ、いくらでも甘えな、」
「しぉの、せい、」
「うん、俺のせいな、」
「しぉうが、泣く、からぁ、」
「……俺は泣かないよ、」

おかしなことを言う日向だ。
泣いてるのは日向で、俺は涙一つ流れやしないだろう。
ほら、また大粒の涙が溢れるから、ふやけた頬が擦れるたびに赤く痛々しさを増していく。泣くのは、日向だよ。俺じゃない。

それだと言うのに、日向はぎゅうぎゅうと俺の腹を締め付けて、俺を泣かそうと必死になる。

「しぉうが、泣くは、ぎゅう、てする、」
「日向、足離して。そんなに締め付けたら、痛くなるだろ、」
「やぁだぁ、僕がやるの!しおうが、泣くは、僕が、ゃる!」

足まで絡めて、全身で俺を羽交締めだ。
日向の足の状態を思えば、余計な負荷を与えたくないから、胸の中がざわつく。

泣かないよ。
泣くわけないだろ。
泣く理由があったとしても、今は緊急事態だ。
俺は皇子で、母上の代理だから、泣いてる暇なんて微塵もない。
まして、母上が倒れたのは俺のせいだ。忙しい母上に、婚約で負担を増やし、我が儘を繰り返して甘えた結果がこれだ。
俺に泣く資格なんかない。

「日向、」
「ぎゅ、ってして、って、言って、」
「俺は大丈夫だよ。な、日向、」
「うそつきぃい、」

嘘なもんか。
そう言ってやりたかったのにな。
悲鳴のような日向の泣き声と、ぎゅうぎゅうと締め付ける腹の苦しさが、俺の中で頑なだった何かをどろりと崩していく。

頼むから、そんな風に泣くな。
俺は日向の泣き声に弱いんだ。そんな真っ直ぐな感情をぶつけられたら、俺の理性は簡単に砕けちゃうだろ。
腹も苦しいよ。せっかく奥底に隠していたものが、締め付けたら飛び出してしまう。

「しぉ、」

縋るように日向が搾り出した声が、トドメだった。
腹の奥に熱を感じたと思ったら、一気に競り上げて、涙となり嗚咽となり、感情となって溢れ出てくる。

「しぉと、ぼくの、おかぁさま、なのに、」

うん、俺と日向の母上だ。

「げんき、がなぃと、やぁだぁ、」

真っ白な顔で眠る母上が、辛くて怖くて不安で、俺も嫌だった。
起きて弱々しい声を聞くのも怖くて、声をかけなかったが、もしこのまま目覚めなかったらと思うと、俺はこの身を保つ自信がない。

「ぃて、ほしぃ。いなぃに、ならなぃ、で。こぁい、おねがぃ。いなく、ならなぃで、」

俺だって嫌だ。
怖くて悲しくて、本当は腹のうんと奥の方ではずっと願っていた。

母上を失いたくない。

俺は、いつまでもおんぶに抱っこで、母上の権威なしには、一人で立つこともままならない未熟な皇子だ。
失ってこの先、半色乃宮を背負う自信も、婚約の儀を進める自信も、俺にはない。

何より、俺のたった一人の母上だ。


「僕が、ぎゅう、ってする、」


そう言った日向に抱きしめられるまま、子どもみたいに泣いた。
日向も泣いていたから、泣き声がどっちのもので、涙がどっちのものかわからなくなるほど。
そのうち、抱きしめあった体の境界も、吐き出した感情の境目も分からなくなって、どろどろに溶けたような気がした。

日向の恐怖は、俺の恐怖だ。
俺の不安は、日向の不安。

母上を失う恐怖と、二人で取り残される不安に、泣いて、泣いて、泣いた。

もうぐちゃぐちゃだよ。
顔も、髪も、寝衣も、シーツも、心も。
だけど、それが酷く安心して、その夜は日向と抱き合ったまま泣きながら眠った。






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