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第弍部ーⅤ:二人で歩く

190.日向 すみれこさまの心臓

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うんと早く帰ってね、って言ったのに、しおうは帰ってこなかった。
離宮に帰って来たのは知ってる。気配がしたから。
でも部屋には帰らなくて、僕はずっと待ってた。

最初は、仕事だから、って思ったけど。
だんだん、約束なのに何で!ってぷんぷんする。
それでも来ないから、今度はそわそわ。
夜ご飯にもいなくて、うつぎと食べることになったら、もうお腹の中がぐらぐらして落ち着かなかった。

「何で、」
「殿下は、皇子ですからね。なさるべきことがたくさんあるんです、」
「僕と、約束、したのに?」
「いつもなら日向様を優先されるでしょうけど、今日は外せない用事が入られたようですよ。早く日向様の元へ戻れるように、殿下もご尽力されておりますから、待ってあげてくださいね、」

知ってる、しおうは皇子の仕事をやる。
しおうは仕事が嫌いだけど、嫌いでもやるのが仕事。仕方ない。
だから、しおうが仕事の間、僕は待つ約束。

うつぎはうんと優しく、ちゃんとお戻りになりますからね、って言った。
だから、ご飯を食べて元気になって、しおうを迎えようって。
僕が震えて食べられなかったら、抱っこして食べさせてもくれた。

ご飯の後はお風呂も入って待ったよ。
僕は途中で泣いてみんなを困らせたけど、うつぎやかんべが大丈夫っていいながらうんと優しく僕を抱っこして歩いたから、怖がりにはならないで、しおうを待つ。

そしたらね、はぎなが迎えに来た。
しおうが呼んでるって。
だから、しおうの仕事の部屋に行くかなって思ったんだけど。何でか、はぎなが連れて行ったのはすみれこさまの部屋だった。


「日向さんのせっかくの夏休みに、ごめんなさいね、」


ベッドの上ですみれこさまが、ごめんね、って言う。

「目が真っ赤ね。しおうさんが帰って来なくて、さびしかった?」
うん、
「ごめんなさいね。私が体調を崩したものだから、しおうさんにも、日向さんにも迷惑をかけてしまったの、」

はぎなが僕をベッドの横に座らせたら、すみれこさまはにこって笑った。

でも、ベッドで寝てるすみれこさまは初めて。
僕はびっくりして、声がでなかった。

髪の毛がいつもと違うね。
普段はくるくるに結ってまとまってるのに、今は肩のところで三つ編み。
いつもはピンクなのに、頬が白いのは何で?
鼻の所につけたへんな管も僕は知らない。
僕を見るのに、紫色の目が半分しか見えないのは、瞼が腫れてるから?

すみれこさまなのに、いつもと違って、すみれこさまじゃない。

「大丈夫よ、日向さん。すぐに良くなりますからね。日向さんはたくさん遊んで元気に過ごしてね、」

声はうんと優しくて、安心した。
だけど僕の頭をなでた手は、いつもみたいにふわふわじゃなくて、お腹の中がそわそわする。
重くて重くて、僕の頭はベッドに沈みそう。

でも、―――僕じゃなくて、すみれこさまが沈みそうなんだ、って僕はわかった。


ごめんな、ってしおうが帰って来たのはお見舞いの後。
僕は寝る支度をしてたけど、話があるって言うから、ソファに座ってしおうの話を聞く。

「母上はな、元々少し心臓が悪いんだ。侍医の話だと、疲れがたまると心臓も疲れてうまく動かなくなるらしい。ここしばらく、母上は忙しかっただろ。それに、俺が心配をかけたのもあって、悪くさせてしまった、」

仕事に行って帰ってきたら、すみれこさまの具合が悪くなってたんだって。
すぐにすみれこさまの部屋に行って、お医者様と話したり色々したから帰れなかったんだ、ごめんな、ってしおうは謝る。

「しばらく、母上の代理を務めることになるから、デートは先送りになりそうだ。でも、ちゃんとやるから、待っててくれ、」

眉を下げて、紫色の目を細くして、うんと優しく言いながら、僕のお腹をなでた。
しおうが帰って来たから、僕は安心になったよ。

でも、やっぱりふわふわじゃないね。
しおうの手が震えて、時々力がこもって、なでるのが下手になる。大丈夫だよ、って僕に何度も言うけど、急に黙ったと思ったら、僕のお腹をぎゅうってして痛くもなった。

泣くかな。
そう思ってしおうを見たけど、紫色の目は優しいばかりで涙はない。
でも、何となく、しおうが泣く気がしたから、ぎゅうってした。







朝ご飯を食べてしおうが仕事に出かけた後、夏休みの間に見つけた生き物をまとめようって、あじろが部屋に来た。
僕はまだ足が痛くて安静中だから、今日も部屋で大人しくしてる約束。安静中でも、生き物をまとめるだけなら大丈夫だよ、ってみずちが言うから、ソファに座って二人で収集帳を描く。

つかまえた生き物のスケッチを見ながら、図鑑で名前を調べて書くんだって。
その側に、いつ見つけたとか、どこで見つけたとか、どんな特徴があるとか書いて、後で見た時に分かるようにする。いっぱい集まったら、見つけた場所や特徴が似てるやつを分類して、きょうつうてんや、違いを探すんだよって、あじろが教えた。

だから、鉛筆をカリカリしてたんだけど。

「虫も、心臓がある?」

ばったを見てるうちに気になって、あじろに聞いてみた。

「えっと、同じ役割のものを心臓と言うのであれば、あります、」
「やくわり、」
「心臓の一番の役割は、全身に血液を巡らせることなんですけど、虫にも同じ役割をする器官はありますよ。ただ、形や位置はずいぶん違って……えーっと、この絵だと背中に真っすぐな筋がみえるでしょう?これが血液を送る管で、後ろの筋肉が収縮することでポンプの役割をします、」

僕が描いたばったの背中の線を指して、はいみゃくかん、って言うんだよってあじろが教える。
ほ乳類の心臓みたいに丸くなくて、管の形をしてるんだって。それがドクドクするから、全身に血液が巡って酸素を運ぶ。
ばったが飛んだり跳ねたりするするのも、ほ乳類が走ったりするのも、酸素が十分巡ることが大事なんだって。

「僕は、ほ乳類?」
「はい、人間はほ乳類です、」
「僕の心臓は胸のとこで、コトコトするやつ、」
「そうですね、」
「心臓が悪いは、血が巡らない、から、元気がない?」
「……董子様のことが、心配ですか?」

あじろが泣きそうな顔になって聞くから、僕は首を傾げた。
ばったを見てたら、虫にも心臓があるかな?って思ったから聞いたけど、お腹の中にそわそわがあるから、そうかも知れない。

「僕は、すみれこさまの心臓が、知りたい?」
「董子様のことを聞いて、気がかりになったんだと思いますけど…。ご自分では分かりませんか、」
「わかんなかった、けど、そうみたい、」

すみれこさまの名前を聞いたら、そわそわの奥から「知りたい」がたくさん出て来た。

だから、あじろに心臓を教えてもらう。

人間の心臓は胸のところ。真ん中よりちょっと左にあって、コトコト言う。
心臓の周りには肺があって、心臓はコトコトしながら、酸素が少なくなった血液を肺に送る。そしたら肺が酸素をくれるから、酸素でいっぱいになった血液を全身に送るんだよって、あじろは教えた。

だから、心臓が元気じゃなくなると、酸素が足りなくて苦しいんだって。
体のあちこちに水が溜まるから、目が腫れるし、手も重くなる。酸素がいっぱいあるとピンク色になるけど、足りないと白くなったり、紫色になったりする。

「すみれこさまは、ピンクじゃ、なかった、」
「今はお具合が悪いですから……、」
「手も、重かった、よ、」
「はい。でも、お医者様はすぐに良くなると仰っていたでしょう?大丈夫ですよ、」
「ふーふーしたのは、酸素が、足りない?ふーふーしないと、苦しい?」
「……ひー様、大丈夫ですから、」

あじろがぎゅって僕の手を握ったから、震えてるのが分かった。

「帝国の医療や看護は、僕の国からも学びに来るくらい進んでいるんですよ。その中の一番のお医者様と看護人が、董子様にはついています。それに、董子さまはお強いでしょう?病は気からと言うくらいですから、お強い董子さまは、病気には負けません。だから、大丈夫です、」

青紫色の目で僕を見て、うんと強い王子の声であじろが言う。
だから、大丈夫かな、って思った。でも、僕は、あじろが大丈夫って言うみたいに、すみれこさまの病気を知らない。いりょうも、かんごも知らない。

それに、しおうが泣きそうだった。

「蔵で、ねずみは、コトコトが、小さくなったら、動かなくなった、」
「ひー様、」
「ちゅうちゅう言って、ちょろちょろしたのに、コトコトが聞こえなくなったら、冷たくなって、固くなった、」

僕は知ってる。
それは、死ぬ、って言う。

生き物は死んだら、戻らない。
もう二度と、ちゅうちゅうって言わない。ちょろちょろもしない。
冷たくなって、固くなって、腐るだけ。

「すみれこさまの、コトコトは?」
「ひー様、」
「すみれこさまも、コトコトが、小さくなって、いなくなる?」
「ひー様、大丈夫ですから……!」

蔵が見えた気がしたけど、あじろが僕の手をうんと強く握ったから、怖がりは来なかった。
でも、体はふるふる震えて、お腹の中がうんとそわそわする。
こういう時、楽しいことを考えたらいいって僕は分かる。
だから、あじろの手を握って、楽しいことを思い出そうとした。


でも、僕が思い出したのは、すみれこさまの手。


僕が人質に来た日に、「ようおいで下さいました、」って僕の手をつないだ。
僕はキラキラ光るつま先しか見てなかったけど、すみれこさまが手をつないだから、ちょっとそわそわが小さくなったよ。

ふわふわで温かい、すみれこさまの手。

その手が僕の頭をなでたら、僕はいつも安心して眠る。
隠れ家じゃなくても、しおうがいなくても、すみれこさまの膝で寝る時は、いつも安心だったって、今は分かる。

手の後は声を思い出した。
温かくてうんと優しいのに、強くてきれいな声。
ひなたさん、ってすみれこさまが呼んだら、僕はいつもふわふわした。
隠れ家から出られなかった時も、もっと呼んでほしくて、もっと聞きたくて、うんと耳を澄ませて聞いた。

綺麗なつま先は、声と同じくらいやさしい音がするよ。
扉の向こうですみれこさまの足音がすると、僕はいつも嬉しくて早く来ないかな、って期待した。

それでね、紫色の目は、うんと優しく僕を見るの。
みんなのことも優しく見るけど、僕は特別。
だって、しおうを見る時と同じ目で僕を見た。

僕の、初めてのお母様。
ひなたさんは、私の息子ね、ってすみれこさまは言った。

でも、コトコトが小さくなったら?

コトコトが聞こえなくなって、冷たくなったら、僕はもうお母様がいない。
すみれこさまの息子になれない。


「すみれこさまが、いない、は、嫌だ、」


大丈夫ですから、ってあじろが何回も言った。
みずちも来て、僕の体をぎゅうってするけど、僕は大丈夫が分からない。
分からないまま、わんわん泣いた。


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