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第弐部-Ⅳ:尼嶺

173.亜白 友人として

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ここ最近のひー様の姿は、とても痛ましかった。

2人で生き物を探しているとき、突然体が震え出したと思ったら、急に会話がちぐはぐになる。
僕に見えない何かが見えるようで、その何かを指さしてとんちんかんなことを言ったり、ひどく怯えたりすることが何度もあった。

紫鷹殿下が仰るには、現実と記憶が混濁していると言うことらしい。
ひー様が尼嶺(にれ)で暮らしていた時のことが思い出されて、痛みやにおいや音まで鮮明に追体験しているようだって。

だから、そういう時、ひー様には僕が見えない。
不用意に近づいたら、悲痛な悲鳴を上げて、嫌だ、とか、壊さないで、と叫ばれてどうしようもなかった。
でも、そのことより何より、混乱したひー様が口走った出来事や、悲鳴を上げて逃げ惑うような出来事が、ひー様には起こったんだと言うことが、あまりに辛かった。

ひー様の尼嶺での待遇が悪かったのは聞いている。
でも、こんなにひどいなんて、知らない。
何も、知らなかった。

だから、知るべきだと思ったんだ。
友人としてひー様に寄り添えるように。
半色乃宮(はしたいろのみや)に迎えてもらった臣下としてひー様をお守りできるように、知りたいと僕は思った。

―――思ったんだけど。





「いや、お前はそのままでいいよ、」

悩んで、紫鷹殿下に相談したら、返答が予想外で僕は面食らう。
離宮の執務室で仕事をされていた殿下は、突然の訪室にも拘わらず僕を招き入れてくれて、優しい顔で僕の話を聞いてくれた。だから、協力してくれるものだと思ったんだけど。

「で、でも、」
「日向が話したなら、聞いてやってほしいよ。けど、無理に知る必要はない。日向にしんどい記憶があることだけ分かっててくれれば、それでいいと俺は思う。」
「だけど、僕はひー様の友人で、」
「うん、だからさ、」

紫色の目が細くなって、うんと優しくなった。
視線が僕じゃなくて、扉の向こうを見ているから、多分二階の部屋で眠っているひー様を思っているんだろうと思う。
さっき、僕に向ける視線が優しいと思ったけど、段違いだ。
どこまでも慈しみ深くて優しいのに、熱も含む甘い視線は、ひー様相手じゃないと向けられない。

「お前には友人でいてほしいんだよ。日向の過去は関係なく、虫だとか獣だとか、そういう好みでつながったんだろ?生きることとか食べることを気にしないで、好きってだけでつながれるのは、今までの日向にはなかったものだ、」

俺達は保護者だけど、お前には友人でいてほしい、と殿下は言う。

「お前みたいな存在がさ、日向の新しい人生の象徴なんだと思うよ。それくらい特別だと、俺は思ってる、」

特別。
ひー様の特別。

優しい瞳のまま紫鷹殿下に言われたその言葉が、僕の中で何度も繰り返し響く。
僕は殿下の執務室を辞したけど、その後どんな会話を殿下と交わしたのか、部屋を出てどこをどう歩いたのか、あんまり考えすぎて覚えていなかった。

自室に戻るつもりだったんだけどなあ、いつの間にか学習室だ。

薄暗い部屋の中に立ちすくんで、ぼんやりしていたら、不意に部屋が明るくなって驚く。
見ると、代都(しろと)が煌玉(こうぎょく)を灯していた。
灯が、部屋の中を照らす。

ひー様が僕の為に用意してくれた部屋だ。
僕が実験や観察に使えるように大きな机や水場、作業場まで作ってくれた。そういう部屋を用意してくれると事前に聞いていたから、顕微鏡や採集道具を羅郷(らごう)から持ってきたけど、馬車いっぱいに積んだ箱を広げても部屋にはまだ余裕がある。

空いた場所には、ひー様と二人でこれからいろんなものを積み上げていってほしい、と董子殿下が仰っていた。
「俺は苦手だから、生き物に関してはお前に任せた、」と言ったのは殿下だ。
ひー様は、二人の秘密基地、って嬉しそうに僕を案内してくれたっけ。

「……殿下は、特別だって、僕に言ったね、」
「仰ってましたね、」
「僕は殿下たちみたいに、ひー様のこと分からなくてもいい?」
「私が思うに、殿下以上に分かって差し上げられることが、ご友人にはあると思いますが、」

友人―――、そんなの一人もいなかったから、正直どうしたらいいのか分からない。
友人なら全部分かり合うものだと思ったけど、違うのかな。殿下は知らなくていい、って言うし、代都はもっと分かることがあるって言う。

殿下じゃない、僕だから分かること。
家族じゃなくて、友人だからできること。

そんなことが、本当にあるんだろうか、って思った。まして、僕にそんなことができる気は正直しない。
だけど、あの殿下が、僕を特別だ、って言ったんだ。そのことは信じられる気がした。

「……ひー様は、海を見たことがないんだって、」
「ええ、」
「絵本を借りてきて海の中を一生懸命想像してたけど、とんちんかんで、僕はびっくりしちゃった、」
「はじめは魚の切り身が泳いでいると思っていらしたそうですね、」
「うん、泳ぐって言うのも僕が思うのとは違った。蛇みたいに水底を這うと思ってたんだって、」

だから、湖で小さな魚がすいすい泳いでるのを見て、ひー様は驚いたんだって。鳥が空を飛ぶみたいだったって言ったのは、なるほどなあ、って思ったけど。
今は切り身になる前の本来の魚の姿を理解してはいる。でも、イカやタコがどんな風に泳ぐのかは想像ができないし、海の中にも植物が生きているんだってことは、今も納得できないみたいだった。

「殿下は海を見せてあげることはできても、海の中を見せるのはきっと難しいよね、」
「技術的には可能でしょうけど、殿下が苦手ですからねえ、」
「でも僕はできる、」

そうですね、と代都は笑った。
よくできました、って子どもに言うみたいに笑うからちょっと恥ずかしくなったけど、代都の前で取り繕っても仕方ないから気にしないことにする。

僕にできること。
僕だからできること。

「ひー様と一緒に水槽を作ったらどうかな、」

僕は羅郷の宮殿で、いくつも水槽を作った。
友だちなんかいなかったから、母上と2人で水槽づくりに没頭する時間はいくらでもあったし、母上から任された水槽だっていくつもある。雪国の羅郷で南国の海を再現するのは大変だったけど、それだって不可能じゃないくらいの経験が僕にはある。僕の側にいた代都もそうだ。

「ここに海水魚と淡水魚の水槽を作るんだ。タコ専用の水槽があってもいいかもしれない。そしたら、ひー様の勉強の助けになると思うんだけど、」
「そうですね、」
「僕一人でもできるけど、誘ってみてもいいと思う?お忙しいのに、負担じゃないかな、」
「亜白様は、日向様のお誘いを受けた時はどうでしたか、」
「嬉しかった、」

そうだ、ひー様に一緒に遊ぼうと誘われた時、僕は心底嬉しくて跳びあがった。
裏庭で一緒に虫を探した時は夢中だったけど、部屋に戻ってからは、夢じゃないかって代都に何度も確認したくらいだ。

「ひー様も嬉しい?」
「亜白様がカブトムシを連れて行っただけで、お食事を召し上がられたんでしょう?」
「うん、」
「水槽を眺めながら一緒にお食事をされたら、きっとそれ以上に召し上がられるんじゃないでしょうか、」
「うん、」

痩せて、一回り小さくなってしまったひー様。
久しぶりにお会いしたら羅郷に帰る前より細くなってしまっていて、ただでさえ心配だったのに、最近の混乱でさらに小さくなってしまった。
僕は何とかひー様に太ってほしい。

水槽を見たら、もっと食べてくれるかな。
ひー様なら、きっと食べてくれる。

そして、それは僕にしかできないことだ。

「……ひー様が起きたら話してみる、」
「では、お目覚めになったら知らせていただけるよう伝えておきますね、」
「うん。魚は何が良いかな、ひー様のお好きな魚が良いと思うけど、」
「そういうことも、お二人で相談されたらよろしいのでは、」
「いいの?」
「ご友人ですから、」

友人。

今まで一人で考えて決めて来たのに。
相談する相手は母上しかいなかったけど、それだって教えを乞うって感じで、決断するのは僕一人だった。
でも、そうか。
僕はもうひー様がいるから、一緒に決めていけばいいんだ。

ひー様も僕も、初めての友人同士だから、そんなことも分からない。
でも、僕は今その発見が嬉しかった。
同じように、ひー様も嬉しいかもしれない。

殿下の言っていたことは、そういうことかな、って思った。


「僕がいたら、ひー様は元気になる?」
「ええ、きっと、」
「うん、」


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