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第弐部-Ⅳ:尼嶺

171.日向 瞼の奥の暗がりとしおうの雨

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最近、僕は怖がりがひどい。
今日も仕事をしたのに、三回も怖くなって中断した。

はぎなもなかつのも、いいよ、って言って、僕が怖くなくなるを待つ。
あずまが僕にうさぎの人形を抱っこさせて、その上から僕をぎゅうってしたら、怖いはいつの間にか消えた。だけど、三回目はなかなかなくならなくて、そのまま仕事は終わりになった。

悔しい。
仕事の部屋は魔法で守られてて、何も怖いことはないって僕は分かるのに、何で怖いになる。


魔法塔を出た後は、しおうの講義が終わるまで図書館に行った。
仕事はダメにしたから、勉強はちゃんとする。
そう思って本を探してたら、手が痛くなった。

「いたい、」
「あ、切れちゃったじゃないですか。貸してください、」

本をパラパラめくってたら、親指と人差し指の間がすっぱり切れてた。
すぐにあずまが来て、薄紙で切れたとこを押さえる。

「これくらいならすぐ止まりますから、じっとしててくださいね、」
「うん、」

また失敗。
本が汚れたらどうしよう。

不安になって見たけど、本は閉じてて、さっき見たページは見えなくなってた。
海の生き物がいっぱい載った図鑑。
虫が終わって、軟体動物を勉強し始めたけど、僕は海を見たことがないから、ちんぷんかんぷん。いかもたこも、厨房で見たけど、あれが生きてるがよくわからない。
だから、海の生き物が生きてる様子をいっぱい描いた本を探してた。

いいのがあったと思ったのにね。
図書館の本はみんなの本だから汚さない約束なのに、僕はまた失敗。

あずまが押さえたところがじんじんして、手も肩も背中もお腹も足も痛くなる気がした。


多分、僕はまた怖くなる。
ほら、お腹がうんとそわそわし出して、汗が出て来た。


しおう、来ないかな。

図書館に迎えに来るって約束したけど、しおうはいない。
さるが、ぴょんぴょん跳んで、あちこちで学生が本を探したり、勉強したりするけど、しおうは見当たらない。
扉が開いたから、来たかな、って期待したけど違った。

次は来るかな。
しおうが来るかな。
また扉が開いた。違った。
次は、

おぼろが、来たらどうしよう。

「日向様、」
「かくれ、ないと、」
「日向様、こっち見てください。東です。大丈夫ですから、」

あずまが顎を引っ張って僕の目をあずまに向ける。
そうだった。図書館だ。
図書館におぼろはいない。

「もちづきも、いない?」
「いません、大丈夫です。ほら、抱っこしますから来てください、」

あずまがぎゅってしたら温かくなって安心する。
でもまた扉が開いて、僕はどきどきした。

「さくや、」
「違います。そんなのはいません、」

あずまが言って背中をなでるけど、わからない。
図書館は本棚がいっぱい。大きな木があって、さるもいっぱい、人もいっぱい。かげろうもいるかもしれない。

机で勉強してた学生が、僕を見てた。
変な顔。困った顔に見えるし哀しい顔にも見える。
僕が蔵から出てご飯を探した時、ばったり会った人はそんな顔をしてた。
逃げないといけない。あの人が、おぼろに言うかも知れない。さくやに、僕が蔵を抜け出したって言うかもしれない。もちづきに怒られるから戻れって、僕をつかまえにくるかもしれない。かげろうのところに僕を連れてくかもしれない。

だけど、隠れ家がない。
蔵もない。
僕の逃げ場所がない。

「日向様、魔法塔に戻ります、」

あずまが言った。
そうだ、あずまがいるから僕は大丈夫だった。あずまは強いし、うんと速く走れるから、おぼろがきても僕をつれて逃げる。
でもあの木のうろが良いと思う。
隠れよう。さくやが来るよ。なのに、どこに行くの。

「東、」
「日向様が全然ダメです。部屋に戻します、」
「わかった、」

あずまと草の声がした気がする。
変だ。何で蔵にあずまと草がいる。
ちがう、変なのは僕。ここは蔵じゃない。
蔵じゃないのに、何で、僕はここにいる。

頭の中がめちゃくちゃになって、訳が分からなかった。
景色がぐんぐん変わっていくのを眺めてたら、蔵と学院の廊下がぐちゃぐちゃに混ざって、気持ち悪い。
あの角から、かげろうが出て来る気がする。
ちがうって思うのに、扉が開いた時には、本当にかげろうが出て来たのが見えた。ちがう。かげろうじゃない。なのに、かげろうがいる。おぼろもさくやももちづきもいる。

手があちこちから伸びて来た。
天上から、地面から、壁から、窓から、僕のお腹から。
嫌だ、って言おうとした瞬間、その手に引っ張られて真っ逆さまに落ちた。








ザーザー雨が降っている。
ゴロゴロ雷も鳴って、時々蔵の小さな窓がピカって光った。
虫も鳥も獣も鳴かなくて、雨と雷だけ。

他は何もなかった。
なくていい。

そう思って雨の音に耳を澄ましていたら、とくとくちがう音がする。何。

びっくりして逃げようとしたけど、何だか聞いていたくてもっと耳を澄ました。
何でかな。
とくとくを聞いたら安心する。
雨と雷だけでいいのに、とくとくがほしい。

そうだ、心臓の音だ。
僕を心配したり、大好きになったりすると、いつもよりちょっと早くなるしおうの心臓。

「しおう、」
「ん、おはよう。良かった、分かるな、」

目を開いたら紫色の目が僕を見て、にこって笑う。

「離宮だよ。夕飯を取ってあるから食べてほしいんだけど、どうだろ、」

離宮。夕飯。食べて。どうだろ。
声はするのに頭がぼんやりしてて、よく分からない。
何だっけ、ってぼーっとしてたら、まだ無理かあ、ってしおうはまた笑った。

ザーザー雨の音がする。
ゴロゴロ、って雷の音も。
ピカって、遠くで光ったけど、小さな窓じゃなくて、離宮の大きな窓だった。

「あめ、」
「うん、雨だなあ。学院から戻ったらちょうど降り出した。日向は雨が好きだったな、」
「かみなり、も、」
「普通怖がるんだけどな。俺は小さい頃は雷が鳴るたび、布団に隠れたよ、」
「かみなり、きたら、誰も、来ない、」

僕の安心の合図。
雷が鳴ったらゆっくり眠れる。
いいね。

そう思ったのに、しおうは変な顔になって僕の髪をなでた後、ぎゅうって抱っこした。

そしたら、しおうの肩ごしにうつぎとしぎが見える。
それで、僕はやっと、ここが離宮だってわかった。離宮だ。蔵じゃない。

「しごと、」
「仕事はちゃんとできただろ。日向が頑張ったから、魔法の解明は済んで対処法の検討に入ったって、萩花(はぎな)から聞いたよ、」
「そう、だった、」

仕事の後、しおうが来るまであずまと図書館に本を探しに行ったんだった。海の本。
でもその後のことを覚えてないってことは、多分僕はまた怖くなって混乱した。しおうがやさしいのに変な顔をしたのも、うつぎとしぎが心配そうにこっちを見るのも、きっとそのせい。

「だいじょぶ、なった、」
「……うん。でも俺が大丈夫じゃないから、このままでいて、」

しおうの膝から降りようとしたら、ぎゅって強く抱きしめられてできなかった。
僕がまた怖がったから、しおうが心配になってる。ごめんね。
だから、僕もぎゅうってしおうの背中を抱いて、しばらくじっとした。

ザーザー雨が降ってる。
僕は雨が好き。

雨が降って雷が鳴ったら誰も来ないって分かるから、蔵の中でびくびくしないでいい。
そういう時に、勉強とかご飯を食べる練習とかをしたら、こんなに何もできないままじゃなかったかもって、今なら思う。けど大抵、蔵の一番明るいところに転がって、雨の音を聞きながら眠った。

隠れないで、足を伸ばして、ぐっすり眠れる時間。
僕の安心の印。

雨の音を聞きながら、そうだった、って思い出したら、今度は、そうか、って思った。
ザーザーするから安心する。

「しおうが、ザーザーするは、何?」

「うん?」
「いっぱい降るから、安心する、けど、おぼれそう、」
「……何の話だ、」

ぎゅうって僕を抱っこしてたのが離れてく。
途端に寂しくなって、ぎゅうが欲しくなったけど、しおうの好きは今もザーザー降ってたし、僕を見る紫色が綺麗だったから、すぐになくなった。

「雨の話じゃないのか、俺の話?」
「しおう、の好き、がザーザー降ってる、」

いつからか忘れたけど、最近しおうの好きは大雨みたいに降るようになったよ。
前は包むみたいな好きだったのに、今は窓の外みたいな大雨。

僕は最近、怖がりが増えたでしょ。
かん違いして怖くなって、変なことをいっぱい言う。
でも、そういう時、しおうの大雨に当たると、びっくりして怖いがどっかに行く。時々大雨と怖いとがぐちゃぐちゃになって混乱するときもあるけど、大抵は安心してしおうの雨に濡れていたくなるからいい。

だけど、ずーっと大雨だと、おぼれそうになってどきどきした。
怖いどきどきじゃないから、ときめくなのかもしれないけど。

そう言ったら、しおうは変な顔をした後、真っ赤になって、また変な顔になった。

「……そりゃ、お前に惚れてるからな、」
「ほれてる、」
「惚れてる相手が自分のことも好きだと分かったら、嬉しいに決まってるだろ。あと、泣かせておいて悪いけど、俺はやっぱり日向の加護に守られたのが嬉しかった、」
「かご、」
「指輪は壊れちゃったけどな。それくらい強く日向が守ってくれたってことだ。愛されてるなあ、って思ったらますます日向が大事になった、」
「あいされ、」
「そうだよ。…お前、相当俺のこと好きだろ、」
「うん、」

そういうとこだよ、ってしおうはまた変な顔になる。
その顔を、かわいいなあ、って見てたらぼんやりしてたのがだんだんはっきりしてきて、目が覚めた。
だから、しおうの顔がころころ変わるのを見ながら、ご飯を食べる。

ご飯の間も、お風呂の間も、寝る支度をする間も、ザーザーって雨が降ってた。
空の雨と、しおうの雨。しおうの雨は愛って言う。

僕はね、しおうの雨が分かるから、何にも怖くないって、本当は分かってる。
なのに、僕は何度も何度もかん違いして、勝手に怖くなって、みんなを心配させる。
せめて、怖くないにするは頑張ろうと思ったけど、今日もダメだった。昨日も一昨日も、その前も僕はダメ。

「しおうは、いいね、」

お布団に入って、しおうのお腹にぎゅうってして言ったら、しおうはまた顔が変わった。

「何、」
「僕は、ダメだけど、しおうは、安心、にする、」
「……………雨の話か?」
「うん、」

多分、僕は今日も勝手に夢を見て怖いになる。
明日も勉強中や仕事中にかん違いする。
亜白が心配するから、亜白と遊んでるときくらい怖いになりたくないけど、いくら我慢しても僕は怖がりになるから分からない。

仕事をしても、僕は立派にならないかもしれない。
いつまでも怖がりで、ダメなまま。

しおうの雨がほしくて、甘えるだけ。

「………日向は、それで安心するんだろ、」
「する、」
「ならいいだろ、溺れとけ、」
「うん、」

哀しくて、悔しくて、お腹の中にそわそわがあったけど、考えるのがもう疲れた。
だから、ザーザー雨の音を聞いて目を瞑る。

瞼の奥で、蔵が見えた気がしたけど、しおうの雨が消したからそのまま眠った。
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