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第弐部-Ⅳ:尼嶺
169.紫鷹 複雑な思い
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さわさわと顔を撫でられて身じろいだ。
くすぐったくて、むず痒い。
だが心地よくて、ぬくぬくとまどろんでいたら、声がした。
「……しぉ、」
ああ、日向だ。
また何か不安になったか。
そう思って重たい瞼を持ち上げると、すぐ目の前でゆらゆら揺れる水色が俺を覗いていた。
くすぐったいのは、寝ぐせがついた日向の髪だ。
少し伸びたな。暑いしそろそろ切り時かも知れない。でも、こんな風に俺を見降ろした時に触れる髪が、俺だけの特別なものに思えて好きだった。
そんなことを考えてぼんやり髪を撫でたら、揺れていた瞳が近づいてきて、ちゅうと唇を吸われる。
短い口づけを繰り返さると、寝ぼけた頭は、幸福感に満たされていった。
毎朝これならいいのに。
こうやって日向が起こしてくれるなら、弥間戸(やまと)や史宜(しぎ)の手を煩わせずに済む。
きっと一日中幸福で、学業も皇子業も見事にこなして充実した毎日が送れそうだ。
幸せな朝だ。
だが、目が覚めて頭がさえてくるほどに、罪悪感が湧く。
違うだろ、平常なら日向はこんな風に俺を起こしたりしない。
俺が朝に弱いのを知っているから、一人で起きて勉強して、俺が起きるのを待っているはずだった。
「……また不安になった?」
寝ぼけた頭を必死に起こして、目の前の水色を覗く。
「ん、」と短く答えた日向が、小さな体を俺の腹に乗せると布団越しにも、体が震えているのが分かった。
ぷるぷると小刻みな震えだから、ちゃんと俺との約束を守ってひどくなる前に甘えに来たんだろう。瞳は揺れているが涙は堪えきれているようで、背中を撫でても泣き出したりはしない。
「ちゃんと起こせて偉かったな、」
「ごめん、ね、」
「いいよ、そういう約束だろ。守った日向は偉い、」
笑って見せると、また短く頷いた後、口づけが降って来る。
ちゅ、ちゅ、と吸われると、気持ちが良くてすぐに甘い感覚に酔いしれそうになった。
だが、さすがに毎朝繰り返してきたことだ。溺れたりしない。
指輪の混乱から数日、毎日こうして日向に起こされている。
俺がそうしろと強請ったからだが、日向自身、そうせずにいられないのは、やはり自分でもどうにもならない恐怖があるからだろう。
朝に限らず、学院で学んでいても、仕事をしていても、亜白と裏庭で遊んでいても、ぷるぷると震えている時間が圧倒的に増えた。
震える小さな体を抱くたびに、日向の中で壊れてしまったものを実感して、悔やまずにはいらない。
「……今日は、多足類、やった、」
しばらく啄むような口づけを受け入れていると、落ち着いてきたのか、日向はぽつぽつとしゃべり出す。
「たそく?」
「むかでと、やすでと、えだひげむしと、こむかで、」
「ああ、足が多いやつな、」
うん、と頷いた日向が話し出したのはムカデの話だ。
ムカデには胴がたくさんあって、一脚ずつ足がついているんだとか、足のついた胴は必ず奇数なんだとか、そんなことをとつとつと話す。
正直、朝からムカデはきつい。
日向の口づけも甘える仕草も心地いいのに、耳から入って来る情報だけで鳥肌が立った。
でもまあ、聞くよ。
甘えろ、と言ったのは俺だし。
こんなに震えても隠れ家に籠らず俺のところに来てくれるなら、虫がおまけについて来ようと構いやしない。
「昨日はダンゴムシだったな。ムカデとどっちがいい、」
「だんごむし、」
「ははっ、好きだなあ、」
泥だらけになって、小さな手の平に丸まった虫を転がす日向を思い出して思わず笑った。
日向はダンゴムシが好きだ。
初めて亜白と裏庭で見つけた時に、触ると丸くなることに驚いたようで、以来、見つけるたびに俺の所へ持って来る。初めは引いたけどな、あんまり頻繁に来るから俺も慣れて来たよ。
むしろ無邪気に笑うのが可愛くて、あの顔が見られるなら許してやろうと思えるくらいには寛大になった。
「むかでは、蔵にいた、」
俺の胸に耳を当てるように頭を寝かせた日向がつぶやくのを聞いて、ああ、と納得する。
「むかでが、かんだら、いたかった。赤くなって、ぼんやりしたも、あるから、むがでは、いや、」
「そっか、」
「でも、わかるに、なりたいから、観察する、」
「無理はするなよ、」
「ん、」
図鑑のムカデでを眺めているうちに、嫌なことを思い出したのかもしれない。
少し前ならそれでも好奇心の方が勝って図鑑にかじりついたけど、今は一度恐怖を感じたらもう耐える力がないな。
だから、こうして安心感を取り戻そうとする。
「……だいじょぶ、なった、」
「もう起きるの?」
「植物もやる。藻類が終わった、から、今日から、コケ。りくがね、シダが好きって言った。早くシダが、やりたい、から、頑張る、」
「へえ、」
稲苗(さなえ)じゃないんだな、と聞いたら、稲苗は領地に生えるような広葉樹が好きなんだと教えてくれた。日向の予定では、広葉樹はまだまだ先だから、時間が足りなくて困っているらしい。
口では、頑張る、とか、やらないと、とか言うが、小さな体は俺の腹の上から動かなかった。
気は焦る一方、体は正直で離れがたいのだろうと察する。まだ小刻みに震えているから、聞くまでもない。
安心が失われるは一瞬だが、取り戻すには時間がかかる。
そうと分かっているから、大丈夫、と繰り返した日向の腰を引き寄せて抱き留めた。
「このままだと二度寝しそうだから、日向が起こして、」
「僕?」
「眠り姫の話、読んだろ、」
「ちゅうしたら、起きる、」
「そ、頂戴、」
いいよ、と頷いた日向の顔が近づいて唇が触れる。
その唇が温かくて気持ちが良いのに、震えていてやっぱり切なかった。
「日向の愛が重すぎて、ちょっと辛い、」
「……はあ?」
稲苗たちに囲まれて苔を採取している日向を眺めていると、たまらずため息が漏れる。
隣でそれを聞いた友の視線はこの暑さにもかかわらず氷のように冷たかったが、俺はあまり気にする余裕がない。
「日向が俺に惚れてるのは分かってたけどな。指輪一つであんなになるほど愛されてるとは思わなくて、ちょっと戸惑ってる、」
「……草がいるんで、しばらく護衛を変わってもらいます、」
「いや、聞けよ。相談してんだよ、」
「知りませんよ。色惚けた話なら他所でどうぞ。大体、今は演習中だろうが、」
「他にいないだろ。あと、こんなタイミングじゃないと日向が離れられないんだから仕方ないだろ、」
侍女や護衛の助けもあって日向は何とか仕事もしているから、四六時中俺に甘えに来るわけじゃない。
だが、今日みたいに一緒に講義を受ける日は、ほとんど一日中俺にしがみついていた。
演習場に向かう間もそうだ。
腕の中でずっとぷるぷる震えていて、演習どころじゃないだろと心配したほどだった。
今は初めて見る沢に興味を惹かれて元気そうに見えるが、いつもならつかず離れず守っている東(あずま)の手を離さない辺り、温もりが必要なのだろう。
何が自分を安心させるか分かっているから、離宮に来たばかりの頃の日向とは違う。
違うけれど、体に力が入っているせいか一回り小さく見えて、俺はどうしても初めて隠れ家の扉を開いた時に見た日向の姿を思い出さずにいられなかった。
「あいつ、もう俺なしじゃ生きられないよなあ、」
「……色々と刷り込んだのは殿下でしょう。馬鹿言ってないで、お前も課題をこなせ、」
「だよなあ。責任は取るつもりだが、万が一、俺がどうにかなったら多分日向も持たない。そう思ったら急に恐ろしくもなった、」
「お前がどうにかなる訳ないだろ、これだけ守られてんのに、」
「だが、尼嶺(にれ)の件もあるだろ。今回は運が良かったが、魔法の影響を受ける距離までああも簡単に詰め寄られるんじゃ、絶対はない、」
指輪の混乱のせいで、俺の中で一度はうやむやになりかけていたが、日向の状態を見て、改めて考えずにはいられなかった。
草の報告によれば、やはりあの日学院にいたのは陽炎(かげろう)だ。
あの後、朱華(はねず)と関係の深い貴族の館に身を寄せたと言うから、手を引いたのは朱華で間違いないだろう。意図は測りかねているが、尼嶺も朱華も俺たちに対して友好的とは言い難い。
互いに手の届く範囲に、俺たちはいる訳だ。
「……殿下には指一本触れさせませんよ、」
「ん。そこはまあ、信用してはいる。だけど、万が一ってことはあるだろ。俺は良いけど、日向がなあ、」
「ひなのためにも、必ずお守りします、」
隣から聞こえた意思の強い声に、頷いておいた。
さっきまで漂っていた呆れるような気配は急に消えて、いつの間にか完全に侍従の気配だ。
尼嶺の魔法に触れて影響を強く受けたことを、藤夜(とうや)が気に病んでいることは知っている。
萩花(はぎな)の話では、尼嶺の魔法は、魔力が強い者ほど影響が少ないと言う。魂と世界の接点がもともと強く結びついているから、摩擦を増やされたところで余力があるのだとか。
藤夜は俺よりも圧倒的に魔力が強い。だから影響は小さいはずだったが、実際は違った。
俺達がまだ子どもで未熟だから、魂も未熟で仕方がないんだと萩花には慰められたが、多分、俺の侍従は納得してはいない。
でも、だからこそ、同じ轍は踏まないと思っている。
藤夜はそういう奴だ。
そういうわけで、こいつらの守りについてはあまり心配していないんだよ。
それより俺だ。
「お前と違って、俺はやらかすからなあ、」
「……は?」
また侍従が友に戻った。
それでいいから聞け。本気で悩んでるんだ。
「正直、日向が俺に惚れてると分かって以来、俺は調子に乗ってるよ。浮かれてるのは自分でも分かってる。何とかしようと努力はしてるんだよ。でも、無理だ。日向を前にしたら俺はすぐに馬鹿になる、」
「……自覚があるのは何よりです、」
「今回のだって、俺がやらかしたのは分かってるんだよ。日向の加護が嬉しくて、色々と見落とした。だから今は、日向を安心させてやるのが最優先だと分かっては要るんだがな、」
見事なほど、友の気配が凍っていく。
うん、わかるよ。俺も自分で自分をぶん殴りたい。
でも、別の俺は違う。それが困る。
「日向があんなになってるのに、俺のためだと思うとたまらない、」
愛しさとか、喜びとか、幸福感とか、そんな温かい感情が俺の中にあふれていた。
小さくなってる日向を哀れだと思うのも本当だ。申し訳ないと思うのも嘘じゃない。
でも、日向の愛が重くて、俺は浮足立つのを止められない。
「殿下、」
藤夜の視線が氷点下まで下がって、本当に殴られそうになったところで、東の声がした。
こちらも目尻が吊り上がって見えるから、何か察しているのかもしれない。
でも、藤夜も東も今はどうでもいい。
「しぉ、抱っこ、」
「ん、おいで、」
東の手から小さな体を抱き受け、ぷるぷると震えているのを肌で感じると、そこからいろんな感情が湧きあがって俺を支配した。
俺が浮かれたせいで、日向の大事なものを壊した。ごめん。
怯えるせいで、大好きな演習も満足にできないな。きっと、それも日向に余計な負担を与えているって分かっている。
本当は、日向には笑って、好きなことを好きなようにさせたい。
日向の努力を一つだって無駄にさせたくない。
なのに、奪ってごめん。
だけど、それも全部、日向にとって俺が大事過ぎるからなんだよな。
依存でも、執着でも、愛でも何でもいい。日向の中心に俺がいる。
その事実が、煌玉(こうぎょく)のように俺の中で輝いている。
ぎゅっと腕の中で縮こまる体が哀れで、愛しかった。
どちらも本物の感情だ。
後悔してるから、命をかけてでも日向に報いたい。その一方で、こんなにも日向が愛する命は、この世で最も尊いものだと思う。
「ちゅう、は、だめ?」
「演習中だけどなあ、」
「したい、」
「ん、いいよ、」
触れた唇が震えていて切なかった。本当ごめんな。
でも、触れた部分が温かくて、やっぱり俺は大馬鹿の幸せ者になってしまった。
くすぐったくて、むず痒い。
だが心地よくて、ぬくぬくとまどろんでいたら、声がした。
「……しぉ、」
ああ、日向だ。
また何か不安になったか。
そう思って重たい瞼を持ち上げると、すぐ目の前でゆらゆら揺れる水色が俺を覗いていた。
くすぐったいのは、寝ぐせがついた日向の髪だ。
少し伸びたな。暑いしそろそろ切り時かも知れない。でも、こんな風に俺を見降ろした時に触れる髪が、俺だけの特別なものに思えて好きだった。
そんなことを考えてぼんやり髪を撫でたら、揺れていた瞳が近づいてきて、ちゅうと唇を吸われる。
短い口づけを繰り返さると、寝ぼけた頭は、幸福感に満たされていった。
毎朝これならいいのに。
こうやって日向が起こしてくれるなら、弥間戸(やまと)や史宜(しぎ)の手を煩わせずに済む。
きっと一日中幸福で、学業も皇子業も見事にこなして充実した毎日が送れそうだ。
幸せな朝だ。
だが、目が覚めて頭がさえてくるほどに、罪悪感が湧く。
違うだろ、平常なら日向はこんな風に俺を起こしたりしない。
俺が朝に弱いのを知っているから、一人で起きて勉強して、俺が起きるのを待っているはずだった。
「……また不安になった?」
寝ぼけた頭を必死に起こして、目の前の水色を覗く。
「ん、」と短く答えた日向が、小さな体を俺の腹に乗せると布団越しにも、体が震えているのが分かった。
ぷるぷると小刻みな震えだから、ちゃんと俺との約束を守ってひどくなる前に甘えに来たんだろう。瞳は揺れているが涙は堪えきれているようで、背中を撫でても泣き出したりはしない。
「ちゃんと起こせて偉かったな、」
「ごめん、ね、」
「いいよ、そういう約束だろ。守った日向は偉い、」
笑って見せると、また短く頷いた後、口づけが降って来る。
ちゅ、ちゅ、と吸われると、気持ちが良くてすぐに甘い感覚に酔いしれそうになった。
だが、さすがに毎朝繰り返してきたことだ。溺れたりしない。
指輪の混乱から数日、毎日こうして日向に起こされている。
俺がそうしろと強請ったからだが、日向自身、そうせずにいられないのは、やはり自分でもどうにもならない恐怖があるからだろう。
朝に限らず、学院で学んでいても、仕事をしていても、亜白と裏庭で遊んでいても、ぷるぷると震えている時間が圧倒的に増えた。
震える小さな体を抱くたびに、日向の中で壊れてしまったものを実感して、悔やまずにはいらない。
「……今日は、多足類、やった、」
しばらく啄むような口づけを受け入れていると、落ち着いてきたのか、日向はぽつぽつとしゃべり出す。
「たそく?」
「むかでと、やすでと、えだひげむしと、こむかで、」
「ああ、足が多いやつな、」
うん、と頷いた日向が話し出したのはムカデの話だ。
ムカデには胴がたくさんあって、一脚ずつ足がついているんだとか、足のついた胴は必ず奇数なんだとか、そんなことをとつとつと話す。
正直、朝からムカデはきつい。
日向の口づけも甘える仕草も心地いいのに、耳から入って来る情報だけで鳥肌が立った。
でもまあ、聞くよ。
甘えろ、と言ったのは俺だし。
こんなに震えても隠れ家に籠らず俺のところに来てくれるなら、虫がおまけについて来ようと構いやしない。
「昨日はダンゴムシだったな。ムカデとどっちがいい、」
「だんごむし、」
「ははっ、好きだなあ、」
泥だらけになって、小さな手の平に丸まった虫を転がす日向を思い出して思わず笑った。
日向はダンゴムシが好きだ。
初めて亜白と裏庭で見つけた時に、触ると丸くなることに驚いたようで、以来、見つけるたびに俺の所へ持って来る。初めは引いたけどな、あんまり頻繁に来るから俺も慣れて来たよ。
むしろ無邪気に笑うのが可愛くて、あの顔が見られるなら許してやろうと思えるくらいには寛大になった。
「むかでは、蔵にいた、」
俺の胸に耳を当てるように頭を寝かせた日向がつぶやくのを聞いて、ああ、と納得する。
「むかでが、かんだら、いたかった。赤くなって、ぼんやりしたも、あるから、むがでは、いや、」
「そっか、」
「でも、わかるに、なりたいから、観察する、」
「無理はするなよ、」
「ん、」
図鑑のムカデでを眺めているうちに、嫌なことを思い出したのかもしれない。
少し前ならそれでも好奇心の方が勝って図鑑にかじりついたけど、今は一度恐怖を感じたらもう耐える力がないな。
だから、こうして安心感を取り戻そうとする。
「……だいじょぶ、なった、」
「もう起きるの?」
「植物もやる。藻類が終わった、から、今日から、コケ。りくがね、シダが好きって言った。早くシダが、やりたい、から、頑張る、」
「へえ、」
稲苗(さなえ)じゃないんだな、と聞いたら、稲苗は領地に生えるような広葉樹が好きなんだと教えてくれた。日向の予定では、広葉樹はまだまだ先だから、時間が足りなくて困っているらしい。
口では、頑張る、とか、やらないと、とか言うが、小さな体は俺の腹の上から動かなかった。
気は焦る一方、体は正直で離れがたいのだろうと察する。まだ小刻みに震えているから、聞くまでもない。
安心が失われるは一瞬だが、取り戻すには時間がかかる。
そうと分かっているから、大丈夫、と繰り返した日向の腰を引き寄せて抱き留めた。
「このままだと二度寝しそうだから、日向が起こして、」
「僕?」
「眠り姫の話、読んだろ、」
「ちゅうしたら、起きる、」
「そ、頂戴、」
いいよ、と頷いた日向の顔が近づいて唇が触れる。
その唇が温かくて気持ちが良いのに、震えていてやっぱり切なかった。
「日向の愛が重すぎて、ちょっと辛い、」
「……はあ?」
稲苗たちに囲まれて苔を採取している日向を眺めていると、たまらずため息が漏れる。
隣でそれを聞いた友の視線はこの暑さにもかかわらず氷のように冷たかったが、俺はあまり気にする余裕がない。
「日向が俺に惚れてるのは分かってたけどな。指輪一つであんなになるほど愛されてるとは思わなくて、ちょっと戸惑ってる、」
「……草がいるんで、しばらく護衛を変わってもらいます、」
「いや、聞けよ。相談してんだよ、」
「知りませんよ。色惚けた話なら他所でどうぞ。大体、今は演習中だろうが、」
「他にいないだろ。あと、こんなタイミングじゃないと日向が離れられないんだから仕方ないだろ、」
侍女や護衛の助けもあって日向は何とか仕事もしているから、四六時中俺に甘えに来るわけじゃない。
だが、今日みたいに一緒に講義を受ける日は、ほとんど一日中俺にしがみついていた。
演習場に向かう間もそうだ。
腕の中でずっとぷるぷる震えていて、演習どころじゃないだろと心配したほどだった。
今は初めて見る沢に興味を惹かれて元気そうに見えるが、いつもならつかず離れず守っている東(あずま)の手を離さない辺り、温もりが必要なのだろう。
何が自分を安心させるか分かっているから、離宮に来たばかりの頃の日向とは違う。
違うけれど、体に力が入っているせいか一回り小さく見えて、俺はどうしても初めて隠れ家の扉を開いた時に見た日向の姿を思い出さずにいられなかった。
「あいつ、もう俺なしじゃ生きられないよなあ、」
「……色々と刷り込んだのは殿下でしょう。馬鹿言ってないで、お前も課題をこなせ、」
「だよなあ。責任は取るつもりだが、万が一、俺がどうにかなったら多分日向も持たない。そう思ったら急に恐ろしくもなった、」
「お前がどうにかなる訳ないだろ、これだけ守られてんのに、」
「だが、尼嶺(にれ)の件もあるだろ。今回は運が良かったが、魔法の影響を受ける距離までああも簡単に詰め寄られるんじゃ、絶対はない、」
指輪の混乱のせいで、俺の中で一度はうやむやになりかけていたが、日向の状態を見て、改めて考えずにはいられなかった。
草の報告によれば、やはりあの日学院にいたのは陽炎(かげろう)だ。
あの後、朱華(はねず)と関係の深い貴族の館に身を寄せたと言うから、手を引いたのは朱華で間違いないだろう。意図は測りかねているが、尼嶺も朱華も俺たちに対して友好的とは言い難い。
互いに手の届く範囲に、俺たちはいる訳だ。
「……殿下には指一本触れさせませんよ、」
「ん。そこはまあ、信用してはいる。だけど、万が一ってことはあるだろ。俺は良いけど、日向がなあ、」
「ひなのためにも、必ずお守りします、」
隣から聞こえた意思の強い声に、頷いておいた。
さっきまで漂っていた呆れるような気配は急に消えて、いつの間にか完全に侍従の気配だ。
尼嶺の魔法に触れて影響を強く受けたことを、藤夜(とうや)が気に病んでいることは知っている。
萩花(はぎな)の話では、尼嶺の魔法は、魔力が強い者ほど影響が少ないと言う。魂と世界の接点がもともと強く結びついているから、摩擦を増やされたところで余力があるのだとか。
藤夜は俺よりも圧倒的に魔力が強い。だから影響は小さいはずだったが、実際は違った。
俺達がまだ子どもで未熟だから、魂も未熟で仕方がないんだと萩花には慰められたが、多分、俺の侍従は納得してはいない。
でも、だからこそ、同じ轍は踏まないと思っている。
藤夜はそういう奴だ。
そういうわけで、こいつらの守りについてはあまり心配していないんだよ。
それより俺だ。
「お前と違って、俺はやらかすからなあ、」
「……は?」
また侍従が友に戻った。
それでいいから聞け。本気で悩んでるんだ。
「正直、日向が俺に惚れてると分かって以来、俺は調子に乗ってるよ。浮かれてるのは自分でも分かってる。何とかしようと努力はしてるんだよ。でも、無理だ。日向を前にしたら俺はすぐに馬鹿になる、」
「……自覚があるのは何よりです、」
「今回のだって、俺がやらかしたのは分かってるんだよ。日向の加護が嬉しくて、色々と見落とした。だから今は、日向を安心させてやるのが最優先だと分かっては要るんだがな、」
見事なほど、友の気配が凍っていく。
うん、わかるよ。俺も自分で自分をぶん殴りたい。
でも、別の俺は違う。それが困る。
「日向があんなになってるのに、俺のためだと思うとたまらない、」
愛しさとか、喜びとか、幸福感とか、そんな温かい感情が俺の中にあふれていた。
小さくなってる日向を哀れだと思うのも本当だ。申し訳ないと思うのも嘘じゃない。
でも、日向の愛が重くて、俺は浮足立つのを止められない。
「殿下、」
藤夜の視線が氷点下まで下がって、本当に殴られそうになったところで、東の声がした。
こちらも目尻が吊り上がって見えるから、何か察しているのかもしれない。
でも、藤夜も東も今はどうでもいい。
「しぉ、抱っこ、」
「ん、おいで、」
東の手から小さな体を抱き受け、ぷるぷると震えているのを肌で感じると、そこからいろんな感情が湧きあがって俺を支配した。
俺が浮かれたせいで、日向の大事なものを壊した。ごめん。
怯えるせいで、大好きな演習も満足にできないな。きっと、それも日向に余計な負担を与えているって分かっている。
本当は、日向には笑って、好きなことを好きなようにさせたい。
日向の努力を一つだって無駄にさせたくない。
なのに、奪ってごめん。
だけど、それも全部、日向にとって俺が大事過ぎるからなんだよな。
依存でも、執着でも、愛でも何でもいい。日向の中心に俺がいる。
その事実が、煌玉(こうぎょく)のように俺の中で輝いている。
ぎゅっと腕の中で縮こまる体が哀れで、愛しかった。
どちらも本物の感情だ。
後悔してるから、命をかけてでも日向に報いたい。その一方で、こんなにも日向が愛する命は、この世で最も尊いものだと思う。
「ちゅう、は、だめ?」
「演習中だけどなあ、」
「したい、」
「ん、いいよ、」
触れた唇が震えていて切なかった。本当ごめんな。
でも、触れた部分が温かくて、やっぱり俺は大馬鹿の幸せ者になってしまった。
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