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第弐部-Ⅳ:尼嶺

166.紫鷹 仕切り直し

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日向にこの世の終わりみたいな泣き方をされて参った。

俺と揃いの指輪を、日向が大事にしていたのは知っている。
でも、指輪が壊れたのは不可抗力だし、そもそも魔法を付与する目的で作られたものじゃないから、耐えきれなかったことは仕方がないと思っていた。
それに、たとえ魔法に対して脆かったとしても、金属を破壊するほどの力で日向の魔法が俺を守ったわけだから、俺にとっては、喜びこそすれ嘆くことではなかったんだ。

だが、俺が思う以上に、日向には指輪が大事だった。


「ひー様は、印を貰ったから怖くないんだと、何度も雁書(がんしょ)に書いていました。殿下から具合が悪いと伺った後だったので、印を貰って元気になれたのなら良かったと、安易に考えてしまったんですけど……、それは、裏を返せば、印がなければまだ怖いと言うことだったんですよね、」


昼に食べたものを全て吐き、意識を失くした日向の頭を撫でて、亜白は泣いた。
汚れるからと、水蛟(みずち)が日向の体を引き継ごうとするが、良いんだと言って、むしろ水蛟の手から手拭いを奪う。汚れるのも構わず、日向の顔や服を拭っていく亜白がほろほろと涙を流すものだから、水蛟も誰も、否とは言えず見守った。

亜白の言葉が、胸に刺さる。

そうだ、日向は「印」に異常にこだわった。
亜白が拭った日向の服に刻まれるのは、鷹と大瑠璃の俺の紋だ。
その左胸には、青巫鳥(あおじ)のブローチがついていて、風呂に入る以外に外したことがない。左手の指輪に至っては、風呂でも外さなかった。
服の下だって、俺がつけた印がいくつもあって、消えかけるたびに日向は印を強請る。そのことは強請られる俺が一番よく知っていたはずだ。

知っていたのに、思い至らず、気遣ってやれなかった。


「指輪は、ひー様の鎧だったんだと思います、」


怖いものから身を守り、心を守る鎧。
安心や家族とのつながり、愛されるということ、誰にも要らないとは言われないこと――少しずつ日向にも分かってきてはいるとは思う。
それでも、まだ目に見える形が必要なんだろう。
自分の身一つでは、広い世界に踏み出せないから、武装して、鎧を纏って自分を守っていた。

指輪一つ――たったそれだけなのに。
その一つが、日向には不可欠だったんだと、意識を失くした今も震えて涙を流す姿に思い知らされた。

「指輪は直りますか?もし、職人が必要であれば、すぐにも羅郷(らごう)から呼びます、」
「……いや、うちにも優秀なのがいる、」
「なら、ひー様を早く安心させてあげてください。挨拶なら僕は一人で回れます。殿下は、ひー様に指輪が元通りになるんだと教えてあげてください、」

思いがけず、亜白に強い口調で言われて驚いた。
涙を流して情けない顔を晒しているが、眼鏡の奥の青紫の瞳は、真剣そのものだ。
午前中は、気難しい教授や偉そうな学院長たちに怯えている風でさえあった。日向のためにも、俺が主導して何とかこの弱気な従兄弟の立場を確立してやらねばと、考えていたんだが。
今は強い意志を持って俺を真っすぐに見る。

多分、俺の方がひどい顔をして醜態をさらしているんだろうな。

「……悪い、」
「僕は良いです。殿下はひー様のことだけ考えてください、」
「うん、」

異国の従兄弟が、急に立派に見えて、自分が情けなくなった。
日向が亜白の成長に焦った理由が、今なら何となくわかる。

俺が頷くと、草はすぐに外の状況を確認して、学院を出る手はずを整えてくれた。
那賀角(なかつの)には、日向の仕事の時間を奪ったことを詫びて、落ち着いたら、尼嶺の魔法との接触について、共に検討することを約束する。
それから、亜白に急かされるまま、小さな体を抱えて部屋を出た。








日向が目を覚ましたのは、離宮御用達の工房に着いて少し経った頃だ。

起きたら知らない場所にいて戸惑ったのだろう。
寝台の上で固まった日向は、ここが青空(そら)の父の工房だと伝えても、しばらくの間体を震わせるだけで、険しい表情で天井を見ていた。
それが急に跳ね起きたかと思うと、何を探して部屋の中をそわそわと歩き出す。指輪を探しているのだろうとはすぐにわかった。案の定、俺が指輪を取り出して見せると、すぐに飛びついて指輪を奪っていく。

そのまま指輪を隠すように体を小さく丸め部屋の隅に蹲る姿が、あまりに哀れで泣きたくなった。
だが、俺が泣いたところで、指輪は直らないし、日向は不安なままだ。


「大丈夫ですからね、日向様。父がちゃんと直します。すぐに元通りになりますから、安心してください、」


怯える日向を青空とともに説得して、何とか、日暮(ひぐれ)が指輪を直すのだと言うことは理解させた。
日向は確かに頷いて、指輪を青空に託したが不安は色濃い。
指輪が日暮の手に渡ると、再び取り戻そうと手が伸びた。
日暮が大丈夫だと穏やかに言い、青空がそっと押し留めても尚、小さな体は、指輪を逃すまいと後を追いかける。

「日向、心配なら側で一緒に見ていよう。大丈夫だから、」

薄い腹を抱き寄せると、小さく震えていた。
日向の細い体を抑えることは容易だが、声を発することもできずに怯えて震える体を抱くと、どうしても離宮に来たばかりの頃を思い出して、胸が苦しくなる。

起きてから一言も口を聞かないのに。
腕の中に抑え込んだ日向の体からは、悲鳴が聞こえる気さえした。

ごめんな。
本当にごめん。
でも、もう少しだけ堪えてほしい。

日暮の作業を見守る傍らで、もがく日向の肩を撫でてひたすら語りかけた。

「日向の鳥笛を作ったのも、学習用品への名入れもをしたのも、全部日暮だろ。鉛筆につけた印が、小さいのにちゃんと青巫鳥の形をしてるって、喜んだの覚えてるか、」

遊び道具や学習用品など日向の身の回りの物の多くは、日暮が手がけたものだ。
手が不器用な日向に合わせて、望むままに何でも作ってくれたことを、日向自身も知っている。

「日暮は、元々は宝飾品の職人なんだよ。俺と日向の約束をした時に、束帯を着ただろ。あの時つけた飾り太刀も日暮が仕上げたものだ。あれを作れるんだから、指輪は大丈夫だよ、」

大丈夫、大丈夫と繰り返し背中を撫でると、水色の瞳からほろほろと涙が零れてきた。
それを拭って抱きしめると、小さな手はぎゅっと俺の腕を握る。
不安にさせたのは俺だが、それでも縋ってくれるか。
そのことが申し訳ないのに、嬉しくて愛しくて、また胸の内で日向に謝罪を繰り返した。

日暮が指輪の割れた部分を削って形を整えている間は比較的落ち着いていられたな。
だが、火を使う時にはまた暴れ出した。
青空が「共付け」と言って、金を溶かしてつなげるんだ、日暮は熟練だから大丈夫だと説明しても、手足を振り回して喉の奥から声にならない悲鳴を上げる。

こんな日向にさらに、怪我まで負わせるわけにはいかない。
だから、小さな体が飛び出していかないように抑えたが、それでも暴れるものだから、日暮が次の作業に移ったときには日向は汗だくだった。


「大丈夫だよ、日向。見てみろ、ちゃんとくっついただろ、」


半分に割れた指輪が、一つになって日暮の手の平に乗る。
まだ形は歪だが、確かに指輪の形を取り戻して、そこにあった。


「……輪っか、」
「うん、輪っかだ。これから日暮がもっと綺麗にしてくれる、」
「……もどる?」
「戻るよ。壊れても、指輪はちゃんと元に戻る、」
「……約束は?」
「約束は、壊れないよ。俺がいる限り、日向はずっと俺と一緒で、生涯の番いだ。指輪が壊れても、約束はなくなったりしない、」


ようやく声が聞けた。
暴れていた体も静かになって、反動か、くたりと俺の腹に落ちてくる。
顔を覗くと、水色の瞳からは絶えず涙が溢れていたが、怯えの色は消えて、放心したようにぼんやりとしていた。

「約束はなくならないけど、いつでも約束を思い出せるように指輪をするんだ。だから、指輪が戻ったら、日向にまたつけてほしい、」
「……もと、どおり。いらない、ならない、」
「ならない、」

最後の声は、多分、俺に聞いたのでなく、日向自身に言い聞かせていたのだと思う。
だが、あえて強く答えると、日向は、今初めて俺がいることに気付いたとでも言うように、はっと瞳を開いて俺を見た。

「しおう、」
「うん、ごめんなあ、」

ずっと指輪をとらえて離さなかった視線がようやく絡んで、腹の底にあった重苦しいものが、少しだけほどけた気がした。
日向はすぐに指輪に視線を戻したが、汗で張り付いた前髪を剥がして額を拭ってやると、頭は俺の手のひらに擦りつくように寄ってくる。その頭を撫でながら、二人で指輪が日暮の手の中で元の形を取り戻していくのを見守った。

歪だった形が整えられ、磨かれ、再び輝きを取り戻す。

それに呼応するように、日向の震えも少しずつ小さくなって、安心していくようだった。
日暮が、どうぞ、と日向の手に指輪を返すと、日向は手の平に乗った輪をいかにも大事そうに握る。
しばらくの間はらはらと涙を流して、静かに指輪を抱きしめていたから、日向が落ち着くのをじっと待った。

やがて、日向が俺を振り返る。

ほとんど半日泣き続けたせいで、瞼はぱんぱんに腫れて、目も頬も真っ赤だった。
そのくせ、唇が乾いているのは、泣きまくって汗だくになったのに、昼に吐いたっきり何も口にしていないからだろう。満身創痍だな。

その日向が、少し不安げに拳を突き出した。
俺がその拳の中にある宝物を受け取らないという選択肢はないのだが。
そんな顔をさせたのは俺だな。ごめん。


「前にしたように、魔力を込められるか?」


疲弊しきった日向にそれを願うのは酷かな、と思ったが、もう一度やり直す必要があると思った。
頷いた日向は、差し出した拳に力を込める。

何色でもあり、何色でもない、日向の透き通った魔力が、握った拳の中に集まって行くのが見えた。
鍛錬や仕事を頑張ったためだろう。初めてこの指輪を交わした時とは比べ物にならないほど、魔力が洗練されていて、少し驚いた。多分、魔力操作に関しては、俺より日向の方が格段上だ。下手すると藤夜以上かも知れない。

日向の努力と、俺への思慕、これまでの日々が、指輪の中に込められていく気がした。

拳を開くと、金色の小さな指輪が、日向の魔力をまとって輝く。
綺麗だな、日向。

「つけてくれるか、」

左手を差し出すと、水色の頭が小さく頷いて、俺の薬指に指輪をはめた。
はめた後も、くるくると指輪を回して、何度も何度も確かめる。

「おそろい、」
「うん、お揃いだな、」
「しおうと約束、なくならない?」
「なくなるもんか。……指輪は形あるものだから壊れることもあるけど、約束はそんなやわじゃない。俺はもう俺のすべてを日向にやるつもりだし、俺だって日向の全部がほしい。俺と日向がいる限り、この約束は絶対なくならない、」
「ぜったい、」
「絶対だ、」

この世に「絶対」と言えるものがどれだけあるのか知らない。
俺はむしろ、それはただの言葉で、絶対と呼べるものは何もないんじゃないかと、つい最近までは思ってたよ。
だけど、これは絶対だ。
俺が日向と生きたいことも、日向に俺と生きてほしいことも、絶対だと確信してる。

「…わかった、」

水色の頭が小さく頷く。
その頭に口づけを落とすと、日向は疲れたように俺の胸の中に落ちてきて、小さな体を俺に預けた。
涙も体の震えもなくなり、安心したように目を瞑る。

「わ、日向様、寝る前に水分を取ってください、」
「そうだ、日向、寝るな。もうちょっとだけ頑張ってくれ、」

ボロボロだけどいい顔だ。じっと眺めていたかったが、青空の焦った声がして、そうだ、と意識を戻した。

もう半分眠りの中にいる日向を抱き上げて、口に器を当てる。最初の一口はコクリと飲んだが、後は、口の端からすべてこぼしてダメだった。

だから、仕方ないよな。

青空の蔑むような視線も、萩花(はぎな)と東(あずま)の怒りの視線も、日暮の生暖かい視線も感じていたが、器の水を口に含んで日向の唇に押し当てる。
とろんと開いた瞳が俺を見ていた。

飲んでくれ、とその瞳に願うと、こくこくと喉が鳴って受け入れてくれる。
すべて与えて唇を離すと、嫌だ、と強請られた気がした。
それを言い訳に、三度、日向にりんごの味がする水を口移しで飲ませる。

多分、満足したのだろう。

水色の瞳が、ゆるりと弓なりになって、静かに閉じた。

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