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第弐部-Ⅳ:尼嶺
163.亜白(あじろ) ひー様の紫鷹殿下
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麗(うらら)教授の研究室を一周して、並ぶ飼育容器のミミズをひとしきり眺めた後、ひー様は畏まった様子で教授の前に立った。
僕の手をつないだまま、小さなひー様はぺこりと教授にお辞儀をする。
「うらら、あじろを、よろしくね、」
「ええ、ええ。日向様の大事なご友人をお預かりするんですから、それはもちろん!」
僕も慌ててひー様に続くと、頭の上からは朗らかに応じる教授の声がした。
見上げると、目尻を下げた教授が、ひー様に何度も頷いて、任せてください、と胸を叩く。
教授があまりに穏やかに笑うものだから、僕は驚いて、教授の顔を三度も見てしまった。
だって、僕は教授のこんな顔を知らない。
羅郷に帰る前に会った時は、もっと厳格な顔をしていたはずだ。
留学を楽しみにしてはいたけど、あの教授の元でうまくやれるだろうかと、正直不安だった。それこそ、羅郷で準備に追われてる間も、何度も代都(しろと)に泣きついたくらい。
それなのに、僕が何度も思い返した教授の顔はそこにはなくて、ひー様が僕のことを語るのを、目尻を下げて、にこにこと聞いている。
本当にあの麗教授だろうか。
「あれは、日向仕様な。普段は、鬼教授だよ、」
僕があんまり驚いたせいか、ひー様の様子をのんびりと眺めていた紫鷹殿下が、耳打ちしてくれる。
驚いて振り返ると、殿下は可笑しそうに肩を竦めて見せた。
そうか、あの麗教授も、ひー様相手には、あんなに優しい表情をするのか。
つくづく驚いて、僕はさらに三度、ひー様と麗教授を見る。
ひー様は何度も、「あじろをよろしく、」と教授に言って、そのたびに、「ええ、ええ」と教授は頷いた。
羅郷(らごう)から留学の目的で帝国に来て、初めての学院だ。
後期から本格的に学院で学ぶために、今日は学院のあちこちに挨拶に回らなきゃならない。
ほとんど一日中、学院の隅から隅まで回るのだと聞いていたから、僕は足が重かった。
しかも、一緒にいてくれるものだと思ったひー様は、麗教授に僕を紹介した後は、魔法塔へと向かってしまう。
僕が学院のあちこちに挨拶に回る間、ひー様は魔法塔で殿下に依頼された仕事をするらしい。今朝、一緒に朝食を取った時に、仕事って大変、とふくれ顔で言われて僕は驚いた。
「……ひー様が、仕事ですか、」
「うん、日向が仕事なんてな、びっくりだよな、」
東(あずま)さんの腕に抱かれて去っていくひー様を見送っていると、驚きがそのまま声になる。
しまった、と思ったけど、僕よりもひー様との別れを惜しんでいた紫鷹殿下は、ははっ、と笑っただけだ。
「あの、ひー様は、無理をされてませんか、」
「今のところはな。仕事が大変だと分かったと言って、退屈な仕事をする自分を面白がってる、」
「でも、あの、前にお会いした時よりも痩せていらして、僕は心配です、」
「うん、まあ、あれでも増えた方だよ。お前が来てからよく食べるようになったし、体調は一番いい時に戻ってるんじゃないかな、」
「そうですか…、」
でも、ひー様だ。
数ヶ月前に僕が離宮で過ごした時、ひー様は日常生活さえ思うようにできなかった。そのことに苛立って、自暴自棄になっていた時期さえある。
ある日突然、両腕に包帯を巻いて裏庭に来た時には、痛みを自覚できないほどボロボロで、僕は初めて得た友人を、今にも失うんじゃないかと不安になった。
ひー様は乗り越えて元気になったけど、僕が羅郷に帰った後も、大変なことがたくさんあったことは、雁書(がんしょ)をやり取りしていたから、知っている。
そのひー様が、学院に通っていることにだって驚いたのに、仕事とは。
だけど、僕の心配を他所に、殿下の表情は穏やかだった。
はは、と笑う殿下の視線が廊下の向こうに向いているのは、ひー様の後ろ姿をまだ見てるからかな。
もうとっくに見えなくなったのに、殿下は、まるでそこにひー様がいるみたいに微笑む。
その横顔を見ていると、ふと不思議になった。
この人は、本当に僕が知っている従兄弟だろうか。
殿下がひー様を溺愛しているのは、ともに過ごした数ヶ月の間に理解しているけど、それ以前の殿下には、麗教授同様、別人とも言える印象しかなかった。
僕は、殿下が怖くて、できるなら近づきたくなかった。
だって、紫鷹殿下は帝国の皇子らしく尊大で、とても偉そうに見えた。羅郷に来た時は、兄たちと一緒になって僕をからかったことだってある。多分、羅郷の兄弟や臣下たちが僕を変人だと言うように、殿下も僕を変わり者だと思っていたんじゃないかな。殿下が羅郷に滞在している間は、鉢合わせないかと部屋を出るのすら緊張した。
春の祭典のために帝国へ行け、と父上に言われた時には、絶望したくらいだ。
なのに、今僕は、隣に立つ殿下が怖くない。
ひー様が雁書に「しおうが」と毎日のように書いていたせいかもしれない。
殿下の絵が下手で嬉しいとか、殿下がミミズを怖がって可愛いとか、殿下が東さんに負けて悔しがってるとか、嫉妬して嬉しいとか、ひー様の雁書の半分は、殿下の話だった。
ちゅうの時に真っ赤になる殿下が可愛いとか、殿下が印をつけてくれただとか、赤裸々な閨の事情まで語られたのは、流石に困惑したけれど。
ひー様の目を通して見た殿下は、恐ろしく感情豊かで、優しくて、ひー様に甘くて、可愛らしい。
正直に言うと、ひー様から殿下の話が届くのが、僕は、ちょっと楽しみになってた。
いざ目の前にすると、少し緊張はするけど、もう怖くない。
今だって、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい甘い顔で、ひー様の影を追ってるんだから、ひー様が語る殿下の方が本当の殿下なんだろうな、という気がしてた。
「あいつ、お前が王子らしくなってるのが、羨ましかったらしい、」
「僕、ですか、」
「日向も一応、王子だからな。自分は王子をやらないのに、なんで亜白はできるんだ、と憤ってたよ。確かに、マシになったな、」
ようやくこちらを向いた殿下に思いがけず褒められて、顔に熱が集まる。
僕はひー様じゃないんですけど。
殿下のひー様仕様が抜けていないんじゃないですか。
怖くなくなったとは言っても、根本的に畏怖の存在である帝国の皇子だ。そんな人に、そんなことを言われたら、僕はどうしたらいいか分からなくなってしまう。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、恐れ多いのか、よくわからず、あたふたして赤面した。
また変人だと呆れられるかな。
そう思ったけれど、殿下は、ははっ、と笑っただけで特に気にした様子もない。僕の背中を二度叩くと、挨拶に行くぞ、とさっさと歩きだした。
ひー様は来ないけど、どうやら殿下が僕の挨拶につき合ってくれるらしい。
学院長室へ行くと、学院長と理事が数名いて、丁重な挨拶を受けた。
紫鷹殿下は慣れた様子でそれに答えて、僕を紹介する。
僕が王子らしくなったと殿下は言ったけど、部屋に入った途端に、皇子の顔になった殿下に比べると、僕は足元にも及ばないな、と思った。
この人は、生まれながらに皇子という風格で、堂々としていて威厳がある。
大勢の大人たちを相手にしても余裕があって、挨拶の合間に交じる要望や苦言もさらりと受け流していくのが、流石だった。僕なら、一つ一つの言葉に戸惑って、混乱して、吃る。
もしかして、そんな僕の性質もわかって、会話を主導してくれているんじゃないだろうか、とふと思った。
絶対的な安心感。
ひー様は雁書に何度も「しおうがいちばん安心、」と書いていたっけ。
僕は胸の内で、ひー様のその言葉に同意した。
部屋を出たところでそのことに礼を述べると、殿下は「日向の友人だからな、」と笑う。
「正直、ただの従兄弟なら、勝手にしてくれと放るよ、」
「あ、はい、それはそんな気がしました、」
「日向に頼まれたしな。出迎えは失敗したから、他は完璧にするんだと、」
失敗。
何のことだろう、と殿下を見た。
離宮の玄関で、ズラリと並んだ騎士や使用人たちと一緒に出迎えてくれたのは壮観だった。離宮の意思が隅々まで行き渡っていて、主人と共に来訪者を歓迎するのだという心が、そのまま聞こえてくるような気さえしたんだ。
その中から、ひー様が飛び出してきた時には、僕が留学のために努力してきたいろいろなことが、全て報われた。
だけど、殿下は言う。
「日向は、泣いただろ。本当は泣かないで格好良く迎えたかったらしい、」
「えっと、でも、僕は、ひー様が泣いたのが、嬉しくて……」
「だろうな。だけど、あいつ今、泣き虫を卒業したいって必死なんだよ、」
「で、でも、」
「仕事をするのも、色んな理由があるけど。一番は、お前と対等になりたいってことだ、」
「え、」
驚いて殿下を凝視すると、殿下は肩を竦めてまた笑った。
「多分、社会性が出て来たってことなんだと思う。与えられて守られる子供から、与える側になりたいってのが、今の日向だ。自分には何もあげられるものがなくて、皆と同じ輪に入れないんだと嘆いていた。だから、もらうだけじゃなくて、あげる側になって、お前の横に立ちたいんだと、」
頭の中で、東さんの腕で泣くひー様が思い出された。
僕らの話が分からなくて、輪に入れず、一人で東さんに縋って泣いていたひー様だ。
だけど、「あじろの一番は、僕が良い、」と泣いてくれたことが、僕は心の底から、嬉しかったのに。
「あげられるものが、何もないなんて、ないのに、」
たまらず、口から言葉が零れた。
今日はまだ、学院中を回って挨拶をしなきゃならないのに、足が止まってしまう。
後ろで代都(しろと)が何か言いかけた気がしたけど、僕を振り返って足を止めた殿下が、視線で制して言わせなかった。
紫色の目が細くなって、僕を見る。
前は怖くて殿下の目を見ることができなかったけど、今はそんなこと忘れてしまった。
それよりも、紫水晶のような瞳が綺麗で、こんな目をしている人なんだと思う。
そう言えば、ひー様は、殿下の紫色の目が好きなんだと言っていた。
いつも、聞くよ、とひー様の全てを包み込んでくる優しい目だと。
聞くよ、と僕も聞こえた気がした。
「僕は、話すのが苦手で…、兄たちにはいつも吃るのをからかわれてて、どんどん話せなくなって、それなのに、王子の役割を求められるのがしんどかったんです。何も喋らない生き物が楽で逃げてるのは、自分でもわかってたけど。……でも、他に居場所がなくて、それしかなかった、」
友だちなんて、一人もいなかった。
変わり者の母上と、母上にべた惚れの父上は、僕のおかしなところを、それでいい、と言ってくれたけど、他のどこにも居場所がなくて、宮殿の部屋と温室だけが僕の居場所だった。
「でも、ひー様はそれを喜んでくれたんです。それでいいって、僕を受け入れてくれて、居場所をくれたのは、ひー様です、」
離宮の裏庭で、僕の虫かごを覗いたひー様が心底嬉しそうに声を上げた時、僕は驚いた。
僕が一人で心の中に隠していた唯一の喜びが、隠しきれずに飛び出してきたのかと思ったんだ。でも、それは僕の口から出たんじゃなくて、ひー様の口から出た。
僕と同じものを喜んで、一緒に笑って、泥だらけになって、僕を友人と呼んでくれたのは、ひー様だ。
僕の心の中に、温かいものをくれたのは、ひー様だ。
「僕は最初から、ひー様からもらってばかりなのに、ひー様が何もあげられないなんて、そんな、」
今日だって、麗教授の研究室に行くのに緊張していた僕の手を、ひー様はずっと握ってくれた。
僕がこんなに話せるのは、ひー様が殿下のことを教えてくれたからだし、王子の役割をやれるのは、ひー様に会いたかったからだ。
全部、ひー様がくれたのに。
「俺もそう思うんだけどな。日向が理解するには、多分時間がかかる。だから、しばらく日向の我が儘で振り回すと思うよ、」
また殿下の視線が遠くを眺めた。
今度はどこを見ているのだろう。
ひー様が仕事をすると言う魔法塔だろうか。
「ひー様も与えてくれてると、ひー様に伝わりますか、」
「どうだろう。あいつのきっかけがどこにあるか、俺も全部分かってるわけじゃない。急に分かる時もあるし、未だに理解してくれないこともたくさんあるからな、」
「伝わるなら、いくらでも我が儘を聞きます、」
聞きたい。
僕がひー様にもらった大きな宝物がちゃんとあるんだと、ひー様に伝えたい。
「ん、頼むよ、」
特に気負う様子もなく、当たり前のように殿下は言う。
殿下があまりにも普通に言うものだから、なぜか僕はそこで冷静になって、一人で感情を高ぶらせていたことが恥ずかしくなった。
また顔に熱が集まってくるのを感じていると、殿下は、早く次に行こう、と僕を急かす。
早く回って、昼食はひー様と取りたいんだって。
僕が早くしないと、殿下がひー様と過ごす時間が減るんだと言われた。
さっさと歩きだしてしまう背中を慌てて追いかけて、ああ、本当に、ひー様の言う殿下が、本当の殿下なんだな、って思った。
ひー様が具合が悪くて雁書を書けない時、代筆したのは、殿下だ。
恐縮するのと、ひー様の加減が心配なのとで、殿下に当てるような文面ではないものを送ってしまったことが何度もあったけど、殿下はいつも丁寧なお返事をくれた。
後で元気になったひー様が送ってきた雁書を見るに、殿下も大変な状況だったと推測する。でも、殿下の雁書からはそんな気配は微塵も感じなかった。
聞くよ、とひー様の言葉に耳を傾けて、ひー様のことをいつも優しい目で見る。
皇子としての威厳も尊大さも持ち合わせているのに、僕なんかにも心を配ってくれるのが殿下だ。
ひー様が言う可愛い殿下の姿と、過去の僕が恐れた殿下と、僕に雁書をくれた殿下、今目の前に立つ殿下が入り混じって、僕の中に新たな殿下像ができた気がする。
同い年の従兄弟なのに、僕とは全然違う。
全く違って、僕は、ちょっと殿下に憧れている。
だからって、醜態をさらすことはないじゃないか、とまた顔が赤くなったけれど、殿下に早くしろと急かされて、足を動かした。
僕の手をつないだまま、小さなひー様はぺこりと教授にお辞儀をする。
「うらら、あじろを、よろしくね、」
「ええ、ええ。日向様の大事なご友人をお預かりするんですから、それはもちろん!」
僕も慌ててひー様に続くと、頭の上からは朗らかに応じる教授の声がした。
見上げると、目尻を下げた教授が、ひー様に何度も頷いて、任せてください、と胸を叩く。
教授があまりに穏やかに笑うものだから、僕は驚いて、教授の顔を三度も見てしまった。
だって、僕は教授のこんな顔を知らない。
羅郷に帰る前に会った時は、もっと厳格な顔をしていたはずだ。
留学を楽しみにしてはいたけど、あの教授の元でうまくやれるだろうかと、正直不安だった。それこそ、羅郷で準備に追われてる間も、何度も代都(しろと)に泣きついたくらい。
それなのに、僕が何度も思い返した教授の顔はそこにはなくて、ひー様が僕のことを語るのを、目尻を下げて、にこにこと聞いている。
本当にあの麗教授だろうか。
「あれは、日向仕様な。普段は、鬼教授だよ、」
僕があんまり驚いたせいか、ひー様の様子をのんびりと眺めていた紫鷹殿下が、耳打ちしてくれる。
驚いて振り返ると、殿下は可笑しそうに肩を竦めて見せた。
そうか、あの麗教授も、ひー様相手には、あんなに優しい表情をするのか。
つくづく驚いて、僕はさらに三度、ひー様と麗教授を見る。
ひー様は何度も、「あじろをよろしく、」と教授に言って、そのたびに、「ええ、ええ」と教授は頷いた。
羅郷(らごう)から留学の目的で帝国に来て、初めての学院だ。
後期から本格的に学院で学ぶために、今日は学院のあちこちに挨拶に回らなきゃならない。
ほとんど一日中、学院の隅から隅まで回るのだと聞いていたから、僕は足が重かった。
しかも、一緒にいてくれるものだと思ったひー様は、麗教授に僕を紹介した後は、魔法塔へと向かってしまう。
僕が学院のあちこちに挨拶に回る間、ひー様は魔法塔で殿下に依頼された仕事をするらしい。今朝、一緒に朝食を取った時に、仕事って大変、とふくれ顔で言われて僕は驚いた。
「……ひー様が、仕事ですか、」
「うん、日向が仕事なんてな、びっくりだよな、」
東(あずま)さんの腕に抱かれて去っていくひー様を見送っていると、驚きがそのまま声になる。
しまった、と思ったけど、僕よりもひー様との別れを惜しんでいた紫鷹殿下は、ははっ、と笑っただけだ。
「あの、ひー様は、無理をされてませんか、」
「今のところはな。仕事が大変だと分かったと言って、退屈な仕事をする自分を面白がってる、」
「でも、あの、前にお会いした時よりも痩せていらして、僕は心配です、」
「うん、まあ、あれでも増えた方だよ。お前が来てからよく食べるようになったし、体調は一番いい時に戻ってるんじゃないかな、」
「そうですか…、」
でも、ひー様だ。
数ヶ月前に僕が離宮で過ごした時、ひー様は日常生活さえ思うようにできなかった。そのことに苛立って、自暴自棄になっていた時期さえある。
ある日突然、両腕に包帯を巻いて裏庭に来た時には、痛みを自覚できないほどボロボロで、僕は初めて得た友人を、今にも失うんじゃないかと不安になった。
ひー様は乗り越えて元気になったけど、僕が羅郷に帰った後も、大変なことがたくさんあったことは、雁書(がんしょ)をやり取りしていたから、知っている。
そのひー様が、学院に通っていることにだって驚いたのに、仕事とは。
だけど、僕の心配を他所に、殿下の表情は穏やかだった。
はは、と笑う殿下の視線が廊下の向こうに向いているのは、ひー様の後ろ姿をまだ見てるからかな。
もうとっくに見えなくなったのに、殿下は、まるでそこにひー様がいるみたいに微笑む。
その横顔を見ていると、ふと不思議になった。
この人は、本当に僕が知っている従兄弟だろうか。
殿下がひー様を溺愛しているのは、ともに過ごした数ヶ月の間に理解しているけど、それ以前の殿下には、麗教授同様、別人とも言える印象しかなかった。
僕は、殿下が怖くて、できるなら近づきたくなかった。
だって、紫鷹殿下は帝国の皇子らしく尊大で、とても偉そうに見えた。羅郷に来た時は、兄たちと一緒になって僕をからかったことだってある。多分、羅郷の兄弟や臣下たちが僕を変人だと言うように、殿下も僕を変わり者だと思っていたんじゃないかな。殿下が羅郷に滞在している間は、鉢合わせないかと部屋を出るのすら緊張した。
春の祭典のために帝国へ行け、と父上に言われた時には、絶望したくらいだ。
なのに、今僕は、隣に立つ殿下が怖くない。
ひー様が雁書に「しおうが」と毎日のように書いていたせいかもしれない。
殿下の絵が下手で嬉しいとか、殿下がミミズを怖がって可愛いとか、殿下が東さんに負けて悔しがってるとか、嫉妬して嬉しいとか、ひー様の雁書の半分は、殿下の話だった。
ちゅうの時に真っ赤になる殿下が可愛いとか、殿下が印をつけてくれただとか、赤裸々な閨の事情まで語られたのは、流石に困惑したけれど。
ひー様の目を通して見た殿下は、恐ろしく感情豊かで、優しくて、ひー様に甘くて、可愛らしい。
正直に言うと、ひー様から殿下の話が届くのが、僕は、ちょっと楽しみになってた。
いざ目の前にすると、少し緊張はするけど、もう怖くない。
今だって、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい甘い顔で、ひー様の影を追ってるんだから、ひー様が語る殿下の方が本当の殿下なんだろうな、という気がしてた。
「あいつ、お前が王子らしくなってるのが、羨ましかったらしい、」
「僕、ですか、」
「日向も一応、王子だからな。自分は王子をやらないのに、なんで亜白はできるんだ、と憤ってたよ。確かに、マシになったな、」
ようやくこちらを向いた殿下に思いがけず褒められて、顔に熱が集まる。
僕はひー様じゃないんですけど。
殿下のひー様仕様が抜けていないんじゃないですか。
怖くなくなったとは言っても、根本的に畏怖の存在である帝国の皇子だ。そんな人に、そんなことを言われたら、僕はどうしたらいいか分からなくなってしまう。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、恐れ多いのか、よくわからず、あたふたして赤面した。
また変人だと呆れられるかな。
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もしかして、そんな僕の性質もわかって、会話を主導してくれているんじゃないだろうか、とふと思った。
絶対的な安心感。
ひー様は雁書に何度も「しおうがいちばん安心、」と書いていたっけ。
僕は胸の内で、ひー様のその言葉に同意した。
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「正直、ただの従兄弟なら、勝手にしてくれと放るよ、」
「あ、はい、それはそんな気がしました、」
「日向に頼まれたしな。出迎えは失敗したから、他は完璧にするんだと、」
失敗。
何のことだろう、と殿下を見た。
離宮の玄関で、ズラリと並んだ騎士や使用人たちと一緒に出迎えてくれたのは壮観だった。離宮の意思が隅々まで行き渡っていて、主人と共に来訪者を歓迎するのだという心が、そのまま聞こえてくるような気さえしたんだ。
その中から、ひー様が飛び出してきた時には、僕が留学のために努力してきたいろいろなことが、全て報われた。
だけど、殿下は言う。
「日向は、泣いただろ。本当は泣かないで格好良く迎えたかったらしい、」
「えっと、でも、僕は、ひー様が泣いたのが、嬉しくて……」
「だろうな。だけど、あいつ今、泣き虫を卒業したいって必死なんだよ、」
「で、でも、」
「仕事をするのも、色んな理由があるけど。一番は、お前と対等になりたいってことだ、」
「え、」
驚いて殿下を凝視すると、殿下は肩を竦めてまた笑った。
「多分、社会性が出て来たってことなんだと思う。与えられて守られる子供から、与える側になりたいってのが、今の日向だ。自分には何もあげられるものがなくて、皆と同じ輪に入れないんだと嘆いていた。だから、もらうだけじゃなくて、あげる側になって、お前の横に立ちたいんだと、」
頭の中で、東さんの腕で泣くひー様が思い出された。
僕らの話が分からなくて、輪に入れず、一人で東さんに縋って泣いていたひー様だ。
だけど、「あじろの一番は、僕が良い、」と泣いてくれたことが、僕は心の底から、嬉しかったのに。
「あげられるものが、何もないなんて、ないのに、」
たまらず、口から言葉が零れた。
今日はまだ、学院中を回って挨拶をしなきゃならないのに、足が止まってしまう。
後ろで代都(しろと)が何か言いかけた気がしたけど、僕を振り返って足を止めた殿下が、視線で制して言わせなかった。
紫色の目が細くなって、僕を見る。
前は怖くて殿下の目を見ることができなかったけど、今はそんなこと忘れてしまった。
それよりも、紫水晶のような瞳が綺麗で、こんな目をしている人なんだと思う。
そう言えば、ひー様は、殿下の紫色の目が好きなんだと言っていた。
いつも、聞くよ、とひー様の全てを包み込んでくる優しい目だと。
聞くよ、と僕も聞こえた気がした。
「僕は、話すのが苦手で…、兄たちにはいつも吃るのをからかわれてて、どんどん話せなくなって、それなのに、王子の役割を求められるのがしんどかったんです。何も喋らない生き物が楽で逃げてるのは、自分でもわかってたけど。……でも、他に居場所がなくて、それしかなかった、」
友だちなんて、一人もいなかった。
変わり者の母上と、母上にべた惚れの父上は、僕のおかしなところを、それでいい、と言ってくれたけど、他のどこにも居場所がなくて、宮殿の部屋と温室だけが僕の居場所だった。
「でも、ひー様はそれを喜んでくれたんです。それでいいって、僕を受け入れてくれて、居場所をくれたのは、ひー様です、」
離宮の裏庭で、僕の虫かごを覗いたひー様が心底嬉しそうに声を上げた時、僕は驚いた。
僕が一人で心の中に隠していた唯一の喜びが、隠しきれずに飛び出してきたのかと思ったんだ。でも、それは僕の口から出たんじゃなくて、ひー様の口から出た。
僕と同じものを喜んで、一緒に笑って、泥だらけになって、僕を友人と呼んでくれたのは、ひー様だ。
僕の心の中に、温かいものをくれたのは、ひー様だ。
「僕は最初から、ひー様からもらってばかりなのに、ひー様が何もあげられないなんて、そんな、」
今日だって、麗教授の研究室に行くのに緊張していた僕の手を、ひー様はずっと握ってくれた。
僕がこんなに話せるのは、ひー様が殿下のことを教えてくれたからだし、王子の役割をやれるのは、ひー様に会いたかったからだ。
全部、ひー様がくれたのに。
「俺もそう思うんだけどな。日向が理解するには、多分時間がかかる。だから、しばらく日向の我が儘で振り回すと思うよ、」
また殿下の視線が遠くを眺めた。
今度はどこを見ているのだろう。
ひー様が仕事をすると言う魔法塔だろうか。
「ひー様も与えてくれてると、ひー様に伝わりますか、」
「どうだろう。あいつのきっかけがどこにあるか、俺も全部分かってるわけじゃない。急に分かる時もあるし、未だに理解してくれないこともたくさんあるからな、」
「伝わるなら、いくらでも我が儘を聞きます、」
聞きたい。
僕がひー様にもらった大きな宝物がちゃんとあるんだと、ひー様に伝えたい。
「ん、頼むよ、」
特に気負う様子もなく、当たり前のように殿下は言う。
殿下があまりにも普通に言うものだから、なぜか僕はそこで冷静になって、一人で感情を高ぶらせていたことが恥ずかしくなった。
また顔に熱が集まってくるのを感じていると、殿下は、早く次に行こう、と僕を急かす。
早く回って、昼食はひー様と取りたいんだって。
僕が早くしないと、殿下がひー様と過ごす時間が減るんだと言われた。
さっさと歩きだしてしまう背中を慌てて追いかけて、ああ、本当に、ひー様の言う殿下が、本当の殿下なんだな、って思った。
ひー様が具合が悪くて雁書を書けない時、代筆したのは、殿下だ。
恐縮するのと、ひー様の加減が心配なのとで、殿下に当てるような文面ではないものを送ってしまったことが何度もあったけど、殿下はいつも丁寧なお返事をくれた。
後で元気になったひー様が送ってきた雁書を見るに、殿下も大変な状況だったと推測する。でも、殿下の雁書からはそんな気配は微塵も感じなかった。
聞くよ、とひー様の言葉に耳を傾けて、ひー様のことをいつも優しい目で見る。
皇子としての威厳も尊大さも持ち合わせているのに、僕なんかにも心を配ってくれるのが殿下だ。
ひー様が言う可愛い殿下の姿と、過去の僕が恐れた殿下と、僕に雁書をくれた殿下、今目の前に立つ殿下が入り混じって、僕の中に新たな殿下像ができた気がする。
同い年の従兄弟なのに、僕とは全然違う。
全く違って、僕は、ちょっと殿下に憧れている。
だからって、醜態をさらすことはないじゃないか、とまた顔が赤くなったけれど、殿下に早くしろと急かされて、足を動かした。
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