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第弐部-Ⅲ:自覚

148.東 犬も食わない痴話喧嘩

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「……僕、ときめく、かも、知れない、」


何でそう言う言い方するかなあ。
日向様が水色の瞳をキラキラさせて、うっとりと言うから、案の定、殿下の気配が急激に冷えていく。


分かってますか、日向様。
この人、厄介なんですよ。


つい数分前に、藤夜(とうや)様と二人がかりで紫鷹殿下を日向様から引き剥がしたばかりだ。
殿下は、普段の稽古では藤夜様に歯が立たないのに、日向様のこととなると途端に力が増す。僕は日向様を逃がすことに専念するだけだから何とでもなるけど、殿下を抑える藤夜様は、殿下が本気で暴れたら多分ただじゃすまない。

流石、皇家の直系。
だけど、警戒するこっちの身にもなってほしい。


「……しおう、いたい、」


やはりというか、殿下は、力いっぱい日向様の腕を捕まえて離さなくなる。
本気になれば日向様の骨なんて砕いてしまえるのに、嫉妬でそれすら頭から飛んでいるのだろう。細い腕がミシッと音を立てそうだ。
その一方で、口から洩れた声は、今にも泣きだしそうなほど震えていた。泣いているのかもしれない。


「いや、だ、」
「……しぉ、」
「嫌だ、日向。頼むから、ときめくな。無理だって言っただろ、日向が誰かに惚れるのなんて、俺は耐えられない。頼む、」
「……しお、ちがう、」
「違わない。俺といるって約束しただろ。俺のだって、言っただろ、」
「……聞いて、しお、」
「聞かないからな!もう日向のわがままも何も聞かない。お前は俺と離宮に帰るんだよ、もう終わり。もう学院も全部終わり!もう日向はどこにも行かせない!」


言った後で、ご自分の吐いた言葉の意味を理解したのだと思う
ひどく後悔した表情をした後に、紫色の瞳からボロリと涙が落ちた。


「ごめん、日向。もうぐちゃぐちゃだ。ごめん、」


日向様の腕を捕まえていた手が、今度は細い体にしがみつく。
体だって、殿下が本気になれば潰してしまえるけれど、今度は日向様の顔に苦悶は浮かばなかった。

日向様が「ときめく練習」とやらを始めてから、殿下の嫉妬は凄まじかった。
日向様に傾倒する学生が増えるほどに、殿下を恐れて遠巻きにする学生も増えたのが、何よりの証だと思う。帝国の中枢にいる皇子に殺気を向けられて平気でいられる方がどうかしているんだから、それが普通の反応なんだと思う。

殿下は、それでも必死に堪えてようとしていたようだった。
到底無理だったけれど。

僕は、日向様の害になるのでない限り、殿下のすることに口出しできる立場ではない。だから黙ってはいたけど、正直バカだなあ、と思った。
だって、日向様が他の誰かを見ようものなら、殿下が嫉妬に狂うのは確定事項だ。
どうせ狂うのだから、おかしな練習などやめさせれば良かったのに。

ボロボロと泣く殿下を見ながら、尊い人たちの考えることは本当に理解できないと、改めて思った。




「……しおう、かわいい、」



本当に、どうしてそう言うこというかなあ。
日向様がこぼすように呟いた言葉に、殿下と藤夜様の時間が一瞬止まる。
隣の部屋で昼食の支度をしながら聞き耳を立てていた水蛟さんの気配も固まった。

その中で水色の瞳だけが、うっとりと瞬いて、輝く。
相変わらず可愛くて、呆れた。


「……僕、しおうが泣くが、ときめく、みたい、」
「は……?」
「……しおうが泣いたら、胸がドキドキ、した。ドキドキして、キラキラするは、ときめくって、僕、わかるよ、」
「え?は?え?」


殿下の混乱を他所に、日向様の上気した頬がむずむずと動いて、水色の瞳が弓形に上がる。
森でリスを捕まえた時も、畑で玉蜀黍(とうもろこし)をもいだ時も、そんな風に笑って瞳を輝かせたっけ。多分、あの時より良い顔をしているけど。


「……僕ね、しおうが寝る、時の顔が、ときめく、」


朝が苦手な殿下と違って、日向様は早起きだ。
毎朝、殿下が目覚めるまでの時間を、日向様は一人で青巫鳥(あおじ)と話したり、図鑑を読んだりして過ごす。
でも、その間、何度もベッドに戻っては殿下の寝顔を堪能していることを、夜番を務めた僕らは知っていた。


「……しおうが泣く、が嫌だけど、しおうの、涙は、ドキドキする、」


裏庭で日向様と土を掘っている時に、「しおうの涙が好き、」と告白されたことがある。
何の話ですか、と首を傾げたけれど、あの時の日向様の高揚した表情を思うと、きっとときめいていたんだろうな、と今は思う。


「……しおうが、泣くと、ね、目がとろとろになる。きれいで、僕は、どこかに行きたいが、小さくなったよ、」


虫にも、うさぎにも、おにぎりにも日向様はときめいただろうけど、日向様の転移魔法を止められたのは、殿下だけだ。


『僕は、しおうのだから、』


日向様に、そう刷り込んで引き留めたのは、殿下なのになあ。

日向様の突然の告白に、殿下は混乱したように呆ける。
嫉妬で乱れた頭の中で、日向様の言葉を理解するのに時間がかかったのだろう。
しばらくぼんやりした後で、だんだんと視線が泳ぎ、やがて顔中が真っ赤になった。

その顔を見上げて、日向様は心底嬉しそうに笑う。

「……しおう、真っ赤、かわいい、」

「な、な、なに、を、」
「……僕、しおうが、僕に、キラキラするが、ときめいたよ、」
「いや、待て!処理が追いつかない!わ、来るな、日向、やめ、」
「……僕、ドキドキ、する、分かった?」
「やめろって、日向!」

殿下の手を取って自分の胸に当てようとする日向様を、殿下は全力で拒んだ。
拒まれた日向様は特に気分を害した様子もなく、今度は殿下の顔を覗き込もうとする。殿下は耳まで真っ赤になって日向様から顔を背けようとしたが、日向様は体が小さいのをいいことに、逃げようとする殿下の周りをちょこまかと歩き回った。
時折、小さな体がぴょんと跳ねる。

「……なんで、かくす、」
「恥ずかしいからだよ!見るな!」
「…… しおうに、ときめくを、やる、のに、」
「やめて!今はいい!俺の心臓が持たない!」
「……しおう、顔、みたい、」
「嫌だって!お前、趣味が悪いぞ!日向、頼むから、一回落ち着いて!」

落ち着いていないのは、殿下だろうに。
殿下も大変だなあ。

でも、日向様にときめく練習とやらを許したのは殿下だ。仕方ないと思う。
おかげで日向様は「ときめかせる方法」を学習してしまった。
初めから、日向様がときめきたいのも、ときめかせたいのも殿下なのだから、その手段を知ってしまえば、全てを真っ直ぐ殿下に向けるだろうことくらい、僕にだって分かった。


日向様は、瞳をキラキラと輝かせる人が好きなんですよ。


亜白様は生き物で、稲苗様は植物だけど、殿下は日向様だと日向様は知っている。
それで、そんな殿下を見る時の日向様の目は、殿下と同じくらい輝いているじゃないですか。
いつも、殿下がキラキラするは自分だと、自慢げに言っていたじゃないですか。

というか、殿下だって、日向様にときめいてほしいとあれだけ言っていたのに、今更、一体何が不満なのだろう。


「東!ニヤニヤしてないで、お前の主をなんとかしろ!」


悲鳴のような声が、僕を呼ぶ。
ニヤニヤなんてしていただろうか。
「草」だった頃ならあるまじきことだけど、僕は日向様の護衛になってから感情が表に出るようになったと言われるから、していたかもしれない。

「日向様、手助けが必要ですか、」
「……いらない、あずま、来ない、」
「じゃあ、僕に邪魔されないように、頑張ってください、」
「いや、だから日向をなんとかしろって!」

そうは言われても、僕の主に来るなと言われたんだから、どうしようもない。
僕が動かないのを見ると、殿下は諦めて藤夜様に助けを求めた。だけど、藤夜様は何かを諦めたようにソファへ深々と座り込んだままだった。

「藤夜!」
「……お二人の痴情のもつれに、俺を巻き込まないでください、」
「はあ!?」

ちじょう。
知らない言葉が出た。
後で辞書か、萩花さんに聞いて調べよう。
日向様にも教えたら、喜ぶかもしれない。

「……しおう、顔、見る、」
「いい!来るな!」

とうとう部屋の中を逃げ回り出した殿下を、日向様がとてとてと追いかける。
足への負荷を考えたら、本当はあまり走らせちゃいけないんだけど。
部屋の中だし、今日は嫉妬した殿下が日向様を抱いたまま歩かせなかったし、少しくらいいか。

何より、日向様の顔に生気が宿っているから、もう少し見ていたかった。
うん、やっぱり元気な方がうんと可愛い。

「俺たちは何を見せられているんだ…、」
「藤夜!呆けてないで、助けろ!」
「しおう、顔、」
「ひ、襲わない約束だろ、日向!」
「あは、」

殿下の背中をぎゅうっと抱きしめて笑う日向様が幸せそうだった。
やっぱり殿下が引き戻した。

殿下の悲鳴を聞きながら、多分萩花さんには叱られるだろうなあ、と思ったけど、まあいいや。
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