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第弐部-Ⅲ:自覚

142.紫鷹 ときめくとは

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「……しおうは、ときめく?」
「うん?」

風呂から上がった日向の髪を乾かしていると、日向の口から初めて聞く言葉が飛び出した。

「ときめく、とは、」
「……好きは、ドキドキする、ってわかばが、教えた、」
「玉蜀黍(とうもろこし)を収穫してたんじゃないのか、お前たちは、」
「……したよ、」

腕の中に大きな玉蜀黍を抱えて、満足そうに立っていた日向を思い出す。
畑に入る前はまだぼんやりして表情も乏しかったのに、帰ってきたときには、水色の瞳に生気が宿っていて、楽しかったのが一目で見て取れた。

それで、良い友達ができて良かったな、と思ったが。
一体、何を話していたんだ。

「日向はするの?」
「……何が、」
「ときめく、ってやつ。俺にドキドキする?」
「……わかん、ない、」

分からないか、そうだよな。
日向の中で、「ドキドキ」は怖いことだ。隠れ家に籠っていた時は、俺に対してもドキドキしていただろうから、その経験がないわけじゃないだろうが、「好き」と言う感情とは結びつかないんだろう。

「俺は、日向にときめくけどな、」
「……本当?」
「うん、それもしょっちゅう。毎日何度もときめくよ、」

今だって、そんなことを聞かれたから、いつもより鼓動が早い。

「日向にも、俺にときめいてほしいんだけど、」

そう言ったら、日向は少し困った顔をした。
その顔が可愛くて、困らせてごめんな、と思う。
でもちょっと胸が苦しかった。

俺と日向の好きは違う。―――分かっているが、切ない。







寝室へ行くと、先にベッドに向かった日向が天井を見上げて転がっていた。
ベッドに上がって隣に潜り込めば、日向はちらりと俺を見る。だが、視線はすぐに天井に奪われて、無表情にぼんやりとした。夜はいつもこうだ。

俺達が強引に刷り込んだ愛で日向は一生懸命に生きてくれてはいる。
自分から学院に行くようになったし、今日みたいに楽しいことがあれば楽しいと感じることはできるようで、表情にも表れるようになった。

それでもまだ、何かを取り戻せずにいる。
一人になると、途端に暗い目になったし、昼間どれだけ楽しそうにしても、夜の静かな時間が訪れるとぷつりと糸が切れたように表情がなくなった。

独りにしたら、日向は簡単に全てを捨ててしまう。
絶対に独りにしないから、そんなことはさせないけど。

「眠れそう?」
「………寝る、」
「夕食の前に寝たから、すぐには眠れなさそうだけど、」
「……しおうは、寝る、」
「うん、寝るよ。俺は明日も学院に行かないといけないから、」

じゃあ、寝る、と日向は言う。
それで眠れる日もあるし、眠れず侍女や護衛と一晩過ごすこともあった。

こんな状況なのに、俺は日向が側にいることに安心して眠れてしまう。
薄情だなと思うけれど、共倒れになれば日向を守るどころではないと、散々学んだから、俺が寝た後のことは、侍女や護衛を信頼することに決めた。

そんなことを考えて小さな体を抱きしめると、その温もりにまどろんだ。
それを、日向の声が引き戻す。


「……ときめかない、は、好き、じゃない?」
「うん?」


ときめきがどうした。
閉じかけた瞼を押し上げて腕の中を覗くと、天井を見上げていたはずの瞳が俺を見ている。


「……僕は、しおうが、好き、じゃない?」


待て待て待て待て待て待て待て。

何を言い出すんだと一気に目が覚めて、日向を抱えたまま跳ね起きた。
流石に日向を驚かせてしまったが、それどころじゃない。

「こ、ここ、困る!」
「………困る?」
「日向が俺を好きじゃないとか、そんなのは困る。嫌だ、」
「………僕は、しおうが、好き?」
「好きだと聞いたし、そうだと信じているけど、違うのか、」
「………わかん、ない、」

分かんないって、何だ!

嫌な汗が流れて、血の気が引くのを感じた。こう言う時、本当にさーっと音がするんだな。いや、しなかったけど、そんな感覚があった。ーーーーどうでもいいだろ、そんなこと!

頼む、日向。
そこで首を傾げるな。


「………好きは、ときめく、」
「ときめかなくても、好きでいいんだよ。お前は母上や藤夜にときめくのか?」
「………わかん、ない、」
「何でだよ。頼むから俺以外にときめかないで。お願い、日向。日向を誰かに取られるなんて、絶対嫌だ、」


日向が藤夜にときめくのを想像して、寒気がすると同時にひどい怒りが湧いた。
藤夜は親友だが、そんなことになったら、多分全力であいつを潰す。絶対祝福はできない。
日向だって、皇子の権力でも何でも行使して奪って、2度と誰の目にも触れないように閉じ込め、俺以外見えないようにしてやる。

だけど、本当はそんなことしたくない。
日向にも藤夜にも、笑って側にいて欲しいのに、ひどい考えばかりが頭を巡った。

「……しおう、痛い、」
「あ……、ごめん、」

気がつくと、日向の腕を捕まえて、力一杯握っている。細い腕がミシミシと音を立てそうだった。
腕を解き、痛むだろう場所を撫でて項垂れる。
俺は馬鹿だ。

別に日向に嫌いだと言われた訳でもないのにな。
阿呆みたいに取り乱してみっともない。
だけど、言葉一つで取り乱すくらい、俺は日向に溺れているんだよ。


「俺のことが好きか、分からなくなった?」


言いながら、泣きそうになった。
日向は俺が腕を擦るのをぼんやりと見下ろした後、重たげに頭を上げて、やはりぼんやりと俺を見る。

「……しおうは、1番、安心、」
「うん、俺がいると安心するんだよな?なら、好きだろ?好きでもない相手に安心はしないよ、」
「……安心は、好き?」
「好きな気持ちに決まりはないんだよ。一緒にいて安心するのも、居心地がいいのも、ときめくのも、全部好きだからだ。日向は俺といると安心するだろ?ご飯が美味しい、ってのも言ったな。隠れ家より俺と寝る方がいい、って言うのも好きな証拠だ、」

こんな風に気持ちが焦るのだってそうだ。
日向に俺が好きだと納得させたくて必死なのも、俺が日向を好きだからだ。


「………じゃあ、好き、」


そう言われたのに、虚しかった。
だって、ぼんやりとした瞳に浮かんだのは戸惑いで、納得じゃない。俺が無理に言わせただけだ。
その証拠に、小さな戸惑いの色は徐々に日向の顔に広がって、眉が寄り、頬の筋肉が強張った。

「どうした、日向?何がわからなかった、」
「……だいじょぶ、」
「大丈夫じゃないよ。何か混乱したんだろ。ちゃんと教えて。怖くなる前に解決しようって、約束だ、」
「……やくそく、」

胸の中がときめきではなく、不安でばくばくと鳴る。
日向の気持ちが探れないことへの不安もあったが、綱渡りのように生きている日向を混乱に落としてしまったことへの恐怖の方が強くなってきた。

何で、急にときめきがどうと言い出した。
何で急に、好きが分からなくなった。
その混乱がまた日向を絶望に落としはしないか。

日向の腕を擦っていた手を、細い顎にやって近くで水色を覗いた。
その瞳が、不安げに俺に聞く。

「……僕は、しおうが、好き?」
「何でそう思ったの、」

ゆらゆらと揺れ出した瞳を覗きながら、泣けるなら泣いてほしいと思った。その方が日向の心が生きている気がして安心できる。
だけど、涙は出ない。
代わりに、たどたどしい言葉が、小さな口から出た。


「……ときめくが、わからないが、嫌だった、」
「うん?」
「……しおうを、好きじゃない、が嫌、」
「どういうこと、」
「……しおうを、好きじゃない、僕は、もっと、いらない、」


不快さでいっぱいになった白い顔を見て、何を言っているんだ、と思った。
何かを睨むようにぎゅっと顔の内側に眉も瞳も寄って、さっきまでの無表情が嘘のようだ。

若葉に、好きな相手にはときめくのだ、と言われたんだな。
でも、その感情が分からなくて、戸惑ったんだな。
ときめかない自分は、俺のことを好きじゃないかもしれない、って不安になったのか。それで、俺のことが好きじゃないと自分を保てないんだと、今必死に訴えている。


それは、好き、ってことだろう。


「……何で、笑う、」
「え、笑った?あ、笑ってるなあ、」
「……僕、困った、のに、」
「俺を好きじゃないと、日向が困るの?」
「………僕、しおうの、違う?」
「そうだよ、日向は俺の。なあ、そんな嫌な顔しないで。笑ったのは、ごめん。日向の悩みがあんまり可愛いから、ときめいた。」
「……ときめく?」

一瞬怒ったように見えたけど、急にきょとんとした顔になる。
どうした、本当に急に表情が豊かになったな。
それで、何で俺の胸に手を当てるんだ。

「……しおう、ドキドキする、」

そうだよ、さっきとは違う意味で鼓動が早い。
今だって、そうやっていちいち確認してくるのが可愛くて、高鳴るばかりだと言うのに。

「……何で、ときめく?」
「日向は、俺のことを好きでいたいんだなあ、と思ったら嬉しくなった、」
「……うれしいは、ときめく?」
「そうだよ。俺は日向がすることは大抵嬉しいから、こんな風に俺のことで悩んでくれるだけで、嬉しくなって心臓が早くなる。」
「……うれしい、は、ときめく、」

今度は真面目な顔をして悩みだした日向に、俺はもう完敗だ。
何だ、この可愛い生き物。
好き、と言う感情一つで、何でそんな大事件みたいに悩むんだ。

ああ、でもそうか。
日向にとってそれは、生きること、と同義なのか。

俺の胸に手を当てたまま、険しい表情になった日向を見て、ふとそう思った。


俺の「好き」が日向をつなぎとめているように、日向自身の「好き」も日向をつないでいる。
それが揺らげば、日向は今歩いている綱から転げ落ちてしまうんだろう。


「おいで、日向、」


日向なりに、一生懸命生きることにしがみ付こうとしているようで、それが愛しかった。
その愛しさを、心だけでなく、この身でつなぎとめたくて、小さな体を抱く。

「難しく考えなくていい。日向なりの好きでいいんだよ。日向が好きだと思ったら、日向は俺のことが好き、」
「……僕は、しおうが、好き?」
「うん、日向から俺のことが大好きって気持ちを、俺はいつも感じてるよ、」
「……ときめか、なくても?」
「それは俺が頑張る。日向にときめいてもらえるように頑張るから、日向は自分の好きな気持ちを大事にして、」

やっぱりときめかないんだなあ、と哀しくなったけど、その分、何としてもこの可愛い王子を俺に惚れさせようと燃える。
だけど、いつだって日向は俺の阿呆な考えを超えてくな。


「……しおうは、安心。一番、安心。しおうが、いないと、僕はいない。しおうが、いい。僕は、絶対、しおうが、好き、」


もう、本当に、俺の完敗。



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