第八皇子は人質王子を幸福にしたい

アオウミガメ

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第弐部-Ⅲ:自覚

137.萩花 小さく大きな勝利

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日向様は変わらずぼんやりと虚空を見つめて、正気がない。
今日は特に、朝から殿下が宮城に出かけなければならなかったから、一段と反応が悪く、何度呼びかけても声が届かないことが多かった。

それだと言うのに、おやつの時間に、小さな口がぽつりと呟いた。


「……ざくろ、」


ちょうど唯理音さんが、すりおろしたりんごを口に入れたところだったので、ボロボロとこぼれて服に落ちる。だが、唯理音さんが拭き取る間もなく、日向様はもぞもぞと動き出して、唯理音さんの膝を降りようとした。

また無意識にどこかへ行こうとするのかと、焦燥が押し寄せる。
唯理音さんが抱いて留めるが、日向様はやはり、その腕を解こうともがいた。

「日向様?」
「……ざくろ、」
「柘榴がどうかされましたか?」
「………ざくろ、しないと、」

ぼんやりとしていた表情が、わずかに歪むのを見て、思わず唯理音さんと顔を見合わせる。

日向様の顔に、不快感が滲んでいた。
不快感と言うよりは、悲しそうな焦ったようなその表情に、驚く。

人形のように無表情だった顔に、久しぶりに見えた小さな変化だった。
なぜ突然、なぜ石榴、と疑問は湧くが、その変化を見落としてはいけないと思う。


生きることにさえ執着を失くした日向様が、わずかに残した欲だ。ーーー日向様の命を繋ぐその細い糸を、決して見失ってはいけない。






「…それで、ずっと柘榴を?」


宮城から帰った足でそのまま温室に駆けつけただろう紫鷹殿下は、日向様の姿を見て、目を丸くした。

「ええ、おやつの時間からずっと。柘榴の観察をするんだと、突然言い出して、」
「日向が?自分で?何で、柘榴?」

息が切れているのは、一刻も早く日向様の元に戻ろうと駆けてきたからだろう。
わずかでも目を離せば消えてしまおうとする日向様を、誰よりも必死に押し留めていたのは殿下だ。今朝も宮城に行かねばならないのを、ギリギリまで渋っていた。
昨晩は神殿に日向様を伴われたが、宮城となるとそうはいかない。目の届かない場所で過ごす時間は、生きた心地がしなかったに違いなかった。

汗を吹きながら日向様を眺めて瞬きを繰り返す殿下を見ていると、そのことが思い返されて、ああ、これか、と思った。

「殿下が困るから、だそうです、」

「俺が困る?何を?」
「生態学の演習を取っているのは、殿下でしょう。なのに、日向様に柘榴の記録を任せておられたから、日向様は自分がやらねばならないと思ったようです、」
「いや、そう…なんだけど、急にどうした、」


翳り出した夕陽が唯一注ぐその場所で、日向様は今もクレヨンを握った手を動かしている。

まだぼんやりとしていて表情は乏しいし、動きは緩慢だ。それでも、膝の上に乗せた手帳と、目の前の柘榴の鉢との間で視線を往復させる姿は、あまりに大きな変化だった。

その変化の元凶は、殿下ですよ。


「ご自分は紫鷹殿下のものだから、だそうです、」
「は、」


ぽかんと口を開いた殿下と、わずかに視線が合う。


「何か、刷り込みましたね、」
「いや、うん、まあ、…刷り込めたのかな?」


じろりと視線をやると、殿下は戸惑いながらも、徐々に喜びを露にした。
体の奥底から沸き上がる何かに押し出されるように、少しずつ頬が緩んで、瞳が細くなっていく。

そんな風に殿下が日向様を見るから、ですよ。


「日向様は、殿下のものだから、殿下の代わりに柘榴の記録をつけて、殿下に良い成績をあげないといけないんだそうです、」
「俺の成績かあ…、」
「日向様は殿下のものだから、と言えば、ご自分でお茶も飲まれました、」
「そうか、」
「殿下のものなのに、どこかに行きたくなるのが困るそうです。唯理音さんに、我慢できないから抱っこして欲しいとおねだりまでされたんですよ、」
「へえ、……転移魔法は?」
「一度使いましたが、畝見(うなみ)が抑制したところ、自覚されましたよ。やはり、殿下のものなのに、勝手に使って申し訳ないと、仰っておりました、」
「…俺の、」


『僕は、しおうのものだから。』


苦労して聞き出した、一言。

唯理音さんの膝を抜け出そうともがいた時も、日向様はうまくご自分の気持ちを言葉にできなくて、柘榴のある温室に行きたいのだと聞き出すだけで、かなりの時間を要した。
それでも、根気強く聞くうちに、少しずつ、その行動の意味を教えてくれた。


「ご自身のためには何もできないようですけど、殿下のものだというご自覚が、日向様を動かしているようです、」
「へえ…」
「立場上、日向様に不埒な刷り込みをするような者は排除しなければならないのですけど、」
「そうだなあ、そう言う不埒な奴は、取り締まって貰わないと困るなあ、」

ヘラヘラと、嬉しそうに笑う殿下にため息が漏れる。

無知で、世間の常識も何も知らない日向様だ。
それでいて、我々の教えることも、教えてもいないこともあっという間に吸収される。
だから、偏った何かを刷り込まないよう、重ね重ね注意したのに。

離宮の中で側に控えた部下たちからは何も報告を受けていないから、恐らく神殿に日向様を連れて行った辺りで、2人の間に何かあったのだろうと察する。

何もかも失くした日向様の心に、たった一つ刷り込んでくれた。


「日向、」


そんな風に、毎日毎日、日向様を呼んで。

「ただいま、日向、」

愛しくてたまらないと言う瞳で、毎日日向様を見た。
太陽のように包みこむ時もあれば、獣のように日向様を求めた時もある。日向様が無邪気に泥まみれになる時も、病んで苦痛の闇に落ちる時も、いつもいつも殿下は目を逸らさず、真っ直ぐに日向様を見つめ続けた。

「………しおう、」

殿下の瞳に捕えられた日向様の小さな手が、ゆっくりと伸びる。
近づいてきた殿下の腰に、自ら縋るように巻きついて、頭を腹に埋める。
その小さな水色の頭を、殿下はやはり愛しそうに見つめて、大切な宝物に触れるように髪を撫でた。

きっと、日向様がこの離宮に来てから、毎日。
そんな風に、殿下の愛を、日向様に刷り込んだ。

「何してたの、」
「………ざくろ、」
「大きくなったな。もう枝も生えて、木に見える、」
「………つぼ、み、」
「蕾がついたの?こんなに早く?」

喜びに満ちた声が少し震えているのは、気のせいではないだろう。
日向様の声に、殿下が泣き出したいほど喜んでいるが、何となくわかった。

「………僕、が、来なかった、から、」
「今日は見に来てくれたんだろ?記録もつけてくれた。蕾も、気づいてくれてありがとな。助かる、」
「………僕、しおうの、だから、」
「うん、俺のだもんな。俺と一緒に、柘榴を育てるんだよな、」
「……うん、」
「日向、抱っこしていい?」
「……うん、」

日向様が頷いたのを確かめてから、殿下は小さな体を抱き上げ、まだぼんやりとした顔を覗き込む。


「日向は、俺のだな?」
「………うん、」


また刷り込むように。殿下は囁いた。

日向様の庇護者として、できる限り日向様自身の心のままに生きて欲しいと願う。けれど、その一方で、殿下の声が日向様を縛り付けるくらいに強く、この場所に留めてくれたらいいとも。


「俺のだからな、明日も明後日もずっとずっと、日向は俺といないとだめだよ、分かる?」
「………わかる、」



殿下の勝利だ、そう思った。


勝ち負けのあるものではないけれど。
日向様から何もかも奪っていく尼嶺の記憶に、確かに殿下は勝った。
尼嶺が奪っていく側から殿下が愛を注ぐから、日向様は殿下の執着に絡め取られて、殿下の元に留まりましたよ。


今もまだ、日向様を覆う影は大きくて、危うさはある。
それでも、殿下が日向様に刷り込んだ愛情は、確かに日向様を生かしている。

「日向は俺の。」

再び刷り込むように、殿下は言った。



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