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第弐部-Ⅲ:自覚

136.紫鷹 日向の代わりに

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「なあに、お前の婚約者は、お兄様に挨拶もなし?」


神殿に入った途端に投げかけられた不躾な声に、日向が眠っていて良かったと心底思う。

だが、声がうるさい。
やっと寝たんだ。
気を失う以外に眠る方法がなくなった日向が、やっと寝た。起こさせてたまるか。


「ちょっとちょっと、無視はないんじゃないの。お兄様だよ、紫鷹、」


わざとらしく哀れを装う兄を無視して、白亜の神殿を歩いた。
それでも、兄姉の中で1番歳の近い兄は、追い縋るようについて来る。

来るな。
こっちは余計な話をする気もないし、日向を晒す気もないんだ。

「なあ、紫鷹。お兄様に婚約者を紹介してよ、」
「…うるさい、」
「ひどいなあ。ねえ、婚約者ちゃん、起きて、お兄様だよぉ、」
「やめろ、四紺(しこん)、」

日向の頭に被せた薄衣を引いて、顔を隠す。
腕の中に隠すように抱きしめて睨みつけると、四紺は面白そうに笑うから腹が立った。怒鳴りつけるか、殴るかしてやりたい。

だけど、できなかった。
日向が起きる。
たとえ僅かでも良いから、日向を静かに眠らせてやりたかった。





帝国の祖を祀り、神霊たちに祈りを捧げる祭礼の夜だ
皇族の義務として、俺は祭礼の全てを身届けなければならない。
父たる皇帝陛下や兄姉たちが祭礼でそれぞれの役割を担う中、未成年皇族の俺は御簾の奥で見守るだけだが、それでもその席を辞することは許されなかった。

皇子という、俺の立場に腹が立つ。
その特権を得る故の義務と頭でわかってはいるが、正直なところ、俺の優先順位は日向が1番上だ。
今は特に、日向から離れられない。なのに日向を優先できないのが煩わしかった。


だから代わりに、末っ子皇子の特権で父上に強請ったわけだが。


「まあた紫鷹が我儘を言ったと、朱華兄様はお怒りだよ、」
「…父上が良いといったんだ、朱華は関係ないだろ、」
「ひぇー、今のを聞いたら、兄様がどんな顔をするか。兄様の妃だって参加を許されないんだよ。それを、よくもまあ、」
「朱華が信用されていないんだろう、」

ひぇーと、四紺は大袈裟に悲鳴をあげる。本当にうるさい。
朱華がなんだと言うんだ。俺は日向の側にいられるなら、父上だって利用する。

「四紺は持ち場があるだろ。行けよ、」
「やだよ、兄様や姉様がお前の話を聞いて送り出したんだから、手ぶらじゃ帰れない。そもそも、朱華兄様の機嫌が悪いから、同じ部屋にいたくないんだよ。紫鷹のせいだろ、」
「知らん、」

やはり、兄姉の差金か。
祭礼の間、大事な役割を担う上の兄姉たちは持ち場を離れられないから、日向を連れても鉢合わせることはないだろうと踏んだが、1番身軽な四紺を送ってきた。
大方、日向の噂を確かめたいとか、俺を揶揄いたいとか、そう言うことだろう。大事な祭礼の夜だと言うのにふざけた連中だ。

「姿絵を見たけどさ。美人だね、婚約者ちゃん。さすが尼嶺、」
「………、」
「紫鷹の一目惚れ?それとも色仕掛けされた?菫子様まで懐柔するって、相当な子だよね。尼嶺には婚約を反対されたんでしょ?そのせいで結構強引な介入をしてるって聞いたけど、そこまでするほど?あ、もしかして、もう寝た?初めてを奪っちゃった責任感とか…」
「黙れ、」

ひ、と短く声が上がる。
四紺のものであったし、青い顔をして見守っていた禰宜たちのものでもあっただろう。
神聖な神殿で、帝国の安寧を願う大事な夜に、皇子としては失格だ。

だが、日向を侮辱するな。

「婚約に文句があるなら、受けて立つ。だが、日向に関わるな、」

「…そうは言っても、お兄様だよぉ?」

さすが兄。同じ皇帝の血を引くだけはある。
四紺は俺の威圧に怖気付いたものの、すぐに持ち直して唇を尖らせた。禰宜は青い顔で固まったままだ。
だが、日向を侮辱した兄を敬う気持ちも、慕う気持ちも、俺にはない。


「これは俺のものだ、」


兄姉の玩具にする気はない。

それだけを告げて、兄を残したまま部屋へ飛び込んだ。
扉を引いた後も、外でしばらくうるさかったが、祭礼の時間も迫っているせいか兄の声は徐々に遠ざかっていった。

小さな部屋に日向と2人。
部屋と言っても、入ってきた扉の反対側は御簾で仕切られているだけだ。その向こうには祖霊を祀った祭壇と儀式のための舞台が広がっている。

それでもようやく日向と2人になれたことに安堵した。
なのに。


「…………僕、 しおう、の?」


小さな声が聞こえて、せっかく眠ったのに、と泣きたくなった。
兄がうるさいせいもあるが、多分、俺が怒りのままに気配を荒立てたせいだ。
見下ろすと、薄衣の下から水色の瞳が俺を見上げていた。

「ごめん、怖かったな、」
「…………わかん、ない」
「分からなかったなら、その方がいい。」

薄衣を取って直に水色を覗く。
少し眠ったせいか、ぼんやりとしてはいるが、視線は合った。
ちゃんと俺の声も聞こえているようで、ひどい時に比べると、随分と意識がはっきりとしている。

久しぶりに目が合ったな。

ただそれだけで目頭が熱くなって、小さな体を抱く腕に力が籠った。
ここ数日の日向は目覚めていても寝ていても、反応が乏しくて人形のようだった。
時々何かにひどく怯える以外は、ぼんやり虚空を眺めて、自分からは食べることも寝ることもしない。本当に生きているだろうかと、何度も呼吸を確かめた。

その日向が俺を見て、会話をしている。


「神殿に行くって話しただろ。覚えてる?」
「………覚え、る、」
「覚えているのか、偉いな。向こうに舞台があるだろ。今からあそこで、お祓いをしたり、神楽を踊ったりする。大きな音がするかもしれないけど、大丈夫だからな。」

御簾の前に座って、日向にも祭壇と舞台が見えるように抱き直すと、少しだけ水色の頭が動いた。俺が指差す方へと重たそうに頭を動かして、視線を向けている。

「………すみれ、こ、さま、」
「うん、母上が来たな。母上は他の妃と一緒に水と華を供えるんだ。横にいるのが他の妃な。後ろから来たのが、俺の兄と姉、」
「……し、こん、どれ、」

反応のいい日向に嬉しくなって説明していたら、そんなことを聞かれた。
やはりさっきの話を聞いていたのだろう。律儀に受け答えせず、無視して突っ切るべきだったと項垂れる。
こんな場所に連れてきたのだから、嫌な思いをさせるかもしれないという覚悟はあった。だが、できることなら何も聞かせたくはなかったよ。

「あの碧い頭の男な。呉須色乃宮(ごすいろのみや)の四子で第七皇子。腹違いだが、俺のすぐ上の兄になる、」

年が近いし、呉須色乃宮は半色乃宮(はしたいろのみや)に友好的だから、四紺とは親しい時期もあった。だが、あの性格だ。兄姉の間をあの調子で渡り歩いて引っ掻き回すから、関わりあっても良いことはない。
日向には、近づけたくなかった。

だが、日向は重たい頭を動かして兄の姿を探す。
俺の言う男を見つけると、しばらくぼうっと同じ場所を見つめて、俺が他を指しても動かなかった。

それが、再び小さく聞く。


「………僕、しおう、の?」


響き出した笙の音色に掻き消されそうなほど、小さな声だ。
俺が日向の声を聞き逃すわけもないが、もっと声が聞きたくて顔を寄せた。

「嫌だった?」
「………わかん、ない、」

頬に触れると、頭が動いて白い顔が俺を振り返る。
何の感情も浮かばない顔だったけれど、ちゃんと俺をみて、視線があった。

「日向は俺が貰うって、約束したろ。日向は俺の。」
「………僕、しおう、の?」
「そうだよ。四紺が日向にちょっかいを出したがっていたけど、日向は渡さない。わかる?」
「………ぅん、」



「………僕、いらない、から、あげる、」



僕は、僕がいらないから、 しおうにあげる。

感情がないまま、あまりに悲しいことを言うから、俺の方が泣きたくなった。
ちゃんと俺を見て会話をするのに、日向の中では、今も絶望が渦巻いているのだと思い知らされる。

体が成長を始めたな。
男なら誰でも通る変化だけど、日向にとってそれは暴力の象徴だ。
その象徴を目の前に突きつけられて、それが自分の体だと理解して、日向は自分の体を嫌悪した。体だけじゃなくて、自分自身の価値も見失って、今はもう自分を愛することができない。

日向は、日向を傷つけた従兄弟とは違うのに。
食べることも寝ることも自分の意思ではできなくなったのは、命への執着が持てないからか?
無意識に転移魔法を使ったり、夢遊病のように部屋を出て行こうとしたりするのは、嫌悪する自分を失くしてしまいたいから?


「…日向は、いらない?」
「…………うん、」
「じゃあ、俺がもらうな、」
「…………うん、」
「俺のだから、大事にしなきゃダメだよ、」
「…………うん、」
「勝手に消えたり、壊したらダメだよ、」
「…………うん、」



鐘の音がして、祭礼の始まりを知らせた。
その音に呼ばれるように、日向は視線を舞台に向けてぼんやりと眺める。
本来なら、俺の方こそ、舞台に視線をやって、祭礼の成り行きを見守らねばならないのに、水色の頭から目が離せなかった。


なあ、日向。
日向が自分を愛せないなら、俺が愛する。
日向が自分を大事にできないなら、俺が大事にする。

だから、頼む。生きてくれ。


祭壇で、静かに厳かに祈りの言葉が捧げられる。
帝国を作ったと言う太陽の神に、感謝と願いを述べる祈りだった。




太陽の神がいるのか知らないし、俺の祖霊にどんな力があるのかも知らない。
だけど、もしいるなら、頼む。

日向を奪うな。
この小さな魂を、これ以上傷つけないでくれ。
この先の俺の幸福を全て捧げてもいい。
日向を生かしてくれるなら、この先、いくらでも祖霊を敬い祈りを捧げる。

だから、頼む。
日向を生かしてくれ。


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