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第弐部-Ⅲ:自覚

135.藤夜 友は王子の痛みに怒る

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数日ぶりに会ったら、ひなの具合が悪かった。

「日向、もう少し食べような。口開けて、」

紫鷹を呼びに部屋へ行くと、紫鷹が、膝の上に抱いたひなの口に粥を入れている。
ひなは、拒みこそしないものの、言われるがまま口を開けるだけで、咀嚼することも飲み込むことも、紫鷹が声をかけてようやくという様子だった。


話には聞いていたけれど、確かに相当まずい。


直感的にそう思わせるほど、ひなには生気がなく、感じるのは危うさだ。
手段さえあれば、自らその命を終息させてしまうのではないかとさえ思えた。俺でさえそう思うのだから、側にいる時間が長い者たちが感じる危機感は相当なものなのだと思う。
護衛も侍女も、表情を保っているが、張り詰めているのが分かった。

「ひな、おはよう、」
「……………………とや、」
「この間話していた絵本を持ってきたよ。俺の弟が幼稚舎で使ったものだけど、まだ綺麗だった。ほら、」

声をかけると、ひなは重たげに頭を上げて振り返る。
だが、俺を見ても、俺と認識するのに時間がかかった。ぼんやりとこちらを見るばかりで、手にした本には視線が移らず、瞳はそのまま虚ろになっていく。
紫鷹が腹を撫でて、もう少し食べような、と声をかけ、口を開くだけだった。


「そう言う訳だから、日向の側を離れたくない。任せてもいいか、」


申し訳なさそうに紫鷹が言うのに頷く。
正直きついが、否と言えるはずがない。

「……お前は平気か、」
「俺だけじゃないからな、何とかなる。側にいる方が安心するし。悪いな、」
「こっちは気にするな。……何とかしてやって、」
「うん、ありがとう、」

紫鷹が、真正面から礼を言うのはいつぶりだろう。
少々、面食らったが、気持ちが落ちている時ほど素直になる友の性質を思いだして、眉が寄る。

踏ん張りどころだな、紫鷹。
しんどいだろうが、多分、お前じゃなきゃ、今のひなはどうにもできない。
何とか踏みとどまらせてくれ。

「ひな、また夕方に顔を出すからね、」

水色の頭を撫でたけれど、瞳は虚ろなままで、振り返ることもなかった。






「紫鷹はまたいないのか、あいつの婚約だろう、」

呼んでもいないのに、どうして朱華(はねず)殿下は来るのだろう。
紫鷹とひなの婚約に関しては、皇帝陛下と菫子殿下が主導する形となっているから、皇太子殿下といえどもお呼びではないと言うのに。

「尼嶺の婚約者とやらも、なぜ顔を出さない、」

金剛宮の一室。
皇帝陛下が紫鷹に与えた部屋のソファにどかりと腰を下ろして、朱華殿下は萩花(はぎな)に問う。

「両殿下のお手を煩わせるほどの議題はございませんので、」
「紫鷹は他の公務も免除しているだろう。婚約についても我儘を通してやったのだから、使者を迎える時くらい顔を出させろ。婚約者も同様だ、」
「皇帝陛下と妃殿下より不要とお達しを頂いたので、私どもには何とも、」

よくもまあ、ああも和やかに受け答えできるなあと、感心する。
にこりと微笑みを絶やさないし、嫌味にもならない。それでいて下手に遜ることもないのが、萩花のすごいところだ。俺なら簡単に朱華殿下の機嫌を損ねるところを、萩花はうまく凪いでいく。
一回りも下の萩花に良いようにあしらわれている皇太子殿下が滑稽に見えて、込み上げる優越感を隠すのが大変だった。

そうこうしているうちに、衛士が使者の到着を告げ、朱華殿下には萩花が丁重に退出を希って、追い出していく。

「…何しにきたんですか、あの人、」

静かに見送った文官が、ボソリと言うのに笑った。
萩花も肩をすくめて、さあ、と笑う。

「こちらの状況を探りたいのだと思いますけど、紫鷹殿下がいらっしゃらないから、ご不満の方が先に立っているように見受けられますね、」
「色々と工作して、婚約の儀を遅らせていらっしゃるようだから、紫鷹の反応を見たかったんじゃないですかね、」
「なるほど、」

真面目に納得する文官に、部屋に集った一同が顔を見合わせて笑った。
離宮でも気を張っていたし、金剛宮に入ってからもすぐに朱華殿下の来訪があって張り詰めていたから、ようやく肩が楽になる。
すぐに使者が来るだろうが、わずかな休息だ。

だけどせっかく萩花がいるのなら聞きたかった。

「今朝、ひなを見たけど、」
「紫鷹殿下がついていてくれるので、良い方ですよ、」
「…そんなに?」

今朝見た姿も十分憔悴していたが。

「もう何度も転移魔法も発動しています。本人は完全に無意識で、魔力抑制を受けてもそれを自覚できないくらいには、悪いです、」

絶句した。
魔力に敏感なひなが、それすら感じられないのか。

「成長痛には怯えるんですけどね、」
「…成長したくないって?」
「ええ、痛み止めが効いている間はいいんですが、痛みが出るとひどく混乱するので、効果が切れないように小栗が調整しています、」
「…ひなも、周りもしんどいな、」
「承知の上ですから、」

萩花はやはり穏やかに笑う。
ひなの専属護衛として菫子殿下に招かれたはずの萩花は、紫鷹とひなの婚約の話が出たのを機に、ひなの侍従としての役割を果たすようになっている。護衛の采配はもちろんのこと、婚約の協議や尼嶺との折衝、ひなの教育係や管財人の役割までしているというから、頭が下がった。

ひなの護衛になったばかりの頃は当惑も見えたが、今はもう何の迷いも見えないな。
名実ともにひなの保護者になって、ひなも父親か兄のように慕っている。

だからこそ、今のひなの状況は、萩花にもしんどいだろうと思う。そのつもりで尋ねたが、やはり萩花は穏やかに笑うだけだった。

「日向様の状況を鑑みるに、生きているだけでも奇跡だと、何度も思い知らされましたからね。とにかく、今は留まっていただけるように尽くすだけです、」
「そっか、」

頷いて、本当にそうだな、と思った。

「草」の報告書を思い出すたび、ひなが心身に不調をきたすたび、俺もその奇跡を思う。
過去の傷を思い出して苦悩できることも、しんどくはあるが、それ自体がひなにとっては奇跡だ。痛みは今もあるだろうが、ここにはひなを傷つける当事者は誰もいない。

そのことに気づいて、ひなの心に安寧が戻るといい。

またひなが幸せそうに笑う声が聞きたい。
それが叶うなら、親友が気持ち悪いくらい甘い顔をするのも、見てやってもいい。

そんなことを考えていたら、尼嶺の使者が来て、婚約の協議が始まった。
官吏レベルの事務的なやり取りが主だから、かつて離宮を訪れた大使のように、ひなを貶めるような物言いをする者はいない。むしろ自国の王子の一大事として真剣に額に汗を流すような相手だったから、いくらか気が楽だった。

「婚約の儀への参列者ですが、」

そう言って、尼嶺の使者が書簡を出す。
口頭で話を聞く俺たちの横で、書簡は文官が受け取った。
その気配が、瞬時に張り詰めたのを、多分萩花も気づいたと思う。


「陽炎(かげろう)殿下が、参列されることになりました、」


陽炎。
その名に、口の中が急激に乾いた。
血が沸々と沸くのを感じて、抑えるのに苦労する。

なぜ。

「陽炎様は、今回の婚約に最後まで反対されていたと聞きましたが、」

萩花の声がどこまでも穏やかなのが、気に障るほど、気持ちが逆立っていた。だが、視界の端で、萩花の手が白くなるほど強く握られているのを見て、あれほど冷静さを欠かない友も気持ちを昂らせていることに気づく。


なぜ、陽炎か。


尼嶺の王族が軒並み、ひな自体には興味を示さなかった中、唯一「ひな」の婚約に反対していたと聞いた。
他の王族や尼嶺の官吏が、ひなの婚約に反対したのは、ひな自身というよりも、帝国との関係を優位にできる者を嫁がせたいと言う意図があったからだ。だが、陽炎は違う。

陽炎は、ひな自身を、尼嶺に連れ戻したがっていた。


「陽炎殿下は、日向殿下の身を案じておりまして、自らご様子を伺いたいと申し出られました。婚約に反対したのも、日向殿下を思ってのことです。お身体の弱い殿下が無理をなされているのではないかと、常々……、」

「そうですか、」


使者の言葉を遮った萩花の声は穏やかだった。
けれど、遮られずにいられなかったのだと分かる。萩花が遮らなければ、俺がした。


草の報告で何度も名前を見た。
この数日、怯えたひなが、何度も呼ぶ名前であるとも聞いている。

小さなひなに欲を抱き、その欲を吐き出した男だ。
草を持ってしても、始まりがいつだったか突き止めるには至らなかったが、少なくともひなが8つになるより前から、その男が加虐に加わっていたのは確認されている。


たった数日前まで、ひなは笑っていたんだ。
その笑顔を一瞬で奪って、「いなくなりたい、」と言わせた男が、ひなを案じているだと?

お前のせいで、ひなは自分さえも疎むようになった。お前が植え付けた恐怖に嫌悪して、自らの成長さえ恐怖の対象になったんだよ。
あんなに無邪気に紫鷹に甘えていたのに、今はそれもできない。生きる意欲さえ無くして、食べることも寝ることもままならず、ぎりぎりの瀬戸際に立たされているんだよ。

それを案じて、必死に繋ぎ止めているのは紫鷹だ。
離宮でひなを守る者たちだ。

お前じゃない。


「…藤夜、」

小さく萩花に呼ばれて、沸き立つ殺気を抑える。
紫鷹がいなくてよかった。あいつは多分、堪えきれない。
悪いのは使者ではないが、使者ごとこの部屋を破壊するくらいには暴れただろう。

こちらの不穏な気配に気付いた使者が、戸惑ったように汗を拭く。
それを無視して話を進め、協議をさっさと締めた。


使者の見送りもそこそこに、萩花に鍛錬を頼む。萩花は心得たように、穏やかに笑ってそれを受けた。

怒りを、どうにかしなければならない。
俺より荒れるだろう紫鷹を抑えるためにも。
ひなを支え続ける紫鷹を支えるためにも。

何より、俺自身が暴れなければ、ひなの痛みがあまりに苦しくて、受け止められなかった。


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