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第弐部-Ⅱ:つながる魔法

127.紫鷹 下手でもできなくても

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「ん、だいじょぶ、」

腕の中で、動き始めた小さな体が、納得したように頷く。
小さな手を握ったり開いたりするのを繰り返して、日向は自分の体が慣れて動き出したのを確かめていた。

「もう怖くない?」
「怖いは、ある、けど、だいじょぶになった、」
「そうか、」

もう少しこの温もりを閉じ込めておきたかったんだけどな。
日向は今すぐにも目の前のお宝の山に飛びつきたいと、うずうず動き出す。腕を解いてやると、案の定、ぴょんと膝を降りて飛び出していった。
それが、嬉しくもあり、寂しくもある。

「しおうの、描いたは、どれ?」
「こちらですよ、」

離宮の一室。
普段使わない調度品や衣装が並ぶ中を管理人に案内されて、日向は跳ねていく。そのあとをついていくと、弥間戸(やまと)が机の上に紙の束を並べていた。


学院に通いたい、と望む日向と毎日たくさん話をした。
何が怖くて、何が嫌で、何が日向を混乱させたか。同時に何が幸せだったかも。

新しい物がたくさん自分の中に飛び込んできたことが、嬉しくもあり、怖くもあったと日向は言った。
初めてみる学院もだし、学生や学生の声もそうだった。教室やその雰囲気、教授と言う存在と学生との役割の違い、あちこちにある目新しい物、初めてみる魔法、日向の知らない景色…。

思えば、日向は亜白と森へ行った日と見送った日、それに学院に通った二日間しか、離宮の外に出たことがなかった。その前に日向が知る世界は離宮の中と蔵の中だけだったことを思えば、みる物全てが日向にとって未知との遭遇だったのだとわかる。

それは、楽しくもあり、恐ろしくもある。

離宮の中では仕方ないと諦めがついていたはずのことも、学院で何度も悔しくなったと日向は話した。
離宮には、日向より年上か体も圧倒的に大きい人間しかいないから、小さい自分は仕方ないのだと諦めていたのに、学院には年下の学生が何百人もいて、日向にできないことを当たり前にやる。学院に向かう馬車から眺めた景色の中で自分よりうんと小さな子どもが元気に走り回るのも、日向を打ちのめした。

そこに、安心を与えるはずの俺がさらに不安にさせたわけだから、隠れ家に籠るしか日向には残されていなかったわけだ。

日向は今も、俺を目の前にすると固まる。
それでも、俺の腕に抱かれて温もりを確かめるうちに、小さな体はその緊張を解いていくようになった。そんな風に怖がるくせに、日向自身は俺といることを望んでくれて、俺が離宮にいる間は自分から寄って来るし、夜は一緒に眠ってくれる。

だから、少しずつゆっくりと、前に進んではいると思う。

どんなに時間がかかっても、日向のペースで世界を広げて行こうと、話した。
日向の知らない世界を少しずつ知って、心に折り合いをつけて、また一緒に学院に通おうと。


それが、どういうわけだか、保管庫にいる。


「紫鷹殿下が、幼稚舎に通われた頃の作品です、」


弥間戸のやつ、ずいぶんと嬉しそうだな。
俺の幼少から側にいる侍従は、日向が俺の赤ん坊の頃を尋ねた途端、喜び勇んで古い記録を持ってきた。それを弥間戸が読んで聞かせるうちに、いつの間にか、実物を見せようと話がまとまっていた。

これも、日向の知らない新しい世界だからと。

「まる、」
「丸ですねえ、何を描かれたか分かりますか、」
「まる、」
「紫鷹殿下の身近な方を描かれた絵なんですが、」
「すみれこさま?」

一際大きく跳ねて、日向が弥間戸を見上げる。
嬉しそうに、悪そうに弥間戸が頷くと、日向はこちらをくるりと振り返って、目を輝かせた。

「大きいまるは、すみれこさま。小さいまるは、 しおう?」

「多分、そうだろうな、」
「まるは紫色だから、すみれこさま、としおう、わかる、」
「わかるのか、」
「わかる。いいね、しおうの絵。紫はすみれこさま、としおうが、わかるのに。まるは、全然、ちがう!」
「…子どもの絵なんて、こんなもんだろ、」
「うん、どくそうてき!」

独創的なあ。
それは日向の中で、あまり良い意味の言葉ではなかった気がするが、どうなんだ。

困惑する俺を他所に、ぴょんぴょんと跳ね出した日向は、もっと見せろと弥間戸にせがむ。弥間戸は嬉々として、俺の幼い頃の絵を引っ張り出して、日向に見せた。その度に小さな体が跳ねて、しまいには、いいねいいね、と踊り出す。
何だ、その踊り。可愛いな。


「しおうは、絵が、上手、じゃない、ね!」


小さな手に俺の絵を握って見つめながら、日向はくるくる回る。
これが藤夜や弥間戸に言われるのなら腹も立つのになあ。

「しおうの、馬は、足が、六本!」
「今は描けるぞ、」
「しおうの人間は、手がぶらぶら!」
「腕は難しいだろ。どう描くのが正解か、今も分からん、」
「僕も!」
「だよなあ。手足が四本ならまだしも、虫はもっと増えるだろ。もうどうしたらいいか分からない、」
「僕と、一緒!」

ぎゅうと小さな手が抱きついてきて、キラキラ輝く水色の瞳で俺を見上げてきた。
その表情は反則だろう。可愛すぎて、どうにかなりそうだ。
一緒がそんなに嬉しいか。

抱きしめて口づけを降らせたかった。
だが、邪な気持ちで伸ばした手が日向を捕まえる前に、日向は再びくるりと回って弥間戸のもとへ跳ねていく。惜しい。

「しおうの、学習帳、」
「ええ、これは、初等科に通われた頃ですね。」
「字は、上手、」

俺の字が上手かったのは期待はずれだったようで、すぐに日向の視線は別のものへ移る。
何で不満げなんだ。上手くて構わないだろう。
お前にけなされても嬉しいだけだが、できることなら格好良いと思われたいのに。

「粘土は何?」
「これは、鷹ですね。殿下の印ですから、」
「粘土は、へた、」
「殿下は、芸術的な素養が残念だと、教師も仰っていましたね、」
「ざんねん!」

あはは、と笑った日向が、俺を振り返って手を伸ばす。
その手を取って隣に並ぶと、残念な鷹の像を指差して、また声を立てて笑った。

「僕と、一緒!」
「一緒かあ?俺はもう諦めてるけど、日向はこれからうまくなるかもしれないだろ、」
「いいの、」
「いいの?」
「しおう、と一緒。へた、でも、一緒なら、だいじょぶ、」
「そっか、」

小さな手がきゅうと強く握ってきたのは、何か怖かったか。
それとも、俺が下手で安心しただろうか。もしそうなら、俺は下手なままでいい。


下手でもいいと、できなくても大丈夫だと、日向の中に安心を埋めたい。


小さな手を握り返すと、日向はまた嬉しそうに跳ねて、俺の手を引いたまま部屋の中を歩き回った。

俺が幼少の頃に乗馬に使った馬具や、子ども用の模擬刀、鍛錬用の温玉(ぬくいだま)、昔遊んだ騎馬の人形たち、藤夜と競った盤上遊戯の数々、まだ離宮で家庭教師をつけていた頃の学習用具。萩花が離宮で暮らした頃に藤夜と仕掛けたイタズラも出てきて、懐かしいと同時に 、こんなものも残しているのかと呆れた。
管理人を見やると、皇族の持ち物ですから全て貴重品です、と当たり前のように言われた。


「小さいね、」


古い衣装を納めた箱から産着を取り出して、日向は俺の体に当てる。
俺の胸の中に納まるほど小さな服に、目を丸くするのが可愛いくて笑った。

幼少期の普段着や宮城での行事に一度着ただけの服、幼稚舎の劇で着た衣装まで出てくると、懐かしくなって俺も少し夢中になる。

「こんなのも、残してあるのか、」

日向と同じ背丈の頃に、建国祭の式典で兎の役をやった。建国神話に登場する兎だ。
子どもっぽい役は嫌だと駄々をこねて、兄上たちを困らせたのを覚えている。

「妃殿下は、ご子様たちの衣装は特に大事にされていますよ。時折、見にいらして、皆様の成長を喜ばれています、」
「へえ、」

知らなかった。
他国へ嫁いだ兄姉ならまだしも、俺はまだ離宮にいるだろうに。
そんなことを思っていると、倉庫の管理人は、目を細めて朗らかに笑った。

「子供は成長して、どんどん大人の手を離れていきますからね。殿下も昔ほど妃殿下とお過ごしにはならないでしょう、」
「うん、まあ、そうか、」
「すみれこさま、さびしい?」
「今は、日向様もいらっしゃいますから、お寂しくはないと思いますよ。」

管理人はそう言って微笑んだが、日向は何かを思ったのだろう。
小さな着物を握りしめて、俺を見る。

「僕は、何したら、いい?」
「何って、」
「すみれこさま、さびしくない、になるは、何がいい?」

母上は忙しくて、寂しさを感じる暇もないだろうとは思う。
だが、この優しさの塊は、やっぱり誰かが悲しいことも寂しいことも、嫌なのだろうな。

宮城でそういう性格は損だと思うから、以前なら簡単に線を引いた。
それなのに、日向だと思えばそれも愛しい。愛しくて、その心を守ってやりたいと俺は思う。

「日向が、母上の絵を描いてやるのはどうだろう、」
「僕の、絵、」

「そ、俺が紫の丸を描いたみたいに、日向が描いたら母上は喜ぶよ、」
「上手に、描けない、よ、」
「それでいいんだって。俺は日向にもらった大瑠璃が嬉しかった。日向は満足いかなかったみたいだけど、今も宝物だよ。これがあるから寂しくない、」

上着の下の大瑠璃を見せると、日向はまたぎゅうと着物を握る。

「上手にできなくても、日向がしてくれる全てが、俺も母上も嬉しい。だから、母上は俺の絵を残してあるんだと思うよ。」

あんなに下手でもな、と言うと、日向は小さく頷いた。

「…しおうは、絵がヘタ、」
「んー、正面から言われるとなあ、」
「僕はヘタでも、しおうの絵が好き、」
「そうか、」
「しおうも、すみれこさまも、僕の絵が、好き、」
「うん、大好きだ、」

何度か確かめるように、日向は同じ言葉を繰り返した。
その全てに大好きだ、いいんだ、と応えると、じゃあ描く、と日向は笑う。
不器用に、ぎこちなく。きっと、自分の中でいろんな思いを一生懸命片付けているのだろう。

そんな日向が、本当に大好きだよ。

屈んで腕を広げると、小さな体は素直に収まってくれた。
ゆっくりでいい。少しずつ、日向の中に安心が埋まって、育って行くといい。
そう思って背中を擦ると、日向は力を抜いて俺に身を預けてきた。

「しおうの絵、がほしい、」

ぽつりとつぶやいた日向の言葉に目を開く。

「どれ、」
「しおうが、僕に、描く、」
「…なるほど、」

絵など、ここ数年は授業以外で描いたことがないが。

「僕が、すみれこさまに、描くから、 しおうは、僕に、描く。そしたら、さびしくない、」
「…お前、寂しいの?」
「しおうが、いないは、いつもさびしい、」

思いがけない告白に胸が鳴った。

「しおうが学院に行くも、宮城に行くも、いつも、さびしい、」

ぐりぐりと、小さな水色の頭が俺の肩に擦り寄る。甘えたい時の日向の仕草だ。こうなったら、ちゅうでもなんでも許されるから、俺は決して見落とさない。

だが、何だ。
そんなこと思っていたのか。

「もしかして、学院に行きたかったのも、そのせいか、」
「学生、になりたい、もある。けど、 しおうと行きたい、もある、」

そうか、と応じた声が少し上ずった。
弥間戸と管理人の視線が生暖かくなったが、俺は日向に強請られている側だ。許せ。
またぐりぐりと、日向の水色の頭が俺の肩を押す。

「絵だけでいいの?」
「…粘土も、」
「何がいい、」
「僕と、しおう、」

難題だな、と笑う。
ヘタでいいから、と日向は水色の瞳を揺らして俺を見た。
その瞳に吸い寄せられるように口づけを落として、誓う。

「作るよ。下手でも大事にしてくれるな?」
「うん、」

なら、いくらでも作る。
でも今はひとまず、日向を甘やかすところから始めようか。

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