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第弐部-Ⅲ:自覚

130.紫鷹 新たな一歩

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広い空の下で、日向の声が上がる。

「あずま、あった!卵!」

青い稲が伸び始めた水田で、東(あずま)に抱えられた日向が目的のものを見つけたらしい。黄色の大きな麦わら帽子が、ぴょこぴょこ跳ねた。

「へー、すごい。こんなにいっぱい生まれるもんなんですね、」
「おじゃ…、おた、おたま、たくし、は、」
「オタマジャクシもいますね。ほら、あの辺にうじゃうじゃ。もう孵化してるんですね。へー、」
「おじゃじゃじゃくし!」

東が日向を水田に降ろすと、日向は長靴でバシャバシャと水を跳ねさせて、水田の脇にうずくまる。

そうか、蛙の卵か。
オタマジャクシもいたか、と思うと、少し背筋が寒くなった。何であの護衛は、飄々としていられるんだ。むしろ興味津々じゃないか。お陰で日向がずいぶん楽しそうに連れまわしているが。

「やっぱり東に任せた方が、適任だっただろ?」

隣で俺に並んで水田に入った藤夜が、くつくつと喉を鳴らす。
お前のせいだろう。お前が、水田では足を取られるから、東に任せた方が良いとか言い出すから、日向は演習の開始からずっと東といる。

日向の久しぶりの生態学だ。
日向の体力を戻すのと、外の世界に慣れさせるのに時間がかかって、蜘蛛の巣を探した日からもう3カ月が経った。あの頃はまだ春と言えたが、今はもう初夏だ。

水田に張られた水には、青々とした稲が茂って、日向がうずくまると半分は見えなくなる。
今は蛙に夢中だが、演習の開始早々に、アキアカネやゲンゴロウ、ミズスマシを次々に見つけて、同じようにうずくまっていた。お陰で、麦わら帽子の下は泥だらけだ。東がうまくフォローはしているから怪我こそしないが、日向が東を巻き込んで転んだり泥をまき散らしたりするから、連れまわされる護衛も随分泥まみれになった。

「…東で、あれか、」
「そう、東であれだよ。お前なら今頃、ひなと一緒に水田に顔から突っ込んでる、」
「なるほど、」

適材適所だよ、と藤夜は笑う。
俺と2人で生態学の演習を続けた3カ月は、ほとんど鉄仮面に戻っていたのに、機嫌がいいな。
もちろん、日向が帰って来たのが嬉しいだろうことは、分かる。いつでも日向が戻れるように、お前自身が誰にも文句を言わせないだけの成績をこの演習で納めてきたのも、俺は知っている。

だがな、日向の復帰後最初の演習だからこそ、俺は日向といたかった。

「お前の欲より、ひなの演習が優先、」
「…何も言っていない、」
「紫鷹にできないことは他に頼るんだろう?」

本当に、何から何まで腹立たしい男だ。

俺が取るはずだった月の成績優秀者も、毎月のようかっ攫って日向の歓声を浴びた。俺の護衛も務めながらのくせに、どこにそんな余裕があったんだ。そう思うからこそ、余計に悔しい。

ーーどこまでも、俺の力が足りない。
日向を水田で守ってやれるほどの力も、護衛をしながら優秀な成績を収める男に勝つ力もないから、一人苦虫をつぶすしかないわけだ。
そういう積み重ねが、俺の恐怖になっていたんだな、と今はわかる。

日向にできないことは、俺や誰かができるようにしてやる、と言うくせに、俺自身にできないことを認めるのも、誰かに委ねるのも悔しいのが先に立つから、本質的にはまだまだ変わりきれていないのだろう。


「あずま、足!おじゃじゃじゃくしに、足が、ある!」
「あ、すごい。もうほとんど蛙のやつもいますよ、」
「かえるは、おじゃじゃくし、おじゃくしは、かえる、は本当!」


日向の黄色い歓声を聞きながら奥歯を噛み締めた。
おじゃくし、って何だ。相当興奮しているな。お前の方が蛙みたいにぴょこぴょこ跳ねてるじゃないか。
他の学生の顔も、さっきから緩みっぱなしだと気づいているか?
畦道のところで見守っている麗(うらら)も、ニコニコと機嫌がいい。あの麗はな、学生の前では厳格な教授として通っているんだと。お前のいない間に初めて知ったよ。

太陽の下で笑う日向は、眩しいくらいに目を引く。
風が水色の髪を揺らすたび、キラキラと瞬いた。泥にまみれるのに、日の光を浴びて白く輝く顔は眩しいくらいに綺麗だ。無邪気に笑うと可愛いのに、時々人間離れした美しさを見せるから、その度にぼんやりと見惚れる学生が続出してるのを俺は見逃さない。

本当に、日向には日の当たる場所がよく似合うな。

その隣にいるのが俺じゃないのが、やはり悔しかった。

「今から東に勝つにはどうしたらいい、」
「…無理だろ。草だよ、あれは、」
「知るか。日向を取り返すのに必要なら何でもする、」
「…蛙でも捕まえれば?」
「なるほど、」

あの青光りして、ヌメヌメとした跳ねるやつを、捕まえるわけか。

「…泣きそう、」
「お前、蛙ダメだろ。そもそも生き物全般苦手なくせに、意地を張るからだ。東に任せておけって、」
「日向が、」
「虫や蛙よりも、お前はひなを見てやればいいんだよ。暑いから、ひなには少しきついだろ、」

ため息混じりに友が吐いた言葉に、そうか、と頷く。
そうだな。蛙も虫も、みみずも、俺はダメだ。日向がいるから何とか頑張るが、正直毎回、背筋がゾクゾクして、冷たい汗が流れっぱなしだよ。
だが、日向ならいくらでも見ていられる。
たとえ側に蜘蛛がいても、蛇がいても、モグラがいても、日向を見ている間は平気だった。

水田の中をぴょこぴょこと跳ねる黄色い麦わら帽子を見る。
元気に跳ねてはいるが、そろそろ休ませた方がいいだろうか。

そう思っていたら、東と視線が合った。

行ってやれ、と藤夜が笑う。その声に背中を押されて、長靴で水をかき分けた。

「日向、おいで。一旦、休憩だ、」
「だいじょぶ。アメンボ、いたから、」
「アメンボはあちこちにいるから、休んだら探そうな、」
「だいじょぶ、」

振り返った水色の瞳は、不満げだった。頬を膨らませて、眉を寄せるのは、俺への抗議だろう。だが、可愛いばかりで迫力はちっともない。

「大丈夫じゃなくなる前に、休む約束だろ、おいで、」

小さな王子様は大層ご不満だろうが、日向が限界を越えないように守るのが俺たちの役目だ。
日向には、まだその辺の制御がうまくできないから、代わりに俺たちがやる約束だな。

この3ヶ月、何度も成功と失敗を繰り返しながら、日向の限界も一緒に探った。

学院に再び通い始めるにあたっては、萩花や東ともたくさん話し合ったな。長く続けられるように、無理はしない。時々は羽目を外してもいいけど、その後はちゃんと休む。
当たり前だけど、大事で、実は意外と難しいことを俺たちはもう十分学んできた。
そのおかげか、日向は不満げながらも俺の腕の中に収まってくれた。

「アメンボ、」
「休んだら俺も一緒に探すから、」
「…うん、」

小さな体を抱いて、水田の脇に立った木の下に日向を連れていく。
木陰に入ったら、麦わら帽子を取って、泥まみれの服を少し緩めた。首筋に手を当てると、少し熱い。膝に乗せて座らせると、力の抜けた様子で俺の腹に背中を預けてきたから、やはり少し疲労していたのだろう。

「水分はちゃんと摂りな、」

東が差し出した水筒を受け取って、水を飲ませる。されるがままの日向は、数口飲んだところで、驚いたように俺を見た。

「りんご、」
「うん、料理長が水にりんごの味をつけてくれた。日向には、飲みやすいだろ?」
「うん!」

急にご機嫌になって、俺の手から器を取り、自分で飲みだす。すぐにおかわりを強請って来たから、安心した。

肌に刻まれた傷や火傷の跡のせいで、日向の体は体温調節が得意ではない。上手く汗をかくことができないからすぐに熱がこもったし、一度汗をかきだすとすぐに水がなくなってしまう。

そんな日向のために、料理長も一生懸命考えてくれた。

「料理長は、えらい、」
「お前がまた学院に通えるのが、料理長も嬉しんだと、」
「うん、」

満足そうに器の中身を飲み干すと、日向はまたくたりと俺の腹に背中を預けてきた。冷たいタオルで汗を拭ってやると、気持ちよさそうに目を瞑る。

風がサワサワと水色の髪を揺らした。
長いまつ毛がピクピクと動くのが可愛い。白い肌は少しだけ焼けたな。それでも日の光に溶けそうなほど白いけど、顔色が良く見えて安心する。小さな口がぽかんと開き出したのは、少し眠たくなってきたせいか。

いくらでも見つめていられるけど、眠られちゃ困る。

「…寝るなよ、アメンボ探すんだろ、」
「んー、探す、」
「なら起きろ。眠いなら、話を聞かせて。何がいた、」
「…おじゃま、じゃくし、」

重たい瞼を一生懸命に押し上げて見上げてくるのが、可愛かった。思わず笑うと、日向も機嫌がよさそうにヘラヘラ笑って、俺の頭に手を伸ばす。
小さな手で俺の髪をくるくるといじりながら、おたまじゃくしのしっぽがね、と話し出した。

「図鑑で、かえるはおじゃじゃくし、を知ったけど、信じなかった。だって、おじゃくしと、かえるは、全然、違う、」
「さっき、本当だった、って言ってたな、」
「しっぽ、がなくなる、おじゃくしが、いた。足が生えたも。黒いのに、かえるみたい、なの、もいた、」
「へえ、」
「おじゃくしは、水を出られ、ないのに、かえるになる。ぴょんぴょん、できないのに、ちゃんと、かえるに、なる、」
「うん、」

オタマジャクシと自分を重ねているのかな、と思った。
日向の方が何百倍も何千倍も可愛いけれど、自分もいつか蛙になれると思えたなら、それもいい。

「演習、楽しいか、」
「うん、楽しい、」

ありがと、と笑う顔が綺麗で、今日この日を迎えられたことが、心底幸せだと思った。

よく頑張ったな。
日向のことだから、この先も世界が広がるたびに、何か困難にぶつかるのだろう。でも俺は側にいるから、一緒に歩いていこうな。

小さな体から熱が引いたのを確かめて、襟を閉める。
抱き起こして座らせ、黄色の麦わら帽子を被せた。
眠そうだった水色の瞳が、またキラキラと輝き出して、小さな体がぴょんぴょんと跳ね出す。

「しおうも、来る?」
「行くよ。アメンボを探す約束だな、」
「みんなが、ね、」
「うん?」

日向はニコニコと笑っていたが、俺は腹が一気に冷えた。また何かよからぬ噂が、日向の耳に届いただろうか。また日向の心を傷つけて、混乱させるだろうか。
藤夜と東も急激にこちらに集中したのがわかる。
だけど、日向はふにゃりと溶けそうなほどに頬を緩めて笑った。


「僕としおうが、仲良しが、うれしい、って、」


僕もうれしい、と小さな体が跳ねるのを、そうか、と抱き止める。
小さな顎を捕まえて、水色の瞳を真っ直ぐに覗いた。

「なら、見せびらかしてやるか、」
「みせ、びら、かす、」
「ん、」

唇を重ねたら、水田の中から、黄色い歓声が聞こえた。



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