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第弐部-Ⅱ:つながる魔法
125.紫鷹 それでもいいと言えるほど
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草の中を、水色の頭がぴょんぴょんと跳ねていた。
暑くなってきて、草は勢いよく成長しているから、小さな日向の体は半分ほど隠れて見えない。
刈らないのか、と庭師に聞いたが、どうやら日向の希望らしい。草が茂るほど生き物が増えて、毎日のように新しい出会いがあるのだとか。水色の瞳をキラキラさせた日向が言うなら、そりゃ刈るわけにはいかないだろう。
そのせいか、東(あずま)がやたらと蛇や毒虫に詳しくなっていて笑った。
「つかまえた!」
跳ねていた水色の頭が草の中に消えて、可愛い声が上がる。
すぐに東が駆けていって、何を捕まえたんだと、草の中に消えた。
が、直後に悲鳴のような叫び声が聞こえて、俺は自分のいる場所も忘れて走り出しそうになる。
「くさい、」
泣き出しそうな声に胸がざわつくが、言葉の意味を理解すると、体は止まった。
わーわー騒ぎながら、臭いと連呼する日向の声が聞こえて、可笑しくなる。
「何てものを捕まえてくれたんですか、」
「くさい、あずま、くさい、」
「僕が臭いみたいに言うのやめてください、」
「何で、何で、虫、くさい、」
「亀虫(かめむし)です。日向様、放してください。匂いが消えなくなりますから、」
「つかまえたのに、」
「だって、臭いでしょう、」
「やぁだぁ、」
臭いなら放せばいいのに、よほど捕まえたのが嬉しかったんだな。
自分じゃなかなか捕まえられなくて、できないと泣いた日もあったから、まあ仕方ないか。
「日向様、隠さないでください。本当に臭くなりますから、」
「やだぁ、僕が、つかまえた、」
「一回洗ったくらいじゃ落ちませんよ、臭いんでしょう?」
「くさいぃ、」
「ダメですって。何で服の中に入れるんですか、」
日向の護衛は大変だなあ、と笑った。
亀虫の脅威を知らない日向は、多分、一度自分で失敗しないとわからないよ。今は、臭いことに驚いてもいるが、自分で捕まえられたのが嬉しくて亀虫でさえ、宝物みたいに大事に思えるんだろう。
そう思ってくつくつとの喉を鳴らしていると、草の中から顔を出した東がこちらを見る。視線で、どうにかしろと訴えているのが分かって、頷いた。
二階の窓だというのに、本当に目敏くて、良い護衛だな。
気配は隠したまま、階下に降りた。
先日、隠れ家を出て俺を待っていた日向だが、まだ俺の気配が近くにあると体がうまく動かない。隠れ家に入っている時は、そのまま出られないこともあった。
それでも、朝晩の食事の時間にはソファの上で俺を待つようになったし、寝る前には、ベッドの上で本を読み聞かせる時間もくれる。隠れ家の外に出ている間は、怖くなくなる練習ができるから、いつでも会いに来てほしいのだと、手紙で伝えてくれた。
少しずつゆっくりと。けれど確実に、日向は自分の恐怖と向き合っている。
そんな日向の負担をできる限り減らしたかった。でも時々、どうしても日向に会いたくて、笑う顔が見たくなる。まだ日向は俺の顔を見て笑うことができないから、こうして気配を隠して覗く以外に手段はないわけだ。
藤夜には、覗き魔か、と罵られた。だが、散々変態だなんだと言ってきたのは藤夜だから、今さらだ。俺はとにかく、日向の全てが欲しい。
裏庭に続く扉を開くと同時に、気配を解放した。
草の中で東に駄々をこねていた声がぴたりと止まって、少しだけ胸が痛くなる。
ごめんな。日向の楽しい時間に水を差す。
「日向、そろそろ夕食の時間だから、部屋に戻ろう、」
そう声をかけて草をかき分けていくと、水色の頭がゆっくりと草の上に覗いた。続いて水色の瞳が俺を見て、ぱちぱちと瞬く。
「しおう、のぞいた?」
「…藤夜か。あいつ、余計なことを教えたな、」
「しおうの気配が、急にしたら、のぞいた、時、」
「ん、見てたよ。日向の可愛いとこが見たくて、覗いた。」
「へんたい、」
本当に碌なことを教えないなと、藤夜を呪う。
だが、あはっ、と掠れた笑い声が聞こえてすぐに消えた。
「しおうは、へんたい、になるくらい、僕が、好き、」
痩せて今まで以上に不器用になった頬を歪め、水色の瞳を細くして、日向が笑う。その顔があまりに綺麗で、目頭が熱くなるのを感じた。
笑った。日向が、俺の前で笑った。
「そうだよ。俺はお前が好きだから、全部見たいの。覗きくらいで今さら驚いてもらっちゃ困る、」
「うん、」
「帰るぞ、」
「僕、くさい、よ、」
「知ってるよ。臭くてもいいから、日向を抱きたい、」
「あは、」
「変態だろ?」
「へんたい、」
腕を差し出したが、日向は動かず笑っていた。
ああ、こんなに笑うのに、体はまだ動かないのかと、またこみあげるものがあったが押し込める。
日向ができないなら、俺がやる。そういう約束だな。
かがんで抱き上げると、やはり亀虫の強烈なにおいが襲った。
「臭いな、」
「殿下、まだ服の中にいます。それを連れ帰ると、部屋が大変なことになります、」
多分、宇継(うつぎ)さんに怒られます、と東は言った。
うん、あの侍女は物静かに見えて、実は日向に関しては水蛟(みずち)なみに熱烈だから、怒るだろうなあ。亀虫を放したところで、日向に着いた匂いは消えないだろうから、どのみち小言は言われるだろうが。
「日向、どこに隠した、」
「言わない、」
「お前、動けないんだから、脱がしてでも探すぞ、」
「殿下、それはもっと叱られます、」
「…お前、俺に何とかしろと言っただろう、」
言ってませんが、と東は白を切り、日向はまた、あはは、と笑う。
何なんだ、と呆れて見せたが、胸の中では温かい何かが広がって満たされていく気がした。
いいな、こんなくだらないことを言い合って、日向が笑って、俺が困る。いいな、すごくいい。
結局、東と二人がかりで日向の服を叩き、亀虫を外に追いやった。なかなか出てこなくて、あーだこーだ言い合っているうちに日向の体も動き出し、亀虫を隠そうとするから苦労した。
「臭いな、」
「しおうも、あずまも、くさい、」
「日向様が一番臭いです、」
強烈なにおいを漂わせながら離宮の中を歩くと、すれ違う人々が皆ものすごい顔になった。もう少し隠せ、と思わないでもないが、日向が笑うので良しとする。
案の定、宇継には叱られた。
「林檎の浴剤を使っても消えるかどうか、」
「うつぎ、ごめんね、」
「構いませんよ。楽しかったのでしょう?」
「うん、」
「でも、匂いが消える保証はありませんよ。隠れ家に匂いがつくと、後が大変なので、そちらが心配です。」
日向に眉を下げて謝られれば、俺たちに般若の顔を向けていた宇継もひとたまりもない。
まあ、匂いも構わず日向を愛し気にしっかりと抱いているのだから、この侍女もある意味では俺と同類だろう。
「隠れ家、くさくなる?」
「ならないように努力はしますが、亀虫は強烈なので、」
ようやく亀虫の脅威を理解し出した日向が、宇継の腕の中でしょぼんと小さくなっていく。
まさか自分で捕まえた宝物が、こんな恐ろしいものだとは思いもしなかったのだろう。失敗したなあ、日向。こんな失敗、初めてだな。その初めてを一緒に体験できて、俺は嬉しい。
日向が風呂に入ったら、俺も部屋に戻って大急ぎで風呂を済ませなければならないな。日向が風呂から出たら、夕食を食べさせるのは俺の役目だ。二人して臭かったりしてな。せっかくの食事を、臭い、臭い、と連呼して食べる羽目になるかもしれない。
それもいい、なんて阿呆なことを考えていたら、ふと水色の瞳と視線が合った。
「しおう、がやる?」
「は、」
「隠れ家、寝ない、」
「う、ん?」
「しおうは、くさいも、いい。ちがう?」
「違わない、が、」
「じゃあ、しおうと、寝る、」
眠れるのか。
今だって、俺が傍にいるせいで、宇継の腕の中でぎこちなく固まっているのに。
眠れないと、すぐに体調を崩すだろう。眠りが浅いと、悪い夢を何度も見るだろう。
返答に困っていたら、自信なさげな日向が、伺うように俺を見る。
「しおうは、くさくても、僕が、好き、…ちがう?」
不安に潤んだ水色を見て、ああ、俺は何をしているのだと、焦った。
眠れなければ宇継でも、護衛でも呼んで隠れ家に帰せばいい。できなければ方法はいくらでもあるのに、俺はまた先走って日向を不安にさせる。
「違わない。日向と一緒にいられるなら、臭くてもいい、」
「…うん、」
「日向、ちゃんとこっち見て、」
宇継の腕の中で、だんだん丸くなっていく日向の頭を捕まえて、少し強引に振り向かせた。固まっているのがわかったから、痛くなかっただろうかと心配するが、今はとにかく日向の恐怖を拭いたい。
このまま、日向を不安の中に残しておきたくなかった。
白い顔を両手で包んで、水色の瞳を覗き込む。ゆらゆらと揺れているが、ちゃんと俺を見た。
「日向が好きだよ、分かるか、」
「わか、る、」
「日向に会った頃よりも、半年前よりも、今の方がもっと日向を好きだって、分かる?」
「わかる、」
「亀虫を捕まえて喜ぶ姿を見たら、もっと愛しくなった。一緒に寝てくれるって聞いたら、もっともっと日向と一緒にいたくなった。毎日、日向に会うたびに、俺は日向に溺れてくんだよ、」
「うん、」
泣き出しそうに震えだした頬に口づけ、そのまま唇も奪う。
宇継の物言いたげな気配は感じていたが、何も言わないので、日向だけを見た。
日向の縮こまった体が、ゆるゆると解けていく。
「不安だったら、風呂なんかはいらなくても、俺が抱いていてやる。どんなに臭くても、日向が寝るまで抱きしめているし、寝ても離さないよ、」
「しおう、へん、たい、」
「そ、俺は変態なの。亀虫に負けるほど、俺の愛は軽くないよ。わかる?」
「…わかる、」
「うん、良い子だな、」
もう一度口づけると、日向はぐずりながら、全身の力を失くした。
小さな体を抱き直した宇継が、呆れたようにため息を漏らす。
「お風呂には入っていただきますよ。ベッドが臭くなると困るので、」
「俺はいいんだけど、」
「良い訳ないでしょう。…殿下は、お食事のお世話をされるなら、できる限り匂いを落としてからいらしてください。東さんもです。3人も亀虫がいたのでは、困りますから、」
再び般若の仮面を被った宇継に、東と2人して部屋を追い出された。
日向に言ったことに偽りはない。
俺は毎日毎時間、日向への愛しさが募って、日向の側にいられるなら亀虫ごときどうでもいい。
だけど、日向は眠れるだろうか。
分かる、と頷いてはくれたが、日向の腹の底の恐怖が消えるには、きっと言葉だけじゃとても足りない。
押しとどめていた不安が押し寄せて、しばらくぼんやりと閉じた扉を見つめた。
「多分、寝ると思いますよ、」
「は、」
俺の不安などやすやすと読み取って、日向の護衛が言う。
気が付くと、東の隣にもう一人護衛が増えていた。俺も東も臭いだろうに顔色一つ変えないのはさすがだな。
東も感情のよく分からない表情のまま言う。
「固まるのは最初だけで、いつもそのうち緩んでいきますから、」
「そう、か?」
「そうですよ。怖いのに安心するんです。だから、大丈夫です。」
俺が傍にいられない間、お前はずっと日向を見ていたな。その護衛が言うのだからそうなのかもしれない。俺が嫉妬するくらい、日向が懐いて頼りにしている護衛だ。
「臭いままだと、また宇継さんに追い出されるので、」
憎たらしいくらい優秀な護衛は、そう言うと、さっさと代わりの護衛を残して消えた。
ああ、そうだ。
俺も風呂を浴びねばならない。
日向の夕食を食べさせるのは俺だ。日向はまた固まるか力を失くすかして、自分では食べられないから、俺が食べさせる約束だ。
今日は、日向を寝かしつけるのも俺の役目らしい。
食べて、寝る。
ただそれだけのことが、日向といると特別になる。
不安はあるけれど、嬉しいのも確かだ。同じように日向も、怖くても安心してくれるのかもしれない。
ならいい。
どうせゆっくりだ。
俺と日向の時間は、少しずつゆっくり交わっていく。一歩進んで半歩戻るくらいがちょうどいいかもしれない。
ゆっくりでも、そこに日向がいるなら、どんな小さなことも特別になる。
そう思うと、胸が急に沸き立って、部屋へ帰る足取りが軽くなった。
暑くなってきて、草は勢いよく成長しているから、小さな日向の体は半分ほど隠れて見えない。
刈らないのか、と庭師に聞いたが、どうやら日向の希望らしい。草が茂るほど生き物が増えて、毎日のように新しい出会いがあるのだとか。水色の瞳をキラキラさせた日向が言うなら、そりゃ刈るわけにはいかないだろう。
そのせいか、東(あずま)がやたらと蛇や毒虫に詳しくなっていて笑った。
「つかまえた!」
跳ねていた水色の頭が草の中に消えて、可愛い声が上がる。
すぐに東が駆けていって、何を捕まえたんだと、草の中に消えた。
が、直後に悲鳴のような叫び声が聞こえて、俺は自分のいる場所も忘れて走り出しそうになる。
「くさい、」
泣き出しそうな声に胸がざわつくが、言葉の意味を理解すると、体は止まった。
わーわー騒ぎながら、臭いと連呼する日向の声が聞こえて、可笑しくなる。
「何てものを捕まえてくれたんですか、」
「くさい、あずま、くさい、」
「僕が臭いみたいに言うのやめてください、」
「何で、何で、虫、くさい、」
「亀虫(かめむし)です。日向様、放してください。匂いが消えなくなりますから、」
「つかまえたのに、」
「だって、臭いでしょう、」
「やぁだぁ、」
臭いなら放せばいいのに、よほど捕まえたのが嬉しかったんだな。
自分じゃなかなか捕まえられなくて、できないと泣いた日もあったから、まあ仕方ないか。
「日向様、隠さないでください。本当に臭くなりますから、」
「やだぁ、僕が、つかまえた、」
「一回洗ったくらいじゃ落ちませんよ、臭いんでしょう?」
「くさいぃ、」
「ダメですって。何で服の中に入れるんですか、」
日向の護衛は大変だなあ、と笑った。
亀虫の脅威を知らない日向は、多分、一度自分で失敗しないとわからないよ。今は、臭いことに驚いてもいるが、自分で捕まえられたのが嬉しくて亀虫でさえ、宝物みたいに大事に思えるんだろう。
そう思ってくつくつとの喉を鳴らしていると、草の中から顔を出した東がこちらを見る。視線で、どうにかしろと訴えているのが分かって、頷いた。
二階の窓だというのに、本当に目敏くて、良い護衛だな。
気配は隠したまま、階下に降りた。
先日、隠れ家を出て俺を待っていた日向だが、まだ俺の気配が近くにあると体がうまく動かない。隠れ家に入っている時は、そのまま出られないこともあった。
それでも、朝晩の食事の時間にはソファの上で俺を待つようになったし、寝る前には、ベッドの上で本を読み聞かせる時間もくれる。隠れ家の外に出ている間は、怖くなくなる練習ができるから、いつでも会いに来てほしいのだと、手紙で伝えてくれた。
少しずつゆっくりと。けれど確実に、日向は自分の恐怖と向き合っている。
そんな日向の負担をできる限り減らしたかった。でも時々、どうしても日向に会いたくて、笑う顔が見たくなる。まだ日向は俺の顔を見て笑うことができないから、こうして気配を隠して覗く以外に手段はないわけだ。
藤夜には、覗き魔か、と罵られた。だが、散々変態だなんだと言ってきたのは藤夜だから、今さらだ。俺はとにかく、日向の全てが欲しい。
裏庭に続く扉を開くと同時に、気配を解放した。
草の中で東に駄々をこねていた声がぴたりと止まって、少しだけ胸が痛くなる。
ごめんな。日向の楽しい時間に水を差す。
「日向、そろそろ夕食の時間だから、部屋に戻ろう、」
そう声をかけて草をかき分けていくと、水色の頭がゆっくりと草の上に覗いた。続いて水色の瞳が俺を見て、ぱちぱちと瞬く。
「しおう、のぞいた?」
「…藤夜か。あいつ、余計なことを教えたな、」
「しおうの気配が、急にしたら、のぞいた、時、」
「ん、見てたよ。日向の可愛いとこが見たくて、覗いた。」
「へんたい、」
本当に碌なことを教えないなと、藤夜を呪う。
だが、あはっ、と掠れた笑い声が聞こえてすぐに消えた。
「しおうは、へんたい、になるくらい、僕が、好き、」
痩せて今まで以上に不器用になった頬を歪め、水色の瞳を細くして、日向が笑う。その顔があまりに綺麗で、目頭が熱くなるのを感じた。
笑った。日向が、俺の前で笑った。
「そうだよ。俺はお前が好きだから、全部見たいの。覗きくらいで今さら驚いてもらっちゃ困る、」
「うん、」
「帰るぞ、」
「僕、くさい、よ、」
「知ってるよ。臭くてもいいから、日向を抱きたい、」
「あは、」
「変態だろ?」
「へんたい、」
腕を差し出したが、日向は動かず笑っていた。
ああ、こんなに笑うのに、体はまだ動かないのかと、またこみあげるものがあったが押し込める。
日向ができないなら、俺がやる。そういう約束だな。
かがんで抱き上げると、やはり亀虫の強烈なにおいが襲った。
「臭いな、」
「殿下、まだ服の中にいます。それを連れ帰ると、部屋が大変なことになります、」
多分、宇継(うつぎ)さんに怒られます、と東は言った。
うん、あの侍女は物静かに見えて、実は日向に関しては水蛟(みずち)なみに熱烈だから、怒るだろうなあ。亀虫を放したところで、日向に着いた匂いは消えないだろうから、どのみち小言は言われるだろうが。
「日向、どこに隠した、」
「言わない、」
「お前、動けないんだから、脱がしてでも探すぞ、」
「殿下、それはもっと叱られます、」
「…お前、俺に何とかしろと言っただろう、」
言ってませんが、と東は白を切り、日向はまた、あはは、と笑う。
何なんだ、と呆れて見せたが、胸の中では温かい何かが広がって満たされていく気がした。
いいな、こんなくだらないことを言い合って、日向が笑って、俺が困る。いいな、すごくいい。
結局、東と二人がかりで日向の服を叩き、亀虫を外に追いやった。なかなか出てこなくて、あーだこーだ言い合っているうちに日向の体も動き出し、亀虫を隠そうとするから苦労した。
「臭いな、」
「しおうも、あずまも、くさい、」
「日向様が一番臭いです、」
強烈なにおいを漂わせながら離宮の中を歩くと、すれ違う人々が皆ものすごい顔になった。もう少し隠せ、と思わないでもないが、日向が笑うので良しとする。
案の定、宇継には叱られた。
「林檎の浴剤を使っても消えるかどうか、」
「うつぎ、ごめんね、」
「構いませんよ。楽しかったのでしょう?」
「うん、」
「でも、匂いが消える保証はありませんよ。隠れ家に匂いがつくと、後が大変なので、そちらが心配です。」
日向に眉を下げて謝られれば、俺たちに般若の顔を向けていた宇継もひとたまりもない。
まあ、匂いも構わず日向を愛し気にしっかりと抱いているのだから、この侍女もある意味では俺と同類だろう。
「隠れ家、くさくなる?」
「ならないように努力はしますが、亀虫は強烈なので、」
ようやく亀虫の脅威を理解し出した日向が、宇継の腕の中でしょぼんと小さくなっていく。
まさか自分で捕まえた宝物が、こんな恐ろしいものだとは思いもしなかったのだろう。失敗したなあ、日向。こんな失敗、初めてだな。その初めてを一緒に体験できて、俺は嬉しい。
日向が風呂に入ったら、俺も部屋に戻って大急ぎで風呂を済ませなければならないな。日向が風呂から出たら、夕食を食べさせるのは俺の役目だ。二人して臭かったりしてな。せっかくの食事を、臭い、臭い、と連呼して食べる羽目になるかもしれない。
それもいい、なんて阿呆なことを考えていたら、ふと水色の瞳と視線が合った。
「しおう、がやる?」
「は、」
「隠れ家、寝ない、」
「う、ん?」
「しおうは、くさいも、いい。ちがう?」
「違わない、が、」
「じゃあ、しおうと、寝る、」
眠れるのか。
今だって、俺が傍にいるせいで、宇継の腕の中でぎこちなく固まっているのに。
眠れないと、すぐに体調を崩すだろう。眠りが浅いと、悪い夢を何度も見るだろう。
返答に困っていたら、自信なさげな日向が、伺うように俺を見る。
「しおうは、くさくても、僕が、好き、…ちがう?」
不安に潤んだ水色を見て、ああ、俺は何をしているのだと、焦った。
眠れなければ宇継でも、護衛でも呼んで隠れ家に帰せばいい。できなければ方法はいくらでもあるのに、俺はまた先走って日向を不安にさせる。
「違わない。日向と一緒にいられるなら、臭くてもいい、」
「…うん、」
「日向、ちゃんとこっち見て、」
宇継の腕の中で、だんだん丸くなっていく日向の頭を捕まえて、少し強引に振り向かせた。固まっているのがわかったから、痛くなかっただろうかと心配するが、今はとにかく日向の恐怖を拭いたい。
このまま、日向を不安の中に残しておきたくなかった。
白い顔を両手で包んで、水色の瞳を覗き込む。ゆらゆらと揺れているが、ちゃんと俺を見た。
「日向が好きだよ、分かるか、」
「わか、る、」
「日向に会った頃よりも、半年前よりも、今の方がもっと日向を好きだって、分かる?」
「わかる、」
「亀虫を捕まえて喜ぶ姿を見たら、もっと愛しくなった。一緒に寝てくれるって聞いたら、もっともっと日向と一緒にいたくなった。毎日、日向に会うたびに、俺は日向に溺れてくんだよ、」
「うん、」
泣き出しそうに震えだした頬に口づけ、そのまま唇も奪う。
宇継の物言いたげな気配は感じていたが、何も言わないので、日向だけを見た。
日向の縮こまった体が、ゆるゆると解けていく。
「不安だったら、風呂なんかはいらなくても、俺が抱いていてやる。どんなに臭くても、日向が寝るまで抱きしめているし、寝ても離さないよ、」
「しおう、へん、たい、」
「そ、俺は変態なの。亀虫に負けるほど、俺の愛は軽くないよ。わかる?」
「…わかる、」
「うん、良い子だな、」
もう一度口づけると、日向はぐずりながら、全身の力を失くした。
小さな体を抱き直した宇継が、呆れたようにため息を漏らす。
「お風呂には入っていただきますよ。ベッドが臭くなると困るので、」
「俺はいいんだけど、」
「良い訳ないでしょう。…殿下は、お食事のお世話をされるなら、できる限り匂いを落としてからいらしてください。東さんもです。3人も亀虫がいたのでは、困りますから、」
再び般若の仮面を被った宇継に、東と2人して部屋を追い出された。
日向に言ったことに偽りはない。
俺は毎日毎時間、日向への愛しさが募って、日向の側にいられるなら亀虫ごときどうでもいい。
だけど、日向は眠れるだろうか。
分かる、と頷いてはくれたが、日向の腹の底の恐怖が消えるには、きっと言葉だけじゃとても足りない。
押しとどめていた不安が押し寄せて、しばらくぼんやりと閉じた扉を見つめた。
「多分、寝ると思いますよ、」
「は、」
俺の不安などやすやすと読み取って、日向の護衛が言う。
気が付くと、東の隣にもう一人護衛が増えていた。俺も東も臭いだろうに顔色一つ変えないのはさすがだな。
東も感情のよく分からない表情のまま言う。
「固まるのは最初だけで、いつもそのうち緩んでいきますから、」
「そう、か?」
「そうですよ。怖いのに安心するんです。だから、大丈夫です。」
俺が傍にいられない間、お前はずっと日向を見ていたな。その護衛が言うのだからそうなのかもしれない。俺が嫉妬するくらい、日向が懐いて頼りにしている護衛だ。
「臭いままだと、また宇継さんに追い出されるので、」
憎たらしいくらい優秀な護衛は、そう言うと、さっさと代わりの護衛を残して消えた。
ああ、そうだ。
俺も風呂を浴びねばならない。
日向の夕食を食べさせるのは俺だ。日向はまた固まるか力を失くすかして、自分では食べられないから、俺が食べさせる約束だ。
今日は、日向を寝かしつけるのも俺の役目らしい。
食べて、寝る。
ただそれだけのことが、日向といると特別になる。
不安はあるけれど、嬉しいのも確かだ。同じように日向も、怖くても安心してくれるのかもしれない。
ならいい。
どうせゆっくりだ。
俺と日向の時間は、少しずつゆっくり交わっていく。一歩進んで半歩戻るくらいがちょうどいいかもしれない。
ゆっくりでも、そこに日向がいるなら、どんな小さなことも特別になる。
そう思うと、胸が急に沸き立って、部屋へ帰る足取りが軽くなった。
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義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺
福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。
目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。
でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい…
……あれ…?
…やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ…
前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。
1万2000字前後です。
攻めのキャラがブレるし若干変態です。
無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形)
おまけ完結済み
妹を侮辱した馬鹿の兄を嫁に貰います
ひづき
BL
妹のべルティシアが馬鹿王子ラグナルに婚約破棄を言い渡された。
フェルベードが怒りを露わにすると、馬鹿王子の兄アンセルが命を持って償うと言う。
「よし。お前が俺に嫁げ」
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
時々おまけを更新しています。
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