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第弐部-Ⅱ:つながる魔法

125.紫鷹 それでもいいと言えるほど

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草の中を、水色の頭がぴょんぴょんと跳ねていた。

暑くなってきて、草は勢いよく成長しているから、小さな日向の体は半分ほど隠れて見えない。
刈らないのか、と庭師に聞いたが、どうやら日向の希望らしい。草が茂るほど生き物が増えて、毎日のように新しい出会いがあるのだとか。水色の瞳をキラキラさせた日向が言うなら、そりゃ刈るわけにはいかないだろう。
そのせいか、東(あずま)がやたらと蛇や毒虫に詳しくなっていて笑った。

「つかまえた!」

跳ねていた水色の頭が草の中に消えて、可愛い声が上がる。
すぐに東が駆けていって、何を捕まえたんだと、草の中に消えた。
が、直後に悲鳴のような叫び声が聞こえて、俺は自分のいる場所も忘れて走り出しそうになる。

「くさい、」

泣き出しそうな声に胸がざわつくが、言葉の意味を理解すると、体は止まった。
わーわー騒ぎながら、臭いと連呼する日向の声が聞こえて、可笑しくなる。

「何てものを捕まえてくれたんですか、」
「くさい、あずま、くさい、」
「僕が臭いみたいに言うのやめてください、」
「何で、何で、虫、くさい、」
「亀虫(かめむし)です。日向様、放してください。匂いが消えなくなりますから、」
「つかまえたのに、」
「だって、臭いでしょう、」
「やぁだぁ、」

臭いなら放せばいいのに、よほど捕まえたのが嬉しかったんだな。
自分じゃなかなか捕まえられなくて、できないと泣いた日もあったから、まあ仕方ないか。

「日向様、隠さないでください。本当に臭くなりますから、」
「やだぁ、僕が、つかまえた、」
「一回洗ったくらいじゃ落ちませんよ、臭いんでしょう?」
「くさいぃ、」
「ダメですって。何で服の中に入れるんですか、」

日向の護衛は大変だなあ、と笑った。
亀虫の脅威を知らない日向は、多分、一度自分で失敗しないとわからないよ。今は、臭いことに驚いてもいるが、自分で捕まえられたのが嬉しくて亀虫でさえ、宝物みたいに大事に思えるんだろう。

そう思ってくつくつとの喉を鳴らしていると、草の中から顔を出した東がこちらを見る。視線で、どうにかしろと訴えているのが分かって、頷いた。
二階の窓だというのに、本当に目敏くて、良い護衛だな。

気配は隠したまま、階下に降りた。

先日、隠れ家を出て俺を待っていた日向だが、まだ俺の気配が近くにあると体がうまく動かない。隠れ家に入っている時は、そのまま出られないこともあった。

それでも、朝晩の食事の時間にはソファの上で俺を待つようになったし、寝る前には、ベッドの上で本を読み聞かせる時間もくれる。隠れ家の外に出ている間は、怖くなくなる練習ができるから、いつでも会いに来てほしいのだと、手紙で伝えてくれた。

少しずつゆっくりと。けれど確実に、日向は自分の恐怖と向き合っている。

そんな日向の負担をできる限り減らしたかった。でも時々、どうしても日向に会いたくて、笑う顔が見たくなる。まだ日向は俺の顔を見て笑うことができないから、こうして気配を隠して覗く以外に手段はないわけだ。
藤夜には、覗き魔か、と罵られた。だが、散々変態だなんだと言ってきたのは藤夜だから、今さらだ。俺はとにかく、日向の全てが欲しい。


裏庭に続く扉を開くと同時に、気配を解放した。
草の中で東に駄々をこねていた声がぴたりと止まって、少しだけ胸が痛くなる。
ごめんな。日向の楽しい時間に水を差す。


「日向、そろそろ夕食の時間だから、部屋に戻ろう、」


そう声をかけて草をかき分けていくと、水色の頭がゆっくりと草の上に覗いた。続いて水色の瞳が俺を見て、ぱちぱちと瞬く。

「しおう、のぞいた?」
「…藤夜か。あいつ、余計なことを教えたな、」
「しおうの気配が、急にしたら、のぞいた、時、」
「ん、見てたよ。日向の可愛いとこが見たくて、覗いた。」
「へんたい、」

本当に碌なことを教えないなと、藤夜を呪う。
だが、あはっ、と掠れた笑い声が聞こえてすぐに消えた。


「しおうは、へんたい、になるくらい、僕が、好き、」


痩せて今まで以上に不器用になった頬を歪め、水色の瞳を細くして、日向が笑う。その顔があまりに綺麗で、目頭が熱くなるのを感じた。
笑った。日向が、俺の前で笑った。

「そうだよ。俺はお前が好きだから、全部見たいの。覗きくらいで今さら驚いてもらっちゃ困る、」
「うん、」
「帰るぞ、」
「僕、くさい、よ、」
「知ってるよ。臭くてもいいから、日向を抱きたい、」
「あは、」
「変態だろ?」
「へんたい、」

腕を差し出したが、日向は動かず笑っていた。
ああ、こんなに笑うのに、体はまだ動かないのかと、またこみあげるものがあったが押し込める。
日向ができないなら、俺がやる。そういう約束だな。

かがんで抱き上げると、やはり亀虫の強烈なにおいが襲った。

「臭いな、」
「殿下、まだ服の中にいます。それを連れ帰ると、部屋が大変なことになります、」

多分、宇継(うつぎ)さんに怒られます、と東は言った。
うん、あの侍女は物静かに見えて、実は日向に関しては水蛟(みずち)なみに熱烈だから、怒るだろうなあ。亀虫を放したところで、日向に着いた匂いは消えないだろうから、どのみち小言は言われるだろうが。

「日向、どこに隠した、」
「言わない、」
「お前、動けないんだから、脱がしてでも探すぞ、」
「殿下、それはもっと叱られます、」
「…お前、俺に何とかしろと言っただろう、」

言ってませんが、と東は白を切り、日向はまた、あはは、と笑う。
何なんだ、と呆れて見せたが、胸の中では温かい何かが広がって満たされていく気がした。
いいな、こんなくだらないことを言い合って、日向が笑って、俺が困る。いいな、すごくいい。

結局、東と二人がかりで日向の服を叩き、亀虫を外に追いやった。なかなか出てこなくて、あーだこーだ言い合っているうちに日向の体も動き出し、亀虫を隠そうとするから苦労した。

「臭いな、」
「しおうも、あずまも、くさい、」
「日向様が一番臭いです、」

強烈なにおいを漂わせながら離宮の中を歩くと、すれ違う人々が皆ものすごい顔になった。もう少し隠せ、と思わないでもないが、日向が笑うので良しとする。
案の定、宇継には叱られた。

「林檎の浴剤を使っても消えるかどうか、」
「うつぎ、ごめんね、」
「構いませんよ。楽しかったのでしょう?」
「うん、」
「でも、匂いが消える保証はありませんよ。隠れ家に匂いがつくと、後が大変なので、そちらが心配です。」

日向に眉を下げて謝られれば、俺たちに般若の顔を向けていた宇継もひとたまりもない。
まあ、匂いも構わず日向を愛し気にしっかりと抱いているのだから、この侍女もある意味では俺と同類だろう。

「隠れ家、くさくなる?」
「ならないように努力はしますが、亀虫は強烈なので、」

ようやく亀虫の脅威を理解し出した日向が、宇継の腕の中でしょぼんと小さくなっていく。
まさか自分で捕まえた宝物が、こんな恐ろしいものだとは思いもしなかったのだろう。失敗したなあ、日向。こんな失敗、初めてだな。その初めてを一緒に体験できて、俺は嬉しい。

日向が風呂に入ったら、俺も部屋に戻って大急ぎで風呂を済ませなければならないな。日向が風呂から出たら、夕食を食べさせるのは俺の役目だ。二人して臭かったりしてな。せっかくの食事を、臭い、臭い、と連呼して食べる羽目になるかもしれない。

それもいい、なんて阿呆なことを考えていたら、ふと水色の瞳と視線が合った。


「しおう、がやる?」
「は、」
「隠れ家、寝ない、」
「う、ん?」
「しおうは、くさいも、いい。ちがう?」
「違わない、が、」
「じゃあ、しおうと、寝る、」


眠れるのか。
今だって、俺が傍にいるせいで、宇継の腕の中でぎこちなく固まっているのに。
眠れないと、すぐに体調を崩すだろう。眠りが浅いと、悪い夢を何度も見るだろう。

返答に困っていたら、自信なさげな日向が、伺うように俺を見る。


「しおうは、くさくても、僕が、好き、…ちがう?」


不安に潤んだ水色を見て、ああ、俺は何をしているのだと、焦った。
眠れなければ宇継でも、護衛でも呼んで隠れ家に帰せばいい。できなければ方法はいくらでもあるのに、俺はまた先走って日向を不安にさせる。

「違わない。日向と一緒にいられるなら、臭くてもいい、」
「…うん、」
「日向、ちゃんとこっち見て、」

宇継の腕の中で、だんだん丸くなっていく日向の頭を捕まえて、少し強引に振り向かせた。固まっているのがわかったから、痛くなかっただろうかと心配するが、今はとにかく日向の恐怖を拭いたい。
このまま、日向を不安の中に残しておきたくなかった。

白い顔を両手で包んで、水色の瞳を覗き込む。ゆらゆらと揺れているが、ちゃんと俺を見た。

「日向が好きだよ、分かるか、」
「わか、る、」
「日向に会った頃よりも、半年前よりも、今の方がもっと日向を好きだって、分かる?」
「わかる、」
「亀虫を捕まえて喜ぶ姿を見たら、もっと愛しくなった。一緒に寝てくれるって聞いたら、もっともっと日向と一緒にいたくなった。毎日、日向に会うたびに、俺は日向に溺れてくんだよ、」
「うん、」

泣き出しそうに震えだした頬に口づけ、そのまま唇も奪う。
宇継の物言いたげな気配は感じていたが、何も言わないので、日向だけを見た。
日向の縮こまった体が、ゆるゆると解けていく。

「不安だったら、風呂なんかはいらなくても、俺が抱いていてやる。どんなに臭くても、日向が寝るまで抱きしめているし、寝ても離さないよ、」
「しおう、へん、たい、」
「そ、俺は変態なの。亀虫に負けるほど、俺の愛は軽くないよ。わかる?」
「…わかる、」
「うん、良い子だな、」

もう一度口づけると、日向はぐずりながら、全身の力を失くした。
小さな体を抱き直した宇継が、呆れたようにため息を漏らす。

「お風呂には入っていただきますよ。ベッドが臭くなると困るので、」
「俺はいいんだけど、」
「良い訳ないでしょう。…殿下は、お食事のお世話をされるなら、できる限り匂いを落としてからいらしてください。東さんもです。3人も亀虫がいたのでは、困りますから、」

再び般若の仮面を被った宇継に、東と2人して部屋を追い出された。

日向に言ったことに偽りはない。
俺は毎日毎時間、日向への愛しさが募って、日向の側にいられるなら亀虫ごときどうでもいい。
だけど、日向は眠れるだろうか。
分かる、と頷いてはくれたが、日向の腹の底の恐怖が消えるには、きっと言葉だけじゃとても足りない。

押しとどめていた不安が押し寄せて、しばらくぼんやりと閉じた扉を見つめた。


「多分、寝ると思いますよ、」
「は、」


俺の不安などやすやすと読み取って、日向の護衛が言う。
気が付くと、東の隣にもう一人護衛が増えていた。俺も東も臭いだろうに顔色一つ変えないのはさすがだな。
東も感情のよく分からない表情のまま言う。


「固まるのは最初だけで、いつもそのうち緩んでいきますから、」
「そう、か?」
「そうですよ。怖いのに安心するんです。だから、大丈夫です。」


俺が傍にいられない間、お前はずっと日向を見ていたな。その護衛が言うのだからそうなのかもしれない。俺が嫉妬するくらい、日向が懐いて頼りにしている護衛だ。

「臭いままだと、また宇継さんに追い出されるので、」

憎たらしいくらい優秀な護衛は、そう言うと、さっさと代わりの護衛を残して消えた。

ああ、そうだ。
俺も風呂を浴びねばならない。
日向の夕食を食べさせるのは俺だ。日向はまた固まるか力を失くすかして、自分では食べられないから、俺が食べさせる約束だ。
今日は、日向を寝かしつけるのも俺の役目らしい。


食べて、寝る。


ただそれだけのことが、日向といると特別になる。
不安はあるけれど、嬉しいのも確かだ。同じように日向も、怖くても安心してくれるのかもしれない。

ならいい。

どうせゆっくりだ。
俺と日向の時間は、少しずつゆっくり交わっていく。一歩進んで半歩戻るくらいがちょうどいいかもしれない。
ゆっくりでも、そこに日向がいるなら、どんな小さなことも特別になる。

そう思うと、胸が急に沸き立って、部屋へ帰る足取りが軽くなった。

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