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第弐部-Ⅱ:つながる魔法

124.紫鷹 日向がいる

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「日向様が、お部屋で殿下をお待ちだと、」



そう言われた時、一瞬何を言われたのか分からなかった。
自分が何をしていたのかも分からなくなって、ふと朝の支度中だと思い出す。朝の鍛錬を終えて、日向に食事を届けに向かおうと着替えていたはずだ。
それなのに扉を叩く音がして、応対に出た弥間戸(やまと)が慌てた様子で戻り、今すぐ日向の部屋へ行けと言う。

理解した時には襟のボタンも中途半端に廊下を走っていた。

前室に飛び込むと、護衛らしき誰かがいた気がする。その誰かが開く扉に、ほとんど突撃するようにして部屋の中へ飛び込んだ。


「日向、」


そう呼んだのが、自分の声かどうかも定かでない。
感情を乱すな、心を乱すな、と思うのにできなくて頭の片隅で、それではいけないとも思った。

だけど、小さな水色が視界に飛び込んできた瞬間に、俺の世界は水色だけになった。


日向がいる。


ソファに行儀よく座って、小さな手をぎゅっと握っていた。その手にあるのが俺の手紙だと気づいたのはずっと後だ。
震えてはいないけれど、頭も肩も腕も力が籠って固まっている。
体は横を向いていて、頭が俯いているせいで、あの宝石みたいな水色が見えなかった。


すぐにも捕まえて、その瞳を覗き込みたい。
だけど、日向を怖がらせたくなくて、その衝動を抑え込む。
目の前にいる日向を隠れ家の中へ逆戻りさせたくなかった。

働かない頭でそう思った時、掠れた声が俺を呼んだ。
しぉ、と。俺の名を。


「ぎゅ、って、して、」


体中が熱くなって、日向の名前を呼んだ気がする。


「僕、動かない、から、しおうが、ぎゅって、して、」


そう聞こえた。
それが俺の都合のいい妄想か現実かわからない。
ただ、俺の体は正直でその声に導かれるまま足が動いた。

怖がらせたくないと思うのに、俺の体は言うことを聞かない。
一歩がもどかしくて、歩くのをやめた。
ちぎれるのではないかと思うほど腕を伸ばした。
指先が触れた瞬間に、言いようのない何かが体中をめぐって、俺の全てを飲み込んだ気がする。

愛しさ、温かさ、嬉しさ、恐ろしさ、切なさ、悲しさ、――どの言葉も必要だし、どの言葉でも足りない。


「日向、」


日向がいる。
俺の腕の中に、日向がいる。

確かめたくて、何度も名前を呼んだ。
腕じゃ足りなくて、胸も腹も足も頭も、全部日向を求めた。
優しくしたいと思うのに、逃がしたくなくて力が籠る。触れた場所から熱が広がって、鼓動が早くなり、頭はぼうっとして、温もりを確かめる以外できなくなる。目は涙がとまらなくて、日向の服を濡らした。

日向がいる。

そのことが、俺の中の欠けた何かを、埋めた。
ああ、こんなにも俺は日向が欲しくて、愛しかったんだと思う。俺を作る何かに日向が必要で、今ようやく、俺は俺に戻ったのだと。

「しぉ、」

掠れた小さな声が、腕の中からする。
声はするのに、体は全く動かないのが切なかった。
それでも、日向がいる。

「ごめん、ね、」
「…謝らなくて、いい。日向がいるだけで、俺はこんなに嬉しい、」
「うん、」
「俺が、日向を大好きなの、わかる?」
「わかる、」

ずっと、わかるよ、と日向は言った。

「ごめん、ね、」

分かるのに怖がったことをだろうか。隠れ家の中から出られなかったこと。学院に通えなかったこと。あるいは、俺を泣かせたこと。
何も謝らなくていいのに、日向の口はそう言わずにいられないのだと思った。

体がちっとも動かないのは、怖くて硬直するからだろう?
その怖さの元凶が俺なのだと言うことを、この一月の間に嫌と言うほど思い知らされたよ。
怖いんだよな。俺の恐怖や不安に触れるたびに、拒まれたようで、居場所がなくなって、日向の中に築かれたはずの安心が崩れていくんだろう。

その恐怖を克服できたわけじゃないのだと思う。
俺自身が、まだ己の感情に支配されるくらい弱いから。

それでも、日向がいる。

そう思った途端に、この小さな体がどれだけの覚悟を持って、今俺の腕の中にいるのかを実感して、胸が痛いほどに熱くなった。

謝らなくていい。
でも、それより伝えるべきことがある。



「日向が好きだ、」



温かく包み込むように囁きたかった。
それなのに、泣きの入った震えた声しか出なくて、情けなくなる。
だけど、どんなに情けなくても、恰好悪くても、日向にたくさん伝えたかった。

「日向と食事をするのが好きだ。日向が食べるのを見ると、俺はいつも幸せになる。」

ガリガリに薄くなった腹を撫でる。
俺のせいでまた薄くなってしまったけれど、この腹を膨らませるだけで、俺はいつも幸せだった。

「新しい食事が出るたびに日向は驚くだろ。それも好きだ。それで、おいしい、って笑うと俺まで幸せになる。たまに嫌いなものも見つかるけど、それも好きだよ。日向の中に好きなものと嫌いなものが増えていくのが、たまらなく嬉しい、」
「…うん、」
「手紙で、俺のいない食事はおいしくない、って教えてくれたな。俺も同じだよ。日向がいる方が何倍もおいしい。日向がいないと味気ない。」

食事だけじゃない。
日向はたった二日しか学院に通えなかったけど、その二日は、俺が初めて学院を心から楽しいと思えた時間でもあった。初めて学院がきらきらと光って見えて、初めて学ぶことが楽しくなって、初めて学院に行く日が楽しみになった。
宮城に通うことも日向を思えば苦じゃなかった。何度も家出したこの離宮にだって、日向が来てからは一刻も早く帰りたくて仕方ない。部屋にいる間も、日向の粘土や文字に囲まれて、幸せをかみしめた。眠っている間だって、日向が傍にいるというだけでよく眠れた。


「いつも日向のことを考えてるよ。日向が離宮に来てから、俺の頭の中は、日向のことばかりだ。何かを選ぶ時、これは日向が好きかな、嫌いかなって考えるようになった。何が日向には嬉しくて、何が怖いかな、ってのもいつも考えてる。どうすればもっと日向と一緒にいられて、もっと触れるかな、ってことばかり考えてるから、藤夜や萩花にも怒られんだけど。それも、何かいいな、って思ってる。」


本当は、一日中どこでだって一緒にいたいし、日向の初めてには全部立ち会いたい。俺の知らないところで誰かと楽しくしていると思うと、悲しくなるし、怒りもわく。嫉妬して、日向を閉じ込めたくなるくらい、俺は日向の全てが欲しい。
体の隅々まで知りたいし、口づけじゃ届かない奥深くまで日向とつながりたいとも思ってしまう。

それくらい、日向が好きだ。


「怖がって、ごめんな。不安にさせてごめん。…日向の言うように、俺は確かに、日向が魔法ができないのが怖かったよ。俺の前からいなくなるんじゃないかと怖くて、日向が魔法ができるようになったらいいのにとも思った。」


撫でた腹が震えるのが分かった。
日向の口は返答もできなくなって、体はどんどん小さく丸くなっていく。
それを覆うように抱きしめた。

怖がらせたくない。
でも、伝えたい。


「できない日向も、全部好きだ、」


「日向の中にできることが増えるのも、できないことが増えるのも、俺には同じくらい大事だ。」

「魔法ができなくて、怖くなったけど、それで日向を嫌になったりしない。日向をダメだとも思わない。何ができて、何ができないかわかれば、できないことは俺がする。俺ができないことは、藤夜や萩花がする、」


日向ができないことだけが怖かったわけじゃない。
日向のできないことを、俺自身にもどうしようもないこと。俺に力がないから、日向を守れないこと。そのせいで、日向を失ってしまうことが怖かった。
だけど、俺達には幸いにも、藤夜も萩花もいる。母上も晴海もいる。離宮中の人間が俺たちのできないをできるにしてくれる。

「日向のできることが増えたら、俺は嬉しい。でも、できなことが見つかれば、俺にやれることが増えるから、それも嬉しい。俺にもできないことはちょっと悔しいけど、誰かができて、日向が笑ってくれるなら、やっぱり嬉しい。」

腹を撫でて、丸くなった首筋に口づけた。
ごめんな、こんなに不安にさせて。でも大好きだ。
こんな風に一生懸命に生きている日向が、本当に大好きだ。


「そうやって、俺は日向と生きていきたい。日向に俺と一緒に生きてほしい、」


何ができても、できなくてもいい。
欲を言えば、あれをしたい、これをしたいというのはあるけれど。
できても、できなくても、日向がいることが一番大事だ。

うん、と小さく聞こえた。

同時にがちがちの体がほんの僅かに緩む。
迷ったけれど、その小さな体を抱き上げた。膝の上に抱いて、背中を擦り、俯いた頭に口づける。
手の中に強く握りしめているのが、俺の手紙だと気づいて、また愛しくなった。


「…いらなく、ならない?」

「ならない。」
「本当?」
「本当だよ。俺はもう日向がいないと、しんどい。生きてる感じがしないくらい、日向がいないと困る。」
「……できなくても?」
「良い。日向のできないは、俺にくれ、」

また少し、日向の体から強ばりが解ける。
それが嬉しくて、愛しくて、欲が沸いた。
背中を撫で、小さな顎を撫でて、力を抜いていく。
顎を上げると、抵抗はなかった。

「日向、」

名前を呼ぶ。
伏せられたまつ毛が何度か瞬いて、瞳を揺らした。
怖かったかもしれない。だけど、迷うように視線を彷徨わせた後、水色は俺を見た。
俺がずっと欲しかった水色。

「大好きだ、日向。」

真っすぐその瞳を見つめて言うと、みるみる涙がたまって、溢れ出す。
吸い寄せられるように、涙をすくい瞼に口づけた。ゆるゆると日向の体が力を失くしていくのがわかったから、そのまま、大好きだよ、と繰り返して顔中に口づけを降らす。

日向の頭、額、瞼、頬、鼻。
何でだろうな。もうこれ以上ないくらい、愛しく感じていたのに、口づけるたびに、また愛しさが増えていく。
いらなくなる訳がない。俺はこんなにも日向を愛している。

それが日向に分からないなら、一生かけてでも伝えよう。日向が分かるまで何度でも伝えよう。


唇を重ねた時、日向は拒むことなく受け入れてくれた。体からは完全に力が抜けて、くたりと俺の中に崩れ落ちてくる。その体を受け止めてもう一度、大好きだ、と告げると、日向は泣きながら、うん、と頷いた。

それと同時に、くうっ、と日向の腹が鳴る。

「お腹が空いた?」
「うん、」

朝ご飯の時間だもんな。
そうか、空腹が分かるのか。
それだけのことがとても大事に思えて、小さな体をきゅっと抱きしめた。

「し、ぉ、ご飯、」
「うん、ご飯だな。」
「僕、動かない、から、しおうが、やって、」
「…いいの?」
「やって、」
「うん、」

嗚咽交じりの日向が、俺を見て懇願する。
二人とも涙と鼻水でぐちゃぐちゃだな。だけど、俺はぐちゃぐちゃの日向も全部好きだ。

宇継が日向の食事の支度を始めた音を聞いて、小さな体を抱き直す。日向の背中が俺の腹にぴたりとくっつくと、改めて日向がいるのを実感した。


日向がいる。
確かにいる。
俺と一緒に、日向がいる。


また涙が出て、ぐちゃぐちゃになった。日向と二人、ぐちゃぐちゃのまま、朝食を食べる。
日向は力が入らなくて、スプーンも持てなかったから、俺が口に入れた。だけど、泣いてうまく飲み込めず、顔も服も汚す。俺の服も汚れて、濡れているのが涙なのか鼻水なのか、スープなのかも分からなくなった。


それが、とてつもなく幸せだった。

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