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第弐部-Ⅱ:つながる魔法
118.萩花 子どもたちの努力
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朝食を届けた紫鷹殿下が部屋を去ってしばらくすると、隠れ家の中からすすり泣く声が聞こえた。
小さく「ごめんね、」と謝る声がする。
ようやく体の強張りが解けて、声が出るようになったのだろう。
扉を開けてもいいかと声をかけると、しばらく迷ったような気配の後、うん、と返事が返って来た。
「また、できな、かった、」
そう言って泣く日向様を隠れ家から引き出し、膝の上に抱く。
長く手足を折り曲げて丸くなっていたから、関節は固まって、体は丸くなったまますぐには動かなかった。それを一つ一つ撫でて伸ばして、隠れ家の前に座らせる。
顔を拭うが、拭う傍から涙が零れて、止まらなかった。
「殿下は、ゆっくりでいいと仰っていましたよ、」
「しおうは、かなしい、のに」
「悲しいだけでないと、日向様は分かるはずです。殿下は日向様を心配しますし、日向様に会えないと悲しくなります。でも、それだけではありませんね、」
水色の瞳を見つめて言うと、白い顔がくしゃりと歪んで、また大粒の涙が零れる。
小さく頷いた後、弱弱しく泣き声を上げる水色の頭を抱いて、背中を撫でた。
「わかる、のに、できないが、くやしい、」
消え入りそうな声が、痛々しい。
毎朝毎晩、紫鷹殿下は変わらず、日向様の食事を届けにやって来る。その殿下に隠れ家の扉を開くことも、言葉を返すことも、日向様はできなかった。
だから毎朝毎晩、紫鷹殿下が帰った後、一人で泣くのだ。
今日も体が動かなかった。紫鷹殿下が悲しいのに、ごめんねが言えなかった。自分のせいで紫鷹殿下を泣かせるのに、なんでできないのか、と。
一度、他の者に任せるべきではないかと殿下は言ってきたが、それはないと断固として説得した。おそらく今、紫鷹殿下を失えば、いつか殿下が日向様を思って気配を隠した時のように、日向様は混乱する。
決して、紫鷹殿下を拒みたい訳ではない。
むしろその温もりを求めているからこそ、その姿はあまりに痛々しかった。
「少しでかまいませんから、お食事を召し上がってください、」
そう促せば、日向様はスプーンを持ち上げて口に運ぶ。
だが、大好きなおにぎりを受け付けなくなって、食事は粥に変わった。
疲労と心労で胃腸が荒れたせいもあるし、何を食べても味が分からないせいでもある。日に日に食が細くなって、目に見えて分かるほど痩せた。
やはり、数口が限界か。
体力も落ちたせいで、すぐに手が上がらなくなる。日向様は自分でやりたいと訴えたが、残りの食事は手伝わせてもらった。
今の日向様が起きていられる時間は限られる。案の定、半分食べた辺りでうとうとしだして、口に入れたものを飲み込めなくなった。
「…魔力の枯渇や足の痛みなら、わかりやすかったのに、」
日向様が完全に寝入ってから呼んだ水蛟(みずち)さんは、くたりと力の抜けた日向様を抱き上げると、涙をにじませる。それでも、手早く体を拭いて服を着替えさせてくれた。
「嫌だと、わかりやすく泣いていた方が、まだ良かったのだと、今なら思います。」
「…お辛いと思いますが、日向様には時間が必要です。水蛟さんもあまり気負わずに。長く見守っていく体力が私たちには必要です、」
「分かっては、います、」
「殿下も、日向様も、一生懸命にご自身と闘っておられます。私たち大人が先に折れてはなりません、」
ほろりと落ちる雫に胸が痛んだ。
彼女もまた、心を痛め、闘っている一人だ。
水蛟さんは、日向様が目覚めている間は、近くに寄れない。日向様を愛するあまり、紫鷹殿下と同様に、その心の機微が日向様を刺激してしまうから。
侍女の中で、日向様の側に侍ることが許されたのは、宇継(うつぎ)さんと唯理音(ゆりね)さんの二人だけだ。
草を中心に選んだ護衛は、元より感情を制御する術を心得ているから、全員残った。むしろ、なんの訓練も受けない侍女の方々が、二人も残ったことに驚かされる。
まして、日向様が感じ取っているのは、魂の在り様だ。
那賀角の(なかつの)が言うには、感情と強く結びついているが、そのものではない。
その制御の術など、そもそも誰も持ちえないのだから、水蛟さんが責められる謂れはなかった。
「水蛟さんが日向様を大切に思われる気持ちは、日向様にとっても大事なものです。今は日向様に受け止める余裕がありませんが、きっと日向様を支える力になりますから、今は耐えてください、」
「…はい、」
「必ずお守りしますから、」
「…今は日向様をお願いいたします。」
日向様を愛してやまない侍女は、深々と頭を下げて部屋を去った。
その背中を見送ると、小さな体を抱く腕に力が籠る。
我々大人が折れてはいけない。
子どもたちが、こんなにも一生懸命に闘っているのだから。
午後、日向様を官兵(かんべ)と唯理音(ゆりね)さんに託し、董子殿下の執務室へ向かう。
先日、尼嶺(にれ)が日向様と紫鷹殿下の婚約を承認し、帝国と尼嶺の合意が成った。散々、殿下の伴侶に他の王族や貴人たちを推してきた尼嶺だ。しかし、国内の情勢がいよいよ王家に不利なものとなり、帝国の威信を借れるのであれば、日向様でも構わないという意見で一致したらしい。
事情はどうあれ、婚約が成るのであれば、機を逃すわけにはいかなかった。
「では、結納の儀は宮城で?」
「ええ、萩花さんには、後見人として日向さんの代理を務めていただくことになります、」
「それはもちろん構いませんが、あちらは納得されていますか、」
日向様以外の者を推したのは、皇家に影響力を持ちたいからだ。後見人が、ぽっと出の異国人では、尼嶺は納得しないだろう。
「日向さんの世話も何もかも、初めからこちらへ任せていたのだから、尼嶺には何も言わせません、」
菫子殿下は微笑んで仰るが、尼嶺に対しては、やはり相当お怒りもあるのだろう。優しさの奥に、底知れない厳しさが垣間見れた。
実際、日向様が帝国へいらした時、ほとんど身一つだったと聞いている。王族が、側仕えの一人も連れず、長持一つにも満たない持参品で留学してくるなど、前代未聞だった。
「大使に加えて、王家の者が参列することになります、」
「…それは、日向様の、」
「ええ、まだお名前までは上がっていませんが、従兄弟がいらっしゃるとのことです。」
日向様の従兄弟。
昨晩も、日向様は蔵の中で従兄弟に虐げられた夢を見て、うなされた。毎晩、毎晩、日向様の眠りを妨げる存在に、腹の奥底で気持ちが逆立つ。
「くれぐれも日向さんと接触するようなことがないよう、お願いします、」
「承りました。…しかし、紫鷹殿下は、平気でしょうか、」
「平気か、と言われれば平気ではないでしょうね。ただ、今は何があっても婚約を優先しなければならないと、あの子も理解していますから、信頼することにしています、」
まるで目の前に紫鷹殿下がおられるかのように、董子殿下は微笑まれる。
先日、紫鷹殿下に日向様の言葉を伝えたのは、母である董子殿下だ。最後まで、伝えるべきかどうか悩んでおられたが、結局は伝えられた。
「あの子なりに、変わろうと努力しているところです。萩花さんには、不安に映るところもあるでしょうけど、支持していただけると助かるわ、」
「ええ、それはもちろん、」
「あの子には、厳しい言葉を言ったけれど、決してあの子だけの責任ではないの。日向さんを学院に通わせると決めたのは私ですし、紫鷹さんが日向さんに対して不安を抱いてると知りながら、その心の寄り添えなかったのも私の責任です。それなのに、萩花さんたちに負担を強いてしまって申し訳ないと思っています、」
眉を下げられ、頭を下げられ、息子を頼みます、と董子殿下は仰る。
私とて、日向様の傍にありながら、その異変に気付くことができなかった。
護衛であるとともに、後見人の立場に立つというなら、私は誰より目敏く日向様の変化に気づき、取返しのつかなくなる前に留めるべきだったのだ。
引き金は紫鷹殿下の不安だったかもしれない。
けれど、日向様の中で、多くのものが積もって、決壊したのだと思う。
その責任の一端は、私にある。
「紫鷹殿下も日向様も、今、精一杯努力されておられます。その努力に報いたいと言うのが、今の私の最も望むところです、」
そう告げれば、董子殿下は紫色の瞳を細めて、またわが子を見るように微笑まれた。
「萩花、」
「殿下、お帰りなさい、」
菫子殿下の執務室を辞したところで、ちょうどお戻りになった紫鷹殿下と鉢合わせた。
「今、妃殿下と結納の儀について、相談してきたところです、」
「…参列者の話は聞いたか、」
「ええ、伺っております、」
「日向とは、」
「くれぐれも接触のないようにと妃殿下からも承りました。草と騎士団とも相談して、離宮と周辺の警護を整えます。襲撃の恐れもありますから、あらゆる事態を想定して対処いたしますよ、」
「頼む、」
紫色の頭が下がるのを見て、ああ、親子だなと微笑ましく思った。
だけど、頬がこけて、せっかく皇帝陛下と生き写しの顔が、今は儚く見える。
「殿下は、結納までに肉をつけませんと、」
「肉?」
「少しやつれました。隈もひどいです。あまり弱弱しい姿では、尼嶺に侮られますから、まずは見た目から整えなければ、」
言えば、ああ、と頷いて、殿下は笑う。
久しぶりに笑顔を見た。
「うん、藤夜にも言われた。日向にも心配かけるわけにはいかないから、とりあえず寝るのと食うのは、ちゃんとすることにした、」
今朝、日向様の食事を持ってきた時は、お辛そうではあったけれど、どこか心を定めて落ち着いているように見える。
菫子殿下の言うよう、紫鷹殿下は変わろうと努力なされているのだろう。
このまま夕食に行くかと尋ねれば、頷くから、二人で並んで歩いた。
「日向は、」
「今日は官兵と唯理音さんと、中庭に散歩に出かけられましたよ。花韮(はなにら)が満開で綺麗だったと、喜んでおられました。」
「そうか。食事は、」
「半分ほど。起きた時にジュースやおやつを食べていただくようにしていますし、料理長が色々と工夫してくれているので、何とか必要量は摂っております、」
「うん、ならいい、」
頷いて、一度深く息を吐いて、殿下は日向様のいる部屋の扉を叩く。
「日向、ご飯だよ、」
そう呼びかける声は、少し硬くはあったけれど、穏やかで日向様への愛しさにあふれていた。
その全身で、日向様への思いを伝えようとしているのだと思った。
その思いを受けたように、隠れ家の中で、日向様が必死に応えようとする気配を感じる。
子どもたちが、こんなにも一生懸命闘っているのだ。
おそらく日向様も紫鷹殿下も、身も心も裂かれるほどの痛みを伴いながら、それでもお互いを思って、自分自身と闘っている。
その努力に報いねばならない。
2人がその心に向き合えるように。
お互いを受け入れられるように。
また、二人でその温もりを感じられるように。
小さく「ごめんね、」と謝る声がする。
ようやく体の強張りが解けて、声が出るようになったのだろう。
扉を開けてもいいかと声をかけると、しばらく迷ったような気配の後、うん、と返事が返って来た。
「また、できな、かった、」
そう言って泣く日向様を隠れ家から引き出し、膝の上に抱く。
長く手足を折り曲げて丸くなっていたから、関節は固まって、体は丸くなったまますぐには動かなかった。それを一つ一つ撫でて伸ばして、隠れ家の前に座らせる。
顔を拭うが、拭う傍から涙が零れて、止まらなかった。
「殿下は、ゆっくりでいいと仰っていましたよ、」
「しおうは、かなしい、のに」
「悲しいだけでないと、日向様は分かるはずです。殿下は日向様を心配しますし、日向様に会えないと悲しくなります。でも、それだけではありませんね、」
水色の瞳を見つめて言うと、白い顔がくしゃりと歪んで、また大粒の涙が零れる。
小さく頷いた後、弱弱しく泣き声を上げる水色の頭を抱いて、背中を撫でた。
「わかる、のに、できないが、くやしい、」
消え入りそうな声が、痛々しい。
毎朝毎晩、紫鷹殿下は変わらず、日向様の食事を届けにやって来る。その殿下に隠れ家の扉を開くことも、言葉を返すことも、日向様はできなかった。
だから毎朝毎晩、紫鷹殿下が帰った後、一人で泣くのだ。
今日も体が動かなかった。紫鷹殿下が悲しいのに、ごめんねが言えなかった。自分のせいで紫鷹殿下を泣かせるのに、なんでできないのか、と。
一度、他の者に任せるべきではないかと殿下は言ってきたが、それはないと断固として説得した。おそらく今、紫鷹殿下を失えば、いつか殿下が日向様を思って気配を隠した時のように、日向様は混乱する。
決して、紫鷹殿下を拒みたい訳ではない。
むしろその温もりを求めているからこそ、その姿はあまりに痛々しかった。
「少しでかまいませんから、お食事を召し上がってください、」
そう促せば、日向様はスプーンを持ち上げて口に運ぶ。
だが、大好きなおにぎりを受け付けなくなって、食事は粥に変わった。
疲労と心労で胃腸が荒れたせいもあるし、何を食べても味が分からないせいでもある。日に日に食が細くなって、目に見えて分かるほど痩せた。
やはり、数口が限界か。
体力も落ちたせいで、すぐに手が上がらなくなる。日向様は自分でやりたいと訴えたが、残りの食事は手伝わせてもらった。
今の日向様が起きていられる時間は限られる。案の定、半分食べた辺りでうとうとしだして、口に入れたものを飲み込めなくなった。
「…魔力の枯渇や足の痛みなら、わかりやすかったのに、」
日向様が完全に寝入ってから呼んだ水蛟(みずち)さんは、くたりと力の抜けた日向様を抱き上げると、涙をにじませる。それでも、手早く体を拭いて服を着替えさせてくれた。
「嫌だと、わかりやすく泣いていた方が、まだ良かったのだと、今なら思います。」
「…お辛いと思いますが、日向様には時間が必要です。水蛟さんもあまり気負わずに。長く見守っていく体力が私たちには必要です、」
「分かっては、います、」
「殿下も、日向様も、一生懸命にご自身と闘っておられます。私たち大人が先に折れてはなりません、」
ほろりと落ちる雫に胸が痛んだ。
彼女もまた、心を痛め、闘っている一人だ。
水蛟さんは、日向様が目覚めている間は、近くに寄れない。日向様を愛するあまり、紫鷹殿下と同様に、その心の機微が日向様を刺激してしまうから。
侍女の中で、日向様の側に侍ることが許されたのは、宇継(うつぎ)さんと唯理音(ゆりね)さんの二人だけだ。
草を中心に選んだ護衛は、元より感情を制御する術を心得ているから、全員残った。むしろ、なんの訓練も受けない侍女の方々が、二人も残ったことに驚かされる。
まして、日向様が感じ取っているのは、魂の在り様だ。
那賀角の(なかつの)が言うには、感情と強く結びついているが、そのものではない。
その制御の術など、そもそも誰も持ちえないのだから、水蛟さんが責められる謂れはなかった。
「水蛟さんが日向様を大切に思われる気持ちは、日向様にとっても大事なものです。今は日向様に受け止める余裕がありませんが、きっと日向様を支える力になりますから、今は耐えてください、」
「…はい、」
「必ずお守りしますから、」
「…今は日向様をお願いいたします。」
日向様を愛してやまない侍女は、深々と頭を下げて部屋を去った。
その背中を見送ると、小さな体を抱く腕に力が籠る。
我々大人が折れてはいけない。
子どもたちが、こんなにも一生懸命に闘っているのだから。
午後、日向様を官兵(かんべ)と唯理音(ゆりね)さんに託し、董子殿下の執務室へ向かう。
先日、尼嶺(にれ)が日向様と紫鷹殿下の婚約を承認し、帝国と尼嶺の合意が成った。散々、殿下の伴侶に他の王族や貴人たちを推してきた尼嶺だ。しかし、国内の情勢がいよいよ王家に不利なものとなり、帝国の威信を借れるのであれば、日向様でも構わないという意見で一致したらしい。
事情はどうあれ、婚約が成るのであれば、機を逃すわけにはいかなかった。
「では、結納の儀は宮城で?」
「ええ、萩花さんには、後見人として日向さんの代理を務めていただくことになります、」
「それはもちろん構いませんが、あちらは納得されていますか、」
日向様以外の者を推したのは、皇家に影響力を持ちたいからだ。後見人が、ぽっと出の異国人では、尼嶺は納得しないだろう。
「日向さんの世話も何もかも、初めからこちらへ任せていたのだから、尼嶺には何も言わせません、」
菫子殿下は微笑んで仰るが、尼嶺に対しては、やはり相当お怒りもあるのだろう。優しさの奥に、底知れない厳しさが垣間見れた。
実際、日向様が帝国へいらした時、ほとんど身一つだったと聞いている。王族が、側仕えの一人も連れず、長持一つにも満たない持参品で留学してくるなど、前代未聞だった。
「大使に加えて、王家の者が参列することになります、」
「…それは、日向様の、」
「ええ、まだお名前までは上がっていませんが、従兄弟がいらっしゃるとのことです。」
日向様の従兄弟。
昨晩も、日向様は蔵の中で従兄弟に虐げられた夢を見て、うなされた。毎晩、毎晩、日向様の眠りを妨げる存在に、腹の奥底で気持ちが逆立つ。
「くれぐれも日向さんと接触するようなことがないよう、お願いします、」
「承りました。…しかし、紫鷹殿下は、平気でしょうか、」
「平気か、と言われれば平気ではないでしょうね。ただ、今は何があっても婚約を優先しなければならないと、あの子も理解していますから、信頼することにしています、」
まるで目の前に紫鷹殿下がおられるかのように、董子殿下は微笑まれる。
先日、紫鷹殿下に日向様の言葉を伝えたのは、母である董子殿下だ。最後まで、伝えるべきかどうか悩んでおられたが、結局は伝えられた。
「あの子なりに、変わろうと努力しているところです。萩花さんには、不安に映るところもあるでしょうけど、支持していただけると助かるわ、」
「ええ、それはもちろん、」
「あの子には、厳しい言葉を言ったけれど、決してあの子だけの責任ではないの。日向さんを学院に通わせると決めたのは私ですし、紫鷹さんが日向さんに対して不安を抱いてると知りながら、その心の寄り添えなかったのも私の責任です。それなのに、萩花さんたちに負担を強いてしまって申し訳ないと思っています、」
眉を下げられ、頭を下げられ、息子を頼みます、と董子殿下は仰る。
私とて、日向様の傍にありながら、その異変に気付くことができなかった。
護衛であるとともに、後見人の立場に立つというなら、私は誰より目敏く日向様の変化に気づき、取返しのつかなくなる前に留めるべきだったのだ。
引き金は紫鷹殿下の不安だったかもしれない。
けれど、日向様の中で、多くのものが積もって、決壊したのだと思う。
その責任の一端は、私にある。
「紫鷹殿下も日向様も、今、精一杯努力されておられます。その努力に報いたいと言うのが、今の私の最も望むところです、」
そう告げれば、董子殿下は紫色の瞳を細めて、またわが子を見るように微笑まれた。
「萩花、」
「殿下、お帰りなさい、」
菫子殿下の執務室を辞したところで、ちょうどお戻りになった紫鷹殿下と鉢合わせた。
「今、妃殿下と結納の儀について、相談してきたところです、」
「…参列者の話は聞いたか、」
「ええ、伺っております、」
「日向とは、」
「くれぐれも接触のないようにと妃殿下からも承りました。草と騎士団とも相談して、離宮と周辺の警護を整えます。襲撃の恐れもありますから、あらゆる事態を想定して対処いたしますよ、」
「頼む、」
紫色の頭が下がるのを見て、ああ、親子だなと微笑ましく思った。
だけど、頬がこけて、せっかく皇帝陛下と生き写しの顔が、今は儚く見える。
「殿下は、結納までに肉をつけませんと、」
「肉?」
「少しやつれました。隈もひどいです。あまり弱弱しい姿では、尼嶺に侮られますから、まずは見た目から整えなければ、」
言えば、ああ、と頷いて、殿下は笑う。
久しぶりに笑顔を見た。
「うん、藤夜にも言われた。日向にも心配かけるわけにはいかないから、とりあえず寝るのと食うのは、ちゃんとすることにした、」
今朝、日向様の食事を持ってきた時は、お辛そうではあったけれど、どこか心を定めて落ち着いているように見える。
菫子殿下の言うよう、紫鷹殿下は変わろうと努力なされているのだろう。
このまま夕食に行くかと尋ねれば、頷くから、二人で並んで歩いた。
「日向は、」
「今日は官兵と唯理音さんと、中庭に散歩に出かけられましたよ。花韮(はなにら)が満開で綺麗だったと、喜んでおられました。」
「そうか。食事は、」
「半分ほど。起きた時にジュースやおやつを食べていただくようにしていますし、料理長が色々と工夫してくれているので、何とか必要量は摂っております、」
「うん、ならいい、」
頷いて、一度深く息を吐いて、殿下は日向様のいる部屋の扉を叩く。
「日向、ご飯だよ、」
そう呼びかける声は、少し硬くはあったけれど、穏やかで日向様への愛しさにあふれていた。
その全身で、日向様への思いを伝えようとしているのだと思った。
その思いを受けたように、隠れ家の中で、日向様が必死に応えようとする気配を感じる。
子どもたちが、こんなにも一生懸命闘っているのだ。
おそらく日向様も紫鷹殿下も、身も心も裂かれるほどの痛みを伴いながら、それでもお互いを思って、自分自身と闘っている。
その努力に報いねばならない。
2人がその心に向き合えるように。
お互いを受け入れられるように。
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