上 下
116 / 201
第弐部-Ⅱ:つながる魔法

114.宇継 後悔

しおりを挟む
「おはようございます、日向様。良いお天気ですよ、」

カーテンと窓を開けば、穏やかな朝の陽ざしと涼やかな風が入って来る。
少し前なら私が握ったカーテンを一緒に引いて、ともに窓を外へ押し出した日向様が、今は姿も見せてはくれなかった。

小さな衣装部屋の箪笥の下の小さな隠れ家。
日向様が再びそこへ籠るようになったのは、学院で二度目の授業を受けた翌日のことだった。

前日には、熱を出してぐったりと眠った日向様を紫鷹(しおう)殿下が抱えて帰る。熱が出るのも、どこかで寝落ちてしまうのもいつものことだったから、さほど心配はしていなかったけれど、殿下の話では日向様の様子がおかしかったとのことだった。

実際、おかしかったのだろう。
翌朝目を覚ました日向様は、紫鷹殿下に怯え、私に怯え、全てに怯えて隠れ家に籠ってしまわれた。

あれから1週間。
日向様は今も隠れ家から出られない。
今日はどうかしら。本当なら、今日は日向様が学院へ通学される日だけれど。


「…おはよう、日向、」


隠れ家の前の小さな台へ、紫鷹殿下が朝食のトレイを置く。

酷い隈。
顔も青白くて、疲れを隠しきれていないのをみると、眠れていないのではないかしら。

日向様が隠れ家に籠ってしまい、部屋に人の気配がある間は、隠れ家を出ることも食事を摂ることも眠ることもしなくなってしまって、殿下は16年過ごされたかつての自室に戻られた。
日向様と殿下の二人の部屋に今は日向様一人だけ。
殿下は、朝と夕に食事を持ってくるのと、時々ふらりと訪ねてきて、返事のない隠れ家の前で静かにたたずんでいることがあるだけだ。

「学院はどうする?今日は休むか?」

隠れ家の前に膝をついて、殿下は優しく問いかける。
私は殿下や日向様のように気配には聡くないけれど、隠れ家の中で、日向様が息を呑み、身じろいだのが分かった。
ここ数日で、一番わかりやすい反応だったせいかもしれない。

殿下も、少しハッとした後、全ての音を聞き逃すまいと耳を澄ませているようだった。
だけど、すぐに隠れ家はいつもの物言わない箪笥に変わってしまう。

殿下の手が隠れ家の扉に延びてそっと触れた。

「無理はしなくていい。しんどいなら、しばらく休んで構わない。また、行けるようになったら一緒に行くから、」

優しいけれど、どこか苦しそうで悲し気な声が、最後の方は小さくなって消えていった。
肩が震えていたから、泣いていたのかもしれない。


「…日向、声が聞きたい、」


殿下はそう願ったけれど、隠れ家は静かなまま、何の答えも返ってはこなかった。
立ち上がった殿下が、ごめんな、と小さくつぶやいて部屋を去る。何度も振り返るのが切なくて、悲しい。

日向様と殿下が、あんなに仲睦まじく過ごされた日々が、奇跡のようだったのだと今さらながら思った。




日向様は何も語らない。
声を上げることも、泣くこともしない。
姿も見えないから、何がそうさせるのか、誰にも分からなかった。

学院になじめなかったのかしら、と水蛟(みずち)は言う。
でも、学院では本当に楽しそうで、とも。

できない、と泣いていた頃を思い出して、あの時のように焦っているのかしらと、私も考えたりした。でも最近の日向様は、できないことは仕方ないと受け入れているようにも見えたから、どうして今?とも。

唯理音(ゆりね)は、きっと一つだけではないのではないかしら、と穏やかに言った。
昼食の席で、いつも日向様の言葉を聞いていた彼女は、あまりに多くのものが急激に日向様の中に入って来て、あふれ出ているようだったと眉を下げる。

青空(そら)は、日向様が泣いたとしても、勉強や鍛錬を減らすべきだっただろうか、と泣いた。

どれだけ悩んでも、どれだけ後悔しても、何も分からない。
日向様は、何も語ってはくれない。



「日向さん、青巫鳥(あおじ)が来ていますよ、」

おやつの時間、いつものように隠れ家の前に座った董子(すみれこ)殿下が、窓の外の黄色い鳥を見て、朗らかに言う。

「お部屋を引っ越しても、青巫鳥はついていらしたのねえ、」

相も変わらず、隠れ家からお返事はないけれど、董子殿下はのんびりとお話された。日向様がソファで董子殿下とおやつを食べた時と同じように。何でもない日々の話を語りかける。

一度、水蛟がお辛くありませんか、と尋ねたことがある。
以前なら、おやつの時間の日向様は、小さな子どものように董子殿下に甘えて、よくお話された。殿下はそのお話を聞くのがお好きだったし、甘える日向様のやわらかい髪を撫でるのがとてもお好きだった。
今はその表情を見ることも、髪に触れることも、声を聞くこともできないのに、お辛くありませんか、と。

日向さんは、日向さんですもの。と董子殿下は微笑まれたと水蛟は言った。


「亜白(あじろ)さんの母上、つまり私の妹ね。彼女から手紙をもらったわ。夏までには、こちらへ送れるようにします、ですって。亜白さんは今あちらの学院や宮城でやるべきことを、一生懸命片づけていらっしゃるそうよ。今までそう言う面倒くさいことからは逃げていた子だから吃驚したわ、ですって。」

林檎のお茶もね、また送ってくれましたから、後で飲んでくださいね、と董子殿下は微笑む。
やっぱり隠れ家からお返事はなかったけれど、満足された様子で、殿下は部屋を後にされた。



本当は、ずっと部屋にとどまって見守っていたい。
けれど、私がここにいると、日向様はおやつを食べられないから、殿下のおやつを片付けた後は、控えの部屋に下がるしかなかった。

部屋の前室に出たところで、護衛の東(あずま)さんが、教科書を広げている。

「董子殿下から、皆さんにといただいたので、良ければどうぞ、」

東さんが小さく頷くので、教科書が広がっていた机の端に、羅郷(らごう)の林檎のお茶と菓子を置いた。

「お勉強ですか、」
「…帝国史を。日向様に聞かれた時に知らないとは言えませんので、」
「草の方は、帝国の歴史も学ばれるとお聞きしましたけど、」
「僕たちがやるのは、帝国内外の事情を把握するのに必要な歴史ですから、学院で教えるのとは少し違います。」
「あら、」
「学問としての歴史は、何というかとても着飾られていて、少し困惑しました。…それを日向様に伝えてしまったのは、間違いだったかもしれません。混乱させてしまいました、」
「…それでお勉強を?」
「いずれにしても必要ですから、」

日向様より一つ年下の護衛は、少し悲し気な表情をして、再び教科書へ視線を落とす。
本当なら今頃は、日向様とともに学院で過ごされていた時間ですね。
日向様の護衛になったばかりの頃は、草らしく鋭い目つきと表情で、とても子どもには見えなかったけれど、こうして表情豊かに教科書を広げているのを見ると、学生らしく見えた。

誰もが、隠れ家に籠った日向様に後悔の念を抱いている。


何が悪かったのかしら。
何が、日向様を追い詰めてしまったのかしら。

考えない日はなかった。
隠れ家を見るたび、一人になるたび、湯を浴びて自分の髪を乾かすために魔法を使うたび、日向様を思う。
だけど、日向様は何も語ってはくれない。


ただ静かに、隠れ家の中でじっと息をひそめているのが、とても苦しかった。


しおりを挟む
感想 44

あなたにおすすめの小説

【書籍化進行中】契約婚ですが可愛い継子を溺愛します

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
恋愛
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ  前世の記憶がうっすら残る私が転生したのは、貧乏伯爵家の長女。父親に頼まれ、公爵家の圧力と財力に負けた我が家は私を売った。  悲壮感漂う状況のようだが、契約婚は悪くない。実家の借金を返し、可愛い継子を愛でながら、旦那様は元気で留守が最高! と日常を謳歌する。旦那様に放置された妻ですが、息子や使用人と快適ライフを追求する。  逞しく生きる私に、旦那様が距離を詰めてきて? 本気の恋愛や溺愛はお断りです!!  ハッピーエンド確定 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2024/09/07……カクヨム、恋愛週間 4位 2024/09/02……小説家になろう、総合連載 2位 2024/09/02……小説家になろう、週間恋愛 2位 2024/08/28……小説家になろう、日間恋愛連載 1位 2024/08/24……アルファポリス 女性向けHOT 8位 2024/08/16……エブリスタ 恋愛ファンタジー 1位 2024/08/14……連載開始

ちっちゃくなった俺の異世界攻略

鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた! 精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!

【完結】もふもふ獣人転生

  *  
BL
白い耳としっぽのもふもふ獣人に生まれ、強制労働で死にそうなところを助けてくれたのは、最愛の推しでした。 ちっちゃなもふもふ獣人と、攻略対象の凛々しい少年の、両片思い? な、いちゃらぶもふもふなお話です。 本編完結しました! おまけをちょこちょこ更新しています。 第12回BL大賞、奨励賞をいただきました、読んでくださった方、応援してくださった方、投票してくださった方のおかげです、ほんとうにありがとうございました!

「トリプルSの極上アルファと契約結婚、なぜか猫可愛がりされる話」

悠里
BL
Ωの凛太。オレには夢がある。その為に勉強しなきゃ。お金が必要。でもムカつく父のお金はできるだけ使いたくない。そういう店、もありだろうか……。父のお金を使うより、どんな方法だろうと自分で稼いだ方がマシ、でもなぁ、と悩んでいたΩ凛太の前に、何やらめちゃくちゃイケメンなαが現れた。 凛太はΩの要素が弱い。ヒートはあるけど不定期だし、三日こもればなんとかなる。αのフェロモンも感じないし、自身も弱い。 なんだろこのイケメン、と思っていたら、何やら話している間に、変な話になってきた。 契約結婚? 期間三年? その間は好きに勉強していい。その後も、生活の面倒は見る。デメリットは、戸籍にバツイチがつくこと。え、全然いいかも……。お願いします! トリプルエスランク、紫の瞳を持つスーパーαのエリートの瑛士さんの、超高級マンション。最上階の隣の部屋を貰う。もし番になりたい人が居たら一緒に暮らしてもいいよとか言うけど、一番勉強がしたいので! 恋とか分からないしと断る。たまに一緒にパーティーに出たり、表に夫夫アピールはするけど、それ以外は絡む必要もない、はずだったのに、なぜか瑛士さんは、オレの部屋を訪ねてくる。そんな豪華でもない普通のオレのご飯を一緒に食べるようになる。勉強してる横で、瑛士さんも仕事してる。「何でここに」「居心地よくて」「いいですけど」そんな日々が続く。ちょっと仲良くなってきたある時、久しぶりにヒート。三日間こもるんで来ないでください。この期間だけは一応Ωなんで、と言ったオレに、一緒に居る、と、意味の分からない瑛士さん。一応抑制剤はお互い打つけど、さすがにヒートは、無理。出てってと言ったら、一人でそんな辛そうにさせてたくない、という。もうヒートも相まって、血が上って、頭、良く分からなくなる。まあ二人とも、微かな理性で頑張って、本番まではいかなかったんだけど。――ヒートを乗り越えてから、瑛士さん、なんかやたら、距離が近い。何なのその目。そんな風に見つめるの、なんかよくないと思いますけど。というと、おかしそうに笑われる。そんな時、色んなツテで、薬を作る夢の話が盛り上がってくる。Ωの対応や治験に向けて活動を開始するようになる。夢に少しずつ近づくような。そんな中、従来の抑制剤の治験の闇やΩたちへの許されない行為を耳にする。少しずつ証拠をそろえていくと、それを良く思わない連中が居て――。瑛士さんは、契約結婚をしてでも身辺に煩わしいことをなくしたかったはずなのに、なぜかオレに関わってくる。仕事も忙しいのに、時間を見つけては、側に居る。なんだか初の感覚。でもオレ、勉強しなきゃ!瑛士さんと結婚できるわけないし勘違いはしないように! なのに……? と、αに翻弄されまくる話です。ぜひ✨ 表紙:クボキリツ(@kbk_Ritsu)さま 素敵なイラストをありがとう…🩷✨

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺

福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。 目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。 でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい… ……あれ…? …やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ… 前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。 1万2000字前後です。 攻めのキャラがブレるし若干変態です。 無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形) おまけ完結済み

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 時々おまけを更新しています。

結婚式当日に「ちょっと待った」されたので、転生特典(執事)と旅に出たい

オオトリ
BL
とある教会で、今日一組の若い男女が結婚式を挙げようとしていた。 今、まさに新郎新婦が手を取り合おうとしたその時――― 「ちょっと待ったー!」 乱入者の声が響き渡った。 これは、とある事情で異世界転生した主人公が、結婚式当日に「ちょっと待った」されたので、 白米を求めて 俺TUEEEEせずに、執事TUEEEEな旅に出たい そんなお話 ※主人公は当初女性と婚約しています(タイトルの通り) ※主人公ではない部分で、男女の恋愛がお話に絡んでくることがあります ※BLは読むことも初心者の作者の初作品なので、タグ付けなど必要があれば教えてください ※完結しておりますが、今後番外編及び小話、続編をいずれ追加して参りたいと思っています ※小説家になろうさんでも同時公開中

処理中です...