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第弐部-Ⅰ:世界の中の

89.水蛟 守り育てる

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「…何だ、これは、」


昼過ぎにやってきた紫鷹殿下は、床に散らばった紙片を見て呆然とされた。
文字の練習のための日向様の雑記帳。
お手本通りに書けないと唸った日向様は、今までの成果も全て破ってしまった。

日向様の作った物や描いた物を収集するのを趣味とされる殿下は、それはそれは悲しそうな顔になって、散らばった紙片を拾い上げる。
ぐしゃぐしゃに丸められた紙に、日向様の拙い字を見つけた目が、泣き出してしまうのではないかと思うくらい揺れていた。

日向様は、今もまだ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、部屋の隅でボロボロの雑記帳を破いている。
殿下が来たのも気づいていないようで、うーと唸りながら、ずっと。

仕方ないとは、分かっている。
でも、私も悲しいです。殿下。


「…おいで、日向、」


殿下が日向様の腕を止めて、日向様はようやく殿下に気付いた。
殿下に抱き上げられると、じたばたと手足を動かして逃げようとする。それを、殿下は少し強引に抱き留めて、離さなかった。

「何で破った?せっかく上手くなってきたのに、」
「上手、ならない、もう、いらない、かかない、」
「上手くなったよ。いらないなら俺にちょうだいって言っただろ。俺は日向の字が好きなのに、」
「僕は、きらい、全部、きらい、」
「そっか、悲しいなあ、」

ソファに腰かけ、殿下は暴れる小さな体を包み込むように抱きしめる。
その腕の中で、日向様は、いやだ、と首を振ったけれど、殿下があまりにも優しく抱き続け、背中を擦るものだから、勢いは徐々に消えていった。そのうちに、泣きながらも、殿下の腕を強く握りしめて離さなくなる。

殿下の悲しみが分かるんでしょうね。
嫌だ、の間に、ごめんね、が混じった。


「いいよ。怒っていいから、ちゃんと俺にしがみついていて、」



ここのところ、日向様はずっとイライラされている。



歩くための魔法がうまくいかなかったらしく、それ以来、ずっと。
魔法の失敗で魔力を消耗し一日ほど寝込んだ後は、しばらくぼんやりと反応がなかった。それが、だんだんと反応が戻ってきて、お食事を摂ろうという頃になると、もう何もかも嫌になって、苛立っている様子だった。

今日も、窓を開けますね、と声をかければ、いや、と言い、掃除をしますね、と声をかければ、いや、と言う。
その一方で、部屋を去ろうとすると、行かないで、と縋ってくるのが切なかった。

色々な感情が日向様の中に溢れ出しているんですよね。
きっと、日向様自身にも、どうしようないくらい。
つい数か月前まで、ご自分の感情さえ分からなかった日向様が、その感情たちを処理できなくたって、仕方ないと水蛟はわかっております。
そうと分かった上でも、拒絶されれば辛いし、破られた紙片に悲しくなってしまうんです。


それを、紫鷹殿下は本当によく受け止めていると思う。


「殿下、お疲れでしたら、無理をなさらず、」


日向様を覆うように抱きしめていた体が、しばらく静かだった。
声をかけると、びくりと跳ねて頭を起こすから、多分、少し意識を飛ばしていたと思うの。

「少し寝ていかれたらいかがですか?」
「うん、ああ、いや、平気だ、」

ひどい隈。
夜は日向様がうなされるから、同じベッドで寝る殿下はあまり眠れていないのじゃないかしら。
今朝も早朝から一人で部屋を出て行こうとするのを、殿下と護衛が食い止め、なだめていたと聞いている。
毎日、忙しい合間を縫って日向様の元へいらっしゃるけど、抱きしめたまま、ウトウトとしていることも少なくなかった。

「しおう、おつ、かれ?」
「うん?ごめん、日向を抱いたら温かくて持ってかれた、」

涙で濡れた日向様の顔が、不安げに揺れる。
駄々をこねるのに、心配でたまらないという顔。
またそわそわと落ち着かなくなったのは、日向様の中で色々な感情がない混ぜになって、ぶつかり合っているからですね。

その背中を撫で、口づけをして、殿下は日向様をとろとろに溶かしていく。
くたりと、日向様の体から力が抜けると、張りつめていた空気が、少しだけ和らいだ気がするから、不埒だなんだとは、もう言えなくなった。



「殿下、今よろしいですか。亜白(あじろ)様がいらしています、」



日向様が落ち着くのを見計らっていたのかしら。
官兵(かんべ)さんが、扉を開けて、こちらを伺う。
殿下が、入れろ、と応じると、扉の向こうから、日向様のご友人がお供を連れて、おどおどと顔を覗かせた。

「だ、大丈夫、ですか、僕、また、あと、で、」
「いいよ、話さないとならないだろ。今も後も変わらない、」
「え、あ、うん、はい、」

ソファにご案内してお茶を整える間、亜白様は、何かを迷うように口ごもられていた。
日向様がぐったりとして、反応しないからかもしれない。
ご友人は、最近の日向様の様子に、少し遠慮されているようでもあったから、そのためかもしれない。



「あ、の、ひー様、え、と、僕、一度、羅郷(らごう)に帰ります、」



ようやく意を決して亜白様が口を開いた途端、また空気が張りつめた。
重たそうに頭を持ち上げた日向様が、水色の瞳を大きく開いて、ご友人を見る。混乱しているのかしら。意味が分かったかしら。きょどきょどと視線が泳いだ後、殿下とご友人を何度か見ると、ふるふると震えだした。

「何で、」

悲しそうな、怒ったような表情が辛い。

「何で、あじろ、やだ、帰らない、」
「う、あ、でも、一度帰って、父上や母上に、」
「やだ、行かない、何で、いっしょに、生き物、さがすやくそく、全部、さがす、」
「え、うん、そう、そうです、だから、一度、」
「僕、いらない、なった、あじろ、が、いらない、」
「え、ちが、あの、」

「日向、落ち着け、」

うー、と唸った体が、がたがたと大きく震えて、殿下の腕の中で暴れる。

「日向、ちゃんと聞け。亜白は一度羅郷に帰って、また戻って来る。日向と暮らせるように、羅郷で色々とやることがあるんだ。それが済んだら、また戻って来るから、」

いやだ、と繰り返して呼吸がおかしくなっていくのを、殿下があやして、何とか引き留めた。
亜白様の顔は真っ青。お付きの代都(しろと)様も、顔を歪めて苦しそう。

それでも、殿下が溶かしていくから、日向様は、亜白様の言葉を聞いた。

「ひ、ひー様と、一緒に知りたいことが、僕はたくさんあります。それで、あの、羅郷で、父上と母上と話し合って、帝国へ留学できるよう、手続きを整えてきますから、」

待っていてください、と言い終わらないうちに、亜白様はボロボロ泣いた。
日向様は、すでにぐしゃぐしゃだった顔を、もっとどろどろにして、わんわん声を上げて泣いた。

その背中を殿下がずっと撫でて、包み込む。




「あらまあ、日向さんはお眠ねえ。紫鷹さんまで、」



泣き疲れて眠ってしまった日向様と、日向様を腕に抱いたまま寝落ちてしまった紫鷹殿下に、董子殿下はうっとりと微笑まれた。
ああ、もうおやつの時間。

「先ほどまで、亜白様がいらしていて、帰国のお話をされていました、」
「ああ、それで。日向さんは、はじめてのお別れですものねえ、」

慌てて机の上を片付け、亜白様にお出ししたお茶を下げた。
いつもより手際が悪くなってしまって、おやつの時間に間に合わなかったわ。反省。

「みんなお疲れねえ、」

新しいお茶を整えてお出しすると、妃殿下は眉を下げられた。私にも座りなさいと仰る。

「日向様が、ご自分でもどうしようもないのは分かるんですが…、やっぱり拒絶されるのは辛いです、」
「ふふ、今までがお利口すぎたものねえ、」
「妃殿下は、平気ですか?」

連日、おやつの時間に足を運ばれる妃殿下にも、日向様は駄々をこねた。
おやつを食べなかったり、嫌だと殿下の腕を払いのけたり、隠れ家に籠って出てこなかったり。
その全てを、妃殿下は今みたいに微笑まれて受け止めていらしたけれど。

「紫鷹さんのイヤイヤ期に比べたら、可愛いものですよ。」
「イヤイヤ期、ですか、」
「水蛟さんはまだお若いものね。うちは、上の子たちがおとなしい子だった分、紫鷹さんは激しくて。小さい頃から力も強かったし、すばしっこかったから、大変だったのよ。駄々をこね始めるともう大騒ぎで手が付けられなくて。」

ちらりと殿下を見る。
半分口を開いたまま、日向様と折り重なるようにソファに横たわり、目覚めそうにない。
もし聞こえていたら真っ赤になって、妃殿下を止めたかしら。

「それに比べたら、日向さんは聞き分けのいい方よ。傍にいる水蛟さんたちは大変でしょうけど、」
「いえ…、」

紫色の瞳を細めて見つめられる。
私はこの瞳に弱いんですよ。優しくて、温かくて、お仕えする主人だというのに、つい甘えてしまいたくなる。
日向様も、紫鷹殿下に優しく見つめられるたびに、そうなのかしら。
そうだといい。

「今まで我慢していたものが、ようやく感じられるようになってきたんでしょう。嫌だ嫌だと言われるたびに、私は嬉しくなってしまうわ。離宮に来た頃の日向さんは絶対に言えなかったもの、」
「それは、そうですね、」
「私たちには、安心して嫌だと言えるのよ。そう思うと、嬉しいじゃない?」

「でも、やっぱり辛いです、」
「ふふ、子育てって、そういうものよ、」

そう言われて、少しだけストンと胸に落ちた。


私たちは今、日向様を守り育てているのか。
分かってはいたけど、子育てと言う言葉ひとつで、なるほどと納得してしまう。

親になるって、大変なのね。

じゃあ、紫鷹殿下はさながら、子育てに疲れて寝落ちたお父さんかしら。
それを言ったら、多分、全力で否定されるけど。
殿下は、日向様に惚れてるから。



でも、そうか。家族なのか。

日向様にとって、私たちは「嫌」と葛藤をさらけ出せるほど安心できる家族。

この離宮は、日向様を守り育てる家。



心の奥底で家族だと思えるものが、日向様にもできた。

それは、涙が出るほど嬉しいことではないかしら。


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