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第壱部-Ⅵ:尼嶺の王子
80.萩花 尼嶺の大使
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日向様と同じ、水色の髪と瞳をもつ男だった。
尼嶺乃国(にれのくに)の大使は、月虹(げっこう)と名乗る。
現国王の従兄弟に当たるというから、つまりは、日向様の従兄弟叔父。
「殿下の伴侶にと申されるのであれば、尼嶺にはふさわしい者がおります、」
初老に入るだろう年齢の割に、皺一つない。
表情が薄く、眉さえ動かない男は、作り物のように見えた。
妃殿下と紫鷹殿下を前にしても、淡々としているのが、さらに人間味を薄くさせる。
その表情は、日向様とは似てもにつかなかった。
「我が君のご息女は、皇子殿下と同い年でございます。教養も高く、美貌は尼嶺一とも。幼少より各国へ外遊の経験も豊富でございますから半色乃宮(はしたいろのみや)のお役にも立てましょう、」
差し出された姿絵を、妃殿下はちらりと見て、興味を失くす。
紫鷹殿下に至っては、見向きもしなかった。
少し不機嫌そうに、大使一行を見据えるばかり。
「大使は、書簡の内容は聞き及びではないか、」
「皇子殿下が、我が国との友好の証に、伴侶をお求めだと伺っております。」
「では、これが尼嶺の解答か、」
淀みなく動いていた大使の口が閉じ、水色の瞳が紫鷹殿下を伺うように見る。
殿下がその瞳をまっすぐにとらえたのが、背後からでもわかった。
「伴侶に望んだのは、日向王子だ。」
他はいらない、と殿下は言う。
大使の表情は動かなかったが、横に並んだ副官や後ろに従えた官吏は、不快そうに表情を歪める。
この者たちは皆、少なからず、日向様を知っているのだろうと思った。
尼嶺の宮殿の中で、蔵に押し込められた王子がいたことを知る者はさほど多くない。
日向様が教養や作法どころか、話すこともままならない王子だということは、尼嶺の宮殿の中でも王族に近しい者たちしか知り得なかった。
だが、大使はじめ、尼嶺を代表して帝国にはせ参じる一団が、知らないということはないだろう。
尼嶺から帝国へ日向様が渡った時、その一切を取り仕切ったのはこの大使だと聞いた。
知っているからこそ、受け入れ難いのではないか。
「あれは、」
大使が閉じた口を開く。
「日向王子は、皇子殿下の伴侶には役不足かと。ご存じかと思われますが、あれは少しばかり遅れております。」
その声に、紫鷹殿下はよく堪えた。
これでもかと言うほど、肩と腕に力が籠ったのが分かるけれど。
かくいう私も、後ろに組んだ腕を固く握らなければ、腹から怒りが湧きあがる。おそらくは、隣に立つ藤夜(とうや)も同様に。
「帝国の申し出に従い、あれを送りましたが、早計であったと我が君も悔恨の念を抱いております。帝国にふさわしい者を送るべきであったと。半色乃宮には、大変な御面倒をおかけ致しました。なればこそ、皇子殿下の伴侶には何卒、」
「書簡の通りだ、」
「殿下、」
「日向王子を貰い受ける。しきたりに則り、婚約の儀を進めるよう、尼嶺の王へ伝えよ、」
紫鷹殿下の強い声音に、大使は押し黙る。
表情は変わらなかったが、承りました、と応じた声には不快の色が混じっていた。
尼嶺の大使一行を見送った後、紫鷹殿下は「しばらく一人にしてくれ」と言う。
藤夜さえ傍に寄せず、執務室に籠られた。
「ひなは、亜白様のところか、」
「ええ、万が一にも尼嶺の者と鉢合わせないようにと、董子殿下がお願いされたようです。」
「…あの連中には、会わせられないなあ、」
そうですね、と藤夜の言葉に頷いた。
「日向様の護衛についてから、尼嶺の官吏とはやり取りがありますが、少なくとも一介の官吏は、日向様を王子として扱っておりましたよ。ですが、あの大使はいただけませんね、」
大使自身が、日向様を直接虐げたかどうかは知らない。
それでも、離宮に来たばかりの日向様には、新しい傷があったと言うから、少なくともあの大使はそれを容認していただろうとは思う。
そんな男に、日向様を会わせられない。
日向様を、あれ、と呼ぶ者などには。
「すんなり婚約とはいかないだろうなあ、」
紫鷹殿下の執務室へ視線をやって、藤夜が言った。
「帝国と姻族関係になれるなら、そりゃ影響力を持ちたいよな。」
「尼嶺の王には、ご令息とご息女が多くいますからね。しばらくは、殿下は大変でしょうね、」
「それくらいの壁は乗り越えてもらわないと、ひなはやれないだろ。」
父親のようなことを言う藤夜に、思わず笑みを漏らす。
確かに、それくらいの困難は超えてもらわなければ、日向様を殿下に任せるわけにはいかない。
菫子殿下が言うには、日向様が16歳になってすぐに、尼嶺から日向様に婚姻の話があったと言う。
どれも、尼嶺が覇権を広げるためのもので、日向様の事情は何一つ考慮されていなかったと。
もちろん、そんなところへ董子殿下が日向様を送るわけはない。
だが、紫鷹殿下だけでなく、日向様にもそう言った話が、これからはさらに増えるだろうと推測された。
おそらく今日の話も、尼嶺の周囲から漏れ、広がる。
ならば、殿下には、きちんと防波堤になっていただかなければ、困る。
「鍛錬も、厳しくしなければなりませんねえ、」
「…お手柔らかに、」
「二人とも伸びしろがありますからね、期待しています、」
「勝手に期待してくれるなよ、」
「紫鷹、」
「殿下、」
音もなく開いた扉から、紫鷹殿下がうんざりした表情で出てきた。
落ち込んでいるかと思ったのだけれど。
「何だ、もういいのか、」
「日向を迎えに行く、」
さっさと踵を返して歩きだした殿下の背中を、藤夜と追う。
幾分か疲れたようで、背中が少し丸くなっていた。それでも、力は抜けて落ち着いている。
正装を脱いで、緩やかになった上衣に、光るものがあった。
日向様お手製の大瑠璃のブローチ。
その大瑠璃を、殿下の手が撫でる。その仕草が、日向様がいつも左胸の青巫鳥(あおじ)を撫でる仕草に少し似ていた。
亜白様の部屋の扉を叩くと、すぐに従僕に中へと招き入れられる。
その先の光景に、思わず足が止まった。
「何でこうなる、」
ソファを見下ろし、殿下が唸る。
藤夜はへえ、と笑ったし、私も微笑ましく思った。本当に仲良くなられたようで。
散らかった紙と画材の中で、日向様と亜白様が折り重なるように眠っていた。
「申し訳ありません、お二人とも遊び疲れて寝てしまって、」
「日向は分かるが亜白は何だ、相変わらずなのか、」
はあ、とため息を漏らす殿下に、代都(しろと)が頭を下げる。
相変わらずと言うことは、亜白様がこんな風に寝るのは日常なのか。通りで、日向様と波長が合う。
亜白、起きろ、と殿下が呼んだ。
呆れてはいるが、いつものように嫉妬するような気迫はない。かといって、力がない訳でもなく。
ただただ、穏やかで、優しかった。
その声に、おや、と思う。
「し、おう、」
亜白様が目覚めるより先に、水色の瞳が開いた。
けれど、いつもならすぐさま手を伸ばす殿下が、そうしない。ソファの横に膝をついて、日向様を見守るだけに留めた。
その視線の先で、ぼんやりとしていた日向様の瞳が、少しずつ大きく開いていって、きょどきょどと頭を揺らし出す。
「…わかるか、」
「に、れ、」
「うん。尼嶺の大使に会った。」
「僕、に、れ、に、」
「日向。大丈夫だから落ち着け。日向は尼嶺に帰さない。大使には俺が貰うって、言っておいた。それでいいな?」
遠目にもわかるほど、日向様の体が震えていた。
それでも、小さく、うん、と頷く。
ああ、そうか。
日向様が何をきっかけに覚るかわからないから、服も換えたし、迎えに来るのに間も置いたのか、と思う。
日向様は聡いから。
気配を察することに関しては、ここにいる誰よりも長けていて、私たちでは到底足元にも及ばない。
「日向だけがいいと、尼嶺に伝えた。」
「う、ん、」
「日向しかいらない、日向しか欲しくない、」
「ぅん、」
「抱っこしてもいいか、」
ぅん、
殿下が震える小さな体を、抱き上げ、抱きしめた。
宝物のように。愛しい者を。
尼嶺の大使は何も知らない。
こんな光景、きっと想像もしない。
日向様が聡いことも。
日向様が、殿下にこれほど愛されていることも。
日向様が、物ではなく、一人の人として生きていることも。
知らないし、知ろうともしない。
知りたくもないのだろう。
ならば、知らなくていい、と思う。
知らないまま、足掻けばいい。
紫鷹殿下に取り入ろうと、伴侶を見繕って。
いらないと跳ね返されればいい。
「俺が望んだのは、日向だけだ、 」
うん、
殿下の腕の中で徐々に落ち着きを取り戻した日向様が、こところと大瑠璃を転がした。
その仕草を真似るように、殿下が日向様の青巫鳥のブローチを撫でる。
こんな幸福な番いを、大使は知らない。
きっと、大使が知らないまま、ことは成るだろう。
大使が気づかぬうちに、殿下は、尼嶺から日向様を奪ってしまうだろうから。
尼嶺乃国(にれのくに)の大使は、月虹(げっこう)と名乗る。
現国王の従兄弟に当たるというから、つまりは、日向様の従兄弟叔父。
「殿下の伴侶にと申されるのであれば、尼嶺にはふさわしい者がおります、」
初老に入るだろう年齢の割に、皺一つない。
表情が薄く、眉さえ動かない男は、作り物のように見えた。
妃殿下と紫鷹殿下を前にしても、淡々としているのが、さらに人間味を薄くさせる。
その表情は、日向様とは似てもにつかなかった。
「我が君のご息女は、皇子殿下と同い年でございます。教養も高く、美貌は尼嶺一とも。幼少より各国へ外遊の経験も豊富でございますから半色乃宮(はしたいろのみや)のお役にも立てましょう、」
差し出された姿絵を、妃殿下はちらりと見て、興味を失くす。
紫鷹殿下に至っては、見向きもしなかった。
少し不機嫌そうに、大使一行を見据えるばかり。
「大使は、書簡の内容は聞き及びではないか、」
「皇子殿下が、我が国との友好の証に、伴侶をお求めだと伺っております。」
「では、これが尼嶺の解答か、」
淀みなく動いていた大使の口が閉じ、水色の瞳が紫鷹殿下を伺うように見る。
殿下がその瞳をまっすぐにとらえたのが、背後からでもわかった。
「伴侶に望んだのは、日向王子だ。」
他はいらない、と殿下は言う。
大使の表情は動かなかったが、横に並んだ副官や後ろに従えた官吏は、不快そうに表情を歪める。
この者たちは皆、少なからず、日向様を知っているのだろうと思った。
尼嶺の宮殿の中で、蔵に押し込められた王子がいたことを知る者はさほど多くない。
日向様が教養や作法どころか、話すこともままならない王子だということは、尼嶺の宮殿の中でも王族に近しい者たちしか知り得なかった。
だが、大使はじめ、尼嶺を代表して帝国にはせ参じる一団が、知らないということはないだろう。
尼嶺から帝国へ日向様が渡った時、その一切を取り仕切ったのはこの大使だと聞いた。
知っているからこそ、受け入れ難いのではないか。
「あれは、」
大使が閉じた口を開く。
「日向王子は、皇子殿下の伴侶には役不足かと。ご存じかと思われますが、あれは少しばかり遅れております。」
その声に、紫鷹殿下はよく堪えた。
これでもかと言うほど、肩と腕に力が籠ったのが分かるけれど。
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「書簡の通りだ、」
「殿下、」
「日向王子を貰い受ける。しきたりに則り、婚約の儀を進めるよう、尼嶺の王へ伝えよ、」
紫鷹殿下の強い声音に、大使は押し黙る。
表情は変わらなかったが、承りました、と応じた声には不快の色が混じっていた。
尼嶺の大使一行を見送った後、紫鷹殿下は「しばらく一人にしてくれ」と言う。
藤夜さえ傍に寄せず、執務室に籠られた。
「ひなは、亜白様のところか、」
「ええ、万が一にも尼嶺の者と鉢合わせないようにと、董子殿下がお願いされたようです。」
「…あの連中には、会わせられないなあ、」
そうですね、と藤夜の言葉に頷いた。
「日向様の護衛についてから、尼嶺の官吏とはやり取りがありますが、少なくとも一介の官吏は、日向様を王子として扱っておりましたよ。ですが、あの大使はいただけませんね、」
大使自身が、日向様を直接虐げたかどうかは知らない。
それでも、離宮に来たばかりの日向様には、新しい傷があったと言うから、少なくともあの大使はそれを容認していただろうとは思う。
そんな男に、日向様を会わせられない。
日向様を、あれ、と呼ぶ者などには。
「すんなり婚約とはいかないだろうなあ、」
紫鷹殿下の執務室へ視線をやって、藤夜が言った。
「帝国と姻族関係になれるなら、そりゃ影響力を持ちたいよな。」
「尼嶺の王には、ご令息とご息女が多くいますからね。しばらくは、殿下は大変でしょうね、」
「それくらいの壁は乗り越えてもらわないと、ひなはやれないだろ。」
父親のようなことを言う藤夜に、思わず笑みを漏らす。
確かに、それくらいの困難は超えてもらわなければ、日向様を殿下に任せるわけにはいかない。
菫子殿下が言うには、日向様が16歳になってすぐに、尼嶺から日向様に婚姻の話があったと言う。
どれも、尼嶺が覇権を広げるためのもので、日向様の事情は何一つ考慮されていなかったと。
もちろん、そんなところへ董子殿下が日向様を送るわけはない。
だが、紫鷹殿下だけでなく、日向様にもそう言った話が、これからはさらに増えるだろうと推測された。
おそらく今日の話も、尼嶺の周囲から漏れ、広がる。
ならば、殿下には、きちんと防波堤になっていただかなければ、困る。
「鍛錬も、厳しくしなければなりませんねえ、」
「…お手柔らかに、」
「二人とも伸びしろがありますからね、期待しています、」
「勝手に期待してくれるなよ、」
「紫鷹、」
「殿下、」
音もなく開いた扉から、紫鷹殿下がうんざりした表情で出てきた。
落ち込んでいるかと思ったのだけれど。
「何だ、もういいのか、」
「日向を迎えに行く、」
さっさと踵を返して歩きだした殿下の背中を、藤夜と追う。
幾分か疲れたようで、背中が少し丸くなっていた。それでも、力は抜けて落ち着いている。
正装を脱いで、緩やかになった上衣に、光るものがあった。
日向様お手製の大瑠璃のブローチ。
その大瑠璃を、殿下の手が撫でる。その仕草が、日向様がいつも左胸の青巫鳥(あおじ)を撫でる仕草に少し似ていた。
亜白様の部屋の扉を叩くと、すぐに従僕に中へと招き入れられる。
その先の光景に、思わず足が止まった。
「何でこうなる、」
ソファを見下ろし、殿下が唸る。
藤夜はへえ、と笑ったし、私も微笑ましく思った。本当に仲良くなられたようで。
散らかった紙と画材の中で、日向様と亜白様が折り重なるように眠っていた。
「申し訳ありません、お二人とも遊び疲れて寝てしまって、」
「日向は分かるが亜白は何だ、相変わらずなのか、」
はあ、とため息を漏らす殿下に、代都(しろと)が頭を下げる。
相変わらずと言うことは、亜白様がこんな風に寝るのは日常なのか。通りで、日向様と波長が合う。
亜白、起きろ、と殿下が呼んだ。
呆れてはいるが、いつものように嫉妬するような気迫はない。かといって、力がない訳でもなく。
ただただ、穏やかで、優しかった。
その声に、おや、と思う。
「し、おう、」
亜白様が目覚めるより先に、水色の瞳が開いた。
けれど、いつもならすぐさま手を伸ばす殿下が、そうしない。ソファの横に膝をついて、日向様を見守るだけに留めた。
その視線の先で、ぼんやりとしていた日向様の瞳が、少しずつ大きく開いていって、きょどきょどと頭を揺らし出す。
「…わかるか、」
「に、れ、」
「うん。尼嶺の大使に会った。」
「僕、に、れ、に、」
「日向。大丈夫だから落ち着け。日向は尼嶺に帰さない。大使には俺が貰うって、言っておいた。それでいいな?」
遠目にもわかるほど、日向様の体が震えていた。
それでも、小さく、うん、と頷く。
ああ、そうか。
日向様が何をきっかけに覚るかわからないから、服も換えたし、迎えに来るのに間も置いたのか、と思う。
日向様は聡いから。
気配を察することに関しては、ここにいる誰よりも長けていて、私たちでは到底足元にも及ばない。
「日向だけがいいと、尼嶺に伝えた。」
「う、ん、」
「日向しかいらない、日向しか欲しくない、」
「ぅん、」
「抱っこしてもいいか、」
ぅん、
殿下が震える小さな体を、抱き上げ、抱きしめた。
宝物のように。愛しい者を。
尼嶺の大使は何も知らない。
こんな光景、きっと想像もしない。
日向様が聡いことも。
日向様が、殿下にこれほど愛されていることも。
日向様が、物ではなく、一人の人として生きていることも。
知らないし、知ろうともしない。
知りたくもないのだろう。
ならば、知らなくていい、と思う。
知らないまま、足掻けばいい。
紫鷹殿下に取り入ろうと、伴侶を見繕って。
いらないと跳ね返されればいい。
「俺が望んだのは、日向だけだ、 」
うん、
殿下の腕の中で徐々に落ち着きを取り戻した日向様が、こところと大瑠璃を転がした。
その仕草を真似るように、殿下が日向様の青巫鳥のブローチを撫でる。
こんな幸福な番いを、大使は知らない。
きっと、大使が知らないまま、ことは成るだろう。
大使が気づかぬうちに、殿下は、尼嶺から日向様を奪ってしまうだろうから。
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