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第壱部-Ⅵ:尼嶺の王子

68.水蛟 小さな王子

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「あらまあ、日向さんはお疲れかしら、」

裏庭で青巫鳥(あおじ)と遊んだ後、日向様は隠れ家に籠ってしまわれた。
おやつの時間に訪れた妃殿下は、お昼も食べていないのだと聞くと眉を下げられる。

「亜白(あじろ)さんとの対面が負荷になってしまったかしら、」
「ご挨拶をされたときは、ご自分からお話されていましたから、大丈夫かと思ったのですが、」

妃殿下の言葉に萩花様が答える。

何が大丈夫なものか、と本当は言ってしまいたかった。
まだお食事だって、お粥より硬いものは召し上がれていない。裏庭で青巫鳥と遊ぶようになって笑顔が増えたけれど、その分、お体は疲れが増して、夜だって以前よりうんと早く隠れ家に入ってしまわれるのに。

「無理はさせたくないのだけれどね。そうも言っておれないのが、辛いわね、」

眉を下げて、妃殿下は仰った。

小難しいことを言わずに、日向様が苦痛なく過ごせるようにしてやればいいじゃないのと、私は思う。でも、それではいけないらしい。
尊い方々には、事情があるものですよ、と宇継が話していた。
私たちにはわからない事情とは何だろう。

それは、日向様が疲れた体に鞭打って、何かを負わねばならないほどの事情なのだろうか。






「りんご、のおちゃ?」
「ええ、亜白(あじろ)さんから頂いたの。林檎の香りがするんですって。味は普通のお茶よりも少し甘みがあって、体が良く温まると仰っていましたよ、」
「おちゃ、がりんご、」

妃殿下が隠れ家に声をかけると、日向様はすんなりと扉から出られた。
午前中の疲れは癒えたのか、殿下の顔を見ると嬉しそうにぴったりと寄り添って座る。
どうやら林檎のお茶につられたようで、おやつが出るのをキラキラした瞳で待っていた。

「りんごの、におい、」

お茶を出せば、水色の瞳が大きくなる。
しばらく正体不明のお茶に驚いて、お茶と殿下の顔とを繰り返し見た。

おそるおそる一口飲んで、また瞳を大きくする。
二口目に少し舌を付けた後は、ごくごくと一気に飲み干してしまった。
あっと言う間になくなってしまったカップを見て、今度は残念そうな顔になる。

あまりに可愛くて、思わず笑ってしまった。

「日向様、おかわりをお入れしますから、次はゆっくり飲んでください、」
「しばらくこのお茶は常備しなくてはいけないかしらねえ。亜白さんに、伺わなくては、」

うんうん、と頷く日向様が本当に可愛いらしい。
あまりたくさん飲んでは、お腹を壊してしまわないかと不安もあるけれど。今日は水分もほとんど摂れていないから、良いことにしましょう。



「亜白さんとは、仲良くできそうかしら?」


日向様のおかわりを待つ間、水色の髪を愛しそうに撫でながら、妃殿下は尋ねられた。
日向様は気持ちよさそうに水色の瞳を細くして、こてんと、妃殿下の膝に頭を落とす。

本当はまだ眠り足りなかったのかしら。
妃殿下に膝枕をされると、日向様はいつもすぐに眠ってしまうから、お茶を急がなければいけない。

「亜白さんは、日向さんと同い年なんですよ。」
「あじろは、16歳?」
「ええ、紫鷹さんと3日違いだから、少しだけ日向さんがお兄さんね、」
「僕が、お兄さん、」
「そうですよ、日向さんがお兄さん。だからいろいろ教えてあげてくださいね、」
「…んーん、」

小さく答えたお返事が、いつもと違った。
いつもなら、「僕がお兄さん!」と喜ぶか、「いいよ、」と承諾されるのに。
あらまあ、と妃殿下も首を傾げられる。


「僕、小さ、かった、ね」


お湯を注ぐ手が思わず止まった。

「しおうと、とやと、あじろは、同じ年なのに、僕より、大きい、」
「日向さん、」
「あずまは、まだ15歳、って言った。しおうより、小さいけど、僕より、大きい、何で?」


何で、僕は、小さい?


小さく問われる声に、胸が締め付けられる。
気にされていたんですね。
気にされるようになったんですね。

本当は今すぐ駆け寄って、抱きしめて差し上げたかった。
でも今は、妃殿下が日向様を慰めてくださる。

「…日向さんは、これまで、たくさん食べたり、遊ぶことができなかったでしょう?」
「うん、」
「子どもが大きくなるにはねえ、ご飯をしっかり食べて、いっぱい寝て、たくさん遊ぶことが大事なんです。でも、日向さんはそれができませんでしたね、」
「…僕は、ずっと、小さい?」
「離宮に来てから、背が伸びたと小栗さんに聞きました、」
「うん、2センチ、」
「じゃあ、まだ伸びますよ。ご飯を食べて、寝て、たくさん遊べば、日向さんはこれからもっと成長されると思います。」
「わかった、」

頷いた日向様の水色の髪を妃殿下は、ことのほか優しく撫でられる。

「日向さんは、小さいのは嫌かしら、」
「わかんない、」
「私は、日向さんを抱っこできるのが嬉しいですよ。紫鷹さんはもう、大きくてできませんから、」
「抱っこは、好き、」

妃殿下が白い頬を撫でられると、日向様は眠たそうにして、瞼を閉じた。
すりすりと白い手にすり寄るのを、妃殿下は少し悲しそうに見下ろす。


「できないが、いや、」


この数週間、日向様はずっと仰いますね。

「歩くも、魔法も、ご飯も、おふろも、服も、できない、がくやしい。しおうも、とやも、あずまもできる。」
「随分とできるようになったと、皆から聞いていますよ、」
「16歳は、もっと、できる、」

また泣きだしてしまうのではないかと、胸が落ち着かない。
痛みにも怖さにも、日向様は声を出さずに泣いていたのに。
今は毎日、悔しいと、声を立てて泣く。
今朝は、ボタンをうまくはめることができなくて、赤ん坊のように泣いた。数日前にはできたのに、何で、と。

「きっと、あじろ、もできる。だから、僕が、教える、はない、」

ついに、閉じた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
妃殿下が抱き上げて、慰めるように背中をなでると、弱弱しく声を上げて泣いた。


「たくさん泣いておしまいなさいな。泣くことも、日向さんのお仕事です、」


生まれたての赤子は、快や不快を感じることから、情緒が育っていくのだと小栗が言っていた。
周囲の愛情を受けて、安心する中で、心を育てていくのだと。

日向様は、離宮に来たばかりの頃には、きれいと、仕方ないが、自分の中にあるのさえ分からなかったのに。
お話をするようになって、自分で何かをすることを覚えて、できることに喜びを覚えて、できないことが悔しいとわかるようになった。


それは、成長と呼ぶんです、と小栗は言っていましたよ。
今やっと、成長できるようになったんです、と。


「日向さん、これまでできなかったことは、これから取り返していけばいいんです。他の人と同じでなくていいんです。日向さんにできて、紫鷹さんにできないこともたくさんあります。藤夜さんや亜白さん、東さんだって、そうですよ。」
「…ぉん、とぅ?」
「私たちは日向さんみたいに、魔法の色は見えませんもの。」
「ぅ、ん、」
「紫鷹さんは、日向さんみたいに正直にお話するのが苦手なんですよ。最近は日向さんがお手本なんですって、」

「わ、私もなんて、魔法は使えませんし、魔力の気配もわかりませんし!」

もう我慢できなくて、声を上げたら、妃殿下は「あらまあ、」って笑われる。

「水蛟さんも、できないことがあるんですって、」
「みぅち、も?」
「こうやって、黙っていなきゃいけないときに黙れないのも、私ができないことですけども、」
「あらあら、日向さんのお部屋では気にしなくていいと言っているのに、できないのも、そうではない?」

ふふふ、と妃殿下が微笑まれる。
先日私が紫鷹殿下に手を挙げたのも、妃殿下はお咎めにならなかった。
日向さんのためですもの、うちの息子のためにも必要なことよ、今回は見逃します、と。

日向様は、まだ涙の止まらない瞳で、妃殿下を見上げる。

「すみぇこ、さま、は?」
「そうねえ、私は日向さんが魔力の気配を見分けることができるのが、うらやましいわねえ。紫鷹さんは、いつも日向さんのことが大好きって気配がするのでしょう?」
「ぅん、」
「私はどんな風に感じるのかしら、」
「すみぇこさま、も、僕が、好き、」
「あらあら、日向さんには筒抜けなのねえ、」
「みぅちと、はぎなも、好き、」

思わず目を見張る。萩花様と目があった。
あらまあ、と妃殿下は笑う。

「でも、おつかれ、もある。」

妃殿下の紫色の目が細くなって、隠せないわねえ、とほほ笑まれた。


「僕が、魔法、できるになったら、すみぇこさま、に使い、たい、」


水色の瞳からは、まだぽろぽろと涙がこぼれていた。


「できない、が、くやしい、」


落ちる雫を、妃殿下は優しくなでて、額に口づけをされる。

「本当に、優しい子。何ができなくても、こんなに素敵な心を持っているんですもの。もうそれだけで、日向さんは素晴らしい子ですよ、」

優しく背中を撫でて、宝物のようにそっと抱きしめる。
その仕草は、あの皇子様に似ているなと思った。
しばらく妃殿下がそうされていると、泣き声が聞こえなくなって、寝息に変わる。

「やっぱり、お疲れだったのねえ、」

おかわりのお茶を出してあげられなかった。
悔いていると、私にくださる?と妃殿下が私に微笑む。

「妃殿下も、お疲れだと、」
「そうねえ、でも頑張らねばならないでしょう。こんなに愛しい子が、頑張っているのだから、」

尊い方々の事情は、私にはわからない。
でも、紫鷹殿下と同じ紫色の瞳が日向様を見つめる視線は、やはりあの皇子様と同じくらい慈しみにあふれていた。


「これから日向さんはたくさんの人に出会って、他の方と違うことに気付いていくと思うの。」
「はい、」
「頑張り屋さんだから、また悔しいと泣くこともあるでしょうね。」
「そうですね、」
「その分、この離宮の中ではたくさん甘やかしてあげてほしいの、お願いしてもよろしいかしら?」
「ええ、妃殿下。」

水蛟は、もうずっとその心積もりでおります。
難しいことは分からないけれど、日向様が何かを負わねばならない事情があるというなら、その身も心もお支えできるよう、水蛟は務めるつもりでおりますとも。

妃殿下が仰るんですもの。
それはもう、デロデロに甘やかして、大事に大事に育んで参りますとも。
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