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第壱部-Ⅵ:尼嶺の王子

69.紫鷹 裏庭の王子

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「あおじ、行く、」
「…無理をしていないか、」
「だいじょぶ、」

朝食を食べている最中から、目を開けていることさえできなくなった日向は、昼を過ぎてようやく起き出した。
唯理音(ゆりね)がミルク粥を食べさせると、半分も食べないうちに、青巫鳥(あおじ)に会いたいと強請る。


こちらが想定した以上に、日向が疲弊していた。


裏庭に出るようになって、体力を消耗するせいか。
あるいは、亜白(あじろ)という新参者が現れたことによる心労か。
それとも、「できない」ことと「ちがう」ことへの苦痛がそうさせるのか。

その全部が原因だろうと思う。

隠れ家に籠る時間も、睡眠に費やす時間も圧倒的に増え、食事を摂れないことも多かった。
その度に、また食事を抜いたと泣く。
それなのに、どう頑張っても起き上がれないほど疲れていることがあった。
大好きな青巫鳥(あおじ)に会う時間さえ減ってしまうほどに。


なら、目覚めている時間はせめて、日向に笑っていてほしかった。






「なあに?」
「…何だろうなあ、」
「亜白(あじろ)様…でしょうか?」

日向を抱いて裏庭へ行くと、先客がいる。
いつも日向が青巫鳥(あおじ)と遊ぶ草の上を、青紫の塊がもぞもぞ動く。
あの変人は、ここに来ても、変人のままなのか。

「亜白、」

遠くから名を呼ぶが、従兄弟は気づかない。
歩を進めて、4度呼んだところで、ようやく顔を上げきょろきょろと見渡した。

「え、は、わ、殿下、に、日向様、萩花様。す、すみません、お見苦しいところをお見せして、」

土と草で汚れた顔がこちらを振り返る。
腕の中の日向が驚いて、ぎゅっと俺の腕を握った。
日向を怖がらせるな、本末転倒だろう。

「何をしているんだ、お前は」
「虫が、いるかな、と。」
「むし、」

え、は、わ、あの、と亜白はどもる。
日向の部屋で言葉を交わすときは、精一杯王子の仮面をかぶっていたのだなと、改めて思った。

従兄弟とはいえ、国も違うし、身分も異なる。
亜白と会うのは、数年に一回のことだ。
その上、母上とともに羅郷(らごう)の宮殿を訪ね、避暑の季節を過ごした時も、俺はどちらかと言うと、この従兄弟の兄弟たちの方が馬が合った。

何せ、この亜白は、一度王子の仮面を外すと、途端に変人に変わる。


「どんな虫がいるんだろう、と思いまして…、その、鳥がよく来ると聞いたので、どんな虫を食べるかな、と。」
「とりは、むし、たべる、」
「え、わ、あの、日向様、そうです。あの、日向様のお部屋にも、餌台がありました、あの、どんな鳥が、来るんでしょうか、」
「あおじと、すずめと、くろつぐみと、びんずいが来る。あおばずくは声がする、」


亜白が来てから一週間。
初対面から亜白を怖がる様子はなかったが、日向が亜白に慣れたとは言えない。
こうして強く俺の腕を握って離さないことが、頻繁にあった。
日に一度、日向と亜白が会う時間を設けてはいるが、そもそも社交的でない従兄弟と日向の距離はなかなか縮まらない。

だが、鳥の話だからだろうか。珍しく日向が亜白の話に食いつく。
一方の従兄弟も、王子の仮面を捨てたせいか、日向の食いつきに気を良くしたか、だんだんと調子が上がって来た。

「青巫鳥は、もしかして、日向様がつけていらしゃるブローチでしょうか?」
「しおうが、おくりもの、」

眼鏡の奥の瞳が俺を見る。
へえ、と伺うような視線をにらみつけると、慌てたようにうつむいて、舌を回した。

「日向様は青巫鳥がお好きですか。」
「うん、好き、」
「僕は…黒鶫(くろつぐみ)の声が好きで、ぴょぴょぴょひーよ、って鳴くのがいいんですよ。春には僕の家にも黒鶫が来るんですが、羅郷(らごう)はこの時期はまだ雪が深いですから、温かいところへ行ってしまうんです。知ってますか、黒鶫は、他の鳥の鳴きまねもできるんですよ。」
「なきまね、」
「そうなんです、黄鶲(きびたき)や大瑠璃(おおるり)に似た鳴き声で、何度が騙されたことがあります。」
「おお、るり、」

日向が俺を見上げて、首元を突く。

「日向が作ってくれたのも大瑠璃だなあ、」
「へ、へえ、」

タイに刺した大瑠璃のブローチを見せてやる。
わからんだろう。お前に日向の高度な感性は分かるまい。

だが、何を思ったか、従兄弟は急に興奮しだした。


「見てください、これ、ミミズ。こんな大きいのがいるなら、鳥たちも嬉しいですよね。」


離れた位置で、ぎゃーっと青空(そら)が叫ぶ声がした。
俺も一瞬たじろぐ。萩花も姿を見せない草も、一歩引いたのを感じた。
日向だけが、俺の腕から乗り出して、変人がつき出す手を覗く。


「みみ、ず、」
「わ、日向様は、ミミズが平気ですか。」
「くろつぐみ、はみみず、たべる」
「ええ、食べます。あと昆虫も、」

ほら、と草の上に放っていた籠を持ち上げる。
得体のしれない黒いものたちが、飛び跳ねていた。

腕の中の日向が、降ろせと言わんばかりにじたばたしだす。
仕方なく降ろしてやると、ぴょんと、籠の前に飛んで行った。

ぎゃーと、青空が騒ぎ続ける。
俺も叫びたいのをこらえているのに、なんて奴だ。


「こんな大きな蟋蟀(こおろぎ)、僕の国では見ませんよ、」
「こおろぎ、」
「飛蝗(ばった)もいいでしょう、緑のやつです。」
「ばった、」
「この甲虫は、初めて見たので、あとで図鑑で調べないと、」
「ずかん、ある、」
「ええ、日向様のお部屋は図鑑がたくさんあって、素敵でした!」


日向の体が、ぴょんと跳ねた。

喜んでいるなあ。
俺は複雑な気持ちだよ。

「もっと、」
「え、」
「もっと、見たい、」

従兄弟が、いいんですか、と伺うように俺を見る。
その視線を追って振り返った日向の目が、久しぶりに輝いていた。
断る選択肢がない。

「いいよ、亜白に教えてもらえ。そのかわり、ちゃんと言うこときけよ。やばい虫もいるから、」

聞き終わらないうちに、日向は亜白の手を取って、草の上に転がった。
ついさっき見た、草の上をもぞもぞと動く塊が二つに増えた。


「亜白様は、」
「あいつは、生き物博士だと母上が言っていた。俺に言わせれば、ただの変人だが、日向は喜ぶだろうってさ。母上の目論見通りだろう、」


ぽかんと眺める萩花に言ってやると、なるほどとうなずく。
でも虫ですか、と言うから、本当になあ、と神妙に同意した。

草の上を這う二つの塊が、時々頭を上げて、手の中の何かをのぞき込む。
一体何を捕まえたんだと、不安になるが、正直あまり見たくはなかった。
おそらく後で日向に見せられるだろうとは覚悟する。だが、さっきのミミズでしばらくは十分だ。

萩花と並んで、離れた位置から日向を見守る。

「いいんですか、いつもなら嫉妬するところでしょう、」
「…正直、日向を見ているのがしんどすぎて、嫉妬もわかない、」

そうですか、と萩花は苦笑した。


「…どうしてやったらいいんだろうな。」


この一週間、ぐったりと眠る姿と、泣いて葛藤する姿ばかり見ている気がした。
離れるつもりはないが、見ていて辛い。

「日向様が成長したいと望むが故の葛藤ですから、見守る他にないでしょうねえ、」
「見守るってのが、一番きつい。何かしてやりたい、」
「傍にいる、というだけで、何かしていることになりますよ、…と言って差し上げたいんですが、私も同じ気持ちです。」

わーわー騒ぎながら見守っている青空とてそうだろう。
母上も、日向を思えばこそ、ことを進めるが、日向の様子を見るのは辛そうだった。


せめて、この裏庭だけは、日向の安息の場所であってほしい。


ぴーっと鳥の声がする。
草の上で水色の頭が持ち上がると、黄色の鳥が、飛んできた。
日向の大好きな鳥。黄色い青巫鳥。


「しおう、見て。あおじ、」



日向が、これ以上ないくらい瞳を輝かせて、青紫色の頭を指す。
泥と草にまみれた眼鏡男の頭の上に、黄色い鳥が乗っていた。日向が名を呼べば、ぴょんと、青巫鳥が水色の頭へ飛ぶ。
あはは、と日向が笑った。

「殿下、」
「なんだ、」
「嫉妬はわかない、って今言ったじゃないですか。すごい顔になっていますから、ちょっと鎮めてください。流石に私でも気配が変わったのを感じます、」


日向様が反応しますよ、と呆れる萩花に、分かっている、と返す。
にも拘わらず、胸の中で黒い物が広がった。

笑っていてほしいとは思ったけれど、何でその隣にいるが俺じゃない。

青巫鳥、お前は俺がそこに踏み出せば逃げるくせに。
なぜその従兄弟はいいんだ。
何で、俺がいられない場所に、他の人間がいられるんだ。

今すぐ日向を奪って、腕の中に閉じ込めてしまいたい気持ちに駆られる。


「しおう、」
「うん、ごめん。ちょっと嫉妬した。気にするな、」


日向の水色の瞳が、不安そうに俺を見た瞬間、黒い気持ちが静まって、愛しさに変わる。
俺の気配を察知しただろう日向は、気持ちの静まりとともに、安堵して、また草の上に転がった。
ごめん、日向。

「…日向様に甘えれば良いとは言いましたけれど、もう少し頑張ってください。しんどくて嫉妬が沸かないくらいが、殿下はちょうどいいですよ、」

肩をすくめて見せると、また鍛錬が必要かと聞かれたので、首を振っておいた。


あはは、と日向の声がする。

笑えるなら、いい。
例え疲れた日向を癒すのが、俺以外なのだとしても。
今はただ、日向が笑えるなら、それが一番いい。

ひとまずは、そう思うことにしておく。

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